蒼馬と可憐
<第1話>
小雨の中、山中に怒声と罵声、そして銃声と悲鳴が響いていた。
「―――――そっちに逃げたぞっ!」
「ちくしょう!ジム、ジムっ!しっかりしろっ!!」
「ヒトのくせに、なめやがってぇ!!」
「回り込めっ!!絶対逃がすなぁっ!!」
正面の山道に不意に現れる犬面人身の化物に、榊原蒼馬(さかきばら そうま)は何の躊躇いもなくM16ライフルの弾丸をぶちこむ。
「ぎゃあああああ!!!!」
弾かれたように吹っ飛ぶ化物の死体を踏み越え、妹の手を引きながら獣道をひた走る。
何度も転びそうになりながら、妹の可憐は必死になってついてくる。正直、手を放した方が彼女にとっては走りやすい事は間違いないだろう。
だが蒼馬は、その手を放す気はなかった。
身長190センチの巨漢とも言える蒼馬と、150センチに満たない小柄な妹。
彼が本気で走れば、可憐の小さな歩幅では蒼馬に並走できるはずなどない。
だが、問題はそういうことではない。
この異常な情況で、たった一人の肉親、いや、それ以上にかけがえのない存在であるはずの妹の手を放すなど、彼には少なくとも考えられなかった。
そろそろ、残弾も少ない。
この一時間で十匹以上は撃ち殺してるわけだから、当然といえば当然だ。
あと、どれくらい逃げ延びられるだろうか?
そう思った瞬間、後方で爆音が轟く。
先ほど仕掛けた手榴弾のトラップに化物がひっかりやがったのだろう。これで少しは時間が稼げる。そう思った瞬間―――――。
「お兄ちゃん!危ない!!」
左真横から風切り音が聞こえた瞬間、蒼馬は思わず後ろへのけぞった。
寸前までちょうど顔面があった空間を、唸りを上げて矢が通過し、激しい音を立てて右の木の幹に突き刺さる。
倒れながら足のホルスターからピストル(コルト・ガヴァメント)を抜き、敵がいるとおぼしき地点に盲撃ちを二射。全て反射行為だ。
「ぐあっ!!」
化物は脚を撃ち抜かれ、木の枝から転がり落ちる。
しかし、さすがは化物と言うべきか、落ちながらも腰の剣を抜き、立ち上がろうとする。
その瞬間、蒼馬のコルトが火を噴く。弾丸は丁度、身構えた刀身に命中し、その長剣はざくろのように木っ端微塵になった。
―――――化物のクセに安物の鉄、使ってやがる。
コルトをホルスターに仕舞いつつ、素早く駆け寄り、弓を蹴飛ばし、M16の狙いをつける。
「待ってお兄ちゃん!」
「可憐!?」
「この人はもう戦意を失ってます。そんな人をこれ以上撃っちゃダメですっ」
「・・・・・・・・・・・お前、今の情況が分かって言ってるのか?」
―――――――確かに化物は怯えきっていた。
小雨で濡れそぼった尻尾が、股間を通して腹部に張り付き、寒気以外のものがもたらす震えに全身を覆われていた。
敵の眼前で負傷し、武器を失い、丸腰になった恐怖か。
いや、それ以上に蒼馬の装備するM16自動小銃の凶暴な威力を、仲間の死体で充分すぎるほど知っているからか。
とにかく、化物の眼は雨以外の水分で潤み、怯えと恐れ以外の感情は判別できなかった。
「お兄ちゃん!!」
「・・・・・・・・・・・両手を頭の後ろで組んで、ひざまずけ」
「やっ、やめろっ!殺すなっ、殺さないでくれっ!」
「五つ数えるうちに言われた通りにしろ!さもなきゃ撃つっ!!」
「妻と、妻と娘がいるんだよっ!」
「イチッ、二ィッ――――――」
「お兄ちゃん、ダメッ!!」
「ひいいいいっ!!分かった!分かったぁ!!」
化物は撃たれた脚が痛いのか、表情を引きつらせたまま蒼馬が指示した姿勢をとる。背中をがたがた震わせながら。
彼はこれでいいんだろ、と言わんばかりの表情で妹をちらりと見る。
「・・・・・・・・・・・・・・お兄ちゃん」
「助けて、助けてくれよぉ・・・・・・・・・・」
「これから俺が聞くことに正直に答えろ。そうすれば殺しはしない」
「ホントだな?ホントに助けてくれるんだな?」
「そいつはお前次第だ、化物」
蒼馬は、この奇妙な犬人間から五・六歩間合いを外してライフルを構えている。これ以上近付き過ぎると、とっさの場合反応しきれない場合があるからだ。
訊きたい事は山ほどある。と言うより、蒼馬の頭の中は疑問だらけだ。
――――――――ここはどこだ?
――――――――何故、俺たちを追い回す?
そして何より訊きたい事。
――――――――お前らは一体『何者』なんだ?
すでに蒼馬たちは、この犬顔の追っ手たちが、悪趣味な仮面を被った単なる武装集団ではなく、人間にあらざる『本物の化物』である事を確認している。
この連中が、遺伝子操作によって誕生した、某国のバイオ兵士だとするなら、しかし、それでも納得はいかない。最新の科学で産み出されたはずの奴らにしては、装備があまりに貧弱すぎる。まるで百年前の屯田兵だ。
しかし、そんな事を訊いている時間はない。
幸い、この雨が自分たちの臭線をかなりの部分、消してくれるだろう。この犬顔連中の鼻が本当に犬並みだったとしても、その点は少し救いがある。
―――――――取り合えず、この場を逃げ延びるための質問が最優先だ。
「名前は?」
「・・・・・・・・・めっ、メッサーラ」
「じゃあ、メッサーラ君、まず質問その一だ。お前らの人数と規模は?」
「きっ、規模?」
「変にすっとぼけたりしやがったら、その場で殺す。いいな?」
「こっ、国境警備局の兵たちが、だいたい一個小隊から二個小隊・・・・・・・・・」
「もっと具体的に言え!」
「にっ、二十人強!」
二個小隊が二十人・・・・・・・・少ないな。編成の仕方が人間の軍隊とは違うのか?
いや、そんな事はどうでもいい。どっちみち、この犬コロの言ってる事も本当かどうか分かったもんじゃない。だが、本当だとすれば(その怯えきった眼が嘘をついてるようには見えなかったが)、まだ充分逃げ延びられる数だ。
蒼馬はもう、十人以上の追っ手をその手にかけている。つまり、残りは単純計算で十人ちょい。
―――――――いける。何とかなりそうだ。後は逃走のルートだが・・・・・・・。
「質問その二。―――――今お前、国境警備つったな。国境の方角はどっちだ?」
「え?」
「早く言え!」
「みっ、南だ!南に行けば川がある。そこを越えれば猫の国だっ!!」
「ねこのくにぃ・・・・・・・・・・・?」
可憐が思わず眼を丸くする。
「ねこって・・・・・・・あの猫、ですか?『ニャ-』って鳴く、あの・・・・・・・・・?」
「それ以外に、どんな猫がいるってんだよぉ!」
「うるせえ、怒鳴るなワン公!」
「ひっ、すいませんっ!」
「・・・・・・・・・・・信じたくはねえが、犬が二本足でヤリ振り回してる世界だ。首から上が猫になってる国があっても可笑しくねえ」
「でも、お兄ちゃん・・・・・・・・可憐、まだ信じられません」
「信じたくねえのはお互い様さ。でも、今はそんなこと言ってる場合じゃねえ。―――――メッサーラ!」
「へっ、へいっ!」
「これが最後だ。おめえが持ってる食糧、現金、全部出せ」
「お兄ちゃん・・・・・・・・・・・・・!?」
「この場を凌いでからもゼニはいるし腹も減る」
「でっ、でも、それじゃあ可憐たち、ドロボウさんになっちゃうよっ!?」
「どのみち俺は十人以上撃ち殺しちまってる」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・俺だって、やりたくてやってるわけじゃねえ。分かってくれって言うのは・・・・・・・・難しいか・・・・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・お兄ちゃん・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・あの~~」
「何だよ?」
「昨日・・・・・・・給料日、だったんすけど・・・・・・・・・全額ってのは、勘弁してもらえませんか?女房に仕送りしなきゃあいけないんで」
「お前まさか・・・・・・・・・・・・・戦場にサイフ丸ごと持ってきてるのか?」
「どうも・・・・・・・・・・・面目次第もありませんが・・・・・・本部からの指令は国境地帯に紛れ込んだヒトのつがいをとっ捕まえろって聞いただけでして、こんな大事になるとは思ってなかったもんで・・・・・・・・仕事明けに仲間と一杯やりに行こうかってつもりで、その・・・・・・・」
「もういい分かった!万札の一枚くらいは残してやっから、ゆっくり取り出せ!」
「へっ、へいっ!」
「『ヒトのつがい』だと・・・・・・・・・・・・犬コロ風情が舐めやがって・・・・・・・・・ゆっくりだっ!ゆっくり取り出して、そうそう、・・・・・・・妹に放り投げろ。―――――可憐」
「はっ、はい」
「中身は?」
「結構、入ってます」
「金貨一枚残して、後はサイフごと預かっとけ」
「えっ、一枚だけっ!?」
犬兵士が悲鳴をあげる。
「だったら二枚だ、二枚残してやる。これで文句ねえだろ!」
「・・・・・・・・・・・・ごめんなさいメッサーラさん。このお礼はいつかきっと・・・・・・」
「いま殺さねえのがその礼だ。一月分の給料で、命が買えりゃあ文句はねえだろ」
「―――――はぁ、そっすね・・・・・・・」
「後を向けっ!早くっ!」
「はっ、はいっ!!」
蒼馬は、あたふたと後ろを向いたメッサーラの後頭部にライフルの銃把をイヤと言うほど叩きつけ、昏倒させた。
「とにかく南へ向かおう。国境を越えれば犬どもも簡単には追っては来れまいよ」
「でもお兄ちゃん、可憐が追っ手さんだったら、裏をかいて国境沿いに網を張ります」
「大丈夫だ。十人内外の人数で網をはれるほど短い国境線なんて、まず有り得ない。それにもし、万一網に引っ掛ったとしても、その程度の人数なら突破できる」
「でも、その人数が本当に十人だっていう保障はありません。そもそも、南にそんな国境があるなんていうのも・・・・・・・・・・・」
「いや、国境があるのは確からしい」
蒼馬はにやりと笑う。
その手には、たった今メッサーラの戦闘服から取り出したらしいマップがあった。
「この川が奴の言った国境線で・・・・・・さっき越えた峠がここだとすると・・・・・・・おいおい、ここからもう、そう遠くないぞ」
「お兄ちゃん・・・・・・・・・それじゃあ、可憐たち、助かるん・・・・・ですか・・・・・?」
可憐の表情に少しだが、確実に希望の色が灯る。
正直、まだそう言い切れるかどうかは分からない。この右も左も分からない世界では、東西南北の概念からして違うかも知れないのだから。
――――――だが、蒼馬は笑った。
この、その名の通りの可憐な妹に、例え僅かでも希望があるなら、それを与えてやりたかった。
「大丈夫だ。お前は・・・・・・・・俺が守る」
「お兄ちゃん・・・・・・・・・・・・!」
可憐が眼を潤ませる。
いつもいつも、どんな時でも頼れる兄。彼女にとっては誰よりも強く、逞しく、それでいて優しい、唯一絶対の存在。
「行くぞ。雨がやむ前に移動しよう」
「はい!」
「お兄ちゃん・・・・・・・・・・!」
可憐が息を飲む音が聞こえる。
コンパスで方角を割り出し、正確に最短距離を移動し、やっと森が開け、川の音が聞こえたと思った瞬間、二人の顔色は鉛色に変化せざるを得なかった。
――――――それは崖だった。
グランドキャニオンもかくやという程の、たっぷり100メートル以上はある、垂直な断崖。そして、その下を轟々と音を立てて流れる、これまた川幅数百メートルはあろうかという大河。
「お兄ちゃん・・・・・・・・・どうしましょう・・・・・・・これじゃあ可憐たち・・・・・・・・!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・渡るしかねえ」
「お兄ちゃん!?」
「渡らなきゃあ、助からない。だったら渡るしかねえ」
「無理です!そんなの!そんなの絶対、可憐には無理です!」
「出来るさ」
「出来ません!」
「まず、この崖を降りる。そして向こう岸まで泳げばいい。一つずついこう」
「・・・・・・・・・・お兄ちゃんだけなら、もしかしたらこの崖を降りれるかも知れません。でも、でも、可憐には・・・・・・・・・・!」
「大丈夫だ」
蒼馬は装備を詰めたザックを下ろすと、中から一本の紐を取り出した。
「こいつで二人の体を結ぶ。その上で、俺がお前を背負って降りる」
「そんな・・・・・・・・・ムチャクチャです!お兄ちゃん一人ならともかく・・・・悪くすれば二人ともまっ逆さまなんですよ!?」
「大丈夫さ」
「でも――――――!」
「可憐」
「・・・・・・・・・・・・・・はい」
「俺が今まで、お前に嘘をついたことがあるか?」
「お兄ちゃん・・・・・・・・・・・・」
「守るべき者がいる時、人はそれだけ強くなれる。―――――――『北斗の拳』の台詞だ」
「―――――くすっ・・・・・・・・・お兄ちゃんたら・・・・・・・・・・」
可憐の表情が思わずほころぶ。
「こんな時に『北斗の拳』もなかったな。・・・・・・・・・じゃあ、行くか」
「・・・・・・・・・・・はい」
その瞬間だった。
背後の森から何本もの矢が飛んできたのは。
「可憐!」
蒼馬は妹の手を引き、とっさに樹を盾にして難を逃れる。
茂みの中から聞こえる息遣い、感じる気配・・・・・・・・・五・六匹。多くとも七・八匹。
この状態から一匹ずつ奴らを狙撃できるか?
手持ちの手榴弾で対処できるか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・無理、だな。
しかし、ここでこうやって膠着状態を続けていてもラチがあかない。
万一、奴らが援軍を前提とした足止め作戦をしているのなら、このままじゃジリ貧になるばかりだ。
唯一の救いは、ここが国境線である事だ。
もしも化物どもの弓隊が、向こう岸の崖から狙撃を仕掛けてきたら、二人ともハリネズミになるしかない。
だが、国境地帯である限り、その心配だけは必要ない。
―――――――と、なれば・・・・・・・・・。
「可憐、ここを動くなよ」
「お兄ちゃん、どうするんですか?」
「突っ込む」
「―――――!?」
「どのみち見つかっちまった以上、奴ら全員を始末しなけりゃあ、崖も降りれねえ。一匹でも残せば、頭上から矢を射掛けられちまうからな」
「・・・・・・・・大丈夫・・・・・・・ですよね・・・・・・・?」
「安心しろ。あんなショッカー怪人もどきなんざ、俺の敵じゃねえよ」
「――――うん、そうです、よね?」
「ああ」
「可憐はお兄ちゃんを信じてますから!」
その瞬間だった。
凄まじい速度で飛来した真っ赤な球体が、二人が盾にしている大木をかすめ、向こう岸の崖にぶち当たって大爆発を起こしたのだ。
―――――RPG!? 対戦車ライフル・・・・・いや、地対地ミサイル!?
「そこのヒト科のオスとメスどもぉっ!!次は外さん!死にたくなければ、今すぐ武器を捨てて投降しろっ!!」
―――――何だ!?何だ!?今の攻撃は一体なんだ!?
いかに蒼馬でも―――――この人ならざる者たちが闊歩するムチャクチャな世界が、本当に現実だったとしても―――――いまの怪奇現象が魔法による『攻撃呪文』だとは、さすがに想像を絶した。
「・・・・・・・・お兄ちゃん・・・・・・・・・・・今の・・・・・・・・・・なに・・・・・・・・?」
可憐が紙のような顔色で蒼馬を見つめる。
だが・・・・・・・・この愛すべき妹の慄然とする表情こそが、逆に蒼馬をパニックから救い出すよすがとなった。
――――――しっかりしろっ!俺がうろたえてたら誰がこいつを、可憐を守るんだ!?
今の攻撃が一体なんだったのかは知るよしもない。
だが、一つ言えるのは、あれを食らったら・・・・・・・例え食らったのが盾代わりにしているこの大木だったとしても、確実にあの世まで吹っ飛ばされるであろう、という予測。
ならば次にわくのは、疑問。
連射はきくのか?
威力は今のが最大出力だったのか?
今のを使える奴はあと何人いる?
――――――仕方ねえ・・・・・・・・。
「可憐」
「はい」
「少し危険だが・・・・・・・手伝ってくれ」
「可憐に、できる事があるんですか?」
「ある」
「可憐に手伝える事なら・・・・・・・・何でもします」
蒼馬は、敵が潜んでいるであろう森から目を離し、ゆっくり可憐を振り向いた。
今から彼が妹に頼もうと思っている事は、ハッキリ言って危険極まりない。できる事なら自分がやりたいくらいだ。だが、そうはいかない。何故なら、妹とは別に彼自身がやろうとしていることは、絶対に妹にはできない事だからだ。
「今から俺が指示したら、全速力でダッシュしてくれ」
「ダッシュ?どこに?」
「―――――――崖だ」
「・・・・・・・・・・お兄ちゃん・・・・・・・・・・・・!」
「俺を信頼してくれ、可憐」
蒼馬の眼差しが、あまりに予想外の指示に呆然とする可憐を射抜く。
「・・・・・・・・・頼む」
やがて、妹の瞳にも光が戻ってくる。
「――――――分かりました。可憐は・・・・・・・・お兄ちゃんを信じます」
「早くしろぉっ!あと五秒以内に両手を挙げて出て来ねえと、本当に焼き殺すぞっ!!」
――――――どっかで俺が使ったような台詞を使いやがる。
「やれるもんならやってみろぉ!この犬っころどもが!!」
蒼馬は言うが早いか樹から飛び出し、M16を一斉射させる。
「行け、可憐!!」
「はい!」
弾かれたように可憐が断崖に向かってスタートを切る。
「逃がすかぁ!」
術者が空中に赤い球体を浮かばせる。
―――――――やっぱりな!
例え、どれほどの速度で飛来しようとも、眼で追える以上は狙える。そして狙える以上は・・・・・・・・・!
その瞬間、赤い球体が太陽光のごとき真っ白い光を放って弾け飛ぶ。
蒼馬が、赤い球体の、まさにいま発射されようとしたその瞬間に撃ち抜いたのだ。
蒼馬はというと、トリガーを引いたその瞬間に振り向き、可憐と同じく崖に向かってスタートを切っていた。そして五・六歩で可憐に追いつき、彼女の腰に腕を回し、最後の一歩をなんの躊躇いもなく空中へと踏み出す。
その後方で起こる大爆発。恐らく追っ手の犬たちは、術者を含めて誰一人生きてはいないだろう。
そして二人は、互いにしっかと抱き合いながら、逆巻く大河に飲み込まれていった。
――――――――――――to be continued.
<第2話>
「んふふふふ・・・・・・・・・・・なるほど、この子が妹さんの方ですか。なかなか可愛らしいお嬢ちゃんじゃありませんか」
「がっはっはっはっは。いえいえ、何と言っても、まだ八歳でございますからな。我が子ながらもまだまだ調教途中の未完成品でございますよ。サイトウ様のお眼鏡にかなったのが奇跡のようなものでございまして・・・・・・・」
「ですからサイトウ様、この子に至らぬところががございましたら、思う存分ビシビシ躾てやってくださいまし。そのための道具も、こちらの方に各種取り揃えております」
「ほほう・・・・・・・・・・これはまた、なかなかの品揃えですなぁ」
「いえいえそんな。大したモノはありませんが、取り合えず、お好みに合わせてお使い下さい。どれもこの子の身体に馴染ませてあるモノばかりですからなぁ」
「分かりました。では、遠慮なく」
「可憐、このおじ様の言う事は、絶対に逆らっちゃいけませんよ。ママたちに恥をかかせるようなマネは、許しませんからね?」
「はい、まま」
「よぉし、いい返事だ。ちゃんといい子にしてたら、後でチョコレートパフェを食べさせてあげよう」
「ぱぱ、ほんとう!?」
「ああ本当さ。――――――――それではサイトウ様、私どもはこれで失礼させて頂きます」
薄暗い部屋の中。
可憐の父と母が扉を閉ざす。
ガチャリという冷たい施錠音が、この寒々とした部屋に響く。
いや、聞こえてくるのはそれだけじゃない。
分厚いコンクリートの壁を通して、隣の部屋からかろうじて聞こえる少年の悲鳴、絶叫。それと一緒になって聞こえて来る、中年女性の嘲笑、怒号。
――――――――おにいちゃん、また、あのひとにいじめられてるんだ・・・・・・・・。
そして眼前にいるのは、可憐が初めて見る、いかにも上品そうな初老の男。
「じゃあ可憐ちゃん、そろそろ始めようか」
そう言うと、男はベルトを緩め、ペニスを取り出した。
「パパとママから聞いたよ。可憐ちゃんはとってもおしゃぶりが上手なんだってねえ?オジサンも一つ、気持ちよくしてもらおうかな」
「はい、おじさま。どうかかれんのおくちで、きもちよくなってくださいね」
「んふふふふ・・・・・・・・・本当にいい子だなぁ、可憐ちゃんは。オジサン嬉しくって、もうそれだけでイっちゃいそうだよ」
「おほめいただいて、かれんはとってもうれしいです。―――――おじさま?」
「なんだい?」
「かれんのおくちまんこでおじさまがいったら、かれん、のんじゃってもいいですか?」
「ああ、いいともいいとも。好きなようにおし」
「はぁい」
可憐が、異臭を放つペニスに手を伸ばす。その指先は、微かに、だが確実に震えていた。
「~~~~~~~~~!!」
布団を跳ね除け、可憐が飛び起きる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ―――――」
全身を冷たい汗が覆っている。寝間着が水を吸い、全身びちゃびちゃで、とても気持ち悪い。
―――――何でいまさら、あんな昔の夢を・・・・・・・・・・?
もう何年も見ていなかった悪夢。
思い出すだけで吐き気を催す記憶。
もう、滅多な事で思い出す過去ではないが、しかし、思い出すたびに可憐は、あの頃の自分が何故正気を保っていられたのか、不思議でたまらない。
実の両親によって幼い兄妹は客をとらされ、その収入によって、一家四人が生きていた時代。
彼ら、つまり彼女の両親という名の男女にとって労働というものは、小金を持ったロリコンの変態どもに、我が子を抱かせるための営業行為と宣伝活動に他ならなかった。
両親に逆らう、或いは客の不興を買うという行為は、その後で死んだ方がマシだと思えるほどの折檻を食らうという意味であり、客のオーダーが入らぬ晩は『調教』という名の、これまた死んだ方がマシだと思うほどのセックス・トレーニングが待っていた。
・・・・・・・・・アナル開発、乳首開発、野外セックス、長時間連続オナニー、SMプレイ、露出プレイ、薬物投与、飲尿、脱糞、獣姦・・・・・・・・・・・。
なぜ発狂しなかったのか、自分でもわからない。だが、彼女にとっては、兄の存在こそが、正気を保つ大きな要因となっていたのは間違いない。
自分と並んで、自分と同じように、いや、ことによったら自分以上に悲惨な目にあっていた兄。彼がいたからこそ自分は今ここにいることが出来るのだ。―――――
可憐は心底そう思う。
「―――――お兄ちゃん」
可憐は、我に返ったように周囲を見回す。
殺風景な部屋。さっきまで自分が眠っていたベッド以外は、家具らしい家具すら置いていない。
―――――ここはどこだろう?
―――――兄はどこにいるのだろう?
そして、可憐の脳中をかけめぐる一番の疑問。
―――――あれは、あの出来事は、はたして本当に夢じゃなかったのか?
犬の頭部を持った奇妙な怪人たちに山中を追い回され、ようやく逃げ延びたと思ったらそこは百メートルはあろうかという断崖絶壁で、そして兄の指示のもと、自分たちはそこから飛び降りた・・・・・・・。
飛び降りる寸前に腰に回された兄の腕の感触も、空中で頭を抱き寄せてくれた際に感じた兄の体温も、全てリアルな記憶として存在している。
身体は・・・・・・・・・・動く。
かなり重さが感じられるが、怪我らしい怪我はしていないようだ。
だが、あの高度から飛び降りて無傷などということが、本当にあり得るのだろうか?
――――――ありえない。
常識ならそう思う。
しかし自分は無傷だ。
ならば、あの山中での出来事はやはり夢だったのか。
――――――そうであって欲しい。
可憐は切にそう願う。
だが、そうだとするなら、この部屋はどこだ?
この寝間着は誰のものだ?
そして、可憐が一番考えたくない可能性。
――――――可憐が今こうして無傷でいられるのは、着水の衝撃を全部、可憐の分までお兄ちゃん一人が引き受けてくれたから、だとしたら?
もし、そうだとしたら・・・・・・・・・・恐らく蒼馬はとても生きてはいまい。―――――
「いや!いや!いや!いや!いや!!!」
可憐はその瞬間、全身を引き裂かれんばかりの絶望を覚えていた。
こんな意味不明の世界で、最愛の存在を失い、誰一人頼る者もなく生き残ってしまった無力な自分。
両親の性的虐待どころの話ではない。
考えられる限り最悪の――――最悪すぎて今まで考えもしなかった――――情況。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
可憐はいかにも分厚そうな木製のドアに駆け寄り、ノブを回す。
ドアには当然のように鍵がかかっている。
「開けて!開けなさい!お願い!開けて下さいっ!!!」
ドアを叩く。
当然のようにびくともしない。
「開けてっ!開けて下さいお兄ちゃん!!どこですっ!?可憐を独りにしないで下さいっ!!」
どんどんっ!!どんどんっ!!
「お願いですっ!!お兄ちゃん!可憐が、可憐が悪かったんです!!ですから、ここを開けて下さいっ!ここを開けてお顔を・・・・・・・お顔を見せて下さいっっ!!!!」
恐らく彼女自身、自分が何を叫んでいるかよく分かっていなかったはずだ。
だがそんな事は、それこそ可憐にとってはどうでもいい事だった。
このドアの向こうに兄がいる。しかし、兄はとても怒っていて、自分に姿を見せてくれない。
何故か?
―――――――可憐のせいだ。
―――――――もし可憐がいなかったら、お兄ちゃんは死なずに済んだかも知れない。
―――――――可憐がいたから、可憐が足手まといになったから、お兄ちゃんは死んでしまった。だから怒って・・・・・・・・・・・・・・・。
「おにいちゃん・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
身体中の力が抜ける。
へたり込む。
股間になま暖かいものが溢れる。
しかし可憐はもう何も感じていない。自分が失禁している事すら。
「おにいちゃん・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
頬にも熱いものがはしる。
しかし可憐は感じていない。自分が涙を流している事も。
いや、それだけではない。
今の可憐は何も見えず、何も聞こえず、全ての言葉を失い、ただ呆然とドアの前で座り続けるしかなかった。
このまま、あと数時間もこの状態が続けば、可憐の精神は確実に砕け散ってしまったに違いない。
しかし、結果から言うと、そうはならなかった。
――――――がちゃり。
「キミ、大丈夫かい?」
ドアのロックが外され、入ってきたのは十五・六歳くらいの少年と、帽子を被った二十歳そこそこの女性――――――二人とも人間であった。
「全く、さっきからドッタンバッタンとうるさいわねえ、もう・・・・・・・・・」
「お嬢様!何もそんな言い方しなくとも・・・・・・・大丈夫?何なら鎮静剤を持ってこようか?」
「・・・・・・・・・・・・ぁぁ・・・・・・・・・ああああ・・・・・・・・・・!!!!!」
――――――人間だ・・・・・・・・人間がいる・・・・・・・・・・・ということは・・・・・・・・・・・!!!!
可憐は、自分を心配そうな眼差しで見つめる、いかにも優しそうな少年に必死でにじり寄り、ろれつの回らない舌を渾身の力で制御して、やっとの思いで言葉を紡ぐ。
「・・・・・・・・・・・・あなたは・・・・・・・・・・人間、なのですよね・・・・・・・・・?」
少年は、そう訊かれた瞬間、何とも言えない哀しげな眼をし、女性の方へ振り返った。
女性は、そんな眼で自分を振り返る少年に、やれやれと言わんばかりの表情で溜め息をつくと、その視線を少年から可憐に向けた。
「いいえ、お嬢ちゃん。あなたには悪いけど――――」
「――――――そうです。あなたの言うとおり、僕は日本人で、渡辺誠といいます。あなたは?」
「可憐・・・・・・・・榊原可憐。―――――それじゃあ、それじゃあやっぱり、ここは日本なんですね!?あれは、あれはやっぱり夢の世界だったんですね!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「よかった・・・・・・・・・よかった・・・・・・・・・ぐすっ・・・・・・・・・あれっ・・・・・・おかしいな・・・・・・・何だか・・・・・・・・・・・・安心したら・・・・・・・・・・涙が・・・・・・・・・・あれっ・・・・・・あれっ・・・・・・あははは・・・・・・・・止まらないよぅ・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
少年――――誠は答えない。沈鬱な表情のまま、泣き笑う可憐から眼を逸らしている。
「・・・・・・・・ったく」
そんな彼を見ていた女性が、呆れたように再び溜め息をつくと、ポケットからハンカチを取り出し、誠を押しのけて可憐の正面に膝をつく。
「ほらほら泣かないの。こんな綺麗な顔してるんだから、もったいない。―――――って、ちょっとアンタ、ひょっとしておしっこ漏らしてんの!?」
「え?」
「冗談じゃないわよっ!このパジャマあたしのなんだからねっ、『ヒト』のおしっこなんかで汚されたら――――」
「お嬢様っ!!」
誠が、さっきまでの優しげな眼差しから一転して『お嬢様』を睨みつける。
「なっ、なによ・・・・・・・・・どうせ隠したって、すぐに分かる事じゃないのよ・・・・・・・・」
「かく、す・・・・・・・・?」
「ああいや、何でもないんだ。気にしないで。それと、キミのお兄さんって、あの体の大きな人だよね?」
「え?あ、はい」
「無事ですよ。今日でもう三日も眠りっぱなしだけど、命に別状はありません」
「生きてるんですかっ!?兄が、兄が生きてるんですねっ!!??」
「ええ。それにしても寝言でカレン、カレンって言ってるから、どんな熱烈な恋人なのかと思ったら、まさか妹さんだったなんて・・・・・・・・。よっぽど仲のいい兄妹でいらっしゃるんですね」
「いえ、あの、そんな・・・・・・・・・・・・」
可憐は耳まで真っ赤にしながら思わず俯く。
「全く、あれだけ体中ケガしまくっててよくもあれだけ動けたもんよね・・・・・・・・・。しかも、寝込んでからの回復力がこれまた『ヒト』とは思えないレベルだってんだから、呆れたト言うべきか、はたまた感動したと言うべきなのか、判断に困っちゃうわ」
「それじゃあ、あなたが兄を治療してくださったのですね?」
「いいえ。哀しいけど、まだあたしにはまだそんな権限はないわ。街から医者を呼んで治療をさせたのも全部お父様の指示よ。感謝の言葉だったら、お父様に直接言ってあげて」
「ああああ・・・・・・・・・・・もう、本当に、有難うございます!!兄に代わってお礼を言わせて頂きます!」
「いや、だから、あたしは何も・・・・・・・・・・・まあ、その・・・・・・・・・・アンタっていい子ね・・・・」
「あの、それで、兄は、兄は一体どこにいるんですか?兄のところへ連れて行って下さい!」
「ええ、分かってます。でも・・・・・・・・もう少し休まれてからの方がよくないですか?見たところ、体調の方もまだまだ万全じゃないように見えますし・・・・・・・」
「いえ、大丈夫です。早く兄のところへ連れて行って下さい」
そう言いながら立ち上がる可憐に、もはや一分の疲れも見えない。
兄が生きていた。兄に会える。その思いが、さっきまで彼女の精神を発狂寸前まで追い込んでいた絶望を雲散霧消させ、ナチュラル・ハイといっていい状態にまで彼女を回復させたのだ。
だが、その瞬間、可憐はぎくりと表情を凍らせた。
彼女の思考が当然、あるべき疑問に行き着いたのだ。
―――――――お兄ちゃんはケガをしてる。・・・・・・・・何故?何故お兄ちゃんはケガをしてるの・・・・・・・・・?
およそ考えられる答えは一つ。
可憐はおそるおそる二人を見つめる。
「誠さん、あの・・・・・・・・・誠さんは先ほど、御自分の事を日本人とおっしゃいましたよね?ということは、その、ここはまさか――――――」
「――――――『ニホン』じゃないわよ」
「お嬢様っ!!」
「どきなさいマコトっ!あなたは優しさのつもりでやってるのかもしれないけど、そっちのほうが、もっと残酷な事だってなんで分からないのっ!!」
「お嬢様・・・・・・・・・・・・」
「それじゃあ、それじゃあ、ここが日本じゃないって言うなら、一体どこだって言うんですか!?アメリカですか!?それとも北朝鮮ですかっ!?」
「あなたには可哀想だけど、そのいずれでもないわ」
そう言いながら『お嬢様』は帽子を脱ぐと、首を振り回してその中に収まっていた長髪を、ばさりと解き放った。
「・・・・・・・・・・・・・・・!!!!!!!!!!」
可憐は言葉が出なかった。
その背まで伸びた、流れるような黒髪の中からピョコリと顔を出しているのは、帽子の中の熱気で蒸れたのか、ぱたぱたと風をあおぐ――――猫耳。
「ここはね、猫の国よ・・・・・・・・・!」