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先輩、私を捕まえて!

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先輩、私を捕まえて!



 その日の後輩は、何だかいつもにも増しておかしかった。
 見掛けたその貌は紅潮しており、柳眉は切なげに垂れ、瞼は蕩け、口ははしたなくも半開き。撫で肩はますま
す落ち、足取りはまるで酒精が巡ったかのように不確かだった。そんなふうに見えた。
 教室前廊下の道幅を最大限に利用するじぐざぐな歩法が気になり、俺は最近では珍しく自分から声を掛けるこ
とにする。

「フラフラして何だお前。危なっかしい」
「……先輩?」

 後輩は弛緩しきった表情で俺を見つめた。どうも目の焦点が合っていない。
 返答までのタイミングのズレに少し不安になっていると、彼女は両手で頬を押さえて甘えるようにいった。

「ええ。……実は昨夜から仮病で、頭が痛くって。……慰めてくれますか?」
「聞いたことがある。それ死ななきゃ治らないらしいな」

 ……やっぱり心配して損した。
 そういや以前にも、ストーカー中のところをサーチアンドデストロイした俺のお袋に向かって「ちっ、違うん
です私は、怪しい者です!」とか激白してたし。計算高いようで、安定してボロを出す女なのかもしれない。
 だからといって可愛げがあるわけでもないが。

「間違えました。……ん……はくしょっ! ……今の失言はきっと、メッチャメッチャ厳しい人たちが不意に見
せた優しさのせいだったりするんでしょうね」
「誰だよそいつら」

 口調こそ弱々しいものの、ふざけた中身は健在だった。
 ちなみに今のくしゃみ、100パー、口で言ってたろッ。

「お前はパロディのセンスないんだから、もう自粛しろよ……」
「ええいこの際そんなことはどうでもよろしいのですッ!!」

 そっち方向での挽回が困難と見るや、後輩はいっそすがすがしいほどに開き直った。
 ……元気じゃん。

「ええ認めましょう、認めますよ! 仮病というのは、乙女の照れ隠しッ! お医者さまはいいました。これな
るは、ああ、恋の病ッ、愛という名の熱病ッ! マラリアは蚊によって媒介されます」
「最後の説明要るの?」
「黄帝内経、神農本草経、傷寒雑病論、難経、アーユルヴェーダ、四部医典まで……。我が身の動悸と眩暈と、
カラダのほてりをどうにかすべく、私はあらゆる手段に手を染めました。……けれど、結局は現代医療の限界を
思い知らされただけ……。つらい。かなしい。そこで私は、ようやく気づいたのです!」
「そうか」

 そんなふうにまくしたてられると、俺もツッコミしづらい。かなしくはない。

「もし、この病を治すお薬があるとすれば、それはきっと、先輩に抱き締められること。先輩に口づけされるこ
と。そして先輩に愛のことばを囁いてもらうこと。……さすればっ!」

 後輩はそこで胸元に握り拳を寄せ、喉に得体の知れない力を溜めに溜めた。

「先輩にも、この恋の病が感染するやも!」
「その話の流れは、自分を治せる薬はないってこと? 自慢か? バカの自慢」

 しかし、ここまで歯止めが利かずに支離滅裂になっている会話は初めてのような……。
 俺は改めて後輩の顔色を見る。一瞬だけ気の迷いで額に手を当てようかと思ったが、こいつを喜ばせるのは癪
だった。

「さあ、先輩! 抵抗は無意味です! あなたはもう心理的に完全に包囲されているはず! 私といっしょに気
持ちよく――ってあら? 先輩? どうしたんですかそんな真剣に」
「なあお前、……ほんとうに体の具合悪いんじゃないのか?」
「……そんなわけないですもん」

 目線を逸らす。
 こういうときの後輩は、とてつもなく分かりにくい。
 彼女の性格を考えると、体調の悪さを最大限に利用して俺に甘えようとしてもおかしくない。つまり、ここで
頑なに大丈夫だと言い張る理由がない。
 もののついでに思い出したが、こいつはその昔、雑談中「私を苗床にして繁殖したばい菌たちで先輩に病気が
感染るとすれば、……それってえろすぎますよね?」などと、ふつうに気持ちの悪いことを口走っていたことが
あるようなないような。百年の恋も冷めるわ。……恋してないけど。
 いかん話が逸れた。
 とにかく。
 “今の後輩はいたって健康なところ、わざと不調を装う演技をし、さらに口では強がって俺の心配を煽ろうと
している”。
 ――素人ならそう思うだろう。いや、この道の玄人とか意味分かんないけど。

「保健室、行くか?」
「ヤです」

 ところがだ、そうとばかりは言えないのが、この“現代の狼少年”の複雑なところなのだ。
 自分の微妙な変化に気づくかどうか俺を試したり、また気づくことを前提にして何でもない素振りで俺の気を
惹こうとしたり、それくらいは日課のようにやる女である。
 かつて我が母は「それが女の子のデフォルトよ♪」と年甲斐のない音符エフェクト付きで語ったが、髪型や服
飾ならまだしも、自分の体調でやるのはさすがに病的だと思うのだ俺は。
 つまり、どういうことかというと。
 “今の後輩はいたって健康なところ、わざと不調を装う演技をし、さらに口では強がって俺の心配を煽ろうと
している”ように見せ掛けて、実は本当に体調を崩していると俺が見抜くことを期待している。
 ……なんかもう頭がこんがらがる嘘吐きっぷりだが、そんなじゃんけんで裏の裏のそのまた裏を掻くような不
毛な可能性が、厳然としてあるのだ。我ながら、それに気づけるから何なんだと思わなくもないけど。

「なんつーか、お前の彼氏になる男は苦労しそうだな……」
「えへへ。……それって、先輩のこと、ですよ?」
「願い下げだ」

 ただし、今回に限っては、気づけて良かった。彼女を安心させることができたからではない。
 無理矢理にでも、“彼女に早期治療を受けさせられるから”だ。

「それより、ほら、保健室に行くぞ。――嫌でも、連れていく」
「先輩からの強引なデートのお誘いは、跳び上がるほど嬉しいのですが」

 俺が差し伸べた手を、後輩は握らなかった。
 彼女は儚げな、しかし会心の笑みを、浮かべた。

「保健室までじゃ、ちょっと物足りない、かな?」

 リノリウムの床がだんと鳴った。

「……は?」

 俺は間抜けな顔をしただろう。
 後輩は、いつのまにか俺の背後に回っていた。
 脚のもつれるような動きだったくせに、俺より数段素早い。目では追えない。
 いや、これは単純な速度ではない、一瞬で相手の死角に退避する足捌きか。……って何の達人だお前はっ!

「ていうか、おいこら、待てよ病人!」
「だから私をベッドに連れていきたいなら。先輩、――私を捕まえて!」

 何その誤解を招く台詞。
 慌てて手首を掴もうとしたところで、後輩の花のような微笑みがまた残像となって消えた。
 どこいった!?
 見回すと曲がり角の向こう、スカートの端がヒントのようにちらと閃いた。
 あの先は、くそ、階段を下る気か!? 下手をすれば仁科学園すべてがフィールドになるぞ!
 呆然とする間もなく、俺も駆け出す。
 正直にいえば、もう知ったこっちゃない、もう付き合いきれないという気持ちもないではなかった。しかし、
ここで病気の後輩をひとり置き去りになんてできるわけもない。そこまで彼女は計算しているだろうが、いいだ
ろう、今回だけは乗ってやる。

 ――あはは、待ぁてぇ~こ~いつぅ~
 ――うふふ、捕まえてごらんなさぁ~い

 かくて。
 いかがわしいことこの上ない謎の幻聴と、「廊下を走るな、えーと、……“先輩”っ!!」という真田基次郎
教諭の野太い声とともに。
 長い放課後が始まった。


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