55:7体
侍
北条家・右翼後詰主将
名前 | 職種 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
遠山綱景 | 槍侍 | 55 | 三〜五連撃・改 | |
早雲寺高僧 | 僧 | 50 | ||
乱波中忍 | 忍者 | 50 | ||
伊豆衆精鋭 | 陰陽 | 50 | ||
箱根山神官 | 神主 | 50 | ||
相模鍛冶 | 鉄砲鍛 | 50 | ||
箱根山山伏 | 薬師 | 50 |
遠山直景の第一子と伝わるが詳細は定かではない。藤九郎。甲斐守、丹波守。生年は定かではない。
遠山氏は伊勢宗瑞(北条早雲)の駿河下向に従ったとされ、このときの人物が遠山直景であり、綱景の父とされる人物であるが、これは年齢的に考えて無理がありすぎる。直景が死去した年の最有力は1533年であり、早雲とは2世代ほど年がずれるからである。
実際のところは、16世紀の頭に、京都あたりから伝を頼って落ちてきたのが本当であろう。となると、綱景の生年も(娘の婚期から考えて)1510年前後であると予想される。
綱景は江戸衆筆頭に列せられ、相模西郡松田や曽比郷、相模中郡金目郷などに約963貫を知行していた。
また、綱の字は北条氏綱からの一字拝領である。娘が北条氏康の養女(法性院、太田康資に嫁ぐ)となるなど、かなりの重臣に位置する。
なお、
1533年に死去した父の後を継ぎ江戸城代となっている(江戸城代格は3人いたが、当時の資料では、彼が江戸城代であるとしているものがある。)。
また、1544年に連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催したことが記録に残っている。当時関東といえば田舎であり、いわゆる文化の中心地である京とはかけ離れた土地であった。そのようなところで連歌の会を開いたことは彼の教養を裏付けるとともに、北条家中での地位も明らかにしている。
1564年初頭、太田康資の離反により第二次国府台合戦が勃発、綱景は先鋒を務めたが、息子の隼人佐とともに討ち死に。以後彼の後は出家していた三男の政景が継いだという。
彼は江戸城代として入っていたが、同じ位にあった太田康資の寝返りを察知できなかったのに負い目を感じて、同じく負い目を感じていた富永直勝とともに北条綱成が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河、そのため里見氏の反撃を受けたという。間接的にではあるが自身の親類である康資・・・娘の夫が裏切ったとなれば、彼の面子や面目はつぶされたであろうから、功をあせったということもあるのかもしれない。
これにより、北条方が当初予定していた、里見と反目していた千葉氏に後ろを付かせる挟撃策は破綻してしまう(ただし、これにより主力を温存できた北条方は、撤退を装って里見氏を油断させるとともに、この両名を討ち取った功で酒を振舞っていた里見陣を奇襲。大勝利を収めた)。
なお、遠山の金さんとして有名な遠山景元は、彼の子孫であるという説がある(ただし、美濃遠山氏の出自という説もある)。