真言立川流

(1)『邪教立川流』と言う名でも呼ばれ、醍醐寺の僧『仁寛』が開祖とされる。陰陽道の者達の手により、現在の東京都立川市が拠点となっていたとされる。『髑髏本尊』や『荼吉尼天法』と呼ばれる業法が、その存在をさらに『邪教』として認識する基となったとされている。
真言立川流は一時爆発的な人気を呼び、一時期国内の主要寺院は立川流となったとされる。しかし、高野山門主である宥快と言う僧が『邪教』として批判したため、立川流に関する書物を全て焚書されてしまった。その火は三日間燃え尽きる事は無かったと言われる事から、立川流に関する書物がどれだけ多く存在していたかを物語っている。しかし、立川流の一部は高野山の勢力が届かない地方で細々とでは有るが伝わっていったが、後自然消滅してしまった。
(2)立川流の特徴は、性欲・性愛といった、仏教ではタブー視されていたものを表に出す所がある。これはチベット系の密教でも見られる特徴である。
(3)この思想は陰陽思想を基に発展したものであるとされるが、もう一つの理由として密教の大衆化を図った物ではないかともされる。
鎌倉時代に起こった仏教の発展により、浄土宗浄土真宗日蓮宗?臨済宗曹洞宗などの宗派が爆発的な人気を呼び、民衆に広く支持されるようになったため、密教ひいては真言宗の立場が危ういと考えられるようになり、その流れで覚鑁は念仏信仰を広めたとされる。
立川流もその流れの中で発生した物で、『金剛界曼荼羅』『胎臓曼荼羅』の二つの曼荼羅を簡略的に説明することが立川流では安易であった。

髑髏本尊

①高貴な者(将軍・行者・高僧・長者・国王・大臣)の髑髏を用意し、人工のあごや舌、歯、唇、眼球を飾り付け漆を塗る。
②人が通わない秘密の場所に、美食と美酒を用意する。子の刻(深夜0時)から牛の刻(午前2時)の間、反魂香を焚き、その煙を髑髏に浴びせ、了解を得た美女と連夜交わり、精液を混ぜ合わせたモノ(和合水)を髑髏に塗重ね、その数を120は繰り返す。その間『反魂の真言』を1000回繰り返す。
③髑髏の中に因縁のあるモノを入れ、秘密の符をいれる。その上から銀箔と金箔を三重に押し、和合水で曼荼羅を描き、金箔を塗続けるという作業を繰り返す。
④顔面を絶世の美女、又は童子の様に細工を施す。あくまで、表情は柔和でなくてはならない。
⑤出来上がった髑髏本尊を壇上に安置し、山海の珍味を供えて、反魂香を焚き、子の刻から虎の刻の間祭儀を行う。そして、卯の刻になると錦の袋に修める。
⑥その後、昼は壇に据え髑髏を養い、夜は行者が肌で抱いて眠る。これを八年間続ける事で、髑髏は未来を予知する法力を宿す。

参考

学研 真言密教の本

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最終更新:2006年10月18日 17:03