銀鈴という少女はかつて一国を支配するほどの力を有していた。
洗脳や精神汚染の類ではなく、ただただ純粋な〝暴力〟で。
戦車の砲弾を無傷で受け止め、最新鋭の軍艦を素手で沈没させ、高度五千メートルを飛ぶ戦闘機を投石で撃墜するほどの圧倒的な武力で。
束になった国軍をまるで蟻を蹴散らすかの如く蹂躙し、やがて抵抗の意思がなくなるまでそれを続けた。
かくして、わずか十歳を越えたばかりの銀鈴は恐怖政治を執り行う為政者となったのだ。
無論、十歳そこらの少女が政治などわかるはずもなく。時を待たずしてその国は崩壊を迎えたがこれはまた別の話。
今回の話の重要点。
それは、一国をも滅ぼせるような力の持ち主が今回の〝刑務作業〟に参加させられているというとんでもない事実について。
超力とはあくまで人間の力。
思い描く〝空想の世界〟に準じて力の大小、方向性、汎用性が決まるとはいえど一個人が持てる影響力には限度がある。
少なくとも、国軍を以てして傷一つ付けられぬような人間は存在しない。してはいけない。
そして、銀鈴はそんな〝存在してはいけない〟者だった。
そう、その通り。
これだけを聞けば刑務作業とは名ばかりの銀鈴による蹂躙が始まってしまうだろう。
ならばアビスの連中はそれを望んでいるのかと問われれば、断じて否。
この刑務作業が崩壊しない理由は、彼女のもつ超力の唯一にして最大の欠点にあった。
銀鈴の規格外の超力。
それは、彼女の生まれた地から半径二十キロメートルの範囲内でしか発揮されない。
すなわちその領域を出てしまえば銀鈴はなんの変哲もない年相応な少女の肉体へ。更に言えば超力を前提に回るこの世界では羽をもがれた虫も同然の存在となるのだ。
無論言うまでもなく、このヤマオリ記念国際刑務所は彼女の出生地から数千キロ離れている。
ゆえに、上記とは別の意味で刑務官の正気を疑うことになるだろう。
──ではなぜ、そんな〝虫〟をこの殺し合いに放り込んだ?
結果など目に見えている。
超力を持たぬ少女など、殺しを躊躇わぬ囚人連中に呆気なく命を摘み取られ。憐れ『死』が刻まれた首輪は恩赦Pの足しにされるだろう。
これは、そんな少女のお話。
全てを持ち、全てを失った少女が地獄を生きる物語。
罰でも消せぬ罪を。
死を以ても償えぬ十字架を。
その小さな身体で背負う銀鈴は、果たしてどう生きるのか。
◾︎
(…………殺し合い、かぁ)
黒髪のショートカットを風に靡かせ、幼さの残る顔立ちを星に晒す少女。
名を羽間美火。このアビスにおいても相当な若輩の位置に当たるであろう十七歳の少女は、年齢とは不釣り合いな『死』の文字を首輪に刻んでいた。
「きっと助けを求めてる人、いるよねっ。こういう時にこそアタシがみんなのヒーローにならないと!」
ぐっ、と握り拳を胸の前に突き出す。
演技的な仕草、力強い表情からして彼女がどういった人間なのかは誰が見ても明らかだろう。
羽間美火の生涯は正義に焦がれてきた。
空想の世界に影響を受けやすいネイティブ世代、その中でも超力の解明が進み始めた時代に生まれた彼女。
立派な正義心を持つように、と。両親の意向でヒーローものの漫画を読み漁り、日曜の朝から繰り広げられる特撮に爛々と目を輝かせていた。
その甲斐あってか、美火の超力は特段彼女の持つ正義心に影響するものとなった。
最初こそ憧れの容姿を真似るだけだった。
しかし彼女の抱く羨望が輝きを増すごとに超力は進化を遂げ、やがては本物のヒーローに近しい身体能力を手にする事が叶った。
そう、元より美火はこんな場所に来るべき人間ではなかったのである。
悪とは無縁の彼女がアビスに送られる要因となった一件は、おざなりな警察組織の不手際と断ずる他ない。
彼女の街を狙う反社会組織が十五人の半グレを雇い襲撃させたのち、美火の手により鎮圧されたと知るや否や口封じと称して皆殺しにした。
そして、その十五人殺しの濡れ衣を正義感溢れる少女へと着せたのだ。
その後、彼女の住む街が反社の縄張りとなり数多の死傷者が出た。
言うまでもなく既に投獄されていた美火はそのことを知らない。この逆境の中、彼女が今でも正義を燃やせている理由の一つがそれだ。
きっと自分の冤罪は晴れる。正しいことは認められるのだ、と。
そう心から信じているからこそ、羽間美火はこの刑務作業においても〝人助け〟という方針を見失わずにいられた。
「あ、あぁ!? あれは……!」
見晴らしの悪い山岳地帯。
けれども視力には自信があった。街灯代わりの月明かりの下、枯れ木の隙間を縫うように佇む人影は自身とそう変わらない背丈と断定。
心なしかキラキラと輝いて見える銀の長髪からして少女のようで。美火は迷いなく人影の元へと駆けつけた。
「じゃじゃーーーんっ!! 羽間美火、ただいま参上っ! アタシが来たからにはもう大じょ────」
ぞ く り 。
その少女の瞳を見た途端、冷えた手で心臓を鷲掴みにされたような寒気を覚えた。
宝石のように煌びやかで、かつ無機質で光の差さない瞳孔。ある種の芸術作品を思わせるそれは美火の顔を捉えて離さない。
────不気味の谷現象。
あまりにも人間に近しいロボットはかえって不気味さを抱く、という心理現象。
いま、美火はそれを数十倍も濃密にしたような悪寒を経験した。
「あら、こんばんは可愛らしい人間さん。美火、と呼んでもいいかしら」
気品溢れる優雅な佇まいで笑みを返す少女。
およそ囚人のそれとは思えぬほど白く透き通った陶磁のような肌に、悪魔的なまでに理想を詰め込んだ端正な顔立ち。
それはまるで精巧な人形のようで、作り物のような薄ら笑いを張り付ける様はより一層美火の憂愁を焚き付ける。
「は、…………ぁ、……っ…………」
言葉が出ない。
舌が回らない。
本能が叫んでいる。
こいつと関わってはいけない、と。
「ねぇ、美火。ねぇ、あのね。あのね、私(わたくし)の名は銀鈴というの。覚えていてくれるかしら。覚えてくれるととっても嬉しいのだけど」
ずい、と。
塵程も表情を変えず、薄ら笑いのまま覗き込む人形のような少女──銀鈴。
汗が噴き出す。
これでもかと鼓動が早まる。
両脚は震え、指先は助けを乞うかのように宙を掻く。
なぜ自分がこんなにも怯えているのか、美火はわからない。わからないからこそ、得体の知れない恐怖心に吐き気を催す。
「まぁ、美火。そんなに汗をかいてどうしたのかしら。それに身体も震えているわ。大変、今助けてあげる」
一歩、人形が踏み出す。
その歩幅以上の距離を美火が後ずさる。
────〝闇〟だ。
銀鈴の瞳を一言で表現するとしたらその言葉がお誂え向きだろう。
一度視た者は憐れ、蜘蛛の巣にかかった蝶の如く目を離せず。奥底に眠る莫大な闇に呑み込まれる。
それは凡そ外道を歩いた事のない美火が浴びるには余りにも深い、深い邪悪だった。
捕食者だとか、殺人鬼だとか、そういうのじゃない。
これは、この目は。
〝人間〟を見ていない。
「────変身ッ!!」
それは一種の防衛反応だった。
140に満たない美火の体躯を桃色の光が包み込み、軽快な音楽が奏でられる。
幾度とみたヒーローのごっこ遊びの極地、それこそが羽間美火の超力(ネオス)。
やがて光の中から顕現したのは、赤いスーツを身に纏う戦士の姿だった。
幼さの消え失せた凛とした面構。何より目立つのはまるで別人の如く伸びた身長。
女性の平均身長を大きく越える体格は銀鈴の頭一つ分以上も上回り、見た目を遥かに凌ぐ骨密度と筋肉は新人類の中でも上澄みの部類。
これこそが羽間美火の理想とするヒーローの姿。
いつだって彼女にとめどない勇気と力を与えてきた正義の象徴。
なのに、
そのはずなのに。
「まあ! 姿が変わったわ。とっても素敵、それって美火の超力?」
なぜ、こんなにも恐ろしいのだろう。
視線の拘束から逃れる為に距離を取る。
と、ここで初めて銀鈴の首輪に刻まれた文字に気が付いた。
己と同じく死刑囚。
けれどきっと、濡れ衣を着せられた自分とは違い〝正当な罰〟として烙印を押されたのだと確信する。
「ぁ、……なた……っ、…………は……」
「あなたじゃないわ、銀鈴と呼んで」
「…………ひとを、……殺した、の?」
震える喉奥から声を絞り出すのにこれほど労力を要するとは。
人を殺したのか。極めてシンプルなその質問を投げるのに美火は息を切らすまでに疲弊した。
対しては銀鈴、こちらは呼吸の乱れどころか瞬きひとつすらせず。笑みを張り付けたまま梟を思わせる仕草で首を傾けた。
「向 紅花(シャン ホンファ)」
「…………え?」
突如、綴られる文字列。
美火の疑問の声を打ち消して、鈴の音を思わせる美麗な声色は絶えず続く。
「涂 星宇(トゥー シンユー)、夏 洋(シァ ヤン)、夏 宇沢(シァ ズーヅァ)、匡 吴然(コアン ウゥラン)、油 麗孝(ヨウ リキョウ)、油 詩夏(ヨウ シーシ)、江 深緑(ジャン シェンリュ)────」
「え、な、……なに、…………えっ」
それが人の名前だと気付くのに時間を要した。
というよりも、気付きたくなかった。
人を殺したのか、という問いに対して名前を挙げるということが何を意味するのか。
如何に悪意に触れる機会の少なかった美火といえどそれを察せないほど愚かではない。
「陳 博文(チェン ブォエン)、郎 飛龍(ラン フェイロン)、解 文月(シエ ウェンユェ)、胡 美雨(フー メイユイ)、高野 真由美(たかの まゆみ)、単 珠蘭(シャン シュラン)、朱 秀鈴(チュー シューリン)────」
「…………もう、……やめて…………」
独白は続く。
壊れたラジオのように、まるで感情の灯らない名前の羅列に懺悔など含まれていない。
ただ投げられた質問に答えているだけ。
悲痛な面持ちで目の端に涙を浮かばせ、両耳を塞ぐ美火をじっと見据えて。可愛らしいとさえ思いながら銀鈴は一定のリズムで名を連ねてゆく。
◾︎
万 俊杰(ワン ジュンジエ)
趙 子墨(ヂャオ ズモー)
梁 憂炎(リアン ユーエン)
施 洋(シー ヤン)
安 桜綾(アン ヨウリン)
安 翠花(アン ツイファ)
安 宇航(アン ユーハン)
薛 雲嵐(シュエ ウンラン)
向 克勤(シャン ハッケン)
曹 花霞(ツァオ ホァシャ)
クリスチャン・エッガース
左 小龍(ズォー シァォロン)
孫 燈実(スン トウミ)
孫 明林(スン ミンリン)
牧野 三郎(まきの さぶろう)
甘 天佑(ガン チンヨウ)
周 傑倫(ヂョウ ジェルン)
芦 宇辰(ルー ユーチェン)
段 洋(ドゥアン ヤン)
姚 依諾(ヤオ イーヌオ)
郝 美麗(ハオ メイリン)
武 静麗(ウー ジンリー)
ヴェレナ・ヴァレンティーニ
朱 子豪(シュウ ズハオ)
朱 秀英(シュウ シゥイン)
「────もうやめてッ!!」
◾︎
ぴたり、と。
執行人の呪文が止まる。
「あな、あなた…………何人、…………の、……命を……っ! うば、って……きたの…………!」
既に美火は正常ではない。
頼り甲斐のある決意に満ちた顔は何処へ、人目もはばからず泣きじゃくる様は年相応の少女のものに相違ない。
理解のできない事象、理解のできない人種。
本来であればアビスの囚人に並ぶべきではない齢十七歳の純然たる少女は、圧倒的な闇に灯火を消されかけていた。
「19738人よ。名前が分からないのは4866人」
言葉が詰まる。
大柄なマフィアのボスが言うのならばまだしも、端麗な少女の口から発せられたそれは冗談にしても質が悪い。
けれど、美火にはそれを冗談だと笑い飛ばす事など到底出来なかった。
「軍艦に乗ってる人とか、戦闘機に乗ってる人とか。名前を知る暇もなく死んじゃった人も多くてね。それにね、素直に教えてくれない人も多かったの。みんな美火みたいに名乗ってくれたら覚えやすいのに。ねぇ、ねぇ、そう思うでしょう?」
ああ、やはり。
この少女には関わってはいけなかった。
「────ッ!」
取り巻く闇を払うように、美火は洗練された回し蹴りを放つ。
矛先は少女の顔面ではなく、その傍の枯れ木へ。落雷に似た衝撃を受けたそれは歪な音を立てて中ほどまでへし折れた。
吹き荒ぶ風圧が銀鈴の髪を揺らす。感情のない瞳がほんの少しだけ見開かれた。
「い、今のは脅しじゃないッ! それ以上近づいたら……た、ただじゃおかない……!」
それは、精一杯の虚勢。
不思議な話だ。今の美火が少しでも攻撃を加えれば銀鈴は抵抗も許されずに鎮圧されるというのに、銀鈴が追い詰める構図となっている。
「まぁ、すごい! とても力持ちなのね」
美火が優しい人間だから。
例え極悪人とわかっていても、少女の姿をした相手に暴力を振るうことなど出来ないから。
それが最たる理由であると、羽間美火を知る人物であれば一片の迷いなく答えるだろう。
しかしそれはあくまで原因の一つ過ぎない。
彼女が手を出せない理由は、圧倒的な恐怖。
銀鈴の深淵に似た瞳が、彼女から放たれる支配者たるオーラが、羽間美火の本能へ〝逆らってはいけない〟と警告しているのだ。
────逃げろ。
頭を埋め尽くす焦燥感。
けれども美火は、それすらも出来ない。
幼い頃から植え付けられた正義感が。
目の前の悪から逃げてはいけないと、泣き叫ぶ。
結果、少女としての羽間美火とヒーローとしての羽間美火が心根でせめぎ合い、何も成せぬ銅像を作り上げてしまったのだ。
そうして数秒。垣間見えた美火の力へ愉しそうに五指を合わせていた銀鈴の顔から、ふっと笑みが消え去る。
「けれど、けれどね美火。人間を殺すのにそんな力はいらないの」
え? と、間の抜けた音を漏らすと同時。
一瞬、銀鈴の腕が横薙ぎに振るわれるのが見えた。
途端、視界が赤く染まり上がる。
遅れてやってくる熱と激痛。真っ赤だった世界は暗闇へと落ち、二度と光を目にする事はなかった。
「────っ゛、あ゛ぁ゛あ゛ッ!!?」
目を潰された。
なぜ? なにでやられた?
その答えを美火が知ることは叶わない。銀鈴が手に持つ鋭利な石を、もう見ることが出来ないのだから。
「女の子がそんな声を出したらはしたないわ、美火。お行儀よくしましょう?」
「────ぅこ゛、……っ!?」
視力を失い悶え苦しむ美火の顔面へ、ゴンッという痛々しい打音と共に鈍い衝撃が襲いかかる。
予期せぬ攻撃に美火の両脚は縺れ込み、支えを失った身体はゴツゴツとした岩場へ背から叩きつけられた。
熊さえ屠るヒーローをも張り倒した〝無力〟な少女の手には、ぬらりと血液を付着させた掌ほどの玄武岩が一つ。
何が起きたのか理解できない。
依然失われた視界は暗闇だけを映し出し、あれほど畏怖していた銀鈴の薄ら笑いすらも今や恋しく思う。
「や、だ…………いや、っ……だ…………!」
「私ね、人間が好きなの。こんなに脆くて、こんなに儚くて、理解出来ない生き物だから。些細な事で泣いたり笑ったり、色んな顔を見せてくれる人間が好き」
────ゴンッ、ドゴッ、グシャッ、メキッ。
美火の腹部に跨り、馬乗りとなった銀鈴はひたすらに彼女の顔面へ石を叩きつけて、叩きつけて、叩きつけて。
まるで年端のいかぬ少女が自分のことを知って欲しいから話し掛けるかのように、抑揚のない声が美火の鼓膜へ伝達する。
「そう、私はもっと知りたいの。このアビスで人間はどんな行動を取るのか、〝新人類〟の視点から見届けたい。だから、だからね。本来の力を取り戻すために、忌々しいアビスの装置を壊さなきゃいけないわ」
返事はこない。
代わりに、血の泡が噴き出した。
ひしゃげた鼻からはとめどなく鼻血が溢れ、紫色に腫れた唇の隙間から覗く歯は所々が欠けている。
頬骨にヒビが入っているせいか、均整が取れていた顔面のバランスはとうに崩壊している。
羽間美火の面影はもうなかった。
(いた、い。いたい、いたいいたいいたい痛い痛痛いたいいたい痛痛いたいいたい)
ここまでされても。
なまじ頑丈な肉体のせいで、気絶すら出来ない。
「だからね、ブラックペンタゴンという場所を目指そうと思うの。きっとなにか秘密が隠されていると思うから」
数え切れないほどの暴力の雨を受けても意識を閉ざすことすら出来ず、その一撃一撃が神経を穿つかのような重い痛みとなり牙を剥く。
生存本能から抵抗を試みて腕を振るうも、目の見えない状態で銀鈴に当たるはずもなく。
空を藻掻く少女は段々と衰弱を顕にし始めた。
「ここに来てからね、サッズ・マルティンという人間に拷問を受けたことがあるわ。その人間はね、過去の痛みを何倍にして思い出させる超力を持っていたの」
────ゴシャッ、バキッ、ドゴッ、グチャッ。
「けれど私、痛みなんて感じたことなかった。だからちっとも効かなかったのだけど、それが気に障ったみたいで〝痛み〟というのがどういうものなのか、丁寧に教えてくれたわ」
────メキッ、ゴリッ、ゴシャッ、ベチャッ。
「そのとき初めて知ったの。痛いって、生きてるってことなのね。人間の気持ちを教えてくれた彼にはとても感謝しているわ」
ああ、石が壊れた。
用済みのそれを捨て、新しい石と取り替える。
銀鈴のおしゃべりは続く。
二度石を取り替える頃には、美火の反応はすっかりと鈍くなっていた。
消えかかる正義の灯火は、線香花火のように儚く。光が落ちる間際、最後の足掻きとばかりに輝いてみせた。
「こ゛、ぇ……な…………さ…………」
銀鈴の手が止まる。
変わり果てた美火の顔を興味深そうに覗き込む人形じみた面相は、粘液質な返り血で染まっていた。
「お゛と、ぉ……さ、…………おか、……ぁ゛…………こ゛べ、……なさ…………」
血と涙の混じった体液を伝わせて、この場にいない両親へと言葉を紡ぐ。
もう現実と夢の区別もつかないほど意識が混濁しているのだろう。
ぴくぴくと痙攣する両腕を顔の前に持っていく様子は、まるで叱られることを恐れる幼子のようだった。
「ひー……ろ、……なぅ゛、か……ら…………も、……ぶたない…………でぇ……」
────結局、正義などなかったのだ。
羽間美火のヒーロー観は、彼女自身が望んで手にしたわけではない。
虐待じみた両親からの教育と圧力により形成された〝つくりもの〟の正義だったのだ。
ヒーローになりたいから、ではない。ヒーローにならなければいけなかったからその道を進んできた。
いつしか羽間美火という無垢な少女は、自ら望んで正義の味方を目指したと思い込むことで己を守ろうとしていた。
その記憶が、銀鈴の〝支配者たる目〟を見たことで想起された。
挫折とは無縁な理想のヒーローであるため、長らく封じ込めていた過去が土足で踏み荒らされたのだ。
自分の人格が〝恐怖〟によって形成されたものだと気付かされたショックは到底計り知れない。
つまりは、恐怖こそが正義。
絶対的な力による支配こそが全て。
美火の〝理想〟とするヒーローは、混沌と悪意に満ちた世界にいてはいけないのだ。
絶望の淵に叩きつけられた羽間美火へ。
理想と現実の狭間で弄ばれた憐れな少女へ。
口角を釣り上げた銀鈴は、こう言った。
「かわいい」
◾︎
「私ね、人生の半分くらいをここで過ごしているの」
「アビスの中でも一番深いところに閉じ込められてるから、こうやって人間とお話できることなんて滅多になくてね」
「ついつい私だけ喋りすぎちゃったかな、気分を悪くさせてしまったらごめんなさいね」
「そうだ、美火のことももっと知りたいわ」
「ねぇ、ねぇ。美火はどうしてここにきたの?」
「…………あら?」
「もしもーし」
「…………」
「へぇ、おもしろい」
「その変身、死んでも解けないのね」
【羽間 美火 死亡】
◾︎
「まあ、魅力的なものがいっぱい。買い物なんて久しぶりだから迷ってしまうわ」
遺体の消失に伴い遺された美火の首輪を使用し、100の恩赦ポイントを入手した銀鈴はデジタルウォッチから投影された画面と見つめ合う。
白い指で宙をなぞり、提示された交換リストの品物ひとつひとつに興味を示していた。
「でもまずは服が欲しいかしら。こんなに汚れた格好じゃ人間を怖がらせてしまうものね」
返り血と泥に塗れた制服を見下ろし、続けて画面に表示された【好きな衣服】を選択する。
どうやら男性と女性で表示されるものが異なるらしい。銀鈴のそれは女性物の服が一覧に並んでいた。
「うーん、これにしようかしら」
悩むこと数分。
闇に溶けそうな漆黒のドレスを選択すると、少しの間を置いてスーツケースに入れられた品物が彼女の目の前に転送された。
直接地面に転送されないのはミリル=ケンザキの恩情だろうか。銀鈴は嬉々として着替えを始める。
「さて、と。あとは武器も必要よね。それにお腹がすいた時のためにご飯も必要だし、ああそれに荷物が多くなるといけないからデイパックも欲しいかしら」
元々富裕階級であった彼女は、欲しいものがあれば迷いなく手にしてきた。市民にとっての豪遊が当然の環境であったのだから。
八年間の禁欲を経ても、幼少の頃から根付いた人格に変わりはない。
そのポイントが他人の命の代償ということを知ってか知らずか、散財を尽くした。
気がつけば残りは僅か14pt。
何に使おうかと思案に思案を重ね、たっぷり時間を要してからハッと目を見開いた。
「…………あ! 私、お酒も飲んでみたいわ。一度飲んでみたかったの」
迷いはない。
よく母が嗜んでいた深紅のワインに興味を惹かれていた。それと似たようなものをリストから探し出し、指で押す。
ゴトリと目の前に出現したボトルを手に取る。
栓抜きも付属されていたが使い方が分からなかった。仕方がなく血のついた石で注ぎ口を叩き割る。
途端に広がる芳醇な葡萄の香り。覚えのあるそれに魅了されるがまま口をつけて。
「…………美味しくない」
ぽい、と投げ棄てた。
◾︎
結果だけを見れば、超力を封じられたか弱い少女は羽間美火という死刑囚の殺害に成功した。
けれどそれは数多の幸運が積み重なった奇跡の結果でしかない。
命を賭したギリギリの綱渡り。ほんの少しでも足を踏み外していれば銀鈴は惨殺の限りを尽くされていただろう。
──羽間美火が少女を傷つけられるような人物ではなかったから。
──羽間美火が虐待を受けていたことにより、銀鈴の目に異様な恐怖感を抱いたから。
──殺害現場が山岳という人目につかない場所だったから。
必要不可欠な条件が全て揃った巡り合わせ。
まるでアビス全体が少女に味方しているようなその状況でさえも、当の銀鈴本人は自身が幸運だなどとは微塵も思っていない。
自分が勝つのは〝当たり前〟のことなのだと心の底から信じ込んでいるから。
たしかに、銀鈴の規格外な超力は消えた。
しかし逆に言えば、消えたのはそれだけなのだ。
二万もの国民を殺戮した過去も、かつて恐怖によって国を治めた経験も、絶対なる支配者として培われた経験も、どれもが消えていない。
──ではなぜ、そんな〝虫〟をこの殺し合いに放り込んだ?
少し前の問いへのアンサーがこれだ。
アビスは、銀鈴という少女の危険性を十二分に理解している。
ゆえに、この刑務作業に名を連ねる面々に対して〝超力を失った程度〟では劣らないと判断したのだ。
だからこの結果は、予想の範疇。
むしろジャンヌのような狂気も持ち合わせていない〝普通の〟善人である羽間美火の方が、アビスを生き残るのに不向きであると言えるだろう。
半端に生き残った末に人間の汚い部分を目にして精神をすり減らし、命を懸けて守り抜いた商店街の現状を知るよりも。
もしかすれば、この結果の方が彼女にとっては幸せだったのかもしれない。
このアビスに普通の善人など存在しない。
誰もが何かしら普通とはかけ離れた過去や事情を持ち合わせ、この場所へ辿り着いた。
まともな人間は誰一人としていないのだ。
改めて、宣言しよう。
────登場人物、全員悪人。
【F-5/山岳地帯/1日目・深夜】
【銀鈴】
[状態]:疲労(小)
[道具]:グロック19(装弾数22/22)デイパック(手榴弾×3、催涙弾×3、食料一食分、ナイフ)
[恩赦P]:4pt
[方針]
基本.アビスの超力無効化装置を破壊する。
1.人間を可愛がりつつ、ブラックペンタゴンを目指す。
※今まで自国で殺した人物の名前を全て覚えています。もしかしたら参加者と関わりがある人物も含まれているかもしれません。
※ サッズ・マルティンによる拷問を経験しています。
※交換リストで衣類(10P)を選択したことにより、黒いドレスを着用しています。
【備考】
※羽間美火から得た100Pを手榴弾(30P)、催涙弾(20P)、ハンドガン(10P)、食料(10P)、衣類(10P)、酒500ml(10P)、ナイフ(5P)、デイパック(1P)に使用しました。
最終更新:2025年03月01日 23:28