ブラックペンタゴンのエントランスホールに、沈黙が落ちていた。
直前まで混沌と咆哮が支配していた空間は、まるで全ての音を呑み込んだように静まり返っている。
鋭く、痛みを孕んだ気配が空気を突き刺していた。
残されたのは、ただ『殺意』だけである。
向かい合うは、ストリートを支配する頂点が二つ。
破壊そのものを纏うストリートの『王』──ネイ・ローマン。
荒々しき獣性を纏うストリートの『女王』──スプリング・ローズ、あるいはその魂の残滓。
床をひたひたと這うように、殺気が濃度を増してゆく。
呼吸さえ妨げるような圧に満ち、鋭く、濃く、研ぎ澄まされていた。
それは猛獣が跳びかかる直前の、凶暴な静寂。
膨れ上がった殺意を恐れるようなまともな人間は、この場には誰一人としていない。
「────行くよ、ローズちゃん」
かすれた声と共に、本条が指を構える。
放たれる瞬間を待つように、世界から音が消えた。
回転するシリンダー。
『我喰・回転式魂銃(ナガン・リボルバー)』──人格を弾丸にする本条清彦の超力。
ローズの魂ごと籠められた弾丸が装填される。
この瞬間、劣化していた超力は消滅を代償として、生前をも超える純度となる。
最初で最後の完全解放。
ネイ・ローマンの顔には、かすかに笑みすら浮かんでいた。
光よりも速く、理性では認識できない速度で本能に衝突する『死』そのものの気配。
敵意には敵意を。
殺意には殺意を。
牙には、破壊で応じる。
思えば、ストリートに敵対してはならぬという不文律を打ち立てたローマンに、幾度も真正面から殺意を向けてきた相手はこの宿敵ただ一人だけだった。
久方ぶりに浴びるその純粋な殺意。
その感覚が、もはや心地よくすらあった。
「だが、それも終わりだなぁ。消えな────ローズ!!」
その声に応えるように、音をも超えて放たれたのは────真紅の閃光。
同時に、ローマンから赤黒の破壊意志が放たれる。
怒りも、誇りも、信念も、報いも、すべてを詰め込んだ衝撃が、獣の弾丸を迎え撃つ。
その瞬間、世界が爆ぜた。
空間そのものが悲鳴を上げた。
赤黒い破壊の奔流と、真紅の野性が激突する。
衝突点を中心に空間がひしゃげ、炸裂し、時間が巻き戻ったかのように、すべてが吹き飛ばされていく。
「ぐ────ッ!」
ローマンが歯を食いしばる。
彼が放つのは弾丸など一撃で塵すら残さず消し去る程の凄まじき衝撃。
だが、獣の弾丸は砕けなかった。
激突により発生する衝撃は、地を揺るがし、ローマンの膝を軋ませる。
周囲の備品は次々と吹き飛び、わずかに、しかし確実に、ローマンが後退させられていく。
この弾丸はスプリング・ローズの獣性のみでは成立しない。
本条清彦の群としての統率と調律。無銘の技。サリヤの照準補助。
家族の絆が力となり、ローズを支えていた。
これは絆の生み出した一発限りの奇跡。
だが、奇跡とは、時に神をも殺す。
前進を止めない真紅の獣が衝撃を突き破っていく。
人狼の牙と筋肉と骨格が、破壊の奔流を削り裂き、推進力を維持する。
そして、衝撃波を食い破るように突き進むその爪先が、確かに、ネイ・ローマンの額に突き刺さった。
ローマンの頭部で衝撃が爆ぜ、その身体が後方へと吹き飛ばされた。
そのまま床に叩きつけられ、滲み出した紅が床に染み広がる。
反撃も、咆哮もない。残るのはただ、沈黙のみだ。
『アイアンハート』と『イースターズ』。
二大ギャングの、長きに渡る因縁がここに、一つの決着を迎えた。
どちらに肩入れするでもなく、観客のようにその決着を見届けていた四葉が呟く。
「――――惜しい」
ガラリという音。
沈黙の底から、それは聞こえた。
血混じりの咳と共に、倒れ込んでいたローマンが、ゆっくりと身体を起こした。
「……っぶねぇ」
額には深々とした傷穴。
溢れ出した血液が視界を真紅に染める。
だが、その一撃は、頭蓋を貫くには至っていなかった。
ほんの紙一重。
弾丸が頭蓋を穿つ寸前で、スプリング・ローズの弾丸は砕かれていた。
「チッ……そうかよ」
忌々しげに舌を打つ。
出血を抑えるように手で額に触れながら、勝因に得心したように呟く。
「……ギリギリで、削られてやがったか」
ジェーン・マッドハッターに与えられた致命傷。
ローズが弾丸になる直前に受けていたその損傷が、そのまま弾丸にも影響を及ぼしていたのだ。
あれがなければ、0.1秒の差でローズの弾丸はローマンの脳天を貫いていただろう。
互いに、あと一歩。
互いに、あと一息。
「ままならねぇな、俺も、お前も」
邪魔なき決着など、やはり叶わなかった。
もはや勝利の歓喜を叫ぶ気力もない。
「ま────引き分け、って事に、しといてやるよ……」
勝者の拳を掲げることすらできぬまま、ローマンはその場に身体を横たえた。
戦いの幕は、静かに、沈黙のうちに閉じた。
■
静寂が戻ったエントランスホールには、血の匂いと鉄の音が、残響のように漂っていた。
戦いは引き分けに終わった。
だが、スプリング・ローズは弾丸として撃ち出され、最後の力を振り絞ったにもかかわらず、宿敵(ローマン)を討ち果たすことなく、その人格としての痕跡を静かに消滅させた。
静寂が場を支配する中、本条清彦はゆっくりと膝をつき、床に片手をついて項垂れた。
肩はわずかに震え、指はこわばっていた。
伏せられた瞳の奥に漂う影は、深い後悔と、耐えきれぬ哀しみに満ちていた。
噛み締めた唇が、無音の痛みを語る。
その顔には、悲しみとも悔恨ともつかぬ、名もなき感情の表情が浮かんでいた。
「……ごめん、ローズちゃん……僕、もっと……もっと上手くやれたはずだったのに……」
その呟きは震えていた。
頼りなく、掠れた声が空気の中に溶け、霧のように消えてゆく。
「君は……あんなに頑張ったのに……勝てなかったのに……それでも……消えて……笑って……そんなの……悔しいよ……!」
叶えられなかった願い。
果たせなかった誓い。
想いを遂げぬままに散った、大切な『家族』の死。
本条は、その責を、自分一人の胸に引き取るしかなかった。
だが、そんな彼の心に、別の声がそっと寄り添う。
「……気に病む必要はないわ」
それは同じ口から発せられた、柔らかく包むような声。
人格の一つ──サリヤ・K・レストマン。
「彼女は、満足して逝ったの……最期の、あの笑顔。あなたも見たでしょ?」
その言葉には、理性と優しさ、そしてどこか達観した静けさがあった。
「泣くのは、きっと彼女の望む別れ方じゃないわ。だったら、笑って見送ってあげましょ」
さらに続けて、低く無骨な男の声が重なる。
もう一人の人格──無銘。
「見事な散り際だった。あれだけ出し尽くしたのだ。悔いは無いはずだ……勝ち負けでは測れぬ価値が、そこにはあった」
まるで香を焚くような、静かな語り口。
かつてローズに殺されながら、今は共に弾丸(かぞく)となった男。
その一言には、深い敬意と誠意が宿っていた。
『家族』と呼び合ったこの群れのなかで、スプリング・ローズは静かに、誇りをもって、永遠の眠りについた。
誰もがその最期を悼み、それぞれのやり方で、別れを告げていた。
「さてさて、涙の別れも済んだとこでさぁ」
しみったれた空気を切り裂くように、甲高い狂犬の声が跳ねた。
割って入った内藤四葉は、鋼の籠手を弄びながら、いつものように笑みを浮かべていた。
「選手交代、ってことでいいよね? 次は私の番、ってやつで!」
その宣言に、床に寝転んだままのローマンが手をひらひらと振って応じる。
「勝手にしろ……全部終わったら、起こしてくれりゃあいい」
「投げやりぃ~~~」
軽口を叩きながらも、四葉の足取りは軽やかだった。
まるで試合前のボクサーのように、陽気で、だが獰猛な気配を纏っている。
彼女の視線が、本条の奥にいる別の誰かへと真っ直ぐ向いた。
「じゃあ、出てきなよ無銘さん――――闘ろう」
カシン、と音を立てて鋼の籠手が噛み合う。
「む、無銘さん…………」
「……もちろん応じよう」
主人格の問いかけに、応答するように瞳の奥が変わる。
曖昧だった光は鋭利な線へと引き締まり、曲がっていた背筋はまっすぐに正される。
まるで別人のよう、いや真実別人なのだろう。
怯えは消え、代わりに戦士の風格が現れる。
「俺は弾丸向きではないのでな、直接やらせてもらう」
無銘は、構えない。
型も取らず、ただそこに立つ。
流派なき万能の格闘家。
打撃、投げ、関節、体術。すべてに通じながら、いずれにも囚われない。
相手に応じて変化し、戦場に応じて姿を変える、変幻自在の戦士。
対する四葉は鋼人合体にて鎧を装着する。
身を包む全身鎧、その兜は弓の騎士『ラ・イル』のモノ。
この戦いで、四葉が持つ手札は限られていた。
三騎士、『オジェ・ル・ダノワ』『ヘクトール』『ランスロット』はエルビス戦で破損して現在再生中。
健在の鎧は『ラ・イル』のみである。
それでも、兜から除く四葉の目は笑っていた。
壊れかけの装甲を背負いながら、なおも愉しげに、そして獣のように笑い、構える。
二人の間に、静寂が流れる。
だが、それは一瞬だけのこと。
「────行くよ」
甲高い金属音が、沈黙を裂いた。
最初に動いたのは、狂犬四葉。
鋼で編まれた長弓──『ラ・イル』の弓が唸りを上げる。
矢羽から鏃に至るまですべてが金属製。
戦場仕様の鋼矢が、風を裂いて空間を支配する。
第一矢。
第二矢。
第三、第四、第五──
連射、連射、連射。
まるで機銃掃射のように、圧倒的な矢が放たれる。
空気は圧し潰され、衝撃波が床を波打たせ、背後の壁面が風圧で軋む。
鋼矢は音速を軽々と超え、その一撃一撃が直撃すればネイティブとて即死は必至。
それが、十、二十、三十と、絶え間なく撃ち込まれていく。
だが────そのいずれ一つとして、無銘の身体を捉えなかった。
踏む。
滑る。
跳ぶ。
重心をずらし、軸を捩じり、空間の歪みへと身を溶かすように──避ける。避ける。避ける。
四葉の矢は、的確だった。
だが、無銘の回避は、それ以上に冷静かつ正確だった。
矢の雨を受け流すように、無銘はその軌道を見切り、刃先を掠める軌道で滑り込んでくる。
ただ回避するではない。回避と同時に、距離を詰めてくる。
射手にとって、これほど厄介な相手はいない。
「……ちぇっ」
四葉が舌を打つ。
空を払う右手の動きと同時に手にしていた弓が霧散し、代わって現れたのは巨大な鋼槍。
破損した『ヘクトール』の長槍だった。
『四人の騎士』の一つから、部分召喚によって引き出された武装。
折れた柄、狂ったバランス、主人と同じく満身創痍の武器。
だが、手ぶらで近づかれるよりは千倍マシだ。
「ほらほら、近づくと痛いよ~?」
四葉が迎え撃つように踏み込む。
鋼の穂先が唸りを上げ、水平に薙ぎ払われた。
人間の腕力とは思えぬ力を伴って振るわれた鋼の一撃は、斬撃というより質量そのものをぶつけるかのよう。
風を裂く音すら置き去りにする振りの速さで、迫り来る無銘の胴体を狙う。
だが──
「──────遅いな」
無銘が、静かに言った。
その言葉とほぼ同時に、四葉の槍は空を切った。
無銘が、わずかに腰を沈め、重心を前方斜め下へズラすようにして踏み込んでいた。
まるで槍術の死角を読み切ったかのような、洗練された入り。
次の瞬間。四葉の両腕が、するりと掬い上げられる。
柔道技に似た、だが微塵の柔らかさもない、鋭利な投げ。
「────ッ!?」
呻く暇もなかった。
無銘の腕が鎧の重心を捉え、腰の軸を制したまま宙へと放る。
鎧ごと、四葉の身体が宙を舞った。
天地が逆転する。
だが、その刹那にも四葉は動いた。
「お返しだァッ!」
鋼の脛がしなる。
恐るべき空間把握能力で相手の位置を特定し、逆さの体勢から爆ぜるような逆落としの後ろ蹴りを放つ。
放たれたのは、投げられた力を利用した空中からの踏みつけ。
だが──それすらも、無銘は捌いた。
蹴り足を肩でいなし、即座に胴へ組みつく。
次の動作で、四葉の身体ごと地面へと渾身の力で打ち据える。
「──ッ!」
大理石の床が悲鳴を上げる。
瞬間、床に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、四葉の胸部装甲が鈍く軋んだ。
「かはっ…………!」
打ち据えられた衝撃で、四葉の肺から呼吸が抜ける。
だが、無銘は止まらない。
そのまま絡みつくように四葉に組み付き、左腕を取って関節を極めにかかる。
ミシミシ……と金属が捩じれる嫌な音が、空間に響いた。
本来なら、このまま折られて終わる。
だが、次の瞬間、四葉の左腕が弾け飛んだ。
正確には、左腕の装甲部位がパージされたのだ。
『四人の騎士』の部分召喚機構を逆手に取り、強制排出で関節から腕を解放。
生まれたそのわずかな隙間から手を引き、ギリギリで腕関節を解放さえることに成功した。
「ひゅーっ……危なかった~……」
距離を取り、跳ね退く。
軽口を叩きながらも、四葉の眼光は研ぎ澄まされていた。
無銘は、逃げた四葉の左手に視線を送って静かに言う。
「……やはり、な。その指、欠けていたか」
「ちぇっ。ばれちったか」
籠手に隠されていた指の欠損が、露わになる。
それを隠していたのは、不格好な手を恥じての事ではない。
戦術上の不利を避けるためだ。
指を欠いた手は、握力を失う。
握力を失えば、武器の保持力が下がる。
そして何より接近戦において掴むという行為の安定性が崩壊する。
万能型の無銘にこれを知られたのは痛い。
「おいおい、どうした狂犬。押されてんじゃねぇの。代わってやろうか?」
床に腰を下ろし、観戦モードのローマンが外野から野次を飛ばす。
「そこうるさ~~い! 外野は黙っててくださ~~い!」
四葉が振り返ることもなく怒鳴り返す。
口調は軽いが、実際にはあまり余裕などなかった。
エルビス戦の傷は癒えておらず、動きは精彩を欠き、呼吸もわずかに乱れている。
このままでは、不利なのは火を見るより明らかだった。
「……そいつの言う通りだ。交代してもいいぞ。その傷では、俺には勝てん。つまらん勝負は俺も願い下げだからな」
冷ややかに、だが率直に無銘はそう告げた。
先ほどの均衡は、ローマンとの三つ巴だったからこそ保たれていたもの。
一対一となれば、損耗した四葉では分が悪い。
命を賭けるには悪条件すぎる。
合理的に見れば、ここは引くべきだった。
だが。
「ハッ! らしくないこと言うねぇ、無銘さん!」
四葉は、目を見開き牙を剥いた笑みでその意見を笑い飛ばす。
無銘の言葉が、可笑しくてたまらないという風だった。
この戦いが不利なのは、百も承知。
トビとの同盟もあるし、ここで死ねば申し訳が立たない。
戦わない理由なら山のようにある。
だが、そんなことは知ったことではない。
「勝ち目だとか、後先だとか、どーーーでもいいよっ!
だって、しょうがないじゃん! 私はこういう生き方を“選んだ”んだからさぁ!!」
狂笑とも嘲笑ともつかない声が響く。
命も、理屈も、大事なものすら、全部抱えて戦いにベットする破滅的な生き方。
彼女は、自分でこの人生を“選んだ”のだ。
生きるために戦うのではない。
戦うことが、生きるということなのだ。
それこそ、戦っていなければ死んでしまう。
「アンタもそうじゃないのか無名さんッ!? それとも家族が出来て死ぬのが惜しくなっちまいましたかぁ?」
「まさか。安い命だ。命など惜しむはずもない──ましてや大事な『家族』のためならな」
「その言葉こそらしくないんだけどねぇ……」
家族を想うなどと言う無銘らしからぬ言葉だ。
四葉は目の前の男を改めて見定めた。
今の無銘は、四葉の戦った男ではない。
取り込まれ、家族を得て、変化し、別の何かになった別の者。
「ま、いいけどさ。闘れるんなら、相手が本物だろうと幽霊だろうと、私には関係ないもんね!」
彼女は笑いながら言う。
同じ戦闘狂という括りでも、無銘も四葉は本質的なところで違う。
無銘は、極限を追い求める求道者。
四葉は、ただ闘争を追い求める狂人。
「さっき、無名さんの名前が呼ばれたとき思ったんだよねぇ――――闘りたい相手とは闘りたい時に闘れ、ってさ」
一度逃して、ようやく気付いた。
得られた機会を今度は逃すつもりはない。
「トビさんには悪いけど、最期までやらせてもらうからね――――!」
彼女が手にしたのは、ひび割れた長剣。
構えた姿勢は、四つ足の獣のように低く沈み、前傾に重心を預ける。
「相変わらず、生き急いでいるな」
「そりゃそうでしょ!? 生き急がなきゃ、死んじゃうんだよ。私の中の“漢女”が暴れんだよォ!!」
それは、彼女にとっての原点。
すべての始まりを告げた存在だった。
憧れた相手がいた。
殺し合いの中でなお堂々と立ち、戦う理由を誰にも求めず、ただその存在こそが答えとなるような、そんな存在。
その背を見て、彼女はこう思ったのだ。
──ああ、生きるってこういうことか。
自分を抑えるなんてばからしい。
思うがままに生きなきゃ、それはもう死んでるのと同じだ。
だから四葉は一切止まらない。
あの日、あの背中を見てそれを学んだ。
「私にとって戦いは目的じゃなくて生き方だから! 戦わなきゃ生きてないなら戦うしかないじゃんか!?」
そう在りたいという衝動だけで、ここまで来た。
誰のためでもない。
何のためでもない。
死にたいわけでもない。
ただ、戦いたい。
「一発でも殴られたら、あの人のとこに少し近づける。血が出たら、あの人が笑ってくれる。骨が折れたら、きっと褒めてくれる」
吠えるように。
叫ぶように。
笑うように。
その感情まるで恋慕にも似ていた。
けれどその熱量は、恋を超えていた。
「だから私は、止まれない。勝ちたいとか、負けたくないとか、そんなんじゃない。
ただこう在ることこ──それが、私! 内藤四葉なんだよ!」
それが『あの日』から続く、彼女の結論だった。
自分であるために、内藤四葉は戦い続けている。
熱を孕んだその狂気にローマンですら、飲まれるようにしばし言葉を失っていた。
「戦いがなきゃ死んじまうんだよ! 呼吸するように暴れたいんだよ、私はさぁ!!」
叫びと共に、四葉が地を蹴る。
その手にあるのは罅割れた長剣。もはや使い捨て寸前の刃。
だが、それすら彼女にとっては十分だった。
「いっっっくよぉ────ッ!!」
飢えた獣のように、低く跳び込む。
腰を捻り、勢いを乗せた一閃──斜め上から叩きつけるような剣閃が、唸りを上げて無銘の肩を裂こうと迫る。
だが、無銘は微動だにせず。
ほんの数センチ、体幹を横に流すだけで刃は空を斬った。
その刹那。
四葉は空振った剣を即座に手放し、空中で身体を翻す。
「次ィ!!」
瞬時に左腕を引き絞る。
そこから召喚されたのは、砕けた長槍──《ヘクトール》の折れた柄。
折損部を棍のように持ち替え、横薙ぎに振るう。
「……ッ!」
流石の無銘も、これは受けざるを得なかった。
何とか前腕で受け流しつつ、その剛力に押されて脚を退かせる。
だが、そこに追撃が迫る。
四葉の背後より鋼の籠手が飛翔した。
鋭い風切り音と共に、空中を舞い、無銘の側頭部を狙う。
だが、無銘はその軌道を正確に捉えていた。
上体を後ろに倒し、反転した蹴りで籠手を打ち払う。
重力を利用して滑るように着地し、そのまま後方へ跳び、距離を確保する。
「ふはっ、いい動きィ!」
四葉の瞳が嬉々として光る。
続いて砕けたハルバードの柄をすくい取った。
「じゃあッ、今度はこれぇ!!」
半壊した残骸を振り回す。
ハルバードというよりも、もはや鉄の棍棒である。
だが質量は本物。まともに当たれば、骨ごと砕ける一撃。
だが、無銘は慌てもしない。
構え無きまま体重を微かにずらしその一撃を待ち構える。
「甘いッ!!」
瞬間、四葉の右籠手が射出される。
制御された鋼の拳が、死角から無銘を打ちにかかる。
前後同時攻撃。
無銘の眉が、僅かに動く。
前に踏み込めば背後を籠手に打たれ、
退けば、目前の鉄塊が襲いかかる。
「なら──前だ」
無銘は一歩、前へと踏み込んだ。
身体を滑り込ませてハルバードの柄を肘で弾くように受け流す。
同時に、背後から飛来していた籠手を手刀で弾き落とし、軌道を逸らした。
鋼がぶつかり合う音。
砕かれた籠手は軌道を外れて、床を跳ね、転がった。
「お次は──射撃だ!!」
間髪など入れない。
いつの間にか、四葉の手には弓。
四葉は完全な状態を保つ、唯一の武器。
無銘が籠手を処理している間に、『ラ・イル』の鋼の長弓を召喚していた。
至近距離からの狙撃。
鏃が触れそうな距離から、瞬時に放たれた第一射。
無銘が仰け反ってかわす。
矢が鼻先を掠め、背後の壁に突き刺さる。
体勢を崩した所に、第二射、第三射が連続で迫る。
無銘はバク転するように跳躍してそれらをかわすが、床には次々と鋼の矢が突き立ち、石材を抉る。
その隙に、四葉はすでに弓を捨て、武器の換装を完了していた。
「うおおおおおりゃあああああああ!!」
逆手に構えるのは剣。
野獣のように腰を落とし、唸るような気迫で全身でぶつかるように突撃する。
破損した長剣を力任せに振り切った。
迎え撃つのは、無銘の拳。
剣と拳が正面から衝突する。
鋼と肉がぶつかり、火花が迸る。
衝撃で無銘の拳が弾かれ、皮膚が裂けて血が滲んだ。
もし剣に刃こぼれがなければ、腕ごと斬られていただろう。
「……ッ!」
無銘はたまらず後方に数歩下がる。
じわりとにじむ血を見つめ、舌で軽く舐めた。
寄せ集めの武器を次々と切り替える、変幻自在の立ち回り。
破損した鎧の籠手を空中に飛ばし、奇襲とかく乱を繰り返す。
三騎士の鎧が壊れているからこその苦肉の策だが、厄介なことに違いはない。
だが、無銘はその立ち回りに、ひとつの違和感を感じていた。
「その籠手──どうして武器を持たせない?」
低く鋭い問いかけ。
だが、その声音には、すでに確信があった。
四葉の超力が鎧の部位単位で召喚・操作可能なのは周知の事実。
ならば、操る手に武器を持たせれば、投擲も斬撃も可能なはず。
だが、彼女はそれを一度たりとも行っていない。
「……腕だけでは、武器を振るうには──力が足りていないようだな」
静かで的確すぎる指摘。
剣も槍も、踏ん張る足と捻る胴があってこそ重さが生きる。
浮かぶ手だけでは、斬れないし、叩けない。
「ふふっ……わざわざ口にしちゃうとか野暮だねぇ、無銘さんはさぁ……!」
四葉が舌打ちし、杖のように剣を地に叩きつける。
けれど、その口元は笑っていた。
「お前の超力は武具や鎧を前提としている。全部壊せば戦いようもなくなる」
武器は削がれ、策は読まれ、戦術は暴かれている。
四葉の戦力が丸裸になっていく。
だが、それでも。
「ヒヒッ……! アハハハッ……! 良いよ良いよ、無銘さん! なら、もっとやろうよッ!!」
熱に浮かされた呼気。泡立つような笑い。
内藤四葉の瞳は、もはや完全にあちら側に染まっている。
獲物を噛み砕く前の野獣にも似た笑み。
殺意と愉悦が分かたれることなく溶け合い、感情の全てが戦いへ収束する。
「……やっぱアタマおかしいだろ、あいつ」
遠巻きに眺めていたローマンが、ぽつりと呟く。
それが内藤四葉という女だった。
狂気は、折れない。
否、折れるたびに、より赤く、激しく燃え上がる。
だが、その狂気は無銘に一切の揺らぎをもたらさなかった。
どれだけ狂気が昂っても。
どれだけ常識が逸脱していても。
彼の精神には波紋すら生じない。
いかなる時も精神を平常に保つ彼の超力。
激情と沈着。
狂気と理性。
正反対の在り方が、戦場の只中で交差していた。
「壊したいならもっと壊してみなよォ……! そしたらもっと、楽しくなるからさァッ!!」
彼女は嬉々として、次の武器を拾い上げた。
破断した柄。砕けた刃。戦場で役目を終えた残骸たち。
だが、四葉の手にかかれば、それすらも武器へと変わる。
使い捨ての戦術兵器。
そしてそれを嬉々としてぶん回す内藤四葉こそ、人間兵器そのものだった。
「そぅーーれッッ!!!!」
破損した長槍を放るように投げつける。
続けて自ら跳び込み、無銘が投槍を回避するのを見計らい、逆足の蹴りを放つ。
この蹴りを避けても、背後から籠手が襲いかかる三段構えの強襲。
だが、無銘はすべてを見切っていた。
投槍を避け、蹴りをいなして腰を落とし、足場を固める。
滑るように一歩を滑らせ、飛来する籠手を正確に叩き落とした。
「まだまだァッ!!」
四葉は止まらない。
拾い集めた残骸で、突き、殴り、払い、斬る。
空を舞う籠手が、時には地を跳ね、斜めから襲う。
だが、それらは全てすり抜けるかのように避けられる。
「ヒヒヒヒヒヒヒッ!! 避けんなよ無銘さん! 一回くらい喰らってみなよォ!! 楽しいかもよぉ!?」
破損したハルバードの柄が、振り下ろされる。
無銘はそれを正面から、掌で受け止めた。
鋼の軸が軋み、床に亀裂が走る。
だが、無銘は一歩も退かない。
掌で柄を捻り上げ、力技で弾き返すと、四葉の脇腹へ鋭く膝を突き上げた。
「ッつぁ!」
鎧が鈍く軋む音とともに、四葉が後方へ跳ねる。
それでも、その口元には笑み。
唇を舐め、白い歯を剥き出し、囁くように呟く。
「アハ……っは、最高ォ……! 痛くて、すっごい、効くの……超サイコー!!」
着地した彼女は舌なめずりしながら、次の武器を呼び出していた。
もはや自分でも何を装備しているかすら定かではない。
破片と破損と再召喚が入り混じり、戦術は無秩序の極地にあった。
だが、それでも四葉は攻め続ける。
止まった瞬間、内藤四葉は内藤四葉ではなくなるからだ。
砕けた剣の柄を拾い、渾身で殴る。
その直前、籠手が真上から飛ぶ。
剣の軌道は囮、籠手が本命──だがそれも読まれていた。
無銘は一歩前へ出て籠手を落とし、剣を流す。
その一連の動きは、水流のようだった。
四葉が炎なら、無銘は水。
形を持たず、力を受け止めず、ただ整えて流す。
暴力を受け流す静なる武の体現。
だが、水であっても、燃え上がる炎を──必ずしも消せるとは限らない。
「ふっひっひっひ……ッ」
髪が乱れ、顔が歪み、裂けた口元から笑いがこぼれる。
喉の奥で泡立つような笑いが、破裂寸前の高揚となって四葉を内側から満たしていた。
「楽しい……楽しい……たまんないねぇ、やっぱ戦いってのは、こーでなくっちゃァ!!」
四葉が攻める。
そのたびに、鎧の破片が吹き飛び、武器が砕け、傷が増えていく。
だが、そのすべてを彼女は――喜びとして、受け止めていた。
痛みも、損耗も、狂気の導火線。
破れていくのは、人間であるための常識と言う皮そのもの。
強襲。投擲。攪乱。
踏み込みはトリッキーで、間合いは不規則。
四葉の戦法は、合理を超えた混沌そのもの。
故にこそ予測不能で読みにくい。
だが、無銘の眼は濁らない。
「無駄だ……狂気では、俺を崩せんよ」
だが、無銘は微動だにしなかった。
構えず、焦らず、ただ流し、受け、捌き、読み切る。
己を空とし、型を持たぬことを極めた、武の結晶。
踏み込みの重心。
武器の重量配分。
肩の開き。膝の角度。
鎧の継ぎ目、関節の可動域。
静かに、確かに、絶え間なく、すべてを無銘は、観ていた。
超力に支えられるその冷徹さこそ無銘の武器。
そして、その眼が鋭く細まった。
「……そろそろ、終わりにしよう」
その瞬間、無銘が踏み込んだ。
狂気の間隙を縫い、鋼のように締め上げた貫手が、四葉の脇腹を抉るように突き刺さる。
「──がっ」
鋭い指先が、鎧の継ぎ目を正確に貫き、左脇下の柔肉へと深々と刺さる。
咄嗟に身体を捻るも、指先は肺を掠め、血が喉に逆流する。
だが、それでも四葉の血に濡れた口角が吊り上がった。
「……ははっ。ようやく掴まえた」
血まみれの笑みを浮かべながら、貫かれた自らの身体に食い込んだその手首を、四葉は左手で掴んだ。
だが、それがどうしたというのか。
指の欠けた左手。弱まった握力。
何より、組技では無銘に敵うはずもない。
掴んだところで止められるのは、ほんの一瞬に過ぎない。
すぐに振り払われてそれで終わりだ。
「──……ッ!?」
だが──その一瞬で、十分だった。
無銘の背が、わずかに仰け反る。
次の瞬間、その背に──異物が突き立った衝撃が走る。
鋼の矢。
その背に突き刺さっていたのは、弓の騎士『ラ・イル』の矢だった。
しかし、籠手だけでは弓は扱えない。
何より四葉は『ラ・イル』を装備している。
この場で操れるはずの鎧は、もはや残されていないはずだ。
だが、矢は放たれた。
では、誰が?
どこから?
いつの間に?
一瞬の疑問。
だが、答えはすぐにそこにあった。
振り返る無銘が見たのは、弓を構えた首なしの騎士の姿。
それを見た瞬間、無銘は全てを理解した。
これまで、四葉が装着していたのは『ラ・イル』ではない。
破損した三騎士『オジェ・ル・ダノワ』『ヘクトール』『ランスロット』。
それらの無事なパーツだけを継ぎ接ぎして、さも『ラ・イル』を装着しているように見せかけていた。
流石に兜ばかりは誤魔化しが効かないので、兜だけは『ラ・イル』のものだが、弓を打つのに首は必要ない。
つまり――『ラ・イル』は、戦闘開始時から常に自由なまま待機していたのだ。
恐るべき戦闘IQ。
四葉の狂乱も、破片の投擲も、策も、武器も、すべては無銘の動きを一瞬だけ止めるための布石だった。
四葉は最初からこの局面を予期して、これだけボロボロになりながら、最後の一手を隠し通したのだ。
連続する追撃の矢が、無銘の背を貫いていく。
反応の隙も、守る余裕もない。
無銘は体勢を崩した。
だが、それでも彼は止まらない。
足を踏みしめ、狂気にも痛みにも微動だにせず、冷静さを保つ。
突き刺した貫手を、さらに深く突き込み、そのまま心臓をを、抉らんとする。
「―――――知ってたよ。無銘さんなら、そう来るってさぁ!!」
だが、四葉は血に塗れてなお笑う。
もはや刃の欠けきった剣を、その手に握り──そして、振るう。
刃が短くなったが故に、その振りは風のように素早かった。
その刹那。
無銘の指先が、四葉の心臓に触れる寸前で──砕けた刃先が、無銘の喉を斬り裂いた。
吹き上がる血潮。
深紅の奔流と共に、無銘の身体が静かに崩れ落ちた。
「へへっ……私の、勝ちぃ……」
全身から血を滴らせながら、内藤四葉は呟くように勝利を告げた。
命を削り、肉を裂かれ、最期の一手で死神の喉笛を掻き切った少女の、歪んだ勝ち名乗りだった。
その声音には、痛みよりも、戦いを成し遂げた者の陶酔が混じっていた。
「――――ええ。そして、アナタの敗北よ」
死体のはずの男の顔が、女のモノへと変わる。
サリヤ・K・レストマン。
本条清彦の弾倉に込められた、次なる人格弾丸。
血と疲労で膝をつく四葉を、サリヤは見下ろしていた。
その指先が、容赦なく四葉の額へと向けられる。
今の四葉に、逃げる力はない。
もはや避けようもない、確実な死。
だが、それよりも早く。
────赤黒い閃光が奔った。
横合いから放たれた衝撃波が、嵐のごとく吹き荒れた。
すべてを飲み込み、砕き潰す暴風のようなエネルギーの奔流。
その中心に、四葉の身体があった。
鎧も、骨も、血肉も、瞬く間に砕け散る。
内藤四葉の命は──ここに、確かに潰えた。
凄まじい風圧の中、サリアは咄嗟に身を躱していた。
だが、指鉄砲を撃つことはかなわなかった。
四葉にとどめを刺したのはネイ・ローマンの『破壊の衝動』だ。
「……酷いことするのね。お友達じゃなかったの?」
吹き飛ばされた髪を整えながら、サリヤが皮肉交じりに言った。
口調は柔らかくとも、その瞳には冷たく、確かな非難の色が浮かんでいる。
だがローマンは、心底くだらないとでも言うように鼻を鳴らす。
「ちげぇよ。あんなもん、ただの腐れ縁だ。
それに、テメェの信念貫いて死ねたんなら、本望だろうよ。アイツも」
言葉とともに、ローマンは地に散った血の痕へ視線を落とす。
そこには、もはや人の形を成さぬ、内藤四葉という存在の残滓があった。
「都合よく相手の本望を代弁するのもどうなのかしら?」
「はッ。人を勝手に取り込む連中がどの口で。テメェらに取り込まれるより死んだ方がマシだったってだけだ」
ローマンは嘲るように笑った。
軍勢型に取り込まれる前に殺す。
これは事前に宣言していた事だ。
彼はそれを実行したに過ぎない。
「それで? ヨツハを取り損ねて、残弾はあと2発ってとこか。
──まさかそのザマで、俺に勝てるとは思ってねぇよな?」
「……残弾? どういう意味かしら?」
わざとらしく小首を傾げ、サリヤが問い返す。
だがローマンの目は、サリヤの奥にある、群れの中枢をまっすぐに捉えていた。
「今更惚けんなよ。さすがにここまで見てりゃ、バカでも分かるさ。
とっくにテメェのネオスのタネは割れてる」
ローマンが頭に手をやりふぅと嘆息する。
わざとらしく反省するようなジェスチャーを見せた。
「軍勢型だつぅから、ハイヴの野郎のイメージに引っ張られすぎたな。
お前の場合は軍勢型(レギオン)ではなく共生型(パラサイト)って所か」
ローマンの声が鋭くなる。
「主人格を強化するのではなく、一つの土台の上に対等な人格が乗ってるイメージだな。そこで技術や知識の共用もできるってのがお前の強みだ。
人格同士に上下関係がない。だから個別で前線に出られるし、消耗も分散できる。
ネオスのイメージは弾丸……いやそれを装填するリボルバーか? なら抱えられる人格の上限は5つか6つってところだな。どうだ? 俺の読みは当たってるか?」
サリヤは返さない。
しかし、その沈黙こそが、その推論の正しさを証明していた。
「メリリンにも言ったが、ネオスにはタネが割れても問題ないタイプと、タネが割れれば脆いタイプがある。さて、テメェはどっちだ? パラサイト」
問いかけと共に、ゆっくりとローマンが歩みを進める。
それに対してサリヤの笑みが、少しだけ深まった。
「……ふふ。少し、勘違いしているようね」
落ち着いた声音で、彼女は応じた。
同時に、ローマンの歩みを牽制するように指鉄砲の銃口を向ける。
「人格を取り込む条件は、私が相手を殺すことじゃない。
肉体と魂が分離する瞬間を、弾丸で捉えること」
指先が、ローマンから横へ滑る。
向けられた先には、すでに物言わぬ四葉の亡骸があった。
「つまり、直接殺すのが確実ってだけで──」
弾くように、人差し指を跳ね上げる。
閃くように、弾丸が発射された。
「────死体になった“直後”でも、十分に回収可能なんだよねぇ。ネイ」
喋りの途中でグラデーションのように声色が、変わった。
成熟した女の声が、明らかに若く、鋭い少女のものへと反転する。
その表情が輪郭が、笑い方が、目の色が──内藤四葉のものへと、変貌していく。
「チッ……!」
ローマンが忌々しげに舌を打つ。
そこには、苛立ちが濁流のように滲んでいた。
「ったく……キリがねぇな、ゴミ箱野郎。次から次へと死人を取り込みやがって」
苛立ちを隠さぬままローマンが、距離を詰めるように半歩踏み出す。
その周囲に苛立ちを体現した破壊の予兆が渦を巻く。
「で? 狂犬一匹拾ったところで、何か変わるのか?
さっきの戦いでもやしを見落としたのは、乱戦だったからだ。
タイマンじゃ、意識の外になんざ行けねぇぞ」
「──タイマンなら、ね?」
四葉の顔をした誰かが笑う。
それは彼女らしからぬ狡猾な笑み。
次の瞬間、彼女の超力が発動する。
重々しい金属音と共に、『ラ・イル』の鋼の鎧がその場に現れる。
彼女を良く知るローマンにとって今更驚きはない内藤四葉の基本戦術。
「……!?」
だが、ローマンの目が驚きに見開かれた。
鎧の掌が、指鉄砲の構えを取り、そこから空気を切り裂く弾丸が放たれたのだ。
ローマンは瞬時にこれに反応し攻撃を避ける。
それ自体は見飽きるほど見た指鉄砲だ。大した脅威ではない。
問題は、サリアの超力である筈の指鉄砲を四葉の超力である『ラ・イル』が放ったという事実である。
人格を、鎧に装填する。
複数の人格を、それぞれに分割召喚することで、複数の個体を同時に戦場へ展開する。
内藤四葉の人格を得ることで生み出された新たな武器。
正面には、内藤四葉の人格を装填した本条の体。
背後からは、サリヤが装填された『ラ・イル』の体。
一対多への変則戦術で前後から挟み込むように、ネイ・ローマンへ殺到する。
だが──
「──────バカが」
その瞬間、空気が赤黒くうねる。
ローマンの全身から放たれた衝撃波が、放射状に爆ぜた。
その中心から生じた破壊の奔流が、円環を描いて広がる。
前後に迫っていた鎧と人影は、まとめて吹き飛ばされた。
砕けた鎧の破片が、床に音を立てて散る。
空気は熱と硝煙の匂いを孕み、エントランスに重くのしかかる。
焦げた煙が立ち込める中で、ローマンの声が響く。
「言ったろうが、テメェの強みは技術の共有だ。
それをバラけさせたら、ただの劣化品の群れじゃねぇか」
吐き捨てるように言ったその声には、侮蔑と軽蔑、そしてほんの僅かな哀れみさえ混じっていた。
「よりによってそれを俺にぶつけるってのはどういう要件だぁ?
脳まで劣化したか? 腐れ狂犬。それとも――――魂とやらでは頭の回転までは再現できないか?」
ローマンの超力『破壊の衝動』は、全方位を一律に粉砕する。
複数人が同時に襲おうと、彼にとっては何も変わらない。
人格分割による多対一戦法は、他の相手には脅威だろうが、ローマンにとってはただの鴨だ。
むしろ、強力な一人による一点突破のほうが彼にとっては厄介である。
「言ったろ。タネは割れた。お前はもう、俺にとっては脅威になりえねぇよ」
断言するその声に、怒気も焦りもなかった。
それはただ、勝ち筋を読み終えた者の口調だった。
「……そうみたいだねぇ。今の三人じゃ、ちょっと厳しそうだ」
四葉──いや、四葉の姿を借りた誰かが、素直に劣勢を認めた。
口調こそ軽かったが、瞳には冷徹な戦況分析が浮かんでいた。
「私一人なら、死ぬまで闘ってもよかったんだけど……『家族』全員を危険に晒すのは、ちょっとね」
そう呟くと同時に、四葉はふいにその場から跳び退いた。
明確な敗北認識とリスク管理による戦術的撤退。
この戦場であるエントランスから、ためらいもなく戦闘狂は離脱した。
「……逃げたか」
ローマンは追わなかった。
拳も足も動かさず、ただ静かにその背中を見送った。
かつて、死ぬことすら遊びのように笑っていた狂犬が撤退を選んだ。
それこそが、あの女がもはや別物に変わっているという、何よりの証拠だった。
人格を取り込まれた者は、『家族』という至上命令に従って動く。
感情の優先順位が入れ替わり、行動原理そのものが塗り替えられる。
どれだけ姿形が同じでも、技術が再現されていても──やはり、別人なのだ。
四葉の逃げた先は、南西ブロック。
メリリンとジェーンの足取りを追ったのか。
それとも、二階へと至る階段を目指したのか。
「……いや」
ローマンはすぐに思考を修正する。
二階の階段前には、あの男──エルビス・エルブランデスがいるはずだ。
戦った手応えからして、今の本条清彦にエルビスを突破できるだけの力はない。
狂犬の無茶に引きずられれば話は別だが、可能性としては前者──メリリンたちの後を追った可能性が高い。
だが、ローマンはいくら惚れた女だろうと、何から何まで世話を焼くほど甘い男ではない。
むしろ、己の隣に立つ女には、それくらいは乗り越えてもらわなくては困る。
ローマンは本条を追うでもなくその場に膝をついた。
周囲に人気もなくなり気を張って疲労を誤魔化す理由がなくなったからだ。
先ほどの啖呵は、半分は真実だが、もう半分はハッタリだった。
スプリング・ローズの弾丸を額に食らったダメージは、深く、重い。
だが、それ以上に、戦いの積み重ねによる消耗がローマンを蝕んでいた。
ネイ・ローマンの超力は、感情そのものをエネルギーへと変換する『激情駆動型』のネオス。
ただでさえ燃費の悪いネイティブの中でも、特に消耗が激しい力だ。
この数時間、まともな休息も取らず、連戦を重ねてきた。
特に、最後の真紅の弾丸との衝突でかなり消耗させられた。
体力的な限界が近いことは、自分でも分かっていた。
「……まずは補給、だな」
誰にともなく呟く。
ゆっくりと身体を起こし、南東ブロック──倉庫の方へと足を向ける。
あの区域には、酒や食料が保管されていたはずだ。
ネイティブは回復力も相応に高い。
喰って休めばある程度は回復する。
今必要なのは、追撃ではなく、身体を維持するための栄養補給だ。
共生型(パラサイト)を追うのは、それからでいい。
歩き出して数歩のところで、ローマンはふと振り返る。
視線の先には──赤黒い残滓だけを残した、内藤四葉の亡骸。
狂犬。
戦闘狂。
破滅的愉快犯。
彼が殺した女。
そして、本条に魂を奪われた抜け殻。
ローマンは、彼女の死に後悔も迷いもなかった。
当然の判断をしただけだ。
四葉もそれを恨みに思うほど愚かではないだろう。
だが、それでも──口にしておくべき言葉が、ひとつだけあった。
「……お前らしい、なかなか面白ぇ勝負だったぜ」
それは、忌憚なく放たれた賛辞。
狂気と誇りと闘志をぶつけ合った一戦は、確かに記憶に刻まれた。
ローマンの口元が、わずかに歪む。
「ま、見物料分くらいは、働いてやるさ」
本来、ブラックペンタゴンでは情報収集だけのつもりだった。
最優先は、ルーサー・キングの探索と抹殺。
だが、あの共生型を野放しにしておくのも癪だ。
少しくらいは、そのために動いてやってもいい。
「それはそれとして、ポイントは頂いておくがね」
四葉の亡骸に近づき、抜かりなく首輪からポイントを獲得しておく。
最後にもう一度、亡骸へと目を落とす。
「じゃあな、ヨツハ。漢女と脱獄王に会ったら──よろしく言っといてやるよ」
その一言を残して、ローマンは背を向けた。
彼の背後に残るは、灰となった狂犬の終焉。
破壊の衝動を鎮め、補給を求めて、
ネイ・ローマンは、静かな方角へと歩き出した。
【内藤 四葉 死亡】
【E-5/ブラックペンタゴン南・エントランスホール/一日目・午前】
【ネイ・ローマン】
[状態]:額に銃創。全身にダメージ(中) 、両腕にダメージ(小)、疲労(大)、右手首にボルトによる刺し傷
[道具]:なし
[恩赦P]:100pt(内藤 四葉の首輪から取得)
[方針]
基本.やりたいようにやる。
0.見物料程度には本条を仕留めるべく働く
1.ブラックペンタゴンでルーサーを探す
2.ルーサー・キングを殺す。
3.スプリング・ローズのような気に入らない奴も殺す。
4.ハヤト=ミナセと出会ったら……。
※ルメス=ヘインヴェラート、ジョニー・ハイドアウトと情報交換しました。
【E-5/ブラックペンタゴン南・南西ブロック連絡通路/一日目・午前】
【本条 清彦】
[状態]:全身にダメージ、現在は内藤四葉の姿
[道具]:なし
[恩赦P]:18pt
[方針]
基本.群生として生きる。弾が減ったら装填する。
1.殺人によって足りない3発の人格を装填する。
2.それぞれの人格が抱える望みは可能な限り全員で協力して叶えたい。
3.ブラックペンタゴンへ行って家族を探す。
※現在のシリンダー状況
Chamber1:本条清彦(男性、挙動不審な根暗、超力は影が薄く人の記憶に残りにくい程度睾丸と肛門にダメージ)
Chamber2:欠番(前2番の山中杏は無銘との戦闘により死亡、超力は口づけで魅了する程度だった)
Chamber3:内藤四葉(前3番の無銘は内藤四葉との戦闘により死亡、超力は精神を保つ程度だった)
Chamber4:欠番
Chamber5:サリヤ・K・レストマン(女性、詳細不明、超力は指先から空気銃を撃ち出す程度)
Chamber6:欠番(前6番のスプリング・ローズはは弾丸として撃ち出され消滅、超力は獣化する程度だった)
最終更新:2025年07月16日 21:43