これが御伽噺ならば、今こそが"章区切り"なのだろう。
一滴、一滴、秒を刻むように、刀が血が滴らせる。
一粒、一粒、月光に照らされ、キラキラと煌めく。
征十郎は医療器具で処置を終えると、重力に導かれるまま、どかっと腰を下ろした。
夜空の下、風は容赦ない。
身体を撫で、傷口をかき回し、血と汗に染まった礼服を冷やしていく。
紫色に腫れ上がった打撲痕、鉛のように重い腕、抗議の声をあげる全身の関節。
高揚が引くにつれ、痛みと疲労が、どっと押し寄せてくる。
だが、不快ではない。むしろ心地よい。
清算を果たした者だけが味わえる、特別な疲労感だ。
「ふっ……」
固く結ばれていた唇が、ほんの僅かに弧を描いた。
山折村の生き残り、山折村に囚われた少女、山折村から這い出してきた戦鬼。
めぐる因縁は、今しがたすべてが断ち切られたのだ。
再会を契った言葉だけが、征十郎の耳の奥で反響している。
ゆっくりと呼吸を整え、瞑想に至る。
とりとめのない思考に耽っていく。
さて。
残り時間、約五時間。
所持ポイントは100、未回収は500。
恩赦が顔をのぞかせる。
手を伸ばせば届く場所にある。
あとは褒章を待つだけ――そんな選択肢もあるだろう。
――だが。
「そんな選択はアガらん。なあ?」
征十郎は、傍らで横たわる好敵手へと声をかけた。
返事はない。当然だ。
だが、この悪鬼なら間違いなく、不敵に笑って返していただろう。
因縁は終わっても、征十郎の人生は続く。
過去にケリをつけたことで、その目は真に未来を見据えることができた。
もう刀を振るうたびに、八柳の名が背負わされた業を問う必要もない。
これこそが自由だ。
運命の導きと実力で勝ち取った、精神的自由。
そして、自由を得た征十郎は、次なる明確な目標がある。
『永遠のアリス』を斬る。
その一点を見据えて、ひた走ると決めている。
永遠のアリス――それは永遠の総本山にして、ヤマオリの残滓。
征十郎は、永遠のアリスを決して他者に譲らない。
山折村をこの手で葬る。
その想いは決して色褪せないが。
二つの永遠を斬ったことで、一つのささやかな欲がふつふつと湧き上がってきたのだ。
その欲望は極めてシンプル。
純粋な、剣士としての欲望。
永遠のアリス――八柳流最強の使い手を打ち破るという至上命題である。
皆伝に至った技量。
開祖を斬り、兄弟子をも屠った実績。
名実共に八柳流の頂点である。
タチアナと被験体。
二つの永遠を斬った今、永遠のアリスは決して届かぬ高みではないと知った。
視座が変われば、認識も変わる。
永遠というベールを剥ぎ取ったことで、永遠のアリスという"個"に極上の価値を見出すことができた。
ならばこれは、GPAには決して渡せない。
世界が征十郎のために用意した、征十郎が斬るべき獲物だ。
「問題は……」
征十郎は呟く。
「どうやって対決にまで持ち込むか、だな」
征十郎は伝手を持たない。
ただの辻斬り。流れ者。
裏社会に影響力もなければ、大物とのコネもない。
組織に属したこともなく、派閥を作ったこともない。
内なる求道と向き合ってきただけの、小ぢんまりとした悪に過ぎない。
だが。
だからこそ。
これからの五時間には、計り知れない価値がある。
アビスとは何か。
それは世界中の犯罪者を収監した、世界最大の監獄である。
言い換えよう。
道を極めた悪の頂点が、一堂に会した場所である。
ルーサー・キング。
ジャンヌ・ストラスブール。
エンダ・Y・カクレヤマ。
市井では対面すら困難な超大物たち。
そんな頂点と直接接触することが、今だけは許されている。
すべては実力と選択次第、伝手も貸し借りも思うがままだ。
世界とは、悪こそが動かす。
悪党こそが、その野望から生じた一石を停滞した世界に投じ、世界を大きく巻き込んでいく。
征十郎という悪童は、悪の坩堝で夢を思い描いた。
そして、黒い首輪という、夢に突き進むためのプラチナチケットを勝ち取った。
彼は、刑務島という狭い世界を巻き込む資格を得たのだ。
征十郎は、二人の悪党を思い描く。
ルーサー・キングーー裏社会最大の情報網を持つ男。
エンダ・Y・カクレヤマーーヤマオリを呼び込みうるという偽神。
いずれも狡猾にして慎重。
征十郎と敵対した、相容れぬ者ども。
迷わず斬り棄てるべき敵である。
だが、手にしたチケットが二つの道筋を示す。
それは、400Pの首輪による無期懲役囚の恩赦であり。
あるいは、被験体:Oを討伐したという実力の証明である。
すなわち。
エンダに味方し、キングを斬り棄てて、エンダを外に出すか。
キングに味方し、エンダを斬り棄てて、キングに価値を売り込むか。
二者択一の新しい選択肢が提示されたのである。
あらためて問う。
「私は、何を選ぶべきだ?」
沈黙が流れる。
茶々を入れる阿呆はもういない。
風だけが、草原にひゅうと吹きすさぶ。
数刻の後、征十郎は眉根を寄せて、苦笑した。
――なんとも、しっくりこない。
人を斬って生きてきた。
強者を斬り、武を磨くことで満たされてきた。
敵対関係を考慮せずとも、エンダもキングも、震えが来るほどの強者だと知っている。
ヤツらを前に、刀を納めて初手で結託にはしるというのか?
――それは、違うだろう?
征十郎はゆっくりと首を振る。
「やはり私は、まず斬ってこそ、だな。
それに……」
別に判断には影響しないような、至極微細な理由なのだが。
隣の屈託のない笑顔を目に映し、はぁ、とため息をつく。
「筋も通らん。
先の考えは節操がなさすぎる」
だが、困った。
我を通すことに異論はないが、指針ゼロはいただけない。
「ふむ……」
征十郎は、なんとなしに夜空を見上げた。
雲の隙間から、氷を思わせる青白い月が覗く。
まるで征十郎を物陰から監視するかのように、冷たい月明かりが征十郎を照らす。
そのとき、天啓が舞い降りてきた。
征十郎はゆっくりと立ち上がり、刀の柄に手をかける。
対象をはっきりと見据える。
監視カメラの向こう。アビスの監視。その、さらに先――。
「ふっ!」
斬。
征十郎の刀は虚空を斬り裂く。
月光が刀身を照らし、鈍い斬跡が銀に輝いた。
「なんだ、斬れるじゃないか」
傍目には何も変わらない。
月も、風も、刀も、すべてがそのままだ。
だが、征十郎は確かに手応えを感じた。
形なきものを、斬ったのだ。
もしここに蒼光がいれば、理解したことだろう。
征十郎の魂に留められていたタグが、はらりと舞うように落ちていったことを。
アビスを支配する看守長といえども、所詮は一個人でしかない。
個人に依拠する仕組みは、別の個人によって覆される。
それこそが歴史の常であり、世界の道理である。
征十郎はゆっくりと刀を鞘に収める。
カチャリ、という音が夜に響きわたった。
「さて……」
征十郎の口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「おい、秘密特殊部隊」
征十郎は夜空を見上げ、声をあげる。
作戦司令室。山折村の遺物。そして戦場。
ブラックペンタゴンに手を加えたのは、間違いなく山折村に送り込まれた秘密特殊部隊だ。
征十郎はそれを確信している。
「私を、見ているのだろう?」
この声が聞こえていないとは言わせない。
先の決戦にて、ミリル看守官から確かに返答があったのだから。
征十郎の言葉に応えるかのように、風が止まる。
世界を静寂が包む。
月光が、スポットライトのように征十郎を照らす。
「山折の地より蘇った戦鬼は、今度こそ"八柳"が討ち果たしたぞ」
征十郎は、刀の柄を握った。
被験体は、もう動かない。
GPAが威信をかけて投入した戦闘兵器は、たった二人の受刑者によってふたたび葬られたのだ。
「これは、お前たちの望んでいた結果ではないな?」
征十郎は確信を以って断ずる。
秩序の守護者は、被験体単騎ですべての刑務作業者を殺し尽くす算段だったはずだ。
その目算は大きく狂った。
今ごろ、アビス側は必死で決戦のデータを照合しているところだろう。
「だが、これが結末だ。
お前たちが約束を守るなら、あと五時間で私は晴れて恩赦の身となるわけだ」
それがこの刑務作業の絶対的なルールだ。
どのような形で出獄するのかはさておき、条件を果たせば征十郎は娑婆へと繰り出すことができる。
同時に、外でも征十郎は最警戒人物として監視の対象になるだろう。
だが――それは都合がいい。
「被験体を斬った実績。形なきモノを斬った実績。
お前たちに、私は二つの証明を果たした」
GPAから送り込まれた秘蔵の戦力。
ヴァイスマンの監視という絶対的な拘束。
この二つを斬り棄て、アビスに分かりやすく力を示した。
「私は、お前たちに要求する」
最も価値が高まったところで自分を売り込むのは、常道である。
そして、最初にアビスを選んだのは、何度も便宜を図ってもらったミリル看守官に対する一抹の義である。
冷えきった月の光は、雲の隙間から征十郎を睨む。
値踏みするように彼を照らし、刀身を妖しく輝かせていた。
「GPAには、永遠のアリスを追っている組織があるな?
出獄を果たしたら、私をそこと繋げろ」
秩序よ、混沌を受け入れろ。それが征十郎の要求だ。
征十郎は在り方こそ秩序とは相容れないが、自身はアビスやGPAを嫌っているわけではない。
故に、そこを乗り越えられるなら、交渉の余地がある。
「私がこの手で、『永遠のアリス』を斬り棄ててやる」
即座の返事はない。
それが、アビスという秩序が定めたルール的なものか。
それとも、役所らしく検討中なのか。
征十郎を無視しているのか。
あるいは、他のトラブルで手が回っていないのか。
それは分からない。
そもそも、GPAが征十郎を欲するかというのも、征十郎自身の自己評価なのだから。
見当違いなら構わない。
他の刑務作業者との接触を果たすだけだ。
キングか、エンダか、あるいはまだ知らぬ裏の顔役たちか。
実力か、ポイントか、監視の斬り捨てか。
アプローチの手札はいくらでもある。
だからこそ、今の征十郎は強気に出るのだ。
風が吹き抜ける。
新たな物語の予感を運ぶ風が、ひゅうと吹きすさぶ。
「行くか……」
征十郎は歩き出す。
鬼が出るか、蛇が出るか。
ここから先は、未知の領域だ。
残り時間、約五時間。
この短い時間の中で、征十郎は次の一手を決めねばならない。
永遠のアリスへの道を、自らの手で斬り開くために。
氷のような月が、その姿を照らしだす。
征十郎・H・クラークは、新たな戦場へと踏み出していた。
【F-4/草原 南部/一日目・夜】
【征十郎・八柳・クラーク】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(大・処置済)、超力第二段階、ヴァイスマンのタグ除去
[道具]:デイパック×2、ルメス=ヘインヴェラートの首輪(使用済)、漆黒の喪服風スーツ、メモ帳、ジェイ・ハリックの首輪(未使用)、被検体の首輪(未使用)、銘のない贋作の刀(永遠)、日本刀×2
[恩赦P]:100pt
[方針]
基本.――まだ、斬れるものはあるだろう?
0.永遠のアリスを斬るための、足掛かりを手に入れる
※ブラックペンタゴン3Fの機密資料を殆ど閲覧していませんが、要点だけ目を通しているかもしれません。
※タチアナの魂はこの世界から消えています。新世界であろうと、彼が齎した結末は変わりません。
最終更新:2026年03月06日 21:02