夜の冷気が、静かに肺へ入り込む。
吸い込むたび、胸の奥がひりつくように澄んでいく。
岩山の麓をなぞるように、エネリットは南へ向かっていた。
歩幅は一定。緩むでもなく、急ぐでもない。
禁止エリアの縁をなぞるように、ぎりぎりの線を選んで進んでいる。
月は高い。
雲は薄く、砕けた硝子片のように夜空へ散っていた。
澄みきった夜気のはずなのに、どこか現実味が薄い。
まるで薄い膜越しに世界を眺めているような、わずかな隔たりがある。
「……誰も知らなくていい……私だけの色」
鼻歌が、夜へ滲んだ。
エネリットは、先ほど片耳で聞いた旋律を口ずさんでいた。
光を放ちながら、その背後に濃い影を抱えた旋律が、耳の奥に余熱のように残っている。
「……本当の、私を……愛して、ほしい」
言葉をなぞってみると、自分の声は妙に平板だった。
歌うというより、ただ音程を追っているだけに近い。
空っぽの心ではそこに籠められた想いなど、再現できるはずもない。
それでも、胸の奥をそっと撫でる感触だけは残っていた。
言葉よりも直接的に、人の内側へ触れてくるものがある。
音楽というものは、こういうものなのだろう。
本当の自分を見てほしいと願いながらも、完璧な仮面を被らねば愛されない偶像。
仮面が完璧であるほど、本当の自分を遠ざけていく。
そんな矛盾と孤独。
美しく、鮮烈で、どこか痛みを孕んだ――愛を求める歌。
音楽などほとんど耳にする機会がなかったが、彼女の歌を聞いて、歌とはただの娯楽ではないと理解した。
心を暴き、自分自身の全てを叩きつけるような激情。
エネリットにはできない表現方法だ。
風が吹いた。
鼻歌は流されるように闇へ溶け、代わりに岩肌を削る風音が耳に残る。
その音はどこか、刃が擦れるようにも聞こえた。
歩みを続けるうち、地形はゆるやかに高度を上げていく。
麓から中腹へ差しかかった頃、エネリットはわずかに足を緩めた。
ふと、視線を上げる。
黒々とした稜線が、月を切り取っている。
その輪郭の一部が、不自然に崩れていた。
岩が抉れ、地面が裂け、本来そこにあるはずの均衡が、乱暴に書き換えられていた。
戦いの痕跡。
自らも関わった、あの決戦の残響。
エネリットはしばらくそれを見つめていた。
感傷でも、驚きでもない。
ただ、事実を確認するような視線だった。
やがて、ほんのわずかに目を細める。
まるで、消え損ねた何かがまだそこに在ると告げるように、夜風が岩肌を撫でていく。
ややあって、ぽつりとエネリットが小さく呟く。
「……まだ残っているのか」
■
草を踏みしめる音が、一定の間隔で夜に刻まれていた。
征十郎は草原を進んでいた。
月光が裂けた礼服を照らし、乾きかけた血を鈍く光らせる。
布地に染み込んだ赤は、すでに黒へと沈みつつあった。
風は冷たい。
だが、その冷気すら心地よい。
痛みは残っている。
打撲は重く、斬創も浅くはない。
それでも歩みは揺らがない。自然体のまま、ただ前へ進む。
在中戦場で在りながら、泰然自若。
それは修羅の果てに辿り着いた者だけが持つ静けさだった。
山折の残滓たる戦鬼の亡霊、約束を残した永縁の少女。
征十郎は27年前から続く因縁をこの地にて断ち切った。
だが、征十郎の宿業は終わっていない。
残るは八柳の業。
ヤマオリが残した最大最悪の残滓。
――永遠のアリスを斬る。
これこそが征十郎に残された至上命令。
それがこの先、どれほど遠く険しい道であろうと構わない。
辿り着くための一歩を踏み出せるなら、利用できるものはすべて利用する。
その覚悟が征十郎にはある。
だが、その歩みが、ふと止まる。
物音を聞いたわけではない。
殺気を感じたわけでもない。
ただ、風向きが変わったのだ。
征十郎の右手が、自然と刀の柄にかかる。
構えというほど大仰ではない。
だが、いつでも抜ける体勢だ。
「出てこい」
短い呼びかけだった。
答えるように、草を分ける音が鳴った。
自身の存在を白状するような足音。
隠れる気もない足取りで、わざとらしく草を踏み分ける。
やがて、月明かりの中へ、ゆっくりと一人の青年が姿を現した。
「こんばんは、征十郎さん」
穏やかな声音。
征十郎の目が、わずかに細まる。
両手を上げたまま立つその姿は、戦場には似つかわしくない。
黒いチェスターコート。整えられた装い。
血と土にまみれたこの場所では、あまりにも場違いだ。
「……監獄の王子か」
相手を認識しても、柄にかけた手は外さない。
エネリットは両手を見せたまま、間合いの数歩手前で立ち止まる。
これより先に踏み込めば、征十郎は本当に斬りかかってくるだろう。
「そう警戒しないでくださいよ。別に征十郎さんと戦いに来たわけではありません」
「ほう。それは残念だな」
口元が、わずかに歪む。
親指が弾かれ、キンと乾いた音が鳴り、鯉口が切られた。
月光が、ほんのわずかに刀身を覗かせる。
「言葉と態度が一致していませんが」
「それを言うならお前もそうだろう。言葉で油断を誘い、隠した刃で刺す手合いだ」
空気が張り詰める。
征十郎の視線は、測るように真正面から相手を射抜く。
対するエネリットは単なる強がりか、はたまた奥の手があるのか、微笑を崩さない。
「評価が高いのか低いのか、判断に迷いますね」
「高くはないな。お前はどう転んでも愉快な斬り合いにはならない相手だろうからな」
斬り合いになれば征十郎が一方的に勝つだろう。
だが、敗北するのなら、まともな斬り合いにすらならないだろう。
征十郎からすれば、勝っても負けても武人の悦びからは遠い手合いである。
「ほんの数時間で……随分と変わったな」
エネリットの姿を眺めていた征十郎の視線が、わずかに鋭さを増す。
「あぁ、この服ですか? これは」
「そうではない。覇気がなくなった」
「…………そうでしょうか?」
剣士としての直感。
どこか張り詰めた刃の様な鋭さがなくなっている。
エネリットは自覚がないのか、確認するように自分の手足を見つめている。
「……まあ、いいさ。今のお前からは怖さを感じない」
征十郎はため息をついて、刀から手を放す。
これほど気のない相手に警戒しても仕方がない。
それくらいに目の前のエネリットは気が抜けていた。
「意外ですね。前の僕は怖いと感じていたのですか?」
「何をするのかわからないと言う意味ではな」
「そんなに節操ないように見えました?」
「目的のためなら手段を選ばない、そういう恐ろしさはあった」
ブラックペンタゴンで見た時とは大違いだ。
これが油断を誘う演技だったら大したものだが、こと戦闘面において、それを見抜けぬ征十郎でもない。
「それで? 私を見つけたのは偶然か? それとも、私を探しに来たのか?」
「偶然ですよ。征十郎さんがどこにいるかなど探しようがないですから」
エネリットは顔色一つ変えず、さらりと言い切った。
だが、それは嘘である。
実際には、征十郎を探してここまで来ている。
とはいえ、どうやって居場所を突き止めたのかとなれば、ジョーカーである氷月との繋がりを明かさねばならない。
それを今ここで晒して、無用な不信を買うのは得策ではない。
その返答に、征十郎の眉がわずかに動いた。
「ほう。では、何故わざわざ道を引き返して来たのだ?」
刃のように鋭い問いだった。
周囲に頓着ないようで、要点は押さえている。
ブラックペンタゴンを離脱した順番は明確だ。
征十郎たちが先に脱出し、その後でエネリットが続いた。
にもかかわらず、エネリットがやってきたのはブラックペンタゴンの出口とは逆方向。
つまり、何らかの事情で、わざわざ道を引き返してきたという事になる。
その矛盾を征十郎は的確に見抜いていた。
夜の草原で、二人の悪が向かい合う。
月光が二人の影を長く引き伸ばし、草を揺らす風だけが静かに通り過ぎる。
互いに言葉を発さないまま、視線だけが数秒交錯する。
やがて、観念したようにエネリットが小さく息を吐いた。
「先ほど、この地でやるべき目的を完了しましてね。
手が空いたものですから、ブラックペンタゴンを離脱した誰かに会えないかと適当に彷徨っていたところです」
さらりと筋書きをでっちあげる。
まるっきりの嘘という訳でもない。
真実を織り交ぜ、その隙間に都合のいい物語を差し込む。
「目的?」
「ええ。復讐を果たしまして」
そして、あまりにも簡潔に言った。
「我が一族を滅ぼした叔父上を、殺しました」
一瞬、風が草を撫でた。
征十郎の眉が、わずかに動く。
「身内を斬ったか」
「ええ。骨肉の争いなど、聞き苦しいかと思い、語るのを躊躇っていたのですが」
感傷も誇示もない告白。
征十郎は僅かに視線を落とし、すぐに戻した。
そして、ぽつりと呟く。
「……まあ、分からんでもない。身内の不始末など、他者に聞かせるものではないからな」
それは理解というより、共感に近い。
征十郎も山折の生き残りとして、山折を終わらせるために剣を振るっている。
その業を他人に語ろうとは思わない。
「なら、その服はそれで得た戦利品ということか」
征十郎の視線が、エネリットを見据えたまま上下に滑る。
ブラックペンタゴンで別れた時とは明らかに違う姿。
戦場に似つかわしくないその姿こそ、ある意味では何かがあった分かりやすい物証である。
「ええ。少しばかり、気分転換です」
エネリットは静かに答えた。
全てを終えたあと、何かを変えたかった。
その心情に嘘はない。
「そちらはどうなのです? 激しい戦いがあったようですが」
エネリットは問い返した。
自分の経緯を語った流れを受け、自然に話題を相手へ移す。
本題へ接続するための、静かな誘導だった。
征十郎の姿は、戦いの痕跡を隠していない。
黒い礼服はあちこち裂け、乾きかけた血が点々と残っている。
応急処置の跡はあるが、損耗までは覆い隠せない。
そして何より、隣にいるはずの存在がいない。
征十郎の意図はどうあれ、激戦があったことは隠しようがないだろう。
「そうだな。被験体を斬った」
武勲として誇るでもなく、隠すでもなく。
ただ事実だけを地面に置くような言い方だった。
氷月からの報告で、エネリットはすでにその結果を知っている。
だが、その過程には興味があった。
「相当な怪物だったと聞きますが……よく勝てましたね」
被験体討伐の作戦を指揮したのはエネリットだ。
だが、キングとの遭遇という想定外の事態により、本人は直接対峙していない。
しかし、あの人数と戦力を投入してなお押し切れなかった相手だ。
尋常な存在ではないことは、分かっている。
「尋常ならざる再生力と膂力を持つ、全てが常軌を逸した怪物だった。私一人では間違いなく破れていたさ」
それは謙遜ではない。
事実としての評価だった。
エネリットは、その言葉を受け止めると、ここにいないもう一人へと触れる。
「……ギャルさんの助力があった、と」
「ああ」
征十郎は即答した。
「撹乱と火力。隙を作ったのはあいつだ。最後までな」
それ以上は語らない。
彼女との約束も、そこで交わされた言葉も、すべては征十郎だけのものだ。
他人に安く語るべきものではない。
エネリットも、それ以上踏み込まなかった。
ただ、別の一点へと視線を移す。
「隙を作ったのがギャルさんという事は、トドメを刺したのは征十郎さん、という事ですよね?」
率直な問いだった。
それは征十郎が生き残っている事から斬らかだ。
「ああ。そうだが」
「無限に再生する相手を……どうやって殺し切ったのです?」
無限に再生する戦鬼。
致命傷を与えても蘇る存在。
そもそも「殺し切る」という概念が成立するのかすら疑わしい。
だが、征十郎は、あの怪物を斬り伏せた。
征十郎は視線を夜空へ向け、わずかに息を吐いた。
あの瞬間の手応えを、思い返すようにして言った。
「肉ではない。再生そのものを斬ったのだ」
その言葉に、エネリットの瞳がわずかに細まる。
概念斬り。
あっさりと己が超力の神髄を明かす。
だが、これは知られた所で強みの失われない類の力だ。
「……超力が進化した、ということですか?」
「さてな。理屈は知らん。ただ斬れると思ったものを斬っただけだ」
征十郎は肩をわずかにすくめて平然と告げる。
だが、それがどれほど異常な到達点かは、説明するまでもない。
単純な破壊力で言えば、ブラックペンタゴンの外壁ごと被験体を吹き飛ばしたネイ・ローマンの方が上かもしれない。
だが、ローマンが殺しきれなかった怪物を、征十郎は殺した。
その質の差は明らかだった。
「被験体を倒したということは、奴の首輪も手に入れたのですよね? 首輪の方は、どうしました?」
エネリットは、話題をゆっくりと本題へ寄せた。
あくまでさりげない調子で、首輪の行方を問う。
征十郎の視線が、わずかに怪訝な色を帯びた。
「まだ手付かずに手元にあるが……何だ。恩赦に興味があるのか?」
「そういう訳ではないのですが。ただ、特殊な黒い首輪というものに興味がありまして」
「興味、か」
征十郎の視線が、さらに一段深くなる。
事実、恩赦を望んでいるのはエネリットではない。
だが、その事情をここで明かすわけにもいかなかった。
「征十郎さんの方こそ、恩赦を望んでいるのですか?」
エネリットは静かに問い返す。
探るというより、確認するような声音だった。
征十郎に黒い首輪を使う予定があるなら、この場での交渉は意味を失う。
その確認に、征十郎は大した逡巡もなく答えた。
「恩赦そのものに興味はない。だが、その先にやりたいことが出来たのでな」
意外な返答だったのか、エネリットの瞳がわずかに動く。
「つまり、出るおつもりで?」
「必要とあらばな」
月光が、征十郎の首元をかすめる。
その首輪に刻まれた刑期を示す数値は20。
「とはいえ、征十郎さんの刑期はさほど長くないようですし、余裕がおありなのでは?」
「確かに、余裕はあるな」
征十郎は否定しない。
4年の服役を終え、恩赦に必要なポイントは64pt。
すでにタチアナから得た分で十分事足りる。
被験体の黒い首輪は未使用。さらにジェイ・ハリックの首輪すら温存している。
余っていると言って差し支えない、恩赦長者である。
「だが。余裕があるからといって、それが他人に施す理由にはならんだろう」
「でしょうね」
エネリットもあっさりと同意する。
当然だ。この地において無償の善意は恩赦以上に希少品だ。
ましてや400ptという劇物を、理由なく手放す者などいない。
エネリットも最初から、施しなど期待していない。
黒い首輪が未使用であることを確認できただけでも十分な収穫だ。
あとは黒い首輪を望む日月が征十郎に挑めるよう動線を整えるくらいだ。
それで手伝いでしかないエネリットの役割は完了となるはずだった。
「だが――」
征十郎が続けた。
「――条件付きでなら、この首輪、貴様に譲り渡してもいい」
唐突な話の転換だった。
夜気とともに、エネリットの表情がわずかに強張る。
対照的に、征十郎は口端を愉快そうに吊り上げていた。
あまりにも都合の良い提案。
その瞬間、エネリットの胸の奥に小さな警戒が生まれる。
有体に言って、嫌な予感しかしなかった。
「……条件、ですか」
「ああ。私の目的を叶えてくれたなら、だがな」
征十郎の視線は逸れない。
この会話の主導権は、完全に征十郎にある。
「私の目的は一つ」
月が二人を照らす。
風が止み、草原が言葉を待つように静まり返った。
そして宣言するように征十郎は告げる。
「――――永遠のアリスを斬ることだ」
その名が落ちた瞬間、空気の密度が変わった。
エネリットは、わずかに息を吐く。
――――永遠のアリス。
世界各所に現れては、ヤマオリという呪いを振りまく災厄。
情報通のエネリットですら、断片的な概要しか掴めていない存在。
それを斬ると征十郎は宣言した。
「私と奴の対決。その場を整えられるのなら、この首輪をくれてやろう」
征十郎は懐から黒い首輪を取り出し、賞品でも示すかのように軽く掲げた。
月光を受けたそれが、鈍い光を返す。
夜の草原を風が撫で、その言葉だけが静かに落ちた。
エネリットは口元に手を当て、わずかに思案する。
「そうですね……GPAにも囚人部隊くらいはあるでしょうし、討伐部隊に志願すればいいのでは?」
対『永遠のアリス』作戦が組まれるなら、GPA主導になるはずだ。
その討伐部隊へ参加する。
理屈としては、もっとも現実的な正攻法である。
だが征十郎は、すぐに首を横に振った。
「それは既にしている。目下、向こうと交渉中だ」
エネリットの視線が、わずかに鋭くなる。
征十郎自身も、何もせず待っているわけではない。
すでに自分に出来る手は打っている。
それ以上の案が出ればよし。出なくてもよし。
黒い首輪を餌にしたそう言う、一種のコンペティションだ。
征十郎は黒い首輪を、交渉材料として正しく使っている。
「交渉というのは、具体的には?」
エネリットは静かに問い返す。
まず状況を把握する必要があった。
「こちらの力を示し、意思を表明した」
征十郎は淡々と答える。
「力の証明……被験体討伐の功績があれば証明としては十分、という訳ですか」
「ああ、それにヴァイスマンのタグも斬ってやった。永遠のアリスの《永遠》を斬れる証明としてな」
その言葉に、エネリットの瞳がわずかに見開かれた。
看守長ヴァイスマンの超力による監視タグ。
それを斬ったというのなら、確かに、無視できない示威行動だ。
「それは……大丈夫なんですか?」
「何がだ?」
征十郎は怪訝そうに眉を寄せる。
エネリットは冷静に説明する。
「看守長の超力が刑務作業の監視体制に組み込まれているのなら、それを断ち切る行為はルール違反と判断されてもおかしくありません。
最悪、首輪を爆破されても不思議ではなかったのでは?」
征十郎は、しばらく無言だった。
やがて、ゆっくりと明後日の方角を見る。
そしてぽつりと言う。
「……こうして大丈夫なのだから、大丈夫なのだろう」
実に大雑把な結論だった。
「いや。もしかすると、私の戦力価値ゆえに処分が保留されているのかもしれんぞ?」
ひとまずポジティブに捉えてみる。
もしそうだとするのなら、プレゼンとしては大成功ということになる。
征十郎は、ふと思いついたように言った。
「試しにお前のタグも斬ってみるか?」
「やめてくださいよ」
エネリットは身を引きながら断る。
征十郎は冗談だと小さく肩をすくめた。
「まあ、タグ付けはあの人の趣味みたいなものですから。
案外、監視体制とは無関係なのかもしれませんが」
「身もふたもないな」
ヴァイスマンが囚人全員にタグ付けしているのは、ある意味で周知の事実だ。
あえてそれを告知しアビス内の抑止力としている面もあるだろう。
それがこの刑務作業でも監視体制の一部だと思い込んでいた節もある。
「だが実際、告げるだけで恩赦で物品は買えた。ならば看守長とは別の方法の監視があるのは間違いなかろう?」
ヴァイスマンの超力は思考は読めても、細かな映像や音声を読み取る力はない。
思考から推察することはできるだろうが、正確に把握することはできない。
この会場には別の監視体制が敷かれていると考えるべきだろう。
「それはそうでしょうね。視覚的に確認できなければ、いくらケンザキさんでも我々や物資を転送することはできない。
看守長の超力も併用している可能性はありますが、別の監視システムがあるのは確かでしょう。
もっとも、その方法を考えても仕方がないとは思いますが」
「何故だ?」
「各国の精鋭が集められたアビスだ。それこそ共有可能な千里眼の超力者がいた、それだけで説明が出来てしまう。
仮にアビスにいなくとも、GPAに補助要員を要請すればそれで解決でしょう?
マンパワーに頼りすぎていると言う点は気になりますが。そこもシステム化してるなんて言われてしまえばそれまでですから」
どうなっている、かは重要だが、どうやって、はさほど考えても意味がない。
超力という超常の力が存在して、それを管理する組織力が背景にある以上、手段に対する考察など無意味だ。
どんな無茶でも説明できてしまう。
考えたところであまり大した結論のでる話でもなさそうだ。
「話を戻しましょう」
やや逸れた話題を戻す。
「今の征十郎さんは、仕官のために親アビスの立場を取っている。そう理解してよろしいのですか?」
「そういうことになるな」
征十郎はあっさりと頷く。
自主的に親アビスの方針を取る。
それは結果として、エネリットに近い立場を選んでいることになる。
「所詮私は、どこまで行っても棒振りしかできない肉切り包丁だからな。
自分を売るなら、刑務作業の思惑に乗ってやるのが一番手っ取り早い」
他者に媚びたり、器用に立ち回ったりする柄ではない。
征十郎に出来るのは、人を斬ることだけだ。
だからこそ、斬る理由がある場所へ立つ。
アガらないことは出来ない。
「なるほど。先ほど妙に好戦的だったのも、そういう訳でしたか」
エネリットは小さく頷いた。
出会い頭であれほど警戒された理由も、これで納得がいく。
「いや、あれは単にお前を信用していなかっただけだ」
「手厳しいですね」
「普段の言動の結果だろう。タチアナほど根に持っている訳ではないが、いいように使われそうになったのは私も忘れてないぞ」
「ははっ。そんなこともありましたねぇ」
エネリットは、どこか悪戯が露見した子供のような顔で笑った。
その反応は、以前のエネリットからは少し想像しにくいものだった。
「ともかく、征十郎さんの取れる方針としてはよい方向かと思います。
しがらみに囚われないのはどこにも属さぬ無頼漢の強みでもありますからね」
ブラックペンタゴンにありながら呉越同舟に乗らなかった唯一の独立戦力。
だからこそ、その立ち回りを咎められる者はいない。
征十郎は軽く鼻を鳴らした。
「評価いただけたようで何よりだ。それで? これ以上の案が、お前に出せるか?」
試すような視線が向けられる。
エネリットに頼るまでもなく正攻法は進行中。
ならばエネリットが報酬を得るには、それを上回る策を示すしかない。
その問いに、エネリットは小さくため息をつき、肩を落とした。
「どうした?」
「いえ……個人的なことを言えば。征十郎さんには、今の方針を続けてほしいところなのですが」
らしくない歯切れの悪さだった。
征十郎が怪訝そうな顔で片眉を上げる。
アビスの方針に従う現在の征十郎の立場は、アビスの子としてのエネリットにとって都合がいい。
だが、黒い首輪を求めるという目的を果たすには、その方針を覆す必要がある。
「その口ぶりだと別の方針を出せる、と言ってるように聞こえるが?」
「そうですね。まぁ……出せるか出せないかで言えば、出せてしまうのですが」
言葉とは裏腹に、どこか気乗りしない様子だった。
その態度に、征十郎の眉の皺がさらに深まる。
「自ら厄介ごとを呼び込むような話なので、正直、僕の立場からはあまりお勧めしたくないのですが……」
「どういう立場なんだ、お前?」
「残りの刑務作業を無難にやり過ごしたい立場ですよ」
それでも、思いついてしまう。
考えてしまえば、組み立てることもできてしまう。
出来てしまうというのも業が深い。
「構わん。聞かせてみろ」
征十郎は躊躇なく言った。
エネリットの逡巡など気にも留めない。
あくまで自己都合を押し通す。
仕方がない、というようにエネリットは小さく肩をすくめる。
日月から報酬を受け取ってしまった以上、その分の働きは果たさなければならない。
あの報酬には、この提案を出してもいいと思えるくらいの価値はあった。
「GPAの討伐部隊に売り込むのは確かに正攻法です。
ですが、問題点がないわけではない。それは征十郎さんも理解しているでしょう?」
「それはそうだな」
前置きとして現段階の案について問題点を指摘する。
征十郎も素直に同意した。
「まず最大の問題は、主導権をGPAに握られることです。
作戦の決行時期も人員も、すべて向こうの都合になる」
組織に組み込まれること自体にリスクはある。
正攻法ではあるが、同時に妥協案でもあった。
それは征十郎も承知している。
「仮に交渉が順調に進んだとしても、出獄や編入の手続きで数週間。
作戦決行となれば、下手をすれば数ヶ月先ということもあり得る。
いつか果たせるのなら気長に待つ、と言うのなら構いませんが、決着は早い方がいいでしょう?」
征十郎は黙って頷いた。
何年かかっても成し遂げる覚悟はあるが、確かに早いに越したことはない。
同意を得られたことを確認し、エネリットは続ける。
「討伐作戦は、当然ながら集団行動になります。一対一にはならないでしょう。必ず横槍が入る。
貴方が望む決闘の形にはならない。最悪の場合、決着そのものを奪われる可能性すらある」
その言葉に、征十郎の目がわずかに細くなる。
それは、剣士にとって最も耐え難い結末だ。
ヤマオリの生き残りとして、八柳の剣士として、永遠のアリスを斬る。
それは征十郎に課された宿命であり、自らの手で果たさねば意味がない。
他者に使われるのも、機会を待つもいい。
だが、決着だけは譲れない。
「なら、どうしろと? 結局は恩赦を得て個人で挑めという事か?」
恩赦を得て、外に出た後に個人で永遠のアリスに挑む。
だが、その案は征十郎がすでに却下している。
永遠のアリスの出現を突き止めるには、武力以外の力が必要になる。
他者の助力を求め、頭を下げることになる。
征十郎はそれを良しとしなかった。
もしエネリットがそれを勧めるのなら、それは落胆を通り越して、失望でしかない。
だが。
「いえ、そうではなく」
エネリットは静かに首を振った。
「もっと単純で、もっと手っ取り早い答えがあります」
エネリットはわずかに視線を落とし、そして答えを告げた。
「こちらから行けないのなら、向こうから来てもらえばいい」
征十郎の眉が、わずかに動く。
エネリットは構わず続けた。
「ここに、永遠のアリスを呼び込む――――決着は今、ここで付ければいい」
■
「ここに、永遠のアリスを呼び込む…………だと?」
征十郎が、呆気に取られたように言葉を反復した。
言われてみれば当然すぎる、あまりにも率直な提案だった。
率直すぎて、逆に頭から抜け落ちていた類の発想だ。
「どうやってだ……?」
思わず口を付いたのは当然の疑問だった。
理屈も提示せず、ただ呼び込むと言われて納得できるはずもない。
エネリットは、わずかに肩をすくめた。
「具体的な方法は、これからですが。不可能ではないと考えています」
今は征十郎の望みを最短で叶えるならどうするかと言う結論から逆算している段階に過ぎない。
手段を積み上げるのはこれからである。
だが、仮説は既に組み上がっている。
「一つ確認ですが。征十郎さんは、この刑務作業の舞台が『システムB』によって創られた異世界であるということは把握してらっしゃいますか?」
「そうなのか? まあ……そのような資料がブラックペンタゴンにあった気もするが……」
驚きというより、思い出したという程度の反応だった。
ひとまず、理解は得られたようなのでエネリットは頷く。
「ここは出口も入口もない、閉ざされた世界です、つまり、本来なら外部の存在は入ってこられない」
出ることも出来ない。
入ることも出来ない。
完結した閉じた世界。
「なら――穴を開ければいい。世界に入口を作るんです。アリスが落ちてこられるような穴を」
閉じた世界なら、通り道を作ればいい。
アリスの落ちる、ウサギの穴を。
そのプランを聞いた征十郎は腕を組んで考え込む。
「……穴を開けるのはいいとして、それで都合よく標的(アリス)が来ると思うか?」
もっともな疑問だった。
エネリットは少し考えるように視線を上げる。
「永遠のアリスは、現れた場所をヤマオリに変える怪異だと聞いています。
なら。何の穢れもない新しい世界は、いい獲物だと思いませんか?」
生まれたばかりの新世界。
まだ何の穢れもない赤子のような場所。
世界を侵食する怪異にとって、それは格好の獲物のはずだ。
だが。
「弱いな」
「ですね」
理由としては弱い。
そこはエネリットも理解している。
「正直なところ、僕は永遠のアリスについて大した知識があるわけではありません。むしろ、そこは征十郎さんの知恵をお借りしたいですね。
細かな事情までは聞くつもりはありませんが。決闘を望むくらいですからアリスについては征十郎さんの方がお詳しいのでは?」
確かに。
永遠のアリス――――虎尾茶子という人間については征十郎の方がよく知っている。
とはいえ、幼少期に顔を合わせたことのある年上の姉弟子、という程度の関係だ。
まだ幼子だった征十郎に胸襟を開くはずもなく、深いパーソナリティまで踏み込んだ間柄ではない。
まして今の彼女は、世界を彷徨いヤマオリという災厄を撒く悪霊である。
タチアナから聞かされるまで、その存在すら知らなかった。
その習性など分かるはずもない。
征十郎に分かるのは、アリスになる前の、虎尾茶子という人間の一面だけだ。
征十郎の口元が、わずかに歪む。
となれば、答えはもう一つしかない。
「――私がここにいると示せばいい。八柳最強がここにいる、と。
それが示せれば――――アリスは来る」
開いた穴に最強の名乗りを上げる。
自らを餌に、釣り糸を垂らす。
怪異と成り果て、世界に災厄を振りまく最大にして最後の山折の残滓。
それでも、八柳新陰流の矜持がその奥底に残っているなら――必ず現れる。
それで来ない相手なら、斬る価値もない。
「なら、その方針で行きましょう」
エネリットは小さく頷いた。
実際の有効性まではエネリットにも判断できない。
だが、クライアントが納得しているならそれでいい。
後の問題は、その穴をどう作るかと言う点だが。
「征十郎さん。貴方は、その進化した超力でこの世界を斬れると思いますか?」
征十郎はすぐには答えなかった。
頭の中で、実際の手順をなぞるような沈黙の後。
やがて短く言った。
「無理だな」
地面を斬れば、地が裂ける。
空を斬れば、風が裂ける。
だが。世界という曖昧な概念には、刃を当てる場所がない。
その返答を予測していたのか、エネリットは静かに頷いた。
「ですが、貴方の超力が超力を斬れるのならば。理屈で言えば、斬れるはずです。
ここは『システムB』による超力で構築された世界なのですから」
超力を斬れるなら、超力で出来た世界も斬れる。
それは道理だ。
「なのに貴方は斬れないと感じた。
それは、世界と言う曖昧な物にたいして何を斬ればいいか分からなかったからでしょう」
核心に触れる。
世界とは、どこからどこまでを対象とするものなのか。
定義が定まらぬもの、何を斬ればいいのか分からないものは斬りようがない。
その指摘に、征十郎の目がわずかに細まる。
「つまり、超力の問題ではなく……私の技量の問題だと言いたいのか」
「ええ」
エネリットは何の遠慮もなく答えた。
「全てを斬れる超力があっても、何を斬るかを見極めるのは貴方自身です」
風が岩肌を撫でる。
全てを斬れる超力であろうとも、何を斬ればいいかわからないモノは切れない。
それを捕らえる超感覚こそが概念斬りの要であり、それには超力ではなく征十郎自身の技前が必要となる。
「ですが逆に言えば、斬れたという事は、何を斬ればいいか感じ取れていたという事です」
タチアナを捕らえていた《永遠》。
被験体の再生。
看守長のタグ。
これまでに征十郎は形のなきものを斬っている。
剣士としての極地に至ったからなのか、山折の血によるものなのかは分からないが。
それらは確かに“そこにある”と知覚できた。
その感覚がどのようなものだったのか。
超力を斬った瞬間の感覚を思い返すように征十郎は片目を閉じる。
目には見えない。
だが確かに存在し、触れれば震え、断てば消える。
それは、
「あなたが斬った超力。それは、紐のようなものではありませんでしたか?」
そこにエネリットの言葉が重なる。
征十郎の瞼がパチリと開く。
「――――確かに。言われてみれば、張り詰めた糸のようなものだった気もするな」
断ち切ったのは、張り詰めた糸のような感触だった。
征十郎はエネリットを見る。
「何故分かった?」
「僕も又聞き程度の話なので詳しくは、『超力は紐のようなものである』。そういう説がある、らしいですよ」
氷月から聞いた、いわゆる『超力ひも理論』。
あの時、氷月が何を言いたかったのか今ならばエネリットにもわかる。
言語化された瞬間、感覚は輪郭を得る。
もし次に同じものを斬る機会があれば、征十郎はより明確にそれを捉えられるだろう。
納得を得たように征十郎は視線を戻す。
「だからと言って、この世界からはその線とやらは感じられないがな」
征十郎は目を閉じ、意識を研ぎ澄ます。
だが、周囲の空間からは何も感じ取れない。
世界を断てるイメージは沸かない。
「推測になりますが。発動し終えた超力からは、その線は発生しないのかもしれませんね。あるいは、極めて感じ取りにくいのか」
線を感じ取れないエネリットでは推測するしかないが。
征十郎が世界を斬れないと直感した理由も、そこにあるのだろう。
「ならば、どうする」
征十郎が問う。
この作戦は、征十郎が世界に穴を開けることが前提だ。
だが残り時間は4時間。
その間に征十郎の能力がさらに進化することを期待するのは、さすがに現実的ではない。
「では、分かりやすい切り取り線を設定しましょう」
「切り取り線?」
「はい。捉えやすい目印を使うんです」
世界を切り裂くための線。
そんな都合のいいものが存在するのか。
その疑問を見透かすように、エネリットは続けた。
「考えている候補は二つあります」
エネリットは二本の指を立て、その一本を折る。
「一つ目は、アビスに最も近い接続点です」
「どういうことだ?」
言葉の意味が掴めず、征十郎が首をかしげる。
エネリットは説明を始める。
「実の所、この異世界は完全に閉ざされた異世界ではありません、確実に繋がっている場所が一つだけあります」
その言葉に、征十郎はすぐに答えに思い至る。
この世界にいる者なら誰でも分かるだろう。
「アビスだな」
「ええ」
ここはアビスが用意した刑務作業の舞台だ。
考えるまでもなく、何らかの接続が存在するのは確実だった。
そうでなければ、ケンザキを介していようとも物資の転送などできはしない。
それは先ほどの監視体制の話にも出てきた。
「だが、先ほどは監視体制がどうなっているかは考えても仕方がないという話だったが?」
「ええ。そうですね。ですが、一つだけ、考えるまでもなくアビスからここに繋がっている物があります」
囚人全員に繋がり、囚人全員が知っているもの。
征十郎もそれに気づいたように、わずかに目を見開く。
「ヴァイスマンのタグか……っ?」
「ええ。看守長の超力は囚人全員に紐づけられてます。
ひも理論が正しいのであれば、その糸はアビスからここまで繋がっているということになる」
囚人を縛るヴァイスマンの超力こそがアビスとこの異世界を繋ぐ糸。
だが通常、それは辿るどころか知覚すら出来ない代物だ。
その糸があったところでなんの助けにもならないだろう。
しかし――。
「貴方は、その糸を感じ取れる」
征十郎は形なき超力を捉え、斬った実績がある。
ならば、理論上はその糸を辿ることも可能なはずだ。
「その糸を辿れば、この世界の出口が分かると? まるで蜘蛛の糸だな」
「アクタガワですね。確か征十郎さんの国のお話でしたか」
「母方のな」
征十郎は短く答える。
そしてふと思い出したように言った。
「なら、私はその蜘蛛の糸を斬ってしまったことになるな。まんまと罠にかかった訳か?」
征十郎に付けられたヴァイスマンのタグは、すでに自ら断っている。
もしそれが蜘蛛の糸だったのなら、それを断ったことは不利に働く可能性もある。
それすらも罠だったということだろうか。
その可能性について、エネリットは少し考えた。
「実に看守長らしい嗜好ではありますが、どうでしょうね?
自身の超力を無効化されることを前提とするかと言うと……微妙なところですね」
自らの管理の象徴とも言える超力を断たれる前提で罠を作るか。
あり得るとも言えるし、あり得ないとも言える。
それがヴァイスマンという男だ。
そもそも、この仮説は『超力ひも理論』を前提としたものだ。
偶然、氷月から聞かされなければエネリットですら知らなかった理論である。
ヴァイスマンがそれを把握していたとは限らないし、ただの見落としと言う可能性もある。
むしろあらゆる可能性を紐づけて考えてしまう事こそが、ヴァイスマンの思惑にハマっているようにも思える。
「ともあれ、理屈が正しければ、この世界にも糸が収束し途切れている場所――アビスとの接続点があるはずです。それならば、斬れる気がしませんか?」
線の終端。
アビスとの接続点。
征十郎はしばらく黙り込み、やがてゆっくり頷いた。
「確かに、明確な『途切れ目』があるのなら、斬れるイメージは沸くな」
確実ではないが、出来そうな気はする。
斬るべき場所が定義される、斬れる、と言うイメージの補助。
だから『切り取り線』という事か。
「ただし、この方法にはいくつか問題もあります」
「私が、糸を上手く辿れるか、か?」
征十郎自ら不安材料を口にする。
感覚は掴み始めているが、まだ曖昧な部分も多い。
まして自分のタグを断った以上、他者の紐を追うとなれば難易度はさらに上がる。
だが、エネリットは首を振った。
「それもありますが、もっと根本的な問題があります。
その接続点が、我々の立ち入り可能な区域にあるとは限らない」
征十郎の眉が動く。
「世界の接続点が禁止エリアだった場合、囚人は近づけません。
さらに言えば、海底や空中のような物理的に到達できない場所に設定されていた場合も同じです」
むしろ、設置する側の意図を考えれば、そうなっている可能性の方が高いでしょう」
泥棒の手の届く場所に鍵を隠す者はいない。
ましてや凶悪犯を閉じ込めるアビスの看守長なら、なおさらだ。
糸で辿るという方法がイレギュラーだったとしても、安易な場所に設定するとは思えない。
「なるほどな。では、もう一つの案は?」
征十郎は、ひとまず一つ目の案が容易ではないことを悟り、次を促した。
エネリットはほんのわずかに間を置き、口を開く。
「こちらは、先ほど偶然見かけた副産物の利用になるのですが……」
そう前置きすると、視線を東へ向けた。
「ここへ来る途中で、あれを見ました」
そう言って、斜め上を指さす。
征十郎もその先を追い、視線を上げた。
岩山の中腹付近、そこに広がっているのは一見すればただの夜空だった。
だが、よく見ると違う。
そこだけ、夜空の様子がわずかにおかしい。
月光が歪んでいる。
星の配置が微かに揺らぎ、空間そのものが薄く捻じれていた。
まるで、透明な水面が空中に浮かび、そこだけ世界が波打っているかのようだった。
「……何だ、あれは?」
征十郎が困惑した声を漏らす。
岩山の上空に浮かぶ空間の歪み。
誰が見ても分かる、明確な異常だった。
その正体をエネリットが答える。
「おそらく――世界を塗り替えるメアリー・エバンスの超力の影響でしょう」
新世界の寵児。
悪意に歪められた魔王。
メアリー・エバンスが残した置き土産。
それは今もなお、視覚で捉えられるほどの世界の歪みとして残っていた。
「メアリーちゃん自体は朝方、僕が倒しましたが、超力の影響は残っているようだ」
それが世界最高峰の超力強度を持つ少女の爪痕なのか。
あるいは、そこに注がれた悪意の残滓なのか。
彼らに分かるのは、そこに残った結果だけである。
「目に見えるほどの世界の歪みだ。感覚だけでは掴めなくても、視覚で捉えられるなら――斬れるでしょう?」
世界に残った目に見える異常。
言わば、これもまた『切り取り線』だ。
感覚で捉えられなくとも、目で認識できるなら征十郎の刃は届く。
一瞬あっけに取られていた征十郎の理解が、ゆっくりと染み渡って行き、口元が歪む。
「……面白い」
征十郎の声は楽しげだった。
夜の草原に、静かな興奮が満ちていく。
世界を斬る。
その手触りが、確かに近づいた。
鞘の中で、刀がわずかに鳴る。
「というか。そんな分かりやすい目印があるなら最初からこちらだけでよかったのではないか?」
目に見える異変。
見えるかどうかも分からない糸を辿るより、遥かに分かりやすい。
だが。提案した当のエネリットはあまり乗り気ではない様子で肩をすくめる。
「分かりやすいからですよ。こっちは分かりやすいだけに危険度も高い。正直あまりお勧めはしませんね」
「何故だ?」
「メアリーちゃんの超力の恐ろしさは、嫌というほど知っていますからね。
彼女が残した目に見えるほどの異変なんて、近づきたくもないですよ」
世界を書き換えるメアリー・エバンスの超力。
踏み入るだけで世界が殺しに来る黒い少女の世界。
あの夢見る怪物が死後に残した異変は、明らかに禍々しさを増している。
どう考えても、近づくだけで命にかかわる類の異界だ。
「どうせ助太刀を求めている訳ではないのでしょう? 挑むのでしたらお一人で向かっていただきたい所なのですね」
「当然だな。手出しは無用だ」
永遠のアリスとは一対一で戦う。
これは大前提である。
「だが、成果の受け取りがあるだろう」
「……まあ、そうなんですよね」
エネリットはぼやくように言う。
黒い首輪は、永遠のアリスを呼び出すことに成功した場合の報酬だ。
呼び出しの成否を確認するためには、最後まで同行せざるを得ない。
「成功報酬ではなく、アイデア料としてこの場で頂戴できませんかね?」
「確かに、面白いアイデアだった。普通の首輪の方ならくれてやってもいいが、黒い方をくれてやる程ではないな」
征十郎は肩をすくめて黒い首輪を軽く掲げる。
黒い首輪は、あくまで成功報酬。
劇物であるからこそ取り扱いには慎重になるのも当然である。
成果が出るまで、エネリットは同行するしかない。
内心でエネリットは小さく息を吐いた。
そもそも、この方針には大きな問題があった。
失敗した場合は正攻法の自己PRのために剣の錆びにされる危険性があり。
成功した場合も征十郎が破れれば、最悪その尻ぬぐいをすることになる。
どちらに転んでも、エネリットが征十郎に同行する危険性は高い。
だからこそ、この提案をすることに乗り気ではなかったのだ。
黒い首輪を手に入れる目的のために、自身に不利な状況を招く。
やはり他人の目的を代理する形では、どうしても目的意識がブレてしまう。
あまりよくない立ち回りだ。エネリットは内心で反省する。
「一応忠告しておきますが、これはアビスにとっても厄介事を呼び込む行為です。
ですから、アビスへの売り込みという正攻法は使えなくなりますよ」
乗り気な征十郎を牽制するために釘を刺す。
もっとも、無駄だろうとは思っていたが。
「呼び込めたのなら、そもそも売り込む必要がないだろう」
アビスへの売り込みは、永遠のアリスと戦うための手段だ。
この地にアリスを呼び込めるなら、その前提自体が必要なくなる。
「実行して、呼び出しに失敗した場合の話です」
エネリットは淡々と返す。
世界に穴だけ開けて、何も起きない。
むしろ、その可能性の方が高いとエネリットは踏んでいる。
アビスから見れば、牢獄の壁に穴を開けられるようなものだ。
そうなれば、親アビスの立場どころか、ただアビスに唾を吐くだけの結果で終わる。
征十郎は気にした様子もなく言った。
「なぁに。本当に嫌なら、それはそれで脅しになる」
途中で介入してくるなら、それ自体が交渉材料になる。
直接止めに入ったなら、効いている証拠だ。
それを足掛かりに有利に交渉を運べる。
実に反社的な悪童の発想だった。
「最悪、首輪の爆破や刺客が差し向けられる可能性もありますよ」
「刺客か……」
征十郎の口元が歪む。
「面白い。望むところだ」
完全に逆効果だった。
強者が差し向けられるのなら、それは征十郎にとって歓迎すべきことである。
彼はすでに、アビス最強の刺客を退けている。
今の征十郎に正面から勝てる人間など、アビスどころか世界中探してもそう多くはない。
エネリットの知る限り、アビスが動かせるジョーカーは氷月だ。
だが、仮に氷月が送り込まれたとしても、征十郎に勝てるかと言えば厳しい。
氷月の超力は一対一では無類の強さを誇る。
しかし『殺人の資格』は、1%の勝ち筋を確実に掴む力だ。
スペック差そのものを覆す類の力ではない。
勝てない相手には勝てないのだ。
今の征十郎は、戦う前に勝つ方法を考えるべき相手だ。
そういう意味では、エネリットの方が氷月よりわずかに勝率が高いだろう。
もっとも、それも誤差のような差ではあるが。
「心配事は終わりか? では、中腹に向かうぞ」
あっさりと決定が下される。
結論として、説得は失敗だった。
理より我を優先する相手は、エネリットにとって相性が悪い。
しかも征十郎は、意図的にそうしている節がある。
「わかりました……向かいましょう」
エネリットも諦めたように肩をすくめ、後に続こうとした。
だが――その足が、ふいに止まった。
夜風が草原を渡る。
エネリットは北西の方を見た。
さらさらと揺れる草が、月光を受けて白く波打っていた。
遠くでは岩肌に当たった風が、低く鳴いている。
その静かな夜の中で。
胸の奥に、何かが戻ってくる。
『殺人の資格』が、中継点であるエネリットへ還ってきた。
それはつまり、日月が死亡したということである。
ジャンヌとの決闘に敗れたのだろう。
予想していた結末の一つだ、それはいい。
首輪を求めていた大元が消えた。
この交渉を続ける理由そのものが消えたのである。
ほんの数秒、静かな夜にエネリットは立ち尽くす。
征十郎の前で氷月と通信する訳にもいかない。
果たすべき役割が宙ぶらりんになってしまった。
草原には、征十郎の足音だけが遠ざかっていく。
目的がなくなった以上、征十郎に付き合うのは無駄なリスクだ。
ここで離脱するのが、合理的な判断だった。
エネリットは小さく息を吐く。
そして――
「ま、いいか」
あっさりと呟いて、思考を切り替える。
「どうした?」
エネリットの足が止まったことに気付き、征十郎が振り返る。
エネリットはすぐに歩き出した。
「いえ、なんでもありません」
征十郎を追い、草を踏み分ける。
月光が、二人の影を長く引き伸ばしていた。
「世界を切り裂く瞬間というのも、見てみたいですしね」
見たことのないものを見て。
経験したことのないことを経験する。
それだけで、彼にとっては価値はある。
地の底で見る夢を、一つでも増やす。
世界を斬る、などという馬鹿げた光景を見逃すのは、少し惜しい。
彼が進む理由は、そんな軽い理由だった。
夜風がコートの裾を揺らす。
エネリットは、くすりと笑った。
「それでは、軽い気持ちで、パンドラの箱を開けに行きましょうか」
全ての思惑を無視して我欲を貫く悪童が二人。
その行く先には、世界の歪みが静かに揺れていた。
【F-5/草原/一日目・夜中】
【征十郎・八柳・クラーク】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(大・処置済)、超力第二段階、ヴァイスマンのタグ除去
[道具]:デイパック×2、ルメス=ヘインヴェラートの首輪(使用済)、漆黒の喪服風スーツ、メモ帳、ジェイ・ハリックの首輪(未使用)、被験体の首輪(未使用)、銘のない贋作の刀(永遠)、日本刀×2
[恩赦P]:100pt
[方針]
基本.――まだ、斬れるものはあるだろう?
0.永遠のアリスを斬るための、足掛かりを手に入れる
1.中腹にて世界を斬る
※ブラックペンタゴン3Fの機密資料を殆ど閲覧していませんが、要点だけ目を通しているかもしれません。
※タチアナの魂はこの世界から消えています。新世界であろうと、彼が齎した結末は変わりません。
【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:疲労(中)、全身にダメージ(中)、超力『殺人の資格(25%)』
[道具]:マシンガン(弾倉残り1)、リモコン爆弾×1、デジタルウォッチ、通信機、コイン一枚、黒いコート
[恩赦P]:50pt
[方針]
基本.ひとまず氷月に協力する
1.征十郎の世界斬りを見届ける。
※現在の超力対象は以下の通りです。
【徴収】などが対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。
①マーガレット・ステイン(刑務官)
信頼度:80%(徴収時の超力再現率40%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『鉄の女』
②~④ジョニー・ハイドアウト、メリリン・"メカーニカ"・ミリアン、只野仁成
信頼度:全て5%前後(10%→5%に減少)
効果上限:献上(双方の同意による超力の一時譲渡。再現度は信頼や忠誠心に比例)
超力:『鉄の騎士(アイアン・デューク)』、『補え、私の愛する人工物質(モルデオ・アルティフィシアル)』、『人類の到達点(ヒトナル)』
⑤スヴィアン・ライラプス
信頼度:50%(徴収時の超力再現率25%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『鉄火の印(マメルティニ)』
⑥ディビット・マルティーニ
信頼度:100%(徴収時の超力再現率50%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『4倍賭け』
⑦氷月 蓮
信頼度:50%(徴収時の超力再現率25%)
効果上限:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
超力:『殺人の資格』
最終更新:2026年03月27日 20:50