薄暗い診療所の廊下に備え付けられたLEDライトが不規則に点滅していた。
四角く区切られたような廊下に人の気配はない。
どこかひんやりとした冷たい静寂が漂っていた。
だが、その静寂を乱すクチャクチャと言う不快な音があった。
何かを喰らうような咀嚼音。
ただ喰らうという野性の響き。
その発生源に居たのは、診療所に居るはずもない異物だった。
――――ワニ。
アフリカや南米の亜熱帯地に生息する、水中生活に適応した肉食性の爬虫類。
診療所どころか通常であれば日本にいるはずもない生物である。
そんなそのいるはずもない生物が、山折村の診療所にて人肉に食らいついていた。
患者や医師、看護師。あるいはリネン業者まで。
肉食獣の群れに、院内に居た人間は手あたり次第に狩りつくされた。
程なくして、このフロアに生き残った人間はいなくなるだろう。
狩りを成し遂げたワニの群れは、その肉をただ一匹へと献上する。
群れの中でひときわ巨大なワニが、それらの肉を手あたり次第に喰らい散かす。
そう、正に喰い散らかすと言う表現が似合う暴力的な食欲だった。
ワニの王。それは
ワニ吉と呼ばれていたペットの成れの果て。
その異常な食欲は一色洋子の異能である『肉体超強化』を再現するための栄養補給である。
本来のワニ吉のサイズは2メートル超だったが、肉を喰らう度その体は徐々に肥大化を続けて行った。
このまま順調に育てば世界最大のイリエワニを上回る超サイズとなるだろう。
サイズの肥大化によって、本来同じものであるはずの本体と分身は異なる者へと違って行った。
違いはは差異を生み、対等で平等であったはずの立場は使う者と使われる者に明確にその立場を分けて行く。
ワニは高い社会性を持つ生き物である。
群れの中で明確な序列が設けられ、狩りの際には集団戦という概念を持ち、役割分担を設け囮や罠と言ったモノを仕掛ける知恵を持つ。
爬虫類の中でも特に高い知性を有している生物である。
群れの頂点に立つ王。
それは肉を喰らう巨大ワニ、ではなく。
それを裏から支配するナニカだった。
ナニカは異能を知った。
太古より村に蔓延る厄災は異能を知り学習を遂げる。
その過程で異能が何に起因するものかを理解した。
脳だ。
異能は能力者の脳に起因する。
今喰らっているゾンビは違う。ゾンビは異能を持たない。
その肉を喰らった所でただの栄養補給にしかならない。
それはそれで必要な行為だが、今以上に異能の解析に臨むなら必要なのは能力者の脳だ。
様々な脳を喰らい法則性を見出せれば異能を解析できるかもしれない。
そうなれば疑似的な再現などではなく、完全に己がモノとすることも可能だろう。
全ての異能を喰らって己がものとするのも夢ではない。
そうなれば天敵たる陰陽師や霊能力者など恐るるに足らない。
ナニカは真の厄災となってこんな小さな村どころかこの国、いや世界すらも侵せるだろう。
そんな王の望みに応えるように、6匹のワニが診療所から飛び出していった。
狩りは手足の役割である。
病院内のゾンビを掻き集める餌狩り役と護衛を数匹残し、王は食事を続ける。
獲物を求めて飛び出したワニは三人一組(スリーマンセル)を組み、精鋭部隊もかくやと言う連携速度で別方向へと駆け抜けて行く。
彼らは一つの思考を元に統合された群にして個。
全てを狩りつくす捕食者の群れである。
新たに捧げる王への供物は正常感染者の脳。
活け造りが望ましいが最悪首から上だけでも良い。
捕食者の群れが村に解き放たれた。
さあ、狩りの時間だ。
■
湖面は明るみ始めた東雲の空を写し、枯れた掌が空を切り取るように湖の水を掬い上げた。
救い上げた水を口元に近づけ喉を鳴らすと、フリルの多い祭服の袖で口元を拭う。
テロリスト物部天国は湖にいた。
天国が水辺に向かったのは何のことはない。
喉の渇きを潤すべく水場へと向かっただけの事である。
一仕事終えここで一時の休息をとっていたのだ。
だが、それはあまりまともな判断とは言えない。
湖水に溜まる雨水は大気中の汚れを含み、湖水には埃や土などの汚れや動物の糞尿が混じっている。
浄化していない原水を飲むのは感染症の原因になりかねない危険な行為であり、行うのは無知な子供か無茶を誇りたい馬鹿者か、狂人だけだ。
物部天国は天国は狂人なのか?
答えはYes。だが、今回に限って言えばこの行為に問題はないだろう。
彼は頭部に致命傷を負いながら人糞に塗れた下水を流されたのだ。
汚水に対する抗体も出来ようという物である。
滅菌された水道水で育った日本人と違って、この程度で腹を壊すほどヤワではない。
もっとも、そのような打算的な判断をして飲水を行っているわけではないだろう。
ただ喉が渇いたから水を飲むという獣が如き行為を実践したにすぎない。
物部天国は壊れている。それもまた事実なのだから。
日本人を殺し尽くす。
その手始めとしてこの地にある人類未来研究所の爆破を企てた。
人類未来研究所の破壊と日本人の未来。果たしてそれがどう繋がるのか。
テロを計画した同胞たちがゾンビ化した今、その答えは天国の頭の中にしかない。
そろそろ休息を終え活動を再開しようとした天国だったが、ピクリとその耳が反応する。
背後からなにやらバタバタと草原をかきわけるような奇妙な音が聞こえたのだ。
音に反応し天国が背後を振り向いた。
瞬間、目の前に飛来する巨大な顎
驚くべきことに、それは口を開いたワニだった。
地面を這いずるのではなく、まるで地面を撥ねるような疾走。
ワニは陸上であっても時速50km以上の速度で駆け抜ける事が出来る。
その速度を乗せ、跳びつく様はまるでミサイルだった。
だが天国も歴戦の勇士。咄嗟に反応して身を躱した。
しかし閉じられた顎を完全には避けきれず天国の表情が僅かに歪む。
鋭い牙が指先を掠め、右手の小指が根元から、薬指は第一関節から持っていかれた。
天国は瞬時に祭服のような衣服を千切り、傷口を圧迫して止血を行う。
正気は失おうとも適切な対応は体に染みついている。
止血を行いながら、赤く血走った眼をギョロつかせ周囲を見る。
背後には先ほど天国へと飛び掛かり、彼の指を食むワニが1匹。
そして前方、右と左それぞれから1匹ずつの同種のワニが迫っていた。
獲物を囲む三角。
息を呑むほどの連携だった。
天国は三方から取り囲まれていた。
ワニは連携を取って狩りを行う高い知能を有している。
ましてや一つの頭脳によって統合された分身体である。連携などお手の物だ。
すぐ傍には水辺。
逃げ込もうにもそこは敵(ワニ)のフィールドである。
今回のばかりは水落したところで生存とはいかないだろう。
こうなっては獲物に逃げ場などない。
正しく絶体絶命。
稀代のテロリスト物部天国の運命はテロとは無関係の野性によって失われようとしていた。
■
夜道を進む紅白の巫女。
最強の刺客をやり過ごし始祖たる巫女は背後を振り返る事なく前へと進んでいた。
それは背後を預けた守り人に対する信頼ではなく、己が行動は何一つ恥じ入ることなき当然であるという自信。
そこに一点の曇りもない。
女王は一路、道なりに南へ。
目指すは元凶、研究所のあると思しき山折総合診療所である。
堂々と道の中心を憚ることなく歩み続ける。
村々を彷徨うゾンビたちすらその道を空ける。
女王の歩みを止めるものなどいるはずもない。
だが、女王が止まるはずのないその足を止めた。
春姫の目の前には、およそ日本ではありえない光景が広がっていた。
道先を塞ぐのは3匹のワニの群れ。
機敏に動くワニたちは紅白巫女を取り囲むようにフォーメーションを組んでいた。
流石に道を物理的に塞がれては春姫とて足を止めざるおえない。
道を逸れればいいだけの話ではあるのだが、この女がそれを良しとするはずもなかった。
道を譲るのは常に他者、進むは王道、獣道など歩くはずもない。
しかし、そうなっては凶暴な肉食獣に取り囲まれるしかない。
紅白巫女が道端でワニに囲まれるのは、サバンナでもお目に掛かれないような奇妙な光景である。
「不敬な。畜生風情が女王の道を塞ぐとは」
だが女王は威風堂々にして威風凛然。
獰猛な肉食獣の群れに囲まれておきながら、怯む気配すら見せない。
純粋に道を塞がれたことに対する不快感で表情を歪めるのみである。
だが、どれだけお気持ちを表明しようとも致命的な状況は変わらない。
一流の軍人や格闘家ですら絶体絶命と呼べる状況である、一介の雇われ巫女にどうこう出来る状況ではない。
ワニの足は速い。逃げたところで逃げ切れまい。
一方的に獲物を蹂躙できるだけの戦力差が彼我にはあった。
狩人がその気になればこの巫女は肌を裂かれ肉を食い破られ、一瞬で餌となるだろう。
だが、その一瞬はいつまで待っても訪れなかった。
狩人たる肉食獣は一定の距離を取ったまま動けずにいた。
動かないではなく動けない。
むしろ、余裕を称えているのは獲物である巫女の方だ。
まるで狩人と獲物が入れ替わったかのよう。
ワニの群れには明確な序列がある。
上位の存在には決して逆らえない。
そして弱きは強きに従う弱肉強食が野性の掟。
食欲と言う野性の本能を剥き出しにした状態であるからこそ、その掟は絶対の物となっていた。
そして、その本能が目の前の存在に対する攻撃を躊躇わせている。
それは少女の異能によるものか、それとも神職に務めた巫女に備わった神気の類か。
あるいは、神楽春姫と言う少女そのモノか。
分身体は元より、それを操るワニ吉本体、そしてその奥底に居るナニカすら怯んでいた。
少女が進む。
ワニが後退する。
道の中心を女王が推し通る。
だがそうはいかない。
ワニたちの本体、その奥にいるナニカが前に進めと命令を出す。
本能と命令の鬩ぎ合い。
分身ワニの小さな脳が焼かれるように揺らぐ。
混乱の果て、無理やり背を押されるように1匹が前へとまるで千鳥足のように踏み出した。
こうなってはもはや自棄だとでも言うように、ワニは巫女に向かって噛み付こうと大口を開く。
だが、それよりも早く、開こうとした顎がむんずと踏みつけられた。
「たわけ。両生類風情が妾の道を妨げられると思うたか、…………いや爬虫類だったか? まあよい」
赤い鼻緒の草履がワニの鼻先を踏みつける。
ワニはこの地球上で最強の咬合力を持つ生物である。
だが、強力な閉じる力を得た代償として、開く力は輪ゴム一本すら切れない貧弱なものとなってしまった。
ワニと対峙した特殊部隊の青年がそうしたように、ワニの口を開かせないというのは適切な対応である。
無論、そんな動物豆知識をこの女が知るはずもない。
仮に友人が語っていたとして興味のなきことは脳に残さぬがこの女だ。
ただ踏みやすい位置に踏みやすい頭があったから踏んだまでのこと。
「――――――退け」
叱りつける様に鞘に入ったままの宝剣をワニの額に突き立てる。
瞬間、踏みつけていたワニの体が煙のように消滅した。
「なんと化生の類であったか。ならば、うさぎに憚る事もないな」
これまでの言動のどこに憚る要素があったのかは不明だが。
彼女なりに動物好きの友に気を使っていたらしい。
宝剣を鞘より引き抜く。
取り残された2匹のワニは完全に気圧されたように動きを止めていた。
「そこに直れ、妾が手ずから処してやろう。何、これも神事に関わる巫女の務めよ」
巫女が祭事に舞うが如く飾り剣を振るう。
地に伏せ常に土下座してるような体勢はまるで、斬首を待つ罪人のようだった。
【F-3/道/一日目・早朝】
【
神楽 春姫】
[状態]:健康
[道具]:巫女服、ヘルメット、御守、宝剣
[方針]
基本.妾は女王
1.研究所を調査し事態を収束させる
2.襲ってくる者があらば返り討つ
※自身が女王感染者であると確信しています
■
湖畔にてテロリストはワニに囲まれていた。
コチラは南米辺りならばあり得る光景なのかもしれない。
あるいはアメリカのZ級映画か。
天国が圧迫止血していた片手を前へと突きだす。
ぼたぼたと血液が落ち、地に赤い線を描いた。
ギョロリとした血走った瞳が目の前で己が指を食む獣を捉える。
指を噛み千切られた痛みは確かにある。
だが、痛みなどでは彼は止まらない。
それ以上の怒りと憎悪。痛みを塗りつぶすほどの狂気が天国の頭の中を常に渦巻いていた。
知性を失い
理性を失い
正気を失い。
辿りついたのは狂気の果て。
指の欠けた手で皺枯れた指を立て、地を這う肉食獣を指差す。
祖国を呪うテロリストは、信じがたいことを口にした。
「ぉ前はぁ――――――日本人だなぁ?」
何を言っているのか。
日本人以前に目の前にいるのはワニである。
日本に野生のワニなどいない。
野性を超える狂気。
飢餓により正気を失ったワニでなくとも理解できなかっただろう。
だが、他者に理解できずとも。
狂人には狂人なりのロジックがある。
日本人の抹殺のため研究所を狙ったように。
日本人とは何か?
国籍か? 出自か? 血統か?
天国の考える定義は決まっている。
思想だ。
その価値観に染まっているのなら、その出自に関わらず日本人だ。
日本かぶれの外国人なんかも言語道断である。
それこそ例え動物であろうとも日本人であると言える。言えるのだ。
日本に野生のワニがいないことなど天国とて知識として理解している。
だが、それがいると言う事は愛玩動物として飼育されていたと言う事だ。
日本人に飼いならされた畜生など豚にも劣る。
野獣死すべし。
3匹のワニが同時に飛びかかる。
三方から迫る牙に逃げ場など無い。
野生最強の咢をもってすれば、人間など一瞬で挽肉に出来るだろう。
だが、それよりも早く。
「――――――――日本人は、死ね」
呪いの言葉が紡がれる。
天国の主観によって設定された相手の武器を暴発させる呪い。
分身体は紛れもなくワニ吉の用意した武器である。
ならば、こうなるのは必然であった。
3匹のワニはそれぞれがそれぞれの喉笛へと喰らい付いた。
地球最強の咬合力で鋭い牙が肉を破る。
まるで自らを喰らうウロボロス。
互いが互いを喰らっていた。
喉肉を食い破られ分身体が消滅する。
死体も残らず消え去った奇妙な現象を狂人は気にせず、歩き出す。
日本への憎悪を滾らせながら。
【F-1/湖周辺/一日目・早朝】
【
物部 天国】
[状態]:右手の小指と薬指を欠損
[道具]:C-4×3
[方針]
基本行動方針:日本人を殺す
1.日本人を殺す
2.日本人を殺す
3.日本人を殺す
■
明るみ始めた空の光が、診療所にも差し込み始めた。
一心不乱に目の前の肉に夢中になっていた大型ワニの動きが、何かに反応したように一瞬ピクリと止まる。
そしてワニの目がどこか遠くを見つめるように虚空を見た。
狩りに出した分身がやられた。
あろうことか、連携を取って本気で狩りに挑んだ肉食獣が返り討ちに合ったのである。
分身を6体失って、成果は枯れた指二本。
これではあまりにも採算が取れない。
奇しくも、特殊部隊を相手取った際にワニ吉が懸念した通りの結果になっていた。
例え野性の狩人であろうとも、異能者は侮れない。
現時点でワニ吉の体長は4メートルに届こうと言う程に膨れ上がっていた。
病院の廊下は少々手狭になってきた。
そろそろ拠点を移す頃合いかとナニカは考える。
せっかく『肉体超強化』を再現できたとして、廊下から動けなくなりましたではオチとして間抜けすぎる。
このフロアは既に狩りつくした。
別棟や別フロアにまで行けばゾンビとなった人間もいるだろうが、院内に見切りをつけて別の狩場を目指してもよいだろう。
何より、このままここに留まり続ければ、あの女が来る。
分身体を退けた紅白巫女が診療所に迫っている。
それは派遣した分身の全滅を代償に得た情報であった。
印象としては太古の鬼道を扱う大国の女王のそれに近い。
ナニカを滅する事などできようもないが、それなりの覚悟で挑まねばならぬ相手だ。
せめて肉体の強化を完了し万全を期す必要があるだろう。
あの女にはナニカをしてそう感じさせる『何か』があった。
ワニ吉は理性を失っている。
飢餓により食欲を振り乱す超野性だ。
ナニカは分身を操作し、残った『餌』を出口に向かって等間隔に配置して行く。
そのままワニ吉はあんよが上手とするように診療所の出口に向かって誘導されていった。
餌を追ってワニ吉が巨体を動かすと、それだけで廊下が僅かに崩れる。
そうして、ワニが人間の地図など把握しているはずもないが、次の餌場を求めて人の多い場所を目指し始めた。
【E-1/診療所入り口/一日目・早朝】
【ワニ吉】
[状態]:『巣くうもの』寄生。飢餓感(超極大)による理性消失。『肉体超強化』の疑似再現により筋肉肥大化中(現在体長4メートルほど)。
分身が4体存在。
[道具]:なし
[方針]
基本.喰らう
1.拠点を移す(人の多そうな場所へ)。
2.異能者の脳を喰らい異能を解析する。
3.分身に食えるものを捧げさせる。肉体の強化が完了したら全てを喰らい尽くす。
※分身に『肉体超強化』の反映はされていませんが、
『巣くうもの』が異能を掌握した場合、反映される可能性があります。
最終更新:2023年02月14日 23:30