神楽春姫。
山間の集落・山折村の始祖に連なる血統であり、村の全てを司る女王である。
過去現在未来に並ぶ者なき美貌、神が手ずから彫刻したかの如き均整の取れた肢体、身に纏うは触れれば裂かれるほどに静謐な王気。
その全ては、己こそが頂点であると覚っている春姫の精神によりもたらされしもの。
春姫は何も学びはしない。生まれながらに世の全てを識っているからである。
春姫は何も鍛えはしない。生まれながらに世の全てを凌駕しているからである。
春姫は何も恐れはしない。生まれながらに世の全てを呑み込んでいるからである。
悠然と、春姫は一歩を踏み出す。
その一歩が刻んだ静かな足音は、対峙する二匹の魔性――ワニたちを恐れさせる。
ワニという自然界の強者が、ヒトという自然界の弱者を恐れている。
これは、ワニたちが本当の意味での天然自然から生まれた存在ではなく、あくまで異能により生み出された存在であることも原因の一つだ。
オリジナルである
ワニ吉という存在も、カテゴリでくくれば春姫や他の者らと同じウイルスの正常感染者に過ぎない。
異能で生まれた存在ゆえに、異能の影響もまた受ける。
春姫の異能は異常感染者であるゾンビたちの脳内シナプスに働きかけ、敵対意識を奪い去るものであるが、副産物として正常感染者の意識に重圧をかける力もある。
強い意思を持たれれば打ち破られてしまうとはいえ、春姫がこの時相対しているワニたちにそこまでの自我はない。
結果、自分たちより圧倒的弱者であるはずの春姫の眼光が、まるで巨大な竜のように恐ろしく思えてしまうのだ。
じっと、睨み合うこと一分、二分……十分。
「飽いたわ。所詮は畜生であったか」
沈黙を破ったのは、春姫だった。
十分もの間、微動だにせずワニどもの動きを待ち受けていたのは構えた剣が重かったからだ。
女王たるものが足軽のように駆けていくなど恥ずべきこと。
来た順に迎え、斬り捨ててくれよう。そう思っていたのだが、このワニたち一向にかかってこない。
ご立腹した女王は、もはやかける情けは尽きたとばかりに宝剣を振り上げた。
「妾の歩みを遮るもの、すなわち叛逆者なり」
振り上げた剣の重みに一瞬ひっくり返そうになるもなんとか踏み留まり、春姫はじり……じり……と間合いを詰めていく。
ワニたちは固唾を呑んで見守る。いつだ、いつ打って出る?
この恐ろしいヒトのメスはしかし一匹だ。数の利はワニたちにある。
「畜生であれ、妾に牙を剥く以上見逃す道理はない」
左右に分かれ同時に飛びかかれば、いかにこのメスの刃が鋭かろうとどちらかはあの柔らかそうな肉に歯を突き立てることができる。
無論、どちらかは確実に命を落とすことになるが、異能で生み出されたワニたちに利己愛はない。
結果的に目的を遂げられるのであれば、相対としての
ワニ吉の勝利となる。
と、論理的に理解はしていても、行動を許さないのが春姫のもたらすプレッシャーである。
ワニと違い、道具を持たねば犬一匹にすら殺されかねない脆弱な種族、ヒト。
しかしヒトは、道具を持つことにより自然界のあらゆる生物を凌駕し、この星の霊長となった。
油断してはならない。それは本能からくる警告だ。
ゆらゆらと……まるで陽炎のごとくゆらめく春姫の剣先は、今だ飛びかかろうとワニたちが行動に出る半瞬先に、突き付けられる。
そのため睨み合いは膠着し、時間だけがいたずらに過ぎていった結果、春姫は飽きた。
均衡を崩し、ゆっくりと接近してくる死の刃。こうなれば、ワニたちももう様子見などしていられない。
素早く左右に散開し、春姫を挟む位置取り。
「ほう? ようやっと目が覚めたか。よいぞ、二枚におろしてくれよう」
春姫の異能が与えるのはあくまで精神的な重圧であり、強い敵意を持たれればそれを掣肘するほどではない。
ついに殺気を漲らせる二匹の捕食者に対し、春姫はうっすらと笑う。
凄絶な美貌が歪む。村の男が見ていれば、慕情よりも先に悪寒を覚えるほどだろう。
バネが弾けるように、二匹のワニは春姫へと突進した。
迎え撃つ春姫、構える宝剣を腰だめにし、剣の重みに導かれるように回り出す。
まず右のワニを両断し、回転の勢いを逃さず左のワニを真っ二つ!
「……グァ???」
剣の重みに振り回された春姫の体はグンと大きく傾ぎ、ワニたちの目測から外れる。
なにせ踏ん張りもしていない手で振っただけの剣。当の春姫本人ですら予期していない動きに、ワニたちはついていけない。
目標を見失ったワニAの先には、自分と同じ顔をしたワニBがいる
鋭い歯は春姫の柔らかな肉ではなく、同胞であるお互いを喰らい合ってしまう。
空中でワニABとなったワニたちの傍ら、まだ回っていた春姫の宝剣は偶然にもワニABの頭を叩いた。
それでワニたちは消えた。勝負あり。
「そうであった、化生であったな。ワニの肉とやらも一度食してみたかったが」
勝利した春姫は宝剣を鞘に納める。
春姫には何の感慨もない。女王たらば、勝利は必然である。
だが、無傷ではない。くるくる回って三半規管にダメージを受け、春姫は軽く酔った。
「むう……造作もないとはいえ、化生を侮ってはならんな。妾をここまで追い込むとは」
春姫は手近な椅子に腰を下ろし、死闘の傷を癒やす。
亡者となった村人たちは女王である春姫に手向かうことはない。それは世の理である。
だが化生、あるいは正常感染者はそうもいかない。先ほど郷田のが相手取った、いわゆる特殊部隊という輩もそうだ。
いかに春姫が天上天下に唯一人の至高存在としても、その身体は未だ絶対には程遠い。
より強い力がいる。より強く輝く、女王の象徴となる力が――
「ぉ前はぁ……日本人だな?」
うとうとと――思索に耽っていた春姫は、気付くのが遅れてしまった。
西から、ワニではなく別の存在が接近してきていたことに。
日本人に苛烈なる殺意を抱く男、物部天国に、先に発見されてしまったことに。
「いかにも妾は日本人であるが。貴様は何者だ?」
「日本人はぁ……死ね」
春姫の、女王直々の問いに闖入者が応えることはない。
艶のある長い黒髪、宝石のように深く済んだ黒瞳。白と朱の巫女装束、安全第一と印字されたヘルメット、神社古来の宝剣。
神楽春姫を構成するあらゆる要素が、「こいつは日本人だ」という確信を物部天国に抱かせる。
であれば、導き出される結果など決まっていた。
神楽春姫は、携えていた宝剣逆手に持ち、躊躇うことなく自らの心臓に突き刺した。
白い衣を真っ赤な血に染めて、神楽春姫はここで命を落としたのだった。
(……ここは何処だ?)
神楽春姫は暗黒の海にいた。
先ほどまでいた山道ではなく、春姫の周りには闇しかなかった。
ともすれば自分の手すらぼやけてしまうほど濃密な闇の触手が、春姫を貪ろうとまとわりついてくる。
(あ奴の手にかかり、妾が死んだというのか?)
春姫が覚えている最後の記憶は、祭服を着た小汚い男に聞き捨てならない侮辱を受けたところまでだ。
女王たる春姫に死ねなどと、万死に値する不敬である。
だが、気が付けばあの男はおらず、どころか春姫はまるで宇宙に放り出されたかのような場所にいる。
死後の世界、というやつだろうか。であればこの闇は春姫を涅槃へと誘う地獄の官吏か。
なんとなく現状を理解した春姫は、
(不敬。妾は女王であるぞ。下がれ、下郎!)
剣を抜き放ち、裂帛の気合を迸らせた。
無明の暗黒の中にあって、それでも神楽春姫が揺らぐことはない。
光がない? 笑止。まさに笑止千万。
(この世の光とは、すなわちこの神楽春姫自身である――!)
ここに光がないわけがない。神楽春姫こそが光なのだから。
(妾は女王である。この妾の魂魄を、閻魔如きが自由にできると思うてか!)
春姫は宝剣を掲げる。
神社に伝わる儀礼用の宝剣は、ただ装飾されただけの刃もないなまくらだ。
そのなまくら剣がいま、星をも凌ぐ輝きを放っている……!
(これこそは妾が女王たる証。混迷を切り裂き、世に一筋の閃きをもたらす救世の剣なり!)
闇を、光が斬り裂いていく。遍く世の四方を照らす曙光がここにある。
もはや太陽と表せるほどに光り輝く宝剣を手に、神楽春姫は浮上していった。
ここは地獄か煉獄か。いずれにしろ春姫がまだ来るべき場所ではない。
春姫がいまいるべき場所はただ一つ。災いに晒されし山折村。春姫が治めるべき故郷である――!
.
春姫はムクリと起き上がり、まだそこにいた物部天国に剣を突きつけた。
「女王たる妾に対する無法狼藉、もはや許しがたし。罪の重さを測るまでもない。首を差し出すがよい!」
貫かれた心臓から噴出した血によって、春姫の巫女装束は真っ赤に染まっている。
にも関わらず平然と立ち上がってきた春姫に、天国の怒りは即座に臨界を突破した。
「ァァアアアアアアアアアア日本人日本人日本人! なぜ死なないなぜ死んでない許されない死ね今すぐ死ねお前たちは生きていてはならない死すべきだ死ななければならない!」
日本人はみな死ななければならない。生きていてはおかしい。
一度殺した日本人など以ての外だ。即座にすぐに速やかに念入りに確実に徹底的に殺して殺し死死死……天国の異能が炸裂した。
「死ね日本人! お前たちは地球の癌、世界の膿、宇宙の塵! 死ね、死ね、死ね死ぬのだ!」
「やれやれ、化生の次は狂人と来たか。妾の村を土足で荒らす不届き者がこれほどまでに醜悪であるとはな」
だが、二度目はなかった。
物部天国の異能は、日本人を呪い殺す邪まな呪詛は、神楽春姫に届くことはない。
春姫がその手に携える宝剣、否、異世界の聖剣ランファルトが、春姫に振りかかる呪いを片端から焼き払っているからだった。
「なぁ……? なんだお前は……なぜ死なないのだ……? 日本人なのに……? なんで生きていていいと思っているのだ……?」
「日本人日本人とうるさい猿よな。妾は女王であるぞ。貴様ごとき野蛮な気狂いの言霊が通じると思うてか」
春姫は無論、天国の異野のことなど露とも知らない。
彼女にあるのは己が女王であるという圧倒的な自負、常にそれだけである。
神社に伝わる宝剣が実際に光り輝いているのも、女王が携えし剣であるならば当然のこと。何もおかしくはない。
「キィィエエエエエエエッッ! 許されざる日本人、日本人のくせに日本人の分際で日本人日本人日本人……!」
「もはや言葉すら通じぬか。であれば是非もない」
指が欠けた拳を握り、物部天国は神楽春姫へと殴りかかる。異能が通じぬならば直接打ち殺すまで。
それは実際、春姫に対し最適解ではあった。
天上の美が地上に舞い降りた存在である春姫とて、野蛮なハンマーの一撃には到底耐えきれはしない――先ほどまではそうだった。
だがしかし今、春姫の手には聖剣がある。
「空に太陽、地に人ありき。しかして妾はその狭間に立ち世を背負う者……すなわち女王である」
神楽春姫には意志がある。他を圧倒する強烈な個が春姫を構成する全て。
この世界の中にあるもう一つの小さな世界。
神楽春姫とはすなわち、意志を持つ世界そのものである!
「神楽春姫。この名を土産に逝くがいい――!」
聖剣が主の求めに応じて破邪の光を撃ち放つ。
それは闇を裂く光にして、女王が臣民に見せる希望の輝き。混迷の世を導く救世の一撃であった。
光は束ねられ、超高温の熱線となって駆け抜ける。
線が過ぎた後には、人の胸辺りの高さで切り揃えられた森だけがそこにあった。
狂人の姿はもはやない。女王の前に滅び去ったのだった。
「……妾の村に不浄は許さぬ。何人たりとてな」
春姫は宝剣を――いまや聖剣となった宝剣を、鞘に収めた。
そして当初の考え通り、研究所のある西へと足を向ける。
春姫の歩みに陰りはない。手にする剣が見せた強大な力を疑うこともない。自らが死の淵より蘇ったことを不思議とも思わない。
その聖剣は山折の血族にして異世界の勇者ケージ・スゴクエライ・トテモツヨイ・ヤマオリによって村にもたらされたものであることも。
勇者がゾンビとなったため主を失い、存在を保てず霧散していたことも。
滅ぼすべき魔である【巣くうもの】の気配に引き寄せられ、光の粒子となって周辺を漂っていたことも。
さらに物部天国の日本人を殺す【呪い】によって命を落とした神楽春姫を、魔に立ち向かう次なる勇者として選んだことも。
死に瀕した春姫を救うため、聖剣の欠片が春姫と融合し心臓を再生したことも。
本来であれば高潔な人物を主に選ぶ聖剣の意志が、融合が仇となり強大な自我を持つ神楽春姫によって塗り潰されたことも。
田舎の村の宝剣に聖剣の力だけを移したことも。
春姫は知らず、ただ己が女王であると天地に誇る。
それこそが神楽春姫の神楽春姫たる所以なのだから。
【F-2/道/一日目・早朝】
【
神楽 春姫】
[状態]:健康
[道具]:血塗れの巫女服、ヘルメット、御守、宝聖剣ランファルト
[方針]
基本.妾は女王
1.研究所を調査し事態を収束させる
2.襲ってくる者があらば返り討つ
※自身が女王感染者であると確信しています
【宝聖剣ランファルト】
異世界の勇者ケージ・スゴクエライ・トテモツヨイ・ヤマオリが携えし「聖剣ランファルト」が、山折村の神社に伝わる宝剣を依代にした姿。
ランファルトという銘はかつて聖剣の担い手であった勇者の名から取られている。
本来の主がゾンビになったため実体が保てず霧散していたが、滅ぼすべき悪――【巣くうもの】の顕現に呼応して再び現れた。
かつての勇者の手にあった時代から悠久のときが過ぎ、性質はかなり変化している。
神楽春姫の神罰を受けた物部天国だが、死んではいなかった。
目も眩むような光の斬撃は春姫自身の目も眩ませていたため、余波の衝撃で吹き飛ばされた天国はなんとか逃げおおせることができたのだ。
大きな傷を負ったわけではなかったが、それでも今の物部天国は敗残者だった。
「日本人が日本人め日本人が日本人が……神楽、春姫ェ……! アアア殺す殺す殺す殺す、必ず必ず必ず殺す……!」
日本人殺すべし。物部天国の救済を拒んだあの魔女、神楽春姫を許すまじ。
殺さねばならない。必ず殺さねばならない。絶対に殺さねばならない!
それには力がいる。開眼した力だけでは、一度死んで生き返った魔女を殺し切るにはこれでも足りない。
さらなる力を、武器を、呪いを、死を。
人でありながらも邪悪なる魔そのものとなって、物部天国は這い進んでいく。
日本人の一切根絶、それだけを心の支えにして。
【F-3/森/一日目・早朝】
【
物部 天国】
[状態]:疲労(中)、右手の小指と薬指を欠損
[道具]:C-4×3
[方針]
基本行動方針:日本人を殺す
1.日本人を殺す
2.日本人を殺す
3.日本人を殺す
4.神楽春姫を今度こそ絶対に完膚なきまでに殺す
診療所を離脱し、一路北に向かっていた
ワニ吉――の中に潜む何か――は振り返った。
何かが見えたわけではない。だが予感がした。
いま、何か恐ろしいモノが生まれたのだ、と。
その方角は、分身を退けた女がいる方角だった。
心臓が早鐘を打つ。
あの女は先ほども恐ろしいと思った。だが今は、今感じるプレッシャーは先ほどの比ではない。
- ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
絶対にあの女に出遭ってはならない。
そう確信している。理屈ではない、本能だ。
あれは敵とか獲物とかそういうモノではない。
言うなれば人間の形をした滅びそのものだ。ヒトに対して自身がそうであるように、自分にとっての天敵があの女なのだ。
初めて知った感情、その名を恐怖と呼ぶことも知らず、かつて
ワニ吉だった何かはバタバタと必死に逃げていく。
邂逅の時は、まだ遠い。
【D-2/道/一日目・早朝】
【
ワニ吉】
[状態]:『巣くうもの』寄生。飢餓感(超極大)による理性消失。『肉体超強化』の疑似再現により筋肉肥大化中(現在体長4メートルほど)。
分身が4体存在。
[道具]:なし
[方針]
基本.喰らう
1.拠点を移す(人の多そうな場所へ)。
2.異能者の脳を喰らい異能を解析する。
3.分身に食えるものを捧げさせる。肉体の強化が完了したら全てを喰らい尽くす。
4.神楽春姫から逃げる。絶対に近づかない
※分身に『肉体超強化』の反映はされていませんが、
『巣くうもの』が異能を掌握した場合、反映される可能性があります。
最終更新:2023年06月15日 21:20