山腹にあるその神社は村の中でもひと際高い場所にあった。

ご利益があるのかすら怪しい古いばかりで寂れた神社である。
誰も喧伝しないから村民の誰も何の神様を祭っているかも知らない。
辿り着くまでの長い階段のせいか村人すらろくに寄り付くことがなく、参拝客より野山から降りてくる動物の方が多いだろう。
そんな過疎化した村の中でも辺鄙な場所に、郷田剛一郎は足蹴く通っていた。

昔から、ここから見る景色が好きだった。
山腹にある境内からは村の全貌を見渡せる。
周囲を壁のように山々に囲まれ、見えるのは自然と田畑ばかり。
そんな見どころのない風景だが、村は季節によってさまざまな顔をのぞかせていた。

春は桜吹雪が舞い散り。
夏は眩い新緑に彩られ。
秋は紅葉が山を染めた。
冬は深々と降り積もる雪が世界を白に染める。
そんな広大な自然を見ているだけで、胸の中が満たされてゆく。

だが、広大な自然が広がると言えば聞こえはいいが、何もない寂れた田舎町。
立地の関係から交通の便は悪く、村に続くのは車も通れない小さなトンネルが一つだけだ。
トンネルの外まで徒歩で移動しても、その先にあるバス停から出ているバスは1日2本。
大人の手を借りず子供が村の外に出る方法は殆どなかった。
これだけ不便な上に、名産や名物もないのだから観光客が訪れる事もない。
山以外何もないと誰もが口にする、寂れてゆくだけのよくある限界集落。
それが我が故郷である山折村の現在だ。

将来は村を出て大きくなって戻ってくると幼馴染の一人は言った。
頭のいい男だ。どこに行っても成功するだろう。

将来はこの村を都会にも負けぬほど盛り立てると幼馴染の一人は言った。
有言実行の男だ。必ず成し遂げるだろう。

共に村の発展を願いその決意を誓い合った。
だが、剛一郎は違う。ありのままのこの村を愛していた。
この村を離れようとも、この村を変えようとも思わない。
その郷土愛だけは誰よりも強かった。

この村の歴史。この村を育む自然。この村に生きる人々。
この村の何もかもが、愛おしい。
この境内から村を見渡しているとその愛情を実感できる。
だが、剛一郎が神社に足気く通っていた理由はそれだけではなかった。

『ゴウちゃん』

紅白の巫女服を纏った少女が名前を呼ぶ。
月の女神も怯むほどの美貌を持った村一番の器量よし。

同世代の誰もが彼女に夢中になった。村のマドンナ。
そのご多分に漏れず、剛一郎もその一人だ。

男女の駆け引きなど分からぬ剛一郎であったが。
野山で摘んだ花を送り、慣れぬ文をしたため、不器用ながらにアプローチを繰り返してきた。
同じく彼女を落とさんとする悪友たちと競い合い、共に輝かしい青春を過ごした。

そうして、学生生活も終わる18の秋。
春には彼女は大学進学のため村外に移住し、剛一郎はこの村に残る。
村の発展に寄与するため地主である両親の土地を使って商売を始めるつもりだ。

大学を卒業すれば彼女も故郷に戻ってくるかもしれないが、未来のことは分からない。
実際、進学ために村外に出て帰ってこない若者は多い。ともすれば今生の別れになるかもしれない。
その前に、剛一郎はその思いを打ち明けようと、この境内で告白に至った。

『ごめんなさい』

だが、幼少の頃からの想い人から帰ってきたのは拒絶の言葉だった。

『だって、あなたの一番は私じゃないもの』

そんなことはないと言いたかった。
だが、その言葉は喉に痞えたように出てこない。
言葉を詰まらせる剛一郎の様子を見て初恋の君は儚げに笑う。

『私は私を一番想ってくれる人と一緒になるわ。
 だから、ゴウちゃんはゴウちゃんの一番を大切にしてね』

太陽の沈む夕暮れ。
村の全てが朱に染まる。
愛すべき村を遠く背にした彼女の姿を、今もはっきりと覚えている。


「えぇい!! 何を呆けてやがるんだ俺はッ!?」

剛一郎は気合を入れなおすように頬を叩く。
大事な親友の娘が危険な場所に向かおうとしているのに、何を呆けているのか。
自らの尻を叩く様に喝を入れた。

春姫は研究所に向かうと言っていた。
剛一郎が呆けていた間にかなり先には行ってしまっただろうが、行き先は分かっているのだ。
追いつけるかどうかは分からなくとも、追いかけることはできるはずだ。

走る。
この村を守護りたいという思いに嘘はない。
だが村を救うために村人を殺さねばならない。
無意識に目をそらしていたその矛盾に目を向けさせられた。
きっと春姫の言う事は正しい。妙な陰謀論めいた話は置いてくにしても。

走る。
自身の情けなさに反吐が出る。
だからと言って足を止めてどうする。
考えるよりもまず足を動かす。
それが郷田剛一郎という男だったはずだ。
愚直にも村を守護るべく駆け抜けてきたのではなかったか。

村の事であれば隅から隅まで知っていた。
足元の見えない夜道を考え事をしながらでも走り抜けられる程に、勝手知ったる生まれ育った我が故郷。
その未曽有の危機に自分はいったい何をすべきなのか?
答えの出ないまま夜の道を駆け抜ける。

そうして走っているうち、程なくして春姫の背中を捉える事が出来た。
追いつけないかもしれないという予想に反して、すぐに追いつけた理由は何のことはない。
春姫が急ぐでもなく悠然と道なりに歩いていたからである。

体力測定の50m走を歩きで突破したというのは今でも語り草だ。
世界が変わるほどの事態に巻き込まれても彼女は変わらず神楽春姫であった。

「おい。春ちゃん! 待ってくれ!」

大声で呼び止める。
春姫は歩を止めるでもなく視線だけを背後にやって追ってきた剛一郎の姿を認めると、不愉快そうに端正な顔を歪めた。

「問答は終わったはずだが? 妾の言葉が分からなんだか?」
「ああ全然わかんねぇよ! 俺は村を守護りてぇ! そのために俺たち協力すべきだろう!?」

村を守護りたいという気持ちは間違いなく本当だ。
己に矛盾が在ろうともその気持ちはだけは変わらない。
下らない問答を繰り返そうという剛一郎に春姫はこれ見よがしにため息をついて、相手の愚かさを嘆くようにやれやれと頭を振る。

「汝は人語を解さぬ猿か? それとも――――」

春姫はようやく歩を止めて振り返ると、鞘から引き抜いた宝剣の切っ先を突きつける。
敵意を向けるその眼光は、なまじ整った顔をしているだけに見る者を怯ますだけの迫力があった。

「女王である妾を討つ覚悟ができたのか?」
「…………できねぇよ。できるわけがねぇ!!」

剛一郎は拳を握り締め首を振る。
大切な親友の娘にして愛すべき村の民。
それをこの手で殺すことなどできようはずがない。

そのどちらも剛一郎の中の真実だ。
だからこそ、その矛盾は男を苦しめる。

「異な事を。村の守護者を気取るならば、女王を討つは必定。貴様のソレは逃げでしかない」

春姫は本気で女王を自称しているのだろうが、春姫が女王であるかどうかは問題の本質ではない。
問われているのは、本当に村民に女王がいた場合、剛一郎はどうするのかと言う点だ。
外敵を殺し、殺し尽くした先に、残っているのは村民だけとなった場合に、剛一郎はどうするべきなのか。
未だその答えは出ていない。
その迷いを示すように郷一郎は僅かに視線を逸らす。

「まるで怯える羊の様よな、瞳に迷い揺れておるわ。
 迷い子なれば導きもしようが、老爺に呉れて遣る慈悲があると思うてか?」

殺すつもりであれ、守護るつもりであれ。
迷いを抱えた半端者はその御前に立つ資格すらない。
女王はそう告げていた。

「善行であれ悪行であれ、己が行為に曇りが無ければ迷うまい。
 迷うのならば、そもそも根本が間違っているのだ」

根本が間違っている。
その言葉は正鵠を得ているようで、どこか見当違いなような気もする。
そもそも根本とはなんだ。この村を愛するこの心か。

「……ちがう、春ちゃんそれは、」

それだけは違うと、そう言おうとして。

それを遮るような乾いた炸裂音が響いた。

同時に、何かに弾かれたように目の前の春姫の体が倒れた。

「………………春ちゃん?」

呆けた声で呼びかけるが反応はない。
地面に突っ伏したまま、ピクリとも動くことはなかった。

震える視線を上げて、音の発生源を見る。
そこには。

「――――2匹の標的を発見。排除を開始する」

ガスマスクをした迷彩服の大男がいた。
その手には硝煙を上げる拳銃が。

力なく倒れる幼少の頃より知る少女。
そして、目の前には彼女を殺した外界より来た大男。
それを認識した瞬間、剛一郎は己の中で何かが切れたのが分かった。

「貴ッ様あああああああああああああああッッッ!!!!」

叫ぶ。
喉から血を吐くように喉を震わす。
思考が、理性が、正気が、振り切れる。

その叫びに呼応するように全身の筋肉が膨張を始めた。
全身に血管を浮かび上がらせ、肌は赤黒く変色する。
服を破る程に肥大化した筋肉は鋼鉄よりも強靭であり、柳のようなしなやかであった。

「ぐぅるうううううううううううううううううううう!!」

獣のような嘶きを上げて、剛一郎が手にしていた丸棒材を握り締める。
そして超握力によってヒビ割れたソレを、槍投げでもするように放り投げた。

弾丸もかくやと言う速度で投げ放たれたその投擲を、殊部隊の男――大田原は冷静にスウェーバックで避ける。
虚空を通り過ぎた丸棒材が漆黒の夜闇に消えてゆく。

だが、放たれたのは丸棒材だけではない。
その後を追って放たれたるは、通り過ぎた全てを捻り潰す人間砲弾。
異常筋力による人間の速度を超えた踏み込みにより地面が砕け、破片と共に砂埃が舞う。

余りに異様なソレを前にしながら、大田原は慌てるでもなく僅かにサイドステップを踏んだ。
人間砲弾を迎え、持ち替えたナイフですれ違いざまに胸、脇、鳩尾の三カ所を刺突した。

「…………分厚いな」

ただ事実を確認するだけの呟き。
分厚い筋肉の壁に阻まれ、ナイフによる刺突は臓器に届いていない。
通り過ぎた人間砲弾は五指で地面を削りながら静止し、突き立てた指を軸にクルリと獲物に向けて反転する。

「ふっしゅ――――――ッ!!」

砕けんばかりに食い縛った歯の間から、燃えるような荒い息を吐く。
ドクンドクンと脈打つ赤い肌、ゾンビとは違う意味で正気を失った狂戦士が村に放たれた最強の刺客へと襲い掛かる。

「ぐぅおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

雄叫びと共に放たれる拳の連打。
その拳は全てを打ち砕く破壊の鉄球である。
一撃でも掠ればそれだけで人間など容易く絶命せしめるだろう。

荒れ狂う死の嵐を前にして、正気を保てる人間などいようものか。
一つしくじれば死ぬ、その恐怖こそがミスを誘発する死の病だった。

だが、対するは日本最強。
この男に限ってはその病に罹ることはない。
自衛隊最強。一つの国の頂点に立つ武力。日本国の守護者。
その誇りこそが死の病を跳ねのける特効薬である。

荒れ狂うその領域に臆することなく、大田原は前へ。自ら一歩を踏み込む。
振り回された鉄球が如き拳をダッキングにより紙一重で避けると、そのまま流れるように胴タックルへと移行する。
だが、赤き魔人は倒れず、堪えるように踏みしめた地面に一文字が刻まれた。

タックルに失敗し、自身の胴に抱き着くように動きを止めた相手に向かって剛一郎はハンマーの様に握りしめた鉄拳を振り下ろす。
大田原は剛一郎の大樹のように分厚い体に抱き着いたまま、それを軸にくるりと回って鉄槌を避ける。
そしてそのまま背後へと流れるように回り込むと、その背に跳びついた。
足を絡め親に背負われた子の様な体勢から、蛇のように腕を絡ませ首を絞め上げる。

スリーパーホールド。裸締めとも呼ばれる締め技の一つ。
意識を刈り取らんとする責め苦から逃れるべく、剛一郎は狂ったように暴れまわる。
食い縛った口端から泡のような唾液を噴き出しながら背に張り付いた敵を引き剥がさんと藻掻くその様は、まるで猛獣だ。

だが、背後の死神は剥がれる気配すらなかった。
完璧に決まった裸締めからは逃れる術はない。
武器の通じぬネメアの獅子を絞め殺したヘラクレスが如く。
三日三晩かかろうとも相手を絞め殺すまで離れることはないだろう。

だが、永遠に解除されないはずの裸締めが唐突に解除された。
裸締めを解いた大田原は、駆け上がるようにして巨大な剛一郎の背を蹴って跳んだ。
ムーンサルトのように弧を描いて後方に宙返りをすると、大田原が飛び去ったところに一瞬遅れて、月光のような銀の光が流れた。

両の足で着地する大田原。
そして、その目の前には筋肉を肥大化させた赤黒い狂戦士と。
その脇に居る、剣を振り下ろした体制のまま大田原を睨む少女の姿があった。

サラリと黒髪を振り乱す紅白巫女。
仕留めそこなった相手を忌々し気に睨みつけ、怯むことなく真正面から対峙する。

大田原はそれらを真正面か見据え、速攻には出ず様子を伺う。
慎重なスタンスを取るのは目の前の少女を測りかねていたからである。

ここまで大田原は天二、剛一郎と連続して『当たり』を引いている。
これが異能に目覚めた村民の標準なのか、それとも上澄みなのか、現時点では大田原には判断がつかない。
仮に女が同程度の実力者であるのなら、流石に2人同時に正面から相手どるのは少しだけ面倒だ。
異能を発動前に殺害できたのならベストだったのだが、少女には攻撃を躊躇わせる何かがあった。

「な…………ぁ…………」

その姿を見て変化があった自衛隊員だけではない。
暴れ狂うだけの狂戦士が動きを止め、少女を見つめる。
紅白の少女が映るその瞳に、徐々に正気の光が灯ってゆく。

「…………ぶ、無事だったのか!? 春ちゃん!」
「当然であろう」

さらりとそう言って、春姫は大田原から視線をそらさず自身の被っているヘルメットを示す。
そこには小さい黒墨のような弾丸の痕があった。

放たれた弾丸がたまたま手にしていた宝剣に当たり、僅かに軌道が逸れた弾丸がヘルメットに当たった。
その衝撃を頭部に受けて、暫しの間気を失っていたようである。
ヘルメットがなければ即死だった。

彼女が助かったのはそんな偶然であるのだが、彼女はそれを当然であると疑っていない。
自身の幸運を疑わない。これこそが彼女を彼女足らしめる強烈な自我である。

「この兜はうさぎより献された品ぞ、妾を救うは必然であろう」
「そうかい」

その一言に、剛一郎はふっと口元を緩める。
その瞬間。ああそうか、と理解した。

己の守護りたかったもの。
己の守護るべきもの。
それがいったい何なのか。

「春ちゃん。友達を大事にしなよ。一生の宝だ」
「………………」

春姫は無言のまま、ここにきて初めて大田原から視線を逸らし剛一郎を見据えた。
全てを見通す黒曜石のような瞳で剛一郎を見つめる。
剛一郎もその瞳を正面から見つめ返した。
今度は目を逸らさない。

月光を照り返す、流れるような黒の髪。
整った目鼻立ちは月の女神が怯む程に美しい。
意思の強さを示す様な眼光の鋭さは父譲りか。

竹馬の友と初恋の君よ。
あぁ本当に、どちらにもよく似ている。
性格だけは、どちらにも似ても似つかないけれど。

「不遜にもこの妾に手を出した不敬者を誅してやろうと思うたが」

春姫は興味を無くしたように踵を返し、宝剣を鞘へと仕舞う。
剛一郎に背を向けて、大田原からすらも完全に視線を切った。

「妾は行く」

言って、春姫は歩を踏み出した。
まるで夜の散歩でも興じるような足取りで、悠然と最強の隣を闊歩する。

戦場に似つかわしくないあまりにも自然な足取りに、大田原ですら呆気に取られた。
だがそれも一瞬。当然それを許す大田原ではない。
自身の脇を通り過ぎようとする少女にその魔手を伸ばす。

だが、その一瞬の隙間を縫って剛一郎が割って入った。
手四つの形で相手の動きを受け止める。

「ではな。村の守護者よ。その本懐を存分に果たすがよい」
「応ッ、ともさぁ――――――――ッ!!」

それだけを告げ、振り返ることなく村の始祖たる女王は行く。
その背後を守護るは国の守護者に比べてあまりにも小さい、小さな村の小さな守護者。
やはり自分は、これがいい。

剛一郎が守護りたかったのはこの村の未来だ。
愛する者たちを育み、愛する者たちの生きる、この村の全てが愛おしい。
だからこそ愛する村を守護るために、愛する村人を殺さねばならない、その矛盾が剛一郎を苦しめた。

だが、未来とは何だ?
子供を殺してでも村が在り続ければそれでいいのか?
違う。村の未来とは、それを担う子供たちの事だ。

今も育まれていた若者たちの友情に、剛一郎は未来を見た。
心に浮かぶのは、日が暮れるまで駆けまわった懐かしき田園風景。
現実も知らず、夢を語るだけの未熟な子供でしかなかったあの頃。
共に手を取り、輝かしい未来を夢見た

厳一郎は村長として村を発展させた。
急激な変化は多くの歪みを齎したが、ただ緩やかに滅びゆくだけだった村を守護った。

総一郎は村外で法律家として多くの経験を積み、妻の妊娠を契機に村に戻って来た。
急発展により多くのトラブルを抱えた村に法の敷き秩序を守護った。

ならば剛一郎は人を守護ろう。
それがこの村を愛する剛一郎の役割だ。

かつて自分たちが未来(そう)だったように、新しい未来を創るのは子供達の役目だ。
春姫のように若者のたちがこの未曽有の危機に立ち向かっている。
ならば、このVHは村の希望達が解決してくれると信じて、彼らの背を守護るが大人の役目だ。

今ならば迷わず、胸を張って言える。
この村を守護る事とは子供たちを守護ることだと。

「そうだろ、ゲンちゃん! ソウちゃん!」

手四つによる押し相撲。
これは純粋なる筋肉のぶつかり合いである。
単純に力の強い方が勝つという至極単純な原始の戦い。

老いたりとて剛一郎は腕相撲では負け知らずの力自慢である。
それが異能によるブーストを得たのだ、虎に翼といえるだろう。
剛一郎の体勢は前がかりに、最強の刺客たる大田原を押し切り始めた。

このまま敵を押しつぶして制圧できる。
その芽が見えてきた所で。

「スぅ―――――――――――」

ガスマスクの下で大きく息を吸うのが分かった。
瞬間。防護服をはちきらんばかりに男の筋肉が膨らむ。

「なっ……………くッッ!?」

押し相撲が徐々に盛り返され始めた。
異能により強化された剛力が、単純な筋力によって押し返される。

「こんな……………こと、がッ!!」

押し負ける。
極限にまで鍛え上げられた凄まじい剛力。
これに対するには剛一郎では力が足りない。

否。力はある、あったはずだ。
春姫が撃たれたと思ったあの瞬間の激昂。
今の自分はあの瞬間には程遠いと自分自身でも自覚している。

春姫の生存を確認して、剛一郎は冷静さを取り戻した。
それと同時にあの力の充実も失われてしまった。

今の剛一郎の心を満たすのは、この村の守護者としての誇りと決意である。
だが、それでは足りない。
疲れ切って糖分を求めるように、足りない栄養を寄越せと脳が疼く。
誇りや決意じゃダメなのだ。異能のトリガーはこれではない。

怒りだ。
煮え滾るような憤怒が足りない。
誇りを守るために、誇りは不要だ。

剛一郎の愛した村の未来。希望。子供達。
それら全てを奪わんとする外敵に―――――怒りを燃やせ。

「ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

剛一郎の筋肉が再び尋常あらざる隆起を始めた。
皮膚は徐々に赤に染まり、その筋量は異常なまでに変貌を遂げる。
例え敵が人の極限であろうとも、人知を超えた肉体に敵うはずもない。
相手を叩きつぶすだけの筋力を得て、力を力でねじ伏せようとしたところで。

ふっと押し合う相手の力が抜けた。

剛一郎の体がつんのめる。
その足を払われ、前へと籠めた強大な突進力をそのまま利用されるように、その体が空中に放り出された。

これが合気なる技の合理。
理性のない獣などなにするものぞ、『暴』を制するがための『武』である。

そのまま宙でクルリと回された体が、背から地面へと叩きつけられた。
地面を叩き割る程の衝撃。
しかし、狂戦士に痛みを感じる理性など無く、叩きつけられて程度で鋼の肉体にダメージなどない。
剛一郎はすぐさま跳ね起きようとするが、それよりも早く振り上げられた硬い靴底がその喉元に振り下ろされた。

ゴリィという何かが潰れる音が響く。
それは1度だけでは終わらず。2度、3度と繰り返し全力で喉を踏みつける。
もはや完全に喉を潰され絶命しているのではないかと思われたが。
容赦なく振り上げられた4度目が振り下ろされる前に、その足首が取られた。

「ぎぅぅぅるるるぉぉおおおお―――――――――――!!」

潰れた喉から声にならぬ獣の雄叫びを上げて、全身から湯気を挙げた赤鬼が立ち上がる。
100Kgを超える大田原の巨体をまるで人形のように振り回して、地面に叩き付けんと鉞の様に大きく振りかぶった。
そして全力で振り下ろす、その落下速度たるや、ジェットコースターの比ではなかろう。
だが、地面に叩きつけられる前に、大田原の体がすっぽ抜けたように宙に放り出された。

大田原は中空で反転して、四足獣の如き体制で砂埃を上げ地面を滑りながら静止する。
その片手には血の滴るナイフが握られていた。

見れば、先ほどまで大田原を握りしめていた剛一郎の右手小指が欠けていた。
玩具の様に振り回されているあの状況で、大田原は小指の関節を正確に狙って切り落としていた。
握ると言う行為において小指は重要な役割を持つ。
それが欠けた状態で掴んだものを振り回していれば、すっぽ抜けるのも当然と言うもの。

腰元のホルダーにナイフをしまった大田原は、素手で構えながら挑発する様に手招きした。
それに乗せられるように猛牛の如く理性を失った剛一郎が突撃する。

放たれる突撃の勢いを乗せた剛打。
城壁すら打ち崩さんとする威力を籠めた一撃だが、それは余りに直線的すぎる。
大田原はそれに合わせるように痛烈な掌打を放ち胸の中心を強打した。
周囲に衝撃波すら走る程の直撃はしかし。

「………………っ」

大田原のガスマスクの下の顔が歪む。
鋼の肉体にダメージを与えるに至らず、むしろ、痛んだのは衝突を真正面から受けた大田原の方だった。
痛みを感じぬ狂戦士は止まらず、懐にまで踏み込みすぎた大田原の体を捻り潰さんと、両腕を広げたところで。

「ッ……ガ……………ぽっ」

その巨体ががくりと崩れた。
見れば、その顔には先ほどまで以上の血管が浮き上がっており、赤く染まっていた顔色は青が混じり紫色になっていた。

打撃によるダメージではない。
大田原が狙ったのは呼吸である。

どのような超人であろうとも酸素が無ければ人間は活動できない
むしろ肥大化した筋量に比例した酸素が必要となる。
その供給を強制的に断ち切った。
何より異能が脳の拡張により発生する物であるのならば、酸欠による脳機能の低下はクリティカルな効果があると大田原は推察した。

その為に喉を潰し、相手の呼吸に合わせて肺を強打した。
銃もナイフも使用しなかったのは、単純に拳(これ)が一番内部に響くからである。

剛一郎が地面に上がった魚の様に酸欠に喘ぐ。
その無防備となった首元に、早打ちの様にナイフが引き抜かれた。

煌めく銀光が美しいまでの線を描く。
線が首元を辿り、全てを終えた大田原が背を向ける。
僅かに遅れて剛一郎の首から壊れた水道管の様に赤い血が噴き出した。

「が………………ぁ……っ」

大量の血を流し、剛一郎の頭から血の気が引いて行く。
激昂していた意識が強制的に引き戻された。

だが、取り戻した意識が抜け出す血液と共に急速に遠ざかってゆく。
薄れる意識。
怒りも遠ざかってゆく。
そんな中で、剛一郎が想うのはただ一つ。

――――山折村。

彼の愛する故郷。
彼の愛する者たちの生きる場所。
初恋よりも、友愛よりも、剛一郎の奥底には常にこの山折村があった。

己がどうなってもいい。
せめて、その未来だけは守護らねば。

崩れ行く全身に力を籠める。
筋肉の収縮で頸動脈を止血した。
一時しのぎにもならないだろうが、一瞬持てばそれでいい。

敵は剛一郎を仕留めたと思って背を向けている。
故に、勝機はこの一瞬。
この一瞬に命燃やし尽くして、相打ちになってでも止める。

この村の希望を、未来を、若者たちを守護る。
その為に、若者たちの未来を奪うべく送り込まれたこの男だけは――――!

(――――俺が、連れて行くからよぉ!!)

己が命を燃やし尽くし、相手を道連れにせんと男の背後から襲い掛かる。
その指先が、男に掛かろうとした瞬間。

ボッ。と目の前の男の体が掻き消えた。
それが身を捻る動作であると気づいた瞬間には、全てが終わっていた。

それは正しく、希望ごとへし折るような一撃だった。

振り返りざまに放たれた鉄拳は全ての歯をへし折りながら剛一郎の口内にぶち込まれた。
そして、そのまま顔面ごと地面へと向けて拳を叩き付ける。

届かない。
決意と狂気に異能と言う埒外の力を足しても、なお足りない。
この怪物を倒すには、怪物と同じく人殺しに人生を捧げた悪鬼でなければならない。

守護者は破れ、希望は潰えた。
否。違う。
そうではない。

これはただ老兵が敗れたにすぎない。
希望はまだ潰えてなどいない。

未来を担う若者たちがいる限り。
夢見た未来は。
次へ。

【郷田 剛一郎 死亡】


グポッという音を立てて、血と脳症のへばり付いた拳を引き抜く。

標的の完全なる絶命を確認。
周囲に伏兵や異変がないことを確認。
そこまでした所で、ようやく大田原は残心を解いた。

凄まじい執念の男だった。
あのスペックで理性を保っていたのなら大田原とて危うかっただろう。
おかげで随分と時間を懸けさせられた。

女が去って行った方向を見つめる。
道の先は夜闇に紛れて何も見えない。
あの調子で歩き続けているという訳もあるまいし、今から追ったところで追いつけはしないだろう。

娘が向かったのは南方である。
南部は成田と乃木平の担当区域だ。

北部は美羽と広川の、中央は大田原が一人で担っている。
特殊任務を与えられた黒木を除いた5人でローラーをかけられるとは最初から想定していない。
隊員の判断によるある程度のアドリブは許されているのだが、深追いをするよりは彼らに任せた方がいいだろう。

心技体において、大田原は自身を心が優れていると自負している。
大田原を上回る技を持つ成田や大田原を上回る体を持つ美羽がそう簡単に後れを取るとは思わないが。
ここまで連戦した敵の強さを考えると広川や乃木平は少々不安が残る。
特に状況を見極められる乃木平と違って広川に関しては精神面で心配なところがある。
万が一のことがなければいいのだが。

通信機器は封じられているが、ドローンに対するハンドサインによって本部への連絡は可能だ。
偵察用ドローンは妨害電波があるため遠隔操作ではなく特定軌道を巡る自動操縦である。
充電のため1時間ごとに回収され、その際に映像データを回収される。

隊員の安全を優先し、突入班の装備は防護服を突破できない軽装備に限定したが。
重火器とまではいかずとも、狙撃銃や短機関銃などの追加支援を要請すべきだろうか。

だが、高火力の装備が戦場に登場するのは自身に対してもリスクだ。
武器を暴発させる異能などと言うものがあった場合、自ら墓穴を掘る羽目になる。
……さて、どうしたものか?

【D-3/道/1日目・黎明】
大田原 源一郎
[状態]:右腕にダメージ
[道具]:防護服、拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.正常感染者の処理
1.追加装備の要請を検討

【E-3/道/一日目・黎明】
神楽 春姫
[状態]:健康
[道具]:巫女服、ヘルメット、御守、宝剣
[方針]
基本.妾は女王
1.研究所を調査し事態を収束させる
2.襲ってくる者があらば返り討つ
※自身が女王感染者であると確信しています

049.追跡者 投下順で読む 051.朝が来る
時系列順で読む 054.諦めの理由を求めて
郷愁は呪縛に転ず 神楽 春姫 野獣死すべし
郷田 剛一郎 GAME OVER
最強の男 大田原 源一郎 逃げ出すよりも進むことを

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最終更新:2023年02月08日 21:17