整備のされていない荒れ地を4人の男女が1列になって駆け抜けていた。
年代の近い女学生の中に場違いな白衣の男が混じっている奇妙な集団である。
活発そうな先頭の少女、茜が目の前に見える建物を指さして叫んだ。
「見えて来たよ!」
彼女の指さす先に見えてきたのは目的地である山折保育園である。
彼女たちは特殊部隊に追われ、避難を余儀なくされた者たちである。
保育園は周囲を壁で取り囲まれていた。
壁面には園児たちの描いたであろう動物や棒人間が楽しそうに踊っている絵が描かれている。
その周囲を忍び返しの付いた真新しい白い柵が侵入者を拒むように取り囲んでいた。
それは大人であれば越えようと思えば越えられる程度の高さの壁に不安を覚えた保護者からのクレームによって最近できたものである。
壁を伝うように走ってゆくと程なくして正面入り口に行き当たった。
入り口は両開きの門扉によって閉じられていたが、壁と違って門扉には忍び返しが付いてはいないようである。
その気になれば乗り越えられそうだ。
「私が行って、開けてくるね」
そう言って茜は門扉の天井に両手をかけると、ぐっと力を籠め一気に跳躍して門扉を乗り越えた。
そして保育園の敷地内へと着地する。
「うわっ。懐かしっ」
校門を越えたところで茜が目の前に広がる風景を見て思わずそう漏らした。
ここはかつて茜も通っていた保育園である。
年下の兄弟でもいない限りは訪れる機会はない場所だ、こうして中に入るのは10年以上ぶりである。
園児の頃など記憶など朧げなものだが、それでも実物を見れば流石に記憶も多少は蘇ってくると言うものだ。
砂場に滑り台、ジャングルジムといった遊具の置かれたグラウンドが広がり、その奥には小ぶりな2階建ての校舎が構えている。
一見した限りでは細かな違いはあれど全体的にはあまり変わっていないようだ。
ただ檻のように周囲を取り囲む柵のせいで、内側から見る外の景色の印象はかなり変わって見える。
それが少しだけ残念だった。
この山折保育園は茜も通っていた保育園だ。つまりは村が発展する前からある施設である。
校舎はかなり小ぢんまりとしたもので、近年増えてきた子供人口に合わせて改築予定だとか言う話だが、村がこうなってしまった以上どうなるのか。
だが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
茜は向き直ると門扉を調べる。
不用心な事だが幸運にも門扉を閉める閂には南京錠のような施錠はされておらず、閂を外すだけで開きそうだ。
茜は門扉の閂を外すと、門扉を開いて海衣たちを招き入れる。
「おまたせ! みんなも入って!」
「ありがとう、朝顔さん」
ひとまずは保育園に避難できたことを確認して海衣は安堵の息を吐いた。
全員が入ったところで念のため門扉を閉めて閂をかけておく。
「まずは手分けしてゾンビや他の人がいないかを確認しよう。
安全確認をしながら脱出ルートと監視ポイントの確保を行う、それでいい?」
花子の言葉を思い返して海衣は次の行動の指示を始めた。
これに茜が「異議なし」と元気よく返事を返すが、難色を示す大人が一人、与田だ。
「手分けする必要あります? 誰かが潜んでたら危ないじゃないですか、全員で行動しましょうよ」
「それは……そうですが」
与田からすればこの保育園は花子が合流するためのランドマーク、一時的な避難所だ。
だが、花子はここが決戦の地になる可能性を示唆していた。
そうであるのなら、戦いのための準備をする時間が必要だ。
しかし与田には黙っていろと言われているので直接そういうわけにもいかない。
とは言えここで時間をかけていては本末転倒である、どう説得すればいいのか。
「なら2、2に分かれるのはどうです?」
海衣が困っているのを察してか、横から茜が助け舟を出した。
「私と珠ちゃんがグラウンドの安全確認をしながら脱出ルートの確保をする。
氷月さんと与田さんは周囲を監視できそうな場所を探しつつ校舎を調べる、これでどうです?」
茜が折衷案となる割り振りを提案する。
いざと言う時に戦闘に使える異能を持つ海衣と茜が別れるのは戦力バランスとしては悪くない。
「危ない人が隠れてるなら早めに見つけといた方がいいですし。
それにほら、花子さんがくるまでに安全確認ができてないと怒られちゃうかもですよ?」
茜がそう続ける。
海衣は反応を伺うようにして与田に尋ねた。
「与田さんもそれでいいですか?」
「嫌だなぁ、僕は最初から反対なんてしてないですよ?」
「…………」
時間が惜しい状況だ、海衣はいちいち突っ込んだりせず話を進める。
ともあれ、方針は確定した。
4人はそれぞれに別れ保育園の探索を始める事にした。
■
決められた割り振り通り、茜と珠はグラウンドを探索していた。
開けたグラウンドに隠れられるような場所は少なく、遊具や用具入れのロッカーがあるくらいである。
ひとまず物陰を軽く調べた後、校舎の裏手へと探索の足を延ばす。
園児時代の朧げな記憶によれば裏口はこの辺にあったはずである。
「珠ちゃん大丈夫なの?」
校舎裏へと向かいながら、茜は珠の様子を気遣う言葉をかけた。
みかげの一件から珠の様子は沈んだままだ。
ただ落ち込んでいるというより混乱したようなどこか呆けた様子である。
その心境はいかばかりか。
「……うん。大丈夫。落ち着いてきたから。ありがとう茜さん」
珠はゆっくりと頷いた。
彼女の記憶の混乱はようやく落ち着いてきた。
自分の中で色々と感情の整理もついてきた。
「みか姉は……私たちを守るために、あんな嘘をついたんだよね……?」
「うん…………そう、だね」
追ってくる特殊部隊から珠たちを逃がすために、自分がマタギの指導を受けただなんて嘘を付いた。
みかげからすれば、珠たちの記憶を歪めた罪滅ぼしのつもりだったのだろう。
花子は諦めろと言っていたが、簡単に割り切れる問題ではない。
みかげを助けに行けもしないこの現状は茜ですらつらい状況である。
彼女と親しかった珠からすれば身を裂く思いだろう。
「けど、みか姉は間違ってると思う」
「え…………?」
だが、珠から出てきたのは意外な言葉だった。
「だって勝手に自分が悪いだなんて自分で決めて、嘘までついて危ないマネなんかして。私、みか姉に怒ってるんだよ」
みかげにとっては罪滅ぼしのつもりだったのかもしれないが、そもそもみかげに償うべき罪などない。
何度もそう言ったのに、勝手に自分で自分の罪を決めて勝手に償おうとした。
みかげに咎があるとするなら、そこだろう。
誰かがそうしなければならない状況だったとしても、あんな騙し討ちみたいなやり方はないと思う。
「だから、次に会った時に勝手した事、怒ってあげないと」
「うん。そうだね。そうしよう…………!」
みかげが生き延びて、再会できると信じて珠は未来を語り、茜もそれに同意する。
それがどれだけ望みの薄い事であるかなど理解しているけれど、それでも信じることを止めたくはなかった。
少女は少し大人びた表情で遠く光の見えない東の空を見つめた。
みかげは珠にとっては優しく頼りになる年上の女性だった。
けれど、彼女は思い悩み間違うこともある、一人の弱い少女だったのだ。
それをもっと早く理解してあげるべきだった。
あまりにも苦い経験を経て現実を知る。
少女は少しだけ大人になった。
■
校舎の調査を担当する海衣と与田はまずは1階を探索していた。
限界集落だった頃から変わらぬ校舎は小さなもので、1階にあるのは年少クラスの教室と職員室、あとはトイレくらいである。
園児の教室には机や椅子のないため、人影の確認だけなら一瞥するだけで済む。
むしろ個室を確認しないといけないトイレの方が面倒だった。
更に面倒なのが職員室である。
教員用の机が並び、雑多で死角も多い。
与田は海衣の後ろに隠れるように追従しており、あまり役に立ちそうにない。
海衣は仕方なしに覚悟を決め、職員室の中を突き進んでゆく。
「氷月さんも保育園は懐かしいものですか?」
流石に女子高生の後ろに隠れる成人男性という図にバツの悪さを感じたのか与田が話しかけてきた。
「いえ、私は……通ってなかったですから」
「あれ? 氷月さんは山折村出身だと思ってましたが違うんです?」
デリカシーのない質問だなと海衣は静かに目を細める。
富豪だった夫婦が没落して山折村に落ちのびてきてから生んだのが海衣である。
生まれも育ちも山折村だが保育園には通ってはいなかった。
「両親が付きっ切りで見ていたから……通う必要はなかったんです」
「へぇ。熱心なご両親なんですねぇ」
義務教育と違い、保育園は両親の育児負担を減らすためのものである。
海衣は物心つく前からずっと両親が付きっきりで教育していたから、義務教育でもない保育園に通ったことはなかった。
だが、その教育は熱心などという生ぬるいものではなかった。
「そんないいものじゃないですよ。礼儀作法だの花嫁修業だの物心つく前からそんな事ばかりさせられて」
両親が返り咲くために、顔も知らないどこかの富豪に嫁ぐための技術ばかり叩き込まれた。
それは子供を売り飛ばすも同然の行為だ。
だから、そこから逃げ出すために両親に隠れて勉強を続けてきた。
「僕も子供の頃から勉強ばかりでしたけどね。まあ僕の場合は好きでやってた事ですけど」
「そうなんですか?」
「ええまあ。勉強と言っても、好きなことを好きなように学んでいたらこうなったって感じですよ」
海衣にとって勉強は両親の元から逃げ出す逃避の手段だ。
勉強自体を楽しめていたというのは海衣からすれば羨ましい話である。
「与田先生は研究所の人なんですよね…………?」
「まあ……そうですね」
海衣に対してハッキリ明言したことはないが、花子との会話を聞いていればわかる事である。
「自分が、頑張ってきた成果がこんなことになってしまって、与田先生はどう思ってるんです?」
それは与田を責める文脈で言っているのではない。
頑張った先に報われなかったらどうするのか。
自分の境遇と重ねてただそれが聞きたかった。
「うーん。事故は不幸だったと思いますし、バイオハザードを引き起こしてしまったのは研究所の管理責任があると思いますけど。
自分がやっていた研究自体は間違っていたとは思わないですね」
「それは、今でもですか?」
「ええ。正しいと思ってやってた過去が変わる訳でもないですから。まあ大した仕事を振られてなかったですけど……」
それが強い信念のもとになされた発言なのか、究極の無責任からの発言なのかは分からないけれど。
結果がどれだけ悲惨であろうとも行ってきた過程に後悔はないと研究所の研究員はそう言っていた。
「あっ。けどこうなった責任とれとか言う話はやめてくださいね。そういうのは上の人にお願いしますよ」
後者かもしれないなと海衣は思った。
■
2組は調査を終え、校舎の昇降口に集まっていた。
そこで互いの探索で得た成果を報告し合う手筈である。
まずは茜が報告を始めた。
「とりあえず、校舎裏やグラウンドには誰もいなかったよ。ゾンビもなし。
裏口は校舎奥にあるんだけど、あれって給食の運搬口だったんだね、いやー今更知ったよ」
「朝顔さん」
すぐに話の逸れる茜を海衣が窘める。
「ごめんごめん。裏口には校舎の外から回り込んでも行けるけど、校舎に繋がる給食運搬用のルートがあったから、いざとなればそのルートで逃げられると思う。
けど、裏口には鍵がかかってたから、鍵は必要かな。多分職員室にあると思うけど」
「大丈夫。それは回収しておいた」
そう言って海衣がポケットから鍵を取り出す。
職員室を探索した際に先んじて裏口の鍵を拝借していたようだ。
これで脱出ルートに関しては問題なさそうである。
茜の報告を聞き終え、続いて海衣が探索結果の報告を始めた。
「校舎(こっち)にも誰もいなかった。とりあえず園内は安全みたいだ」
花子の予測通り深夜の保育園にいた人物はいなかったようである。
先んじて誰かが潜んでいた、と言う事もなさそうだ。
この保育園内にいるのは海衣たち4人だけと考えていいだろう。
「2階の保育室から出られるベランダが監視に適していると思う。まずはそこに移動しよう」
海衣の言葉に従い4人は監視ポイントと定めた2階のベランダへと移動する。
流石に校舎の反対側までは見えないが、それなりに視界も広く校門から花子たちがやってくるであろう方向まで監視できそうだ。
ひとまずの安全は確保され、脱出ルートと監視ポイントも確保できた。
僅かだが状況を落ち着き余裕ができたところで、与田が茜と珠に向き直る。
「それじゃあ、今のうちにお二人を診ておきましょうか」
「診るって怪我をですか? それはありがたいですけど……」
診療所の医師である与田に念のため診ておいておくに越したことはないとは思うが。
メンタル面のケアは必要であろうが、周りの助けもあってか今のところ怪我と言う怪我はしていない。
僅かに戸惑う茜と与田の間を海衣が取り成す。
「与田先生は他人の異能を見抜く異能を持ってるから、診てもらった方がいい」
「そうなんだ。けど自分の異能くらいなんとなくわかってるよ?」
「それを「なんとなく」じゃなくしようという事」
診ると言っても、胸に聴診器を当てたりする必要はなくただ見るだけで完了する異能だ。
実際の所、視界に収めれば済む話なので改めて診るまでもなく、それを伝えるだけの作業なのだが。
「まずは朝顔さんですが、あなたは超分子振動を操って手で触れたモノの熱振動を大きくする異能ですね」
そう与田が茜の異能を要約する。
しかし説明を受けた茜は首を傾げた。
「振動、ですか? けど、私の異能って炎が出たりするんですけど」
「温度は分子振動のふり幅ですから。大気の発火点に達する温度が生み出せるなら炎が出ることもあるかもですね」
「?? どいう事?」
茜は理解できないのかますます首をかしげた。
そして助け舟を求めるように海衣へと視線を送る。
「えっと。温度っていうのは、物質の熱振動をもとにして規定されていて、振動が大きい程温度は高くなるものなんだ」
「振動すると温度が上がる…………震えると体が温まるとかそんな感じ?」
「うーん、シバリングとはちょっと違うんだけど、どう説明すれば……」
説明がうまくいかず海衣は頭を悩ませる。
これまで一人で勉強ばかりしてきて、人に勉強を教える機会なんてなかったから、こういった説明は苦手だ。
「まあ、原理としては電子レンジと同じですよ」
「いやー、電子レンジの原理が分からないんですけど……」
「…………電子レンジか」
そう与田が説明をまとめる。
茜としてはよくわかっていないようだが、海衣はなにやら納得してるようだ。
とりあえず茜への説明義務は果たした与田は、続いて珠へ説明を始める。
「日野さんはこれから起きる事象を光の大きさとして可視化する異能ですね」
「事象ってなんですか?」
「ゲームで言えばイベントみたいなものですね。人や物に関わらず大きな出来事ほど大きな光として見えるようですね」
光の先には落ちている物があったり、訪れる人が見えたり。
言われてみれば腑に落ちる心当たりはいくつかある。
そして、襲いかかかった特殊部隊はかつてないほど大きいな光に見えた。
あれがイベントの大きさと言うヤツなのだろう。
「じゃあ、今も何か光は見えるの?」
「えっと、外の方には何にも、園内なら……あの辺が光ってるかな……?」
茜から差し込まれた疑問に対して、珠が指さしたのはグラウンドにある花壇だった。
2階から見る限りではなんの変哲もない花壇だ。何かが埋まってる訳でもさそうである。
「本当にあってます?」
「僕に言われてましても。彼女が見てるのはあくまで何かるかもという可能性ですから」
珠が見ているのはあくまでこれから起きる可能性だ。
必ずしも今そこに何かあるとも限らない。
「なら、見張りはこのまま私がやっていい?
私の異能が一番見張りに向いてると思うし、誰か近づいてるなら見逃さないよ」
そう珠が自ら見張り役に手を上げた。
ここまで呆けているだけで迷惑をかけたのを少しでも取り返そうと張り切っているようだ。
確かに、訪れる存在を光としてとらえられる珠であれば見張りには適任だろう。
「なら珠ちゃんはこのまま2階で周囲の見張り。私と朝顔さんは念のためグラウンドに降りて入り口と周囲を警戒。
与田先生はここで珠ちゃんについて、彼女がなにか見つけたら私たちに報告してください。いいですか?」
「ええ、いいですよ。安全そうだし、パシリは得意ですから!」
与田は思った以上に快く連絡係を受け入れてくれた。
それに若干引きつつも見張り役と連絡係の2人を残して海衣と茜は1階に降りて行った。
ベランダから教室に入り、1階へ着く会談に降りる。
いろいろとバタバタしていたが、ようやく海衣と茜は2人で落ち着いて話が出来そうな状況になった。
「……朝顔さん。少しいい? 話があるんだけど」
1階に降りてゆく階段の途中で、ふと海衣が足を止め僅かに思いつめた様子で切り出した。
その様子に気づいた茜も足を止めて振り返る。
「いいけど、どうしたの改まって?」
不思議そうに海衣を見つめ彼女の言葉を待つ。
だが、自分から切り出しておいて、どう話せばいいのか海衣は僅かに逡巡する。
「特殊部隊が追いついて、ここで戦いになるかもしれない」
どう伝えたらいいか考えぬいた結果、そのまま伝えることにした。
遠回しな言葉を選ぶなんて器用な真似なんてできないし、危険が迫る可能性を誤魔化しても仕方がない。
「準備がしたい。手伝ってくれる…………?」
そう言って、祈るように手を伸ばす。
誰かに頼ることに慣れていない彼女の精一杯。
不安を押し殺して伸ばされた手を、茜は迷うことなく掴んだ。
「もちろん。何したらいい?」
「ありがとう。一つ考えがあるんだけど、そのために確認することがある」
協力が得られたことに感謝を伝えながら、海衣は妙なことを訪ねた。
「朝顔さん。あなた、氷は溶かせる?」
■
「ねぇ。与田先生」
「どうしました? 何か見つけたんですか?」
「うんん。そうじゃなくって聞きたいことがあって」
ベランダから周囲に目を向けたまま珠は隣で退屈そうにしていた与田にそう切り出した。
「診療所のお医者さんだと思うんだけど、白衣を着た若いお医者さんって心当たりってある?」
「白衣と言われましても、白衣はみんな着てますからねぇ」
「うーん。それもそっかぁ……」
当然と言えば当然の返答である。
当てが外れて珠が口元をとがらせた。
「その人がどうかしたんですか?」
「何でもないよ。見覚えのない人を前に見かけたから、ちょっと気になっただけ。多分先生より若い人だったと思うんだけど」
珠の曖昧な誤魔化しも特に気にした風でもなく与田は答える。
「僕より若い人ってなかなかいないですよ。あの診療所に研修医はいませんから。
ああけど、そう言えば一人東京の方から飛ばされてきた人は人がいましたっけ。
なんでも本部の副部長のお気に入りで、いきなり主任だってんだからやになっちゃいますよねぇ。僕なんて3年働いても全然出世しないのに」
そう言って与田は己の境遇を愚痴りはじめた。
だが、突然始める大人の愚痴を聞かされる中学生の気持ちもやになってしまうと気づいてほしい。
珠は適当に相槌を打ちながら、肝心の所を尋ねる。
「それでその先生は何て人なんですか」
「ああ、名前はですねぇ――――」
■
「花子さんが帰ってきましたよーー!」
見張りを始めて程なくして、2階から駆け降りてきた与田が昇降口からそう叫んだ。
これ以上花子の到達が遅れていたなら、彼女は死んだものとしてこの場を離れる手筈だった。
グラウンドでその報告を聞いた海衣はそうならなかった事に、ひとまずほっと胸をなでおろした。
海衣は花子を出迎えるべく門扉の方へと小走りで近づいて行く。
それとほぼ同時に閉じられた扉門を苦も無く飛び越え花子が保育園の中へと着地した。
「おかえりなさい。ご無事で何よりです。首尾はどうなりましたか?」
「うん。お出迎えありがと。そうね。悪い方の懸念通りになりそうだわ」
その報告に海衣が表情を引き締める。
保育園での決戦が現実味を帯びてきたようだ。
「ところで、茜ちゃんは何をしてるの?」
「あれは……練習と言いますか、実験と言いますか」
視線の先では、茜が手にした何やら奮起している。
よくわからないが、うまく行っていないようだ。
「ふーん。それで、海衣ちゃんはどういう作戦を考えたのかしら?」
グラウンドの様子を見ながら、花子が海衣に尋ねた。
見透かしたような、試すような物言いにもいい加減慣れてきた。
海衣は怯むことなく花子の視線を見つめ返し、自らの考えた作戦を説明する。
「……なるほどね。少なくとも私にはない発想だわ」
海衣の提案を聞き終えた花子は神妙な様子で頷いた。
「ダメ……でしょうか?」
不安そうに海衣が訪ねるが、花子はどこか悪い顔をしながら首を振る。
「いいえ。悪くない案よ。私にはない発想だからこそいい。これなら追手があの子だったとしても十分に嵌められる」
「あの子?」
「こっちの話。そうねぇ。少し足りない所もあるけど、その辺はフォローするわ」
そう言って海衣の提案をベースに足りない部分を補強し始めた。
聞いたばかりの作戦に的確にメスを入れ手を加えてゆく。
「あとは準備が間に合うかね。時間はそれなりに稼げただろうけど、それでもギリギリか。
よし、ここまで来たらセンセたちにも手伝わせましょう」
そう言って、昇降口から不思議そうな顔でこちら見つめている与田に視線を向ける。
それを見て、海衣も少しだけ気になっていた事を思い出した。
「ところで、混乱してる珠ちゃんはともかく、なんで与田さんにも戦いになるかもって言っては駄目だったんですか?」
「だって私がいない状況で特殊部隊と戦うかもなんて聞かされたら逃げるでしょ、あの人」
あっけらかんとそう言ってのけた。
それはそうだと納得する。
「ところで作戦名はどうするの?」
「作戦名…………ですか?」
「そ。決めといた方が気分が上がるでしょ」
そう言うものだろうか。
海衣にはよくわからない感覚である。
「あなたの作戦よ、あなたが決めて」
「そうですねぇ…………それじゃあ――――」
■
保育園からいくらか離れた草原。
荒れた野に溶け込むような迷彩色が疾風のように駆け抜けていた。
それは抹殺任務を負った秘密特殊部隊の隊員、黒木真珠という女だ。
真珠は標的が保育園に逃げ込んだと定めた。
確証と言うより、当たれば良し、外れれば出直しの博打である。
その結果を確認すべく一路保育園を目指していた。
そしてしばらく走っていると真珠の視界にも保育園の賑やかな絵柄の壁が見えてきた。
何とも緊張感の薄れる絵だが、標的に関わらず敵が潜んでいる可能性のある場所だ。
真珠は警戒を最大限に高め、走っていた歩調を緩め慎重な足取りで距離を詰めてゆく。
そして、たどり着いた保育園の外壁に背を這わせ銃を構える。
周囲を警戒しながら慎重に壁を伝うように移動して、入口へと回り込む。
閉じた門扉がマスク越しの視界に入った。
罠の有無を確認してからそれを軽く跳躍して乗り越える。
音もなく園内に入り込んだところで。
「んだぁ…………こりゃ?」
そう戸惑いの声を上げた。
たどり着いた保育園は異様な有様になっていた。
そこにあったのは氷の城だ。
壁に覆い隠されていたグラウンドにはいくつもの氷塊が壁のように突き立ち、空を覆い隠すように氷が天を塞いでいた。
氷壁が張り巡らされまるで迷路のようである。
「いつの間にか舞浜にでも迷い込んじまったかぁ……?」
真冬の北海道ならまだしも、6月の岐阜でこんな氷が自然発生したなんてことはあり得ない、
この迷宮の存在は逆にこの保育園に何者かが潜んでいる事を証明していた。
これを作ったのは特殊部隊がやってくることを予測した何者かであることは間違いない。
状況からして恐らく足跡の隠蔽工作を行った人物だろう。
これがハヤブサⅢであるという想定で追ってきたのだが。
元より無理な当て推量ではあったが、当てが外れたと真珠は感じていた。
こんな露骨で目立つやり方は奴のやり口じゃない。
もっと陰湿で目立たないやり方を好んでいたはずだ。
真珠の任務はハヤブサⅢの抹殺。
無視するわけではないが、正常感染者の排除はひとまずは二の次にしていい。
その状況で、リスクを冒してまで標的のいない場所に飛び込むのは躊躇われる。
罠だと分かっている場所に突っ込んでいく馬鹿はいない。
飛び込むとしたら、飛び込まざるをえない理由がある場合くらいのものだろう。
露骨な罠に付き合わせるには『餌』が必要だ。
極上の餌が。
真珠で言うなら、そう――――そこに標的がいた場合だ。
漆黒の瞳が氷の城内に人影を捉えた。
その瞬間、全身が総毛立ち、口端が吊り上がる。
真珠は反射的に構えていた銃の引き金を引き保育園の入口から弾丸を打ち込んでいた。
弾丸は人影に直撃して、標的がひび割れて砕け散った。
視界に映ったのは本体ではなく、氷鏡に映った虚像だったようだ。
だが、構わない。
何せようやく見つけたのだ。
探し求めていた標的、ハヤブサⅢの姿を。
氷面上に一瞬移っただけだが見間違えるはずがない。
標的は鏡像の映る範囲、つまりはこの氷の迷宮の内部にいると言う事だ。
真珠は氷の迷宮へと自ら足を踏み入れて行った。
露骨な罠に露骨な餌だが、こうまでちらつかされては踏み込むしかない。
ようやく見つけた獲物だ、無視などできよう筈もない。
「らしくなってきたじゃねぇか」
無視したくともできない状況にする。
この陰湿さこそ真珠の知るハヤブサⅢだ。
真珠は罠が待ち構えると知る氷の迷宮へと踏み込んでいった。
氷面鏡に自身の姿が反射する。まるでミラーハウスだ。
どこに何がいるのか正確な位置が分からなくなりそうだ。
全身を防護服によって守られているため分からないが、周囲の気温も相当下がっているはずだ。
罠を警戒しながら慎重に氷の通路を進んでいくと、視界の端にまたしても標的の姿が一瞬移った。
それも鏡像だったのか、銃口を向けるがすぐさま消えた。
(…………誘い込まれてるな)
ワザと姿をちらつかせている。
この先に罠があるのは確実。
問題はどういう罠かだ。
「付き合うかよ」
言って、真珠は目の前の氷壁を前蹴りでぶち抜いた。
大人しく迷路に付き合うギリはない。
最短距離を突き進んでゆけばいいだけだ。
壁か崩れたことにより、迷宮全体が僅かに揺れた。
この氷城は急造の一夜城以下の数分城だ、下手に破壊すると倒壊しかねない。
それを理解しながら真珠は構わず敵の罠ごと破壊する勢いで、砕氷機のように氷を砕きながら突き進んでゆく。
「ちょっとちょっと。相変わらずやり方が強引ね」
強引な突破に、たまらず相手の方から出てきたようだ。
氷でできた袋小路。拳で殴り砕いた先に、白い息をため息の様に吐いてその女は立っていた。
逢いたくてたまらない恋人に出会ったように、口端を吊り上げ熱のこもった視線を向ける。
「…………よぅ。会いたかったぜハヤブサⅢ」
「ハロー。ここまで追って来られるのはあなただと思ってたわ。真珠」
言って、楽しそうに笑いあいながら、あの時と同じように互いに銃を突き付けあう。
海上の豪華客船で生まれた因縁は氷の迷宮で再会を果たした。
「けど、ダメじゃない真珠。私なんかに釣られてこんな所に来ちゃうなんて」
「問題ねぇよ。あたしの標的は端からてめぇだよ」
そう言って、銃を構えながら顎先で相手を指す。
その言葉に花子は意外そうな顔で僅かに目を見開くと、すぐに眉をひそめた。
「そう言う事? だったら出て行かない方がよかったかしら………しくったわぁ」
失策に悔しさをにじませるよう目を細める。
住民の皆殺しではなく花子を仕留めるという別任務を担っているのなら、露骨な罠を嫌ってそのまま保育園を避けたかもしれない。
餌をちらつかせ引き込んだのは早計だったか。
まあ事前に知りようのない話なのだから仕方ないと気を取り直す。
「それで、SSOG(そっち)はどれだけ事態を把握してるのかしら?」
「アホか。言う訳ねぇだろ。これから殺す相手と今更情報交換もねぇだろ」
「そうね。けど、あなたを殺しちゃったらもう情報を聞けないじゃない。今聞いておかないと、ねぇ?」
女エージェントは変わらぬ微笑のまま、さらりと言ってのけた。
その言葉を受け、特殊部隊の女は愉快そうに笑った。
「違ぇねえな。じゃあ聞いてやるよ、お前何でこの村にいる? 何を探ってやがった?」
「言うと思う?」
「思わねぇな」
拷問にかけたところで簡単に口を割る相手ではないことは互いに理解している。
情報を引き出すのならもっと別のアプローチが必要だろう。
「お互い持ってる情報をオールインして勝った方が全取りってのはどうかしら」
「悪かねぇ提案だがダメだね。お前が報酬を持ち逃げしないと限らない」
「信用ないわねぇ」
「ったりめぇだろうが。てめぇがあの船で何したか忘れたわけじゃねえだろうな」
二人の因縁が始まった豪華客船での潜入任務。
情報を持ち逃げしたあの時の仕打ちを忘れてはいない。
「そうね。けどお互い重要な話は明かせないとして、明かせるカードくらいはあるでしょう?
せめてどうして私を狙うのかくらいは教えてくれてもいいでしょう?」
真珠は僅かに押し黙る。
答える必要はない問いだ。
だが、研究所にハヤブサⅢがどう関わっているのか興味があるのも事実だ。
その対価として支払うのにこの情報の価値は如何ばかりか。
「別に大した理由じゃねぇよ。当初はお前らだけが特殊部隊を倒しうる戦力と想定されていたからだ」
「あら。それは光栄かつ迷惑な話ね。けれど、当初はってことは今は違うのよね?」
この問いに関しては真珠は肩を竦めるだけで否定も肯定もしなかった。
異能が素人ですら特殊部隊も殺しうる劇薬であるだなどと想定しろと言うのが無理な話だ。
今のこの村は特殊部隊すら殺し得る初見殺しが横行している。
「まだ私を狙ってるってことは理由はそれだけじゃないでしょう?」
単純に戦力的な脅威と言うだけなら、誰もが危険人物となりうる今の状況でも花子だけ狙い続けるのは無意味な話だ。
まさか私怨と言う事もあるまいし、それでも任務を続けるからには何か別の理由があるはずである。
「おっと、こっちの番だ。お前はこの村に何をしに来た? 何が目的だ」
「決まってるでしょ、そりゃあ研究所の調査よ。観光でもしに来たと思った?」
「だぁほ。研究所の何を、何のためにって話だよ。お前とブルーバードが送り込まれるなんて早々ある話じゃねえだろ」
こんなでもハヤブサⅢは世界でも指折りの工作員だ。
動くからには相応の事情や背景があるはずである。
研究所は蓋を開ければ開いてはならないパンドラの箱だったが、事前にそれを知っていたのだろうか?
「それを調べるための任務だったのよ。ここの地下研究所で行われている研究内容と進捗状況の確認。
そして、それが都合が悪い状態だった場合、破壊工作を行う。それが私がこの村に来た理由よ」
「あん? ってこたぁ、研究所ぶっこわしてウイルスをバラまいたのはお前か?」
「場合によってはそうなっていた可能性は否定しないけど、今回の件は違うわ」
やるにしたってこんな無駄に被害をまき散らすようなやり方はしない。
これは事故か素人、あるいは狂人の仕業である。
「それじゃあ私の番。結局私を狙う理由はなんなの?」
改めて問われ真珠は大きく舌を打つ。
しぶしぶと言った態度で答える。
「通信機だよ。お前の持ってるそれがなければ、妨害電波は一般通信を妨害するだけでよくなるからな」
隠蔽工作を目的とするSSOGにとって最悪なのは外部への連絡が取られる事だ。
その中で最も厄介なのが花子の持つ通信機である。
これがなければ、妨害電波は一般回線を塞ぐだけで済む。
つまり、花子が死ねば軍用回線が解禁される。
特殊部隊は連携が解禁され大幅に強化されると言う事だ。
「あらら。責任重大ね私」
「心配すんな。てめぇの死んだ後の話だ、あの世なら責任逃れもできるだろうよ。
じゃあ次だ。肝心な部分を話せよ」
「あら、どういう意味かしら?」
「惚けんな。誤魔化しが通じる相手じゃねえぞ」
「ま、それもそうね」
先ほどの花子の説明は『何を』するつもりだったのかという目的部分でしかない。
肝心の「何故」そうする事になったのかという理由部分を説明していない。
「けど、流石にその情報はお高いわよ。今のまま支払いが足りないわ」
誤魔化しではなくハッキリと否定する。
「はっ。ふざけやがってそれじゃあこっちが払い損じゃねぇか。なら釣りは命で払ってもらおうか」
言って真珠の殺気が膨れ上がり言葉が途切れる。
互いに明かせるカードはここまで。
後はやることは一つだけ。
ジリと、凍ったグラウンドを踏みしめ静かに睨み合う。
弾かれたように視線がぶつかる。
瞬間。白いマズルフラッシュが氷面に反射した。
同時に引き金が引かれ、互いに首を傾け弾丸を躱す。
真珠は弾丸追いかけるように距離を詰め、花子は逆をつくように氷の通路を駆けだした。
花子は駆け抜けながら背後に向けて牽制の銃弾を放つ。
だが、真珠は気にせずその後を追って駆け抜ける。
走りながらの射撃などそう簡単に当たるものではない。
何より、当たったところで最新鋭の防護服の前では致命傷にはならない。多少は痛いが。
最短距離を駆け抜ける真珠が背後に追いつく。
強く地面を蹴り、花子の背に向けて矢の様な飛び蹴りを放った。
「くっ…………」
花子は上体を振り向かせガードを挟むが、勢いに弾かれ地面を滑る。
体勢を崩したところに容赦なく弾丸が撃ち込まれる。
だが、花子はすぐさま氷柱の影へと跳び退き身を躱した。
真珠はすぐさま氷柱を蹴り砕くが、既にそこに花子の姿はない。
見れば、砕いた氷柱の先にある氷の通路を真珠から離れるように駆け抜けていた。
「ちっ」
近接戦ならば圧勝するのは真珠だ。
まともにやり合わないのは当然の立ち回りだが、だとしても狙いが読めない。
仕留める算段があるのか、それともただの時間稼ぎか。
氷の迷路で時間を稼いでいる間に、他の連中を裏から逃がそうとしている。
みかげが逃がした連中を匿っているのならばありうる可能性だ。
迷宮と言う形からも時間稼ぎという目的はイメージしやすい。
いや、だとしてもこんなど派手な迷宮を築き上げる必要はないはずだ。
ハヤブサⅢであれば時間を稼ぐだけなら保育園の校舎でも出来るだろう。
奥に誘い込み、氷の城を倒壊させてそれに巻き込もうとしている可能性。
単純に考えれば一番あり得る罠だろう、この迷宮も圧殺に必要な氷を用意したという事で説明もつく。
だがそうなると囮となったハヤブサⅢまで巻き込まれる。
奴に対処できる程度の規模の罠ならこちらが対処できない道理はない。
自爆覚悟の戦術を取る女か?
そもそもこんな氷の城自体がらしくない。
奴の思考とトレースしように急激にノイズが混じって狙いが読めなくなる。
真珠は先読みを諦め、読めないのならば狙いごと破壊するつもりで駆ける。
そして、ハヤブサⅢを追って角を曲がった所で広がる氷の回廊の上。
そこに標的が背を向けて立ち止まっていた。
それは誰の目にも明らかな隙だったが、真珠はその奇妙な行動に警戒し即座に距離を取った。
「―――――――そこ」
未来視でもするかの如く、振り返った花子が真珠の足元を指さした。
何かが来る。その直感に従うように、震える様な振動と共に氷の天井が崩れ落ちた。
真珠の頭上にむかって巨大な氷塊が落ちる。
だが、その程度の事は予測済みだ。
「こんなもんで仕留められるかよッ!」
頭上に落ちてきた氷塊を戦斧のような回し蹴りで打ち砕く。
氷柱割りの一つや二つ彼女にとっては容易いものだ。
氷塊は踵に触れた瞬間、簡単に弾け飛んだ。
いや、簡単すぎる。
殆ど手ごたえがない、
これでは氷と言うよりほぼ水だ。
(………………水?)
蹴りから居直った真珠が周囲を見る。
溶けているのは天井だけではなかった。
強固だった氷壁は汗をかいたように濡れている。
その気づきを得た瞬間。氷の城が一斉に溶け落ちた。
■
特殊部隊の女が辿り着くより少し前。
保育園のグラウンドでは茜を除く4人は急ピッチで氷の迷宮の建築に勤しんでいた。
与田と珠がホースで水をまきその水を海衣が凍らせる。
花子が全体を見て形を調整しながら建築作業を進める。
「何で溶けないのぉ~!」
そんな中、グラウンドの端で茜は握りしめた氷を片手に苦戦していた。
茜は熱を生み出す異能のはずなのに。
どういう訳か氷がまるで溶ける気配がない。
茜による氷の迷宮の解凍は作戦の要である。
これが出来なければそもそも海衣が立てた作戦が成り立たない。
「電子レンジで氷は溶かせないのよ」
「え、そうなんですか?」
現場監督を務めていた花子がそう囁いた。
苦戦している茜を見かねてアドバイスをしに来たようだ。
「正確には「あたため」では氷は溶かせないので「解凍」にする必要があるってことね」
「あたためと解凍ってどう違うんです?」
「はい。センセ解説」
「え、何んです?」
話を振られた与田が水撒き作業の手を止めて駆け寄ってくる。
「何で電子レンジで氷が溶けないのかって話」
「ああ。えっとですね、電子レンジはマイクロ波によって物体の水分子を熱振動させ過熱させるんです。
けど、氷は固形物ですから水とは固有振動数が違うんですよ」
「こ、固有ぶん…………?」
「要は氷を溶かすには氷に合わせた振動数が必要ってことね」
小難しそうな用語に思考を停止させかけた茜だが、花子が簡単に要約してくれたので事なきを得た。
「けど、振動数って言われてもわっかんないよ」
話は理解できてもどうしたらいいのかまでは理解できない。
氷の固有振動数と言われても何が何だかだ。
「厳密な原理を理解する必要はないんじゃない? むしろ、そういう過程をすっ飛ばせてこその異能でしょう?
要はイメージよ。氷を溶かすイメージを持ちなさい。きっと、原理は後からついてくるから」
花子のアドバイスを受け、茜は氷の城を作るべく頑張っている少女の姿を見つめる。
氷のような表情でずっと一人で机に向かって少女。
海衣の作った氷を溶かす、凍った心を溶かすように。
「………………それなら、出来るかも」
■
凍てついた氷の迷宮は、一人の少女の生み出した熱によって溶け落ちた。
迷宮を構成していた大量の水が洪水のように一斉に降り注ぐ。
その中心にいた花子と真珠を水浸しにするが、防護服に全身を包んでいる真珠に影響など殆どない。
影響があるとしたら生身で氷水を浴びせられた花子の方である。
壁となっていた氷壁が消え視界が開ける。
そこには真珠たちを挟むようにして地面に手を付く二人の少女の姿があった。
どちらかがこの氷の迷宮を作り出した異能者であると真珠は瞬時に理解する。
つまり、罠は迷宮のどこかにあったのではなく迷宮その物。
あの大掛かりな氷の城自体が真珠をこうして濡らすためだけの罠だったのだ。
となると狙いは真珠を巻き込んでの再凍結。真珠を氷に閉じ込めるつもりだ。
だが、そんなことをすれば近くにいるハヤブサⅢも巻き込まれる。
真珠が纏っているのは極地戦を想定した最新鋭の防護服だ。
同条件ならば割を食うのは相手の方である。
そんな事には構わず少女の腕から冷気が放たれた。
濡れた地面を伝って氷が奔る。
氷は一瞬で真珠の足元へとたどり着き、全身を這い上るように伝って行った。
氷に飲み込まれる。
その直前、真珠は同じ境遇にある標的を見た。
「まったく、順路を無視してくるから立ち位置調整が大変だったわよ」
だが、凍結したのは真珠だけだった。
所々に霜のような氷は張り付いているが花子は凍り付くでもなくその場に平然と立っている。
そうして氷に捕らわれた真珠から離れるように一歩下がるとその霜もあっという間に湯気となって消えて行った。
花子の立つグラウンドからは白い蒸気が立っている。
どういう訳か、花子と真珠を挟んで、グラウンドは極寒と灼熱に別れていた。
正確に言えば二人を挟む二人の少女によって、世界は切り分けられていた。
熱を下げる異能者と熱を上げる異能者。
同系統でありながら対極の異能者が都合よくこうして集まっている。
その運命がこの熱寒の世界を作り出し、エージェントと特殊部隊員の命運を分けた。
「ッ……嘗、めるなッ!」
だが、この程度では止まらない。
特殊部隊の女は全身を覆う氷を物ともせず動き始めた。
現代科学の粋を集めた最新鋭の防護服はこの程度でどうこうなるモノではない。
大きく腕を振るって関節を固める氷を砕き、叩き付けた腕で腰元の氷を引きはがす。
そして根のように張り付いた足を振り上げようとしたところで、それを阻止するように花子が力強く手を振り上げた。
「――――――撃ち方、始めぇッ!!」
「なっ!?」
その合図に真珠は狙撃を警戒するが、彼女に向けられたのは銃口ではなかった。
グラウンドの端。小さな少女が構えるのは花壇のホースだった。
鉄砲は鉄砲でも水鉄砲である。
ホールの先端からビームのような勢いで大量の水が放出された。
真珠の両足は氷によって固定されておりそれを避ける術を持たない。
水流の直撃は防護服の力で跳ね返せたが、その水は真珠を攻撃する目的ではないことなど明らかだった。
伝う冷気がホースから吹き出した水を次々と凍らせてゆき、真珠の体を徐々に巨大な氷が覆って行く。
「……このっ、こんな」
氷を溶かして凍らせる。
言ってしまえばただそれだけの策。
敵の戦術レベルに合わせて対策を練るのは戦術の基本と言える。
故にこその見落とし。こんな子供だましの様な策を読み切れなかった。
「こぅんんのぉおおおおおおおおッッ!!!」
真珠が叫びをあげ全身を振り乱して体に張り付いた氷を振りほどかんと足掻く。
だが、それよりも新たに氷が張る速度の方が早い。
全身を覆う氷は牢獄のように厚く重なって行き、真珠の体を閉じ込めてゆく。
「ちっくしょおおおおおおおお――――――!!」
絶叫すらも氷中に閉じる。
この瞬間、保育園の中央に1体の氷像が完成した。
水が打ち付ける音だけが静寂のグラウンドに響く。
ホースを地面に置いた珠がゆっくりとグラウンドの中央にある氷像へと近づいて行った。
珠はらしからぬ鋭い目つきで氷像を睨みつける。
「死んじゃった、の?」
「どうかしらね」
ここに特殊部隊の女がいるという事はその足止めに残ったみかげを突破してきたという事だ。
みかげの生存を信じているが、それでも思う所はある。
もしそうだとしたら、目の前の氷像はみかげの仇ともいえる相手になる。
珠にとっては許せない相手だろう。
だからこそ、花子は珠に役割を持たせた。
海衣の作戦から花子が付け加えたのは2点。
自らを餌として敵を誘い込むこと。
そして、最後の詰めで珠を巻き込んだことだ。
溜飲を下げさせるのが目的ではない。
使える物を使うため、その感情を利用した。
どれだけ憎い相手だろうとも普通の人間は人殺しを忌諱するものだ。簡単に人を撃つことなどできない。
だが、銃の引き金は引けずとも水鉄砲なら打てる。
海衣は珠をそこまで巻き込めないと考えたのだろうが、花子はそこまで考えて巻き込んだ。
「まあ、あなたも思う所はあるでしょうけど、放置するしかないわ」
「…………はい。そうですね」
そこに役目が覆えた海衣が近づいてきた。
そして珠と話していた花子へと耳打ちする。
「…………トドメは刺さないんですか?」
「できれば刺したいけど、氷が邪魔になって手段がないのよね。このまま窒息してくれればいいんだけど」
正直花子としても特殊部隊は減らしておきたい。
だが、花子のベレッタM1919では防護服は撃ち抜けない。それは証明済みである。
マスク部分を狙えば可能性はあるかもしれないが、それも厚い氷が覆って難しそうだ。
防護服を突破できるとしたら茜の異能だが、氷を解かすことになるのは藪蛇になりかねない。
今後も対特殊部隊を想定するなら高火力の銃器が欲しいところだ。
「とりあえずこの場を離れましょう。いつまでも氷像の前でやり取りしているのも気味が悪いしね」
花子が全員に呼び掛ける。
氷中に閉じ込められた経験などないので、中の状態がどうなっているのかはわからないが。
生死すらわからず、相手が聞いていないとも限らない状態で、次の目的地なんて相談するのは躊躇われる。
5人は念のため氷像を回り込み事前に確保しておいたルートで裏口へと向かって行った。
裏口の鍵を開き、動けなくなった氷の彫像を残して保育園を後にする。
「それじゃあ、改めて茜ちゃんと珠ちゃんの話を聞きたいし、落ち着けるところを探しましょうか」
【D-3/保育園脇の道/1日目・午前】
【
田中 花子】
[状態]:疲労(中)
[道具]:ベレッタM1919(3/9)、弾倉×2、通信機(不通)、化粧箱(工作セット)、スマートフォン、謎のカードキー
[方針]
基本.48時間以内に解決策を探す(最悪の場合強硬策も辞さない)
1.落ち着ける場所を探して茜と珠から話を聞く。
2.診療所に巣食うナニカを倒す方法を考えるor秘密の入り口を調査、若しくは入り口の場所を知る人間を見つける。
3.研究所の調査、わらしべ長者でIDパスを入手していく
4.謎のカードキーの使用用途を調べる
【
氷月 海衣】
[状態]:罪悪感、疲労(小)、決意
[道具]:スマートフォン×4、防犯ブザー、スクールバッグ、診療所のマスターキー、院内の地図、一色洋子へのお土産(九条和雄の手紙付き)、保育園裏口の鍵
[方針]
基本.VHから生還し、真実に辿り着く
1.保育園から離れる。
2.女王感染者への対応は保留。
3.嶽草君が心配。
4.洋子ちゃんにお兄さんのお土産を届けたい。
【
朝顔 茜】
[状態]:疲労(小)
[道具]:???
[方針]
基本.自分にできることをしたい。
1.保育園から離れる。
2.優夜は何処?
3.あの人(小田巻)のことは今は諦めるけど、また会ったら止めたい
[備考]
※上月みかげの異能の影響は解除されました
※能力に自覚を持ちましたが、任意で発動できるかは曖昧です
【
日野 珠】
[状態]:疲労(小)
[道具]:なし
[方針]
基本.自分にできることをしたい。
1.保育園から離れる。
2.みか姉に再会できたら怒る。
[備考]
※上月みかげの異能の影響は解除されました
※研究所の秘密の入り口の場所を思い出しました。
【
与田 四郎】
[状態]:健康
[道具]:研究所IDパス(L1)
[方針]
基本.生き延びたい
1.花子に付き合う
2.花子から逃げたい
■
人の消えた保育園に冷たい風が吹いた。
グラウンドの中央には人間を閉じ込めた美しさと残酷さを兼ね備えた1体の氷の彫像が聳え立っていた。
氷中の真珠は氷に閉じ込められながら、静かに眼光をぎらつかせている。
彼女の体は防護服に守護られ、水の一滴も流れ込んでいない。
凍傷や低体温症の心配はないだろう。
問題は酸素を取り込めないこの状況だが。
あらゆる極地戦を想定されたこの防護服は当然、水中戦も想定されている。
周囲からの酸素供給がなくなった場合、吸収缶による呼吸洗浄から圧縮酸素による酸素補給に切り替わる仕組みとなっていた。
圧縮酸素の残量は精々1、2時間程度。それまでにこの氷の牢獄から脱獄せねばならない。
とは言え、日当たりも風通しもよい屋外である。
完全に溶け落ちずとも、ある程度溶け落ちれば中から砕ける。
それくらいまでは酸素も持つだろう、だがかと言って無駄遣いもできない。
興奮は呼吸量を増やす。
真珠は静かに氷の中で頭を冷やして精神を落ち着けていた。
その内側で怒りと殺意を煮えたぎらせながら。
氷の中からマグマが解放される瞬間を待っていた。
【D-3/保育園グラウンド中央/1日目・午前】
【
黒木 真珠】
[状態]:氷漬け
[道具]:拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.ハヤブサⅢ(
田中 花子)の捜索・抹殺を最優先として動く。
1.ハヤブサⅢを殺す
2.氷使いも殺す。
3.余裕があれば研究所についての調査
[備考]
※ハヤブサⅢの現在の偽名:
田中 花子を知りました
※上月みかげを小さいころに世話した少女だと思っています
最終更新:2023年09月24日 01:56