診療所のすぐ隣に、威容をもってそびえ立つ高山。
ここは数時間前にジャーナリストの斉藤拓臣が奮闘虚しく命を散らした地だ。
どの方角にせよ、彼が村から脱出することはできなかっただろうが、その前提を踏まえても彼は破滅的なまでに運がなかったと言えるだろう。
大田原、乃木平、成田、美羽、広川、黒木。女王斬首チームはいずれも村の西部および南西部からローラー作戦のように行動を開始した。
それが表すことは、山折村の南西の深山にはSSOGの作戦拠点が設立されているということにほかならない。
先客の斎藤拓臣は異能を用いて、周囲の山林に溶け込み山を駆け上った。
その道を今一度、駆け上がる者がいる。
拓臣のように、彼もまた周囲に擬態するような外見をしている。
しかしそれは異能ではない。
山岳地帯に最適化された科学技術の結晶たる防護服。
この村でそんなものを纏っているのは、山岳を封鎖する勢力と同じ、特殊部隊にほかならない。
山林に仕掛けられた数多くのトラップの位置も避け方も、同じ特殊部隊ならば心得ている。
ガスも自動掃射銃も避け、F1とF0の境目までやってきた来客。
彼を出迎えるために、封鎖部隊の一班、五十嵐フジエと三藤探がただちに現場に急行した。
「forget-me-not。敵前逃亡は重罪です。持ち場に戻りなさい!」
勿忘草をコードネームに持つ訪問者は、封鎖部隊の到着を待ち構えるかのように立っていた。
仮に四肢を失い、ほうぼうの体でたどり着いたのならば傷病兵としてリタイアさせることもできるが、見た限りでは健康そのものだ。
逃亡兵に情けは無用。銃殺刑に処すのが法である。
「処罰ならば後で受けます。
差し出がましい真似をしますが、司令部への伝令をおこないたい」
「伝令……ですか?
それは、防衛線を一部薄くするリスクを冒してまで必要なことなのでしょうね?」
銃を構えた新人隊員の五十嵐フジエ、その声は冷たく鋭い。
此度の作戦において、女王斬首班に選出されなかったことへの不満もあるのだろう。
「必要です」
天は断言する。
その気迫に一切の気後れはない。
フジエはしばし面食らい、代わりに探が前に出てきた。
「すべてはこちらに。
そしてただちに隊長へと届けていただきたい」
「確認します」
車中にて、特急で仕上げた報告書である。
一枚ペラの紙だが、要点はすべて抑えた。
マスク越しでも、フジエと探の表情が険しくなるのが分かる。
「wisteria、すぐに司令部に届けてくれたまえ。
正午になる前に! さあ、走りたまえ!」
「りょ、了解いたしました!」
診療所に一歩踏み入ったところで目撃した異様な痕跡。
死体がすべて無くなっている上に巨大な何かをずるずると引き摺ったような跡があちこちについている。
この事態を引き起こした者など明らかだ。
小隊規模のワニの群れが近くで身を潜めている可能性を加味、危険度を上方修正した。
さて、司令部への連絡は手信号を通して可能だが、
此度の情報はとても伝えきれることではない。
診療所から西端の作戦区域外までは全力で駆け抜けて、往復で十分程度。
情報を抱え込んで死ぬリスクと、10分強の間に同行者――特に
スヴィア・リーデンベルグに逃亡されるリスク。
そして、彼女を取り戻そうと躍起になっているであろう二人に追いつかれるリスク。
すべてを天秤にかけ、得た情報を一度司令部に連絡することを選んだ。
真理に安全の確保とスヴィアの見張りを命じ、その間にすべての情報を吐き出しておくことにしたのだ。
推定黒幕、実行犯、第二波リスクに隔離案。
前提が覆れば、任務の遂行にも支障をきたす。
これらをどう使うか、決めるのは奥津だが、手札が多いに越したことはない。
探もまた、この意図を正しく判定できるだろう。
「隊長には私からも口添えしておくことにしよう。
それから、君は境界を超えてはいない。故に敵前逃亡は犯していないとも、ね」
探はニッと笑う。
このあたりを冷静に見抜けるのは、初任務を終えたばかりの新人と中堅の差だろう。
あと一歩西側に踏み出せば作戦行動範囲外。
だが、その境界は決して超えない。
もちろん、別に多少超えたところで実影響など皆無なのだが、このあたり、天は非常にマメな男だ。
「この情報は『ジャーナリストの斎藤拓臣氏が、研究員とエージェントに接触し、命をかけて掴んだ情報』だ。
彼の命をかけた最期のニュースを、我々は有効に活用する義務がある。そうだね?」
SSOGは村の周囲を封鎖しており、『村内には展開していない』。
故に、天が持ってきたものは、『斎藤拓臣の記録から獲得した』貴重な情報という扱いになる。
知らぬところで特ダネをつかまされたジャーナリストは幸運なのか不運なのか。
天はすぐ先で首を斬られ、眠るように死んでいる拓臣に目を配り、秒の黙祷を捧げた上で、
「ええ、それで問題ありません。よろしくお願いします」
探の提案を肯定した。
「それから、研究所に外部との専用回線が引かれている可能性がある。
こちらも調べておいてくれたまえ。何者かの介入があるとすれば大変よろしくないのでね」
「了解しました。確実に潰しておきます」
副官の真田から降りてきた情報だ。
拓臣の荷物を司令部に届けた際に向こうの情報を一部仕入れてきた。
研究所に訪問する隊員には伝えて然るべき情報である。
「これで用事はすべてかな?
他に、司令部と共有しておきたいことはあるだろうか?」
直近の用件はこれですべてだ。
村人の釣り出し作戦などはわざわざ司令部に許可を取るものではない。
同行した村人を待機させているのだ。時間をかけすぎる手はないが……。
もう一つ、欲しいものがある。
「gerbera。『手記』はあるでしょうか?」
「ああ、あるとも。君なら確実に求めるものだと思っていたよ。
心的な意味でも、利的な意味でも、ね」
マスクの裏でにやりと笑い、取り出すのは一台のスマートフォン。それとタップ用の指し棒。
その画面に映るのは、此度の全ターゲット、正常感染者の名簿である。
「blackpearlがミッションを達成したら、すぐにでも展開する予定だからね。
ともすれば、これが目当てなのではないかと思っていたのだが」
老若男女、村外民・村民・野生動物を問わず、村内64ブロックにおける午前までの村人情報。
正常感染者は午前10時時点で残り22名。
殺害相手への贖罪として、その存在を背負い続ける乃木平天は、心の面で確実にこれを求める。
探のプロファイリングにはそのように書かれている。
そして、任務を有利に進めるために、利の面でもこれを求めるだろう。
名前、そして確認できる限りの異能が載った名簿は値千金の価値がある。
リアルタイム情報からは一時間ほどのラグが出てしまう故に、村内から積極的に取りに来るものではないが、
境界まで足を運んだのであれば持ち出すべき情報だ。
正確性は後で確認するとしよう。
たとえば、『
独眼熊』という個体の異能『知能の強化』に取り消し線が引かれ、『異能の奪取』と訂正されている。
異能のほうは完全無欠の情報とまではいかないようだ。
しかし少なくとも名簿としては誤りはない。
防護服を脱げないため指し棒と共に、パスワード認証形式で貸与される。
情報は武器だ。初見殺しを防ぐことで、異能者のアドバンテージを大幅に削ることができるだろう。
「それでは、私はただちに任務に戻ります」
「ああ、しっかりと頼むよ」
研究所の機密情報を提供し、村人の個人情報を得て、天は再び村へと戻る。
犠牲者を出すことを忌み嫌いながら、部隊の方針に異を唱えることはない。
それどころか、状況次第では積極索さえ提案しうる。
博愛主義でありながら強硬策も否定せず、理念の正反対にあたる作戦ですら実行できる特殊性。
部隊の色に染まり、どんなに信条をぐちゃぐちゃにされても決して壊れきることはないその精神。
それは、自分の立てた作戦で犠牲者が出たとしてもすべての責を背負うことができ、
そしていざというときに心の中で涙を流しながら部下に死を命じることすらできるということに他ならない。
故に彼は幹部候補に抜擢されたのだろう。
――探は背を向けて去っていく後輩隊員のプロファイルにそう付け加えた。
(『一色洋子』さんに『氷月海衣』さん。
『天原創』さんに『哀野雪菜』さん。
『ワニ』と野生らしき少女の名は不明、ですか)
交戦した少年少女らの顔を思い浮かべる。
自ら殺害しすでに肉体すらこの世から消えた者、どこかで命を落とした者、これより殺害する者、あるいは……。
スヴィアが想いを見事に形にし、九死に一生を得る者もいるかもしれないが。
確かな意志でその死を背負うべきターゲット44名、生死問わず頭に叩き込み、天は再び診療所に向けて山を駆け下りた。
■
猛吹雪の吹き荒れる木更津組事務所。
そこだけ真冬のような様相だが、
その向かいに位置する保育園でも、見事な氷像が鎮座し、日光を受けてきらきらと輝いている。
彼女は燦燦と輝く太陽の光に向かって腕を伸ばしている。
それは、せめてもの抵抗の表れにも、最期の刻を悟ってすべてを諦めたようにも、最期の力を振り絞ったようにも取れる。
『天に懺悔を乞う哀れなる一兵卒』――見るものが見れば、そんなタイトルが付されるであろう見事な氷像である。
それほどまでに美しく哀れみを誘う外観であるが……。
(異能の危険度を見誤った結果がこのザマ、ってことかよ……)
その奥底では煮えたぎるマグマのごとき情念が渦巻いている。
それまでに真珠が遭遇した異能者は警官の薩摩のみ。
指先から銃弾を発射する異能だった。
直感的に分かりやすく、直情的な相手であったために対処は容易だった。
もっとも、仮にハヤブサⅢに与えられていれば、銃と格闘を交えて超接近戦に持ち込んだあと、靴先から蹴りと共に銃弾を撃つ――そんな驚異の初見殺しの異能となっただろうが。
(氷使いの女郎も、ずいぶん派手にやってやがる……)
氷漬けにされたマスク越しの目視、それも自らを覆う氷への反射を通した視認ではあるが、六月の気候にそぐわない猛吹雪ははっきりと認識できた。
ハヤブサⅢが真珠を抑えつけ、氷使いと熱波使いが後方から援護する。
厄介な組み合わせだ。仮に後衛を狙おうものなら、そのターゲット変更の隙をハヤブサⅢは確実に突いてくる。
氷使いの異能は戦術級といっていい。
あの範囲と速効性ならば応用もいくらでも効くだろう。
建物に追い込んで建物ごと氷漬けにすればそれだけで勝ちが確定する。
遠距離で仕留める、あるいは分断。
ハヤブサⅢとそのほかを分離なければ苦しい戦いになるだろう。
(いや、ダメだな)
警官とみかげたち三人に奇襲を試みたとき、隠密は完璧だったはずだ。なのにバレた。
それも、警官でもみかげでもない、先ほどホースを向けてきた最も幼い女学生が真珠の隠密を剥がした。
(あのホースのガキは多分そういう異能か特技を持ってる。
奇襲は通じねえ)
それでも圧倒できたから当時は気にしなかったが、今はハヤブサⅢが同行している。
先制は察知され、ハヤブサⅢにしろ後衛にしろ、狙いを定めるにはあまりに壁が分厚い。
一人では無理だ。自分一人ではどうにもならない。
泣き言ではなく、凍り付いている現状こそがその証左だ。
奥津から真珠に与えられた任務。
『本作戦の最大の障害になり得るエージェント…ハヤブサⅢの捜索、抹殺。
作戦中はハヤブサⅢを見つけ殺すことを最優先とし、その為に必要とあれば正常感染者も生かし、利用するべし』
(何も村人を利用するのは恥じ入ることじゃねえ。そのはずだ)
そう、正常感染者を生かし、活かすことが正式に許可されているのだ。
だが、心の奥で何かがつっかえる感じがした。
見落としがある気がする。
心のどこかに、直視したくない領域がある気がする。
心の迷いはまわりまわって、最後の最後にあるべき覚悟を阻害する。
勝負に挑む際には、必ず心的な課題は解決せよ。
そう肉親からも言われているし、SSOGの心得でも指導を受けている。
今は凍り付いて救助を待つしかない状況だ。
自らのおこないを思い返す時間も十分に生まれてくる。
この言い知れない気恥ずかしさはなんなのか?
半日間の行動を思い返す。
最初に出会ったトラックの女を殺害。ハヤブサⅢを追い、放送局を調査。
その後、襲いかかってきた警官を返り討ちにし、女学生たちの殿を努めたみかげを殺害。
ついにハヤブサⅢを含む集団を発見し、その罠にかかってあえなく返り討ちに遭う。
事実を並べ、一つ一つを検証していく。
そして。
(……あたしは、あたしは何をやってたんだ!?)
己の致命的な失態を悟った。
★
黒木真珠は武道家を父に持つ道場の娘だ。
男だらけの道場に華を添える幼い娘は、門下生たちのアイドルに他ならない。
かわいがられ、甘やかされることも多々ある。
女だてらに父親の跡を継ごうとするか、あるいは門下生たちにかわいがられて看板娘のような立ち位置に収まるか。
彼女はそうはならなかった。
彼女には四人のやんちゃな兄たちがいた。
仮に一人娘であれば、父親や門下生たちにだだ甘におだてられて、姫のようなワガママ娘になっていただろう。
だが、やんちゃな兄貴が四人もいれば、そのような甘えは子供心基準で死に等しい結果をもたらす。
幼い男児はレディーファーストなんて言葉は知らない。
お菓子は取られるし、おもちゃも部屋も占拠される。クリスマスプレゼントを壊されてしまうことすらある。
叔父や叔母がスイーツなど持って来ようものなら、血肉に群がるピラニアのごとき兄たちにすべて食われて、真珠のものなど残りはしない。
だから、実力でのし上がる必要があった。
★
標的(ターゲット)を一人に定め、執拗に追いすがり、そして最後は正面から打ち破る。
生来の負けん気の強さに、多少荒っぽくしたところでお咎めのない兄ばかりの家族構成、そして武道家の娘という環境が彼女をそう育てた。
最初の標的は四男の兄だった。
最も自分と歳が近く、しかしやんちゃ真っ盛りなガキ大将だった。
試合と称してボコボコにしてきた兄につかみかかり、何度もボコボコにされてはその癖や動きを覚えていった。
向こうから一撃で泣かされることは平常運転、こちらから奇襲して返り討ちに遭うことも日常茶飯事。
けれどその執念で兄に追随し、そして三カ月が経ったころ。
特訓と称して不意打ちをかましてきた兄を返り討ちにして泣かせ、ステップを一段上った。
次の標的は三男の兄だった。
機に聡く、お土産もおやつも必ずかっさらっていく兄。
彼の行動パターンを蓄積し、その手癖を何度も観察。
ついに争奪戦に勝利し、糧を勝ち取れるようになった。
家庭外でも、後から来たくせにグラウンドの使用権を主張してきたスポーツ男子たちを標的に争い、
はたまた取り巻き連れてマウントを取ってきたクラスカースト上位の同級生女子を標的にミスコンの座を巡って争い、
門下生を吹き飛ばして荒っぽく登場した道場破りを標的に道場の看板をかけて争う。
ナメた態度を取った相手に対する反骨精神、あいつには負けたくないという執念。
この二つが、真珠を格上に食らいつかせる。
そして、勝利をもぎ取ることで、こいつを超えたと心の底から実感する。
そのまま街に繰り出して散財するのは格別に楽しい。
内的報酬と外的報酬、一挙に獲得できる人生における至福の時間だ。
この反骨心の発現と解消の反復こそが、24歳という若さでSSOGに属し、いくつも成果をあげられるレベルにまで達した要因の一つである。
恨みを買った相手は執拗に追い詰める。
そして逆もまた然り。
憧れた相手にもまた、徹底的に接近した。
★
高校の折、社会見学として大手新聞社を見学した際のことだ。
見学を終えてクラスメイトとロビーに集合していた際、侵入してきた身なりのいい男が、身体中に燃料を染み込ませていた。
まだ高潔なテロリストであったころの物部天国が、国会議事堂爆破計画の隠れ蓑として選択したのが国内最大手の報道機関であった。
政府の犬たる腐敗した報道機関から国民を救うという大義のもと、
部下に大手五大紙爆破テロを起こさせて衆目を集め、陽動。
そちらに警備が割かれた隙を縫って本命の国会議事堂を爆破しようとする計画であった。
不良も道場破りも返り討ちにしたことのある真珠だが、本物のテロリストの前に無力さを思い知った。
彼の凶行を無効化する手段などまったく思いつかない。
何より、殺気など一切ない狂信者を相手に、命の危機を感じ取るのが致命的に遅れたのだ。
家族に叩き込まれた実戦への切り替えスイッチすら、善意の前にはひたすら無力だった。
純心な救済を掲げるテロリストに、彼女の経験は一切通用しなかった。
国内を揺るがしかねない大事件にも関わらず、犠牲者はゼロ。
たまたま現場に居合わせた勇敢な一般市民が隙をついて取り押さえ、犠牲者はゼロになったと被害を受けた大手紙自体が報道している。
テロリストには一切歯が立たなかったが、それを犠牲ゼロで無力化した男の身のこなしは覚えていた。
近接格闘術の使い手、最も可能性が高いのは自衛隊員。
当時はまだ一隊員にすぎなかった奥津の後を追った真珠は、その執念がSSOGの目に留まり、見事に入隊した。
奥津が隊長となったときに、最も上機嫌であったのは真珠だったと言われている。
★
ハヤブサⅢは抹殺すべき敵だ。
その一方で、豪華客船において共闘をおこなった間柄、その有能さも思い知った。
怨嗟の対象でありながら、尊敬する側面も少なからず持っていたのは確かだ。
ハヤブサⅢの思考トレースは、彼女であればこうするだろうという思考訓練を重ねて体得した後付けの代物だ。
そして純粋な近接戦闘では自分が上。
思考回路を互角にまで持ち込めば、地力の差で勝てる。
故に、特別任務を割り振られ抹殺の役を担った際には内心歓喜した。
気合もコンディションも十分、お膳立ても申し分ない、
だが現実は無情であり、結果は無様な敗北。
それも、本人はまったく手を下さないままの、完敗である。
自分が駒に勤しんでいる間に、ハヤブサⅢは駒のレベルをとっくに過ぎ去っていた。
奥津や真田のように、部下や協力者の考えを取り入れ、勘案する……そんな立場に収まっていたのだ。
つまるところ、真珠は決着をつけようと考えていたが、ハヤブサⅢは真珠を相手にしていなかった。
これだけなら、ただ『恥ずかしいね』で済む話だろう。
生還しても今後永遠に打ち上げのたびに擦られるだけの話だ。
問題はそこではないのだ。
ハヤブサⅢに煮え湯を飲まされたのは真珠だけではない。
その
豪華客船潜入作戦の総指揮を執っていた奥津もまた、彼女にしてやられた立場にある。
真珠以上にハヤブサⅢへの警戒を怠ってはいないだろう。
だからこそ、わざわざ隊員一人の枠を割いて、専任の抹殺指令を与えているのだ。
なぜ、指令に正常感染者を利用することをわざわざ付け加えたのか。
ハヤブサⅢとの戦闘は、対集団戦となることを奥津は見越していたのではないか。
少なくとも、一人で確実に勝利できる相手とはみなしていなかったのではないか。
SSOG隊員対村民の対集団戦は村内の至る所で起きているだろう。
その中で、ハヤブサⅢは当初からSSOGを倒し得ると仮定され、個別の抹殺指令まで出た相手だ。
同格の相手を含んだ敵集団、それも明らかな罠までついている。
そんな相手に単独かつ無策で挑むなど、基本以前の問題。
自衛隊どころか、警察や民間の警備員、そこらのごろつきですら避ける悪手中の悪手だ。
殺る気満々であった警官はともかくとして、知己のみかげならば取引もできただろう。
なのに真珠はハヤブサⅢとは自らの手で決着をつけたいという私情にこだわり、確実な抹殺のための味方を作ることを怠った。
つまり、任務と私情を完全に混同した。
その結果が、このザマなのだ。言い訳などしようもない。
真珠は、司令部で村内の状況を確認しているであろう奥津に、心からの懺悔を乞うた。
★
小一時間後。
司令部からの応答が来た。
それは天からの赦し。
真珠への返答は、上空から降り注ぐ熱湯の雨だ。
司令部とのやり取りはハンドサインによっておこなわれる。
天に助けを求めるように突き出した手、それは本当に天、つまり司令部に助けを求めたものである。
凍り付いた指の形は救命要求のハンドサインであった。
地雷の被災者は命までは奪われず、直ちに治療をすれば一命はとりとめるレベルの負傷しか負わない。
その威力の低さの理由は、被災者を救助するために人員を割かせるという目的があるからだ。
人間一人分の大きさを持つ氷の像を運ぶためにどれほどの手間が必要か?
SSOGの人員にそこまでの余裕はない。
だが物資ならドローンで運べる。
ドローンで支援物資を運ぶにあたって、消火資機材を改造し、タイマーで底が開くだけの箱を用意してある。
その箱の中身を熱湯にしてしまえば、全自動で狙った位置に熱湯の雨が降り注ぐ装置が完成する。
傘など立てられてしまえば破綻するが、監視カメラで逐一状況を見られるからこそ、今はこれで十分。
氷の溶解が早まり、指先が動くようになる。
水で濡らして凍らせる単純な策だから、救助も熱湯をかけるだけの単純な作業になる。
全身が動くようになるのも時間の問題だろう。
真珠の痴態そのものを体現したオブジェに、まるで出来の悪いコントのような救済劇。
ただただ、真珠の自尊心が削られていくだけである。
★
真珠は『最強』を標的に、『最強』に膝をつかせることを目標にしたことがある。
しかし、入隊して未だにそれは為されていない。
何故超えられないのかを問われ、答えることはできなかった。
真珠は任務は仕事として割り切っている。
その姿勢は、現『最強』大田原源一郎の滅私奉公とは対極にある。
『最強』との間にそびえる壁の高さを今さらながらに感じとった。
すでに作戦開始から半日。
これから失態を挽回できるのか、その答えは誰も教えてくれない。
だが、行動する以外にもう道はないのだ。
指先の氷が解け、自由に動かせるようになる。
このザマで支援の要請を惜しむ意味などない。
新たなハンドサインをドローンに向け、真珠は支援物資を要請した。
■
ただ強さだけが取り柄だった。
一桁の年齢のころから武道を修め、その恵まれた体格と才能で大会を勝ち進んでいった。
空手、柔道、合気道、ボクシング。様々な武に節操なく手を出しては、つまみ食いのように勝利をさらっていく毎日だった。
あらゆる大会で勝利を修め、しかしただ才能だけに任せた勝利は空虚なもの。
心躍る闘争を追い求めるも、ひたすらひたすら渇くばかり。
その日も全国大会で優勝し、控室で帰宅の準備を進めていたときだった。
「君が大田原源一郎君か。とんでもなく強いと評判だ。
どうか一つ、手合わせをお願いできないだろうか?」
声をかけてきたのは見慣れないスキンヘッドの男。
見知らぬ武道者から手合わせを求められることは初めてではない。
道場破りのような連中と試合をしたこともあるし、師範クラスの人間を下したことも何度もある。
人が二本足で歩くように、鳥が翼で空を飛ぶように、魚が水中を泳ぐように、此度の立ち会いも当然、大田原源一郎が勝利を収めるだろう。
その日、大田原源一郎は人生で初めて、完膚なきまでに敗北を喫した。
★
勝利は空虚だった。
次の日には勝利したという事実以外は忘れてしまうほどに、日常の一コマと化していた。
うってかわって敗北は苦い味だった。
次の日も、その次の日も、一週間後も、一か月後もその味は残り続けた。
「本日より諸君らの教官を務める。吉田無量大数だ。
今日は初日だ、訓練に入る前にまずは諸君らの現在の実力を見せてもらいたいと思っている。
カリキュラムはあらかじめレジュメとして配っておいた通りだ。
何か聞きたいことがあるなら今のうちだぞ?」
「上官殿がこの隊で最強だと聞いたが、それは事実なのか?」
「そうだ。私は最強と呼ばれており、私自身もそれを自覚している。
この最強の座というのは決して軽いものではない。
決して他の奴らには負けてはいかんということだ」
「逆に聞くが、上官殿を負かすことができれば、俺がナンバーワンということでいいんだな?」
「どうも血の気の多いやつがいるようらしい。
君らの誰かが私を下せば、潔く最強の座を受け渡そう。
ひよっこども、かかってこい」
SSOGに入隊したその日の初訓練。
大田原源一郎は当時最強の座についていた吉田無量大数相手に、二度目の完膚無き敗北を喫した。
★
「大たわけがあぁあっ!」
実地研修――といってもほぼ正規の任務と変わらないのだが――を終えた反省会。
鉄拳を受けた大田原二等兵の巨体が宙に浮いて吹っ飛んだ。
成田二等兵もくの字に折れながら吹っ飛んだ。
「誰が友軍の前に姿を晒せと言った!? 誰が救助を指示した!?
我々は表部隊に姿を現してはならんのだ!
貴様は命令を無視して、課された任務をおろそかにするのか!?」
「はっ! 出過ぎた真似をおこないました!
申し訳ありません!」
「あとそっちの反抗的な目をした貴様!
上官の命令なしに銃を撃つ大バカがどこにいる!?」
「がはっ、……も、申し訳ありません」
「貴様がムダにした数分と、貴様の尻拭いの数分で日本全体を危険に曝した自覚はあるか!?
我らの一秒は祖国が滅ぶか存続するかの分水嶺になると知れ!」
「はっ、理解いたしました!」
テロ制圧の折、伏兵に狙われていた友軍――表側の特殊作戦群のメンバーを助けたという命令違反による制裁である。
大田原と成田は作戦に影響が出ないほどに迅速に救助をおこなったが、綱紀粛正の対象であった。
「貴様らに自己判断は十年早い!
才があるなら多少の命令違反が許されるとでも思ったか?
一度タガが外れてしまえば、命令違反を繰り返す。そうなればもう使い物にならん。
我々は民間人ではない。秘密特殊作戦群、SSOGだ。
貴様たち一人一人の驕りが国民の安寧を脅かすことに直結すると知れ」
「「はっ、了解いたしました!」」
そう言われても、やはりピンとくるものではない。
成田も大田原も、日本を護るという崇高な理念などなかった。
己を打ち負かした男を超えたくて、銃が撃ちたくて、そんな私的な理由で秘密特殊作戦群の門をたたいたのだから。
「成田、貴様まだ反抗的な目をしているな……」
「うぇっ!?」
「どうやら貴様ら新兵は、まだそこのところの自覚が足りんらしいが……」
制裁モードから教官モードに切り替わる。
任務と命令は絶対とはいえ、体罰だけで躾けられた隊員は、自発性や柔軟性を欠いて使い物にならなくなる。
内面から湧き上がるモチベーションが必要だ。
「私もただ理不尽を君たちに押し付けるつもりはない。
士気の低いSSOGなど使い物にならん。
君たちは身体スコアに関しては例年以上に優秀だ。明日は予定を変更し、視察旅行にしゃれ込むのはどうだろう。
諸君らの『仕事相手』の仮想成果を見に行こうじゃないか」
「はっ!」
新兵たちは教官と共に、厳重に封鎖された看板の奥の廃墟群、重装備が必須とされる区域に侵入する。
元の住人は散り散りにこの地を離れ、活動している人間は政府や民間から派遣された処理業者のみだ。
ほんの数か月前まで人の営みがあったとは分からないほどに自然と同化した町。
けれども、その自然すらどこか歪で進化を捻じ曲げられたような印象を受ける。
郊外から中心部に向かうにつれて、荒れ果て具合はより顕著になっていく。
首輪で繋がれたまま息絶えた家畜に、ガレキに押しつぶされて誰にも引き取られぬまま白骨化した死体。
乗り捨てられた高級車は潮と泥にまみれて色を失い、スーパーの入り口に展開した商品は元が何であったか分からないほどに朽ち果てている。
アスファルトは雑草に食い破られ、住宅は竹やつる草に浸食されてしまった。
町から住人を一人残らず消し去ったことで誕生した死の街がそこに広がっていた。
「変わり果てた街を見たか?
明日をも知れぬ人々の声なき嘆きを聞いたか?
此度の『仕事相手』は、この悪夢を人為的に起こそうとしている。
無辜の民たちに、祖国に、滅びをもたらそうとしているのだ!
我々の任務をただの仕事だと思うな。使命と思え!
諸君らに与えられた溢れんばかりの才能は、今にも襲いかからんとする災厄から祖国を守り抜くために与えられたものだと知れ!」
教官が熱量を帯びた発破をかける。
大田原とて、報道でその惨状を知ってはいたものの、聞くのと実際に目で見るのとでは受け取り方はまるで違う。
乾いた風の吹き抜ける惨劇の地で、これから背負っていくものの重さを知った。
初任務は、今と変わらぬ暗部の任務。
国難に乗じて発電所の爆破を目論む他国工作員と傭兵から拠点を守り抜き、そして彼らを手引きした平和主義者の市民団体や国際環境保護団体の民間人を処理するものだった。
鎧塚核吾という初めての同格の敵、天才的な傭兵を相手に死闘を演じて引き分け、互いに殺し切ることはできなかったが、拠点を守り抜くことには成功した。
任務を終えて祖国を護り切り、前日に見た滅びた町と、変わらぬ祖国の風景が目の奥で重なり、国を背負う意味を知った。
そこでようやく、大田原は自身に才を与えられた意味を知った。
★
SSOGとして一年が過ぎる。
殉職率の高いこの部隊で一年も生き残れば、もはやベテランといっていいだろう。
ベテランの先輩も見どころのある後輩も等しく死んでいく中、大田原は順調に成果を重ねていく。
だが、今日も吉田を下すことはできなかった。
紙一重の差。
だが、その紙一重の差で何度も敗北を喫していた。
「肉体の頑強さも戦闘技術も、君は私を超えている。
だが、君は今日も私を下せなかった。
問おう。最強に最も必要なものは何か分かるだろうか?」
「…………」
最強が最強たる理由。
当時は何も答えられなかった。
ただただ、肉体を鍛え上げて技術を磨けばそこに到達できると思っていた。
だが、それは誤りだ。
もしそれだけで到達できるならば、最強は今も昔も美羽風雅で揺るぎなかっただろう。
「その答えを出せない間は、君が私を下すことはないだろう」
★
「答えは出たのか?」
大田原は大きく頷く。
「では、模擬戦を始めるとしよう」
そして、二つの肉体が激しくぶつかり合い。
「ああ、生きているうちに新たな最強の誕生を見られようとは。
これからは、心穏やかな日々を過ごせそうだ」
『前』最強が倒れ伏す。
ついに序列が変動した。
★
「SSOGは最強の部隊。その精鋭の筆頭が君だ。
君が最強の座を固守する限り、SSOGは揺るぎない」
この国の頂点に君臨することへの責任。
我こそが守護者たらんという自覚。
決してこの身は揺るがぬという自負。
頂点の孤独に耐えうる強靭な自我。
力と技術だけにあらず。
決して揺るがぬ心こそが、最強が最強たる所以である。
頂点の座への、そして護国への飽くなき渇望を持つ者だけが最強の座へと至れるのだ。
我こそが祖国の守護神。
絶体絶命の危機でそう言い切れる覚悟こそが、ナンバー2やナンバー3とナンバー1を分かつ差である。
「柱となれ、大田原。君は書類上ではただの一隊員、駒にすぎん。
だが、決して倒れることのない最強の駒となり、隊の支柱となれ」
入隊から今に至るまで、敗北も痛み分けも存分に経験した。
そして、ここからはもう後戻りはできない。
これからは勝利あるのみだ。
「大田原一等陸曹! 昇進おめでとう!
貴殿の、新たな最強の、さらなる躍進を期待する!」
★
(俺は、生きているのか?)
走馬灯に映る影のように、生涯の記憶が目くるめく去来した。
そういった主観的な観点からも、客観的に怪物に与えられた負傷を加味しても、自分は死んでいて然るべきだった。
最強の座を汚した愚か者として汚名を残すはずだった。
(異能に適合したのか……、いや、させられたのか」
原型をとどめぬ程に破壊されたはずの四肢に、確かに神経が繋がっている。
あれは自然回復できるような負傷ではなかった。
それを可とするのは、自然の域を超えた怪物をいとも簡単に作り出す異能というチカラ以外にない。
一言で言えば命を拾ったということになるが。
(……ッッ!)
乾いた血涙の跡をなぞるように、再び瞼から血が滴る。
仮に同僚の救援が間に合ったのであれば、同僚に最上級の敬意を払っただろう。
敵の見通しが甘くて生き延びたのであれば、常日頃欠かさなかったトレーニングの方向性の正しさを噛み締めていただろう。
あるいは、第三者の横槍が入ったのであれば、祖国が己を必要としたに違いないと己を奮い立たせていただろう。
今回は違う。
明確に敵の『お情け』によって生かされた。
利用価値を認められ、敵に利用されようとしている。
この醜態をもってして、命を拾ったのでまだまだ祖国を護れますなどとほざこうものなら、それは恥知らず以外に表す言葉がない。
あの怪物は大田原自身を秩序を揺るがす者へ作り替えんとしている。
立場的にも信条的にも決して許容できるものではない。
問題は、大田原に何をさせようとしているか、だ。
(身体はまだ動かんが、感覚は繋がる。
これが異能か。驚異的な回復力だ)
一部ではターミネーターなどと呼ばれている大田原だが、当然腹は減るし人間としての基本的な代謝も機能している。
まさに死を待つ以外になかった肉体は重症にまで持ち直した。
問題はその代償だろう。空腹、いや、これは飢餓感と言い換えてもいいだろう。
(異能の特質を確認。代謝を驚異的なまでに促進する異能と仮定する。
次は、現状の整理をおこなう)
己は祖国の暗部を引き受けるSSOG所属。
此度のミッションは、山折村を襲った未曽有のVHを解決するというもの。
その作戦の一環として、大田原は女王の斬首チームへと組み込まれ、その途中で人語を解する怪物に敗れた。
(記憶は繋がっている。不自然なつながりは、ない)
記憶、体調ともに、特別な干渉を受けている様子は見当たらない。
人の言葉を解する正体不明の怪物。
あれは正常感染者を増やすことを目的とした動きを取った。
大田原のマスクを外し、明確な意図を持って脳に干渉をおこなった。
だが、大田原からの怪物への敵意は一切消えていない。
むしろ、確実に退治しなければならないという使命を感じているほどだ。
理解不能な怪物の行動と目的。
その不可解さは、大田原の納得できる形ですぐに氷解した。
倒れた大田原の隣を、よろよろとゾンビが通り過ぎていく。
まだ幼いゾンビは攻撃性を持たず、本当にただ歩いているだけだ。
ゾンビにも個性があることは経験として認識しており、存在自体を意識に入れる必要のない無害な個体だった。
ゾンビが大田原に気付き、白い目で顔を覗き込む。
子供は見慣れない者に興味を持つものだ。
それが閉鎖された田舎であれば、なおのこと外から来た人間に興味を持つ。
防護服に身を包んだ血まみれの男におっかなびっくり近いては、遠巻きに眺める。
(食事を起点として身体代謝が高まるのであれば、素直に食事を摂るべきだ。
ちょうどいい食事も近寄ってきている。
……!?)
大田原は自身の思考を疑った。
戦場で食うものがなくなった兵が屍となった同僚の肉を食べて飢えを凌ぐという話は聞いたことがある。
だが、それは極限状態の話だ。
食えるものがないために、仕方なく人間の死体を貪り食うのだ。
今、大田原は元からそういう生物であったかのように、当たり前のように人間を食材と認識した。
記憶と本能がかみ合わない。
明確な異常が明るみに出た。
山折圭介がゾンビを引き連れていき、住宅街に点在するゾンビの数はまばらだ。
そして
独眼熊や
ワニ吉といった群れなす捕食者たちが、さらに周囲のゾンビや死体を減らしていた。
正常感染者や同僚のSSOGに至っては、今どこにいるのかも分からない。
ただし。
一ヵ所だけ、必ず人間に出会える場所が存在する。
それは、村の周囲を包囲しているSSOGの封鎖班。
異能を持っているとはいえ、ただの村人に封鎖を突破されることはない。
だが、特殊部隊員ならば話は別だ。
罠の位置、罠の種類、封鎖班に属する隊員の個々の性質を知っている。
大田原にもたらされた超人的な異能と元来の身体能力、知識が合わされば、包囲網の網を食い破ることができてしまう。
VH拡散の突破口が開けてしまう。
女王を殺害すればVHは終わる。
山折圭介はターゲットの一人だが、あれはVHの収束を目的としていた。
怪物はそうではない。
あれはVHの定着を望んでいる。
食欲という根源欲求を人質に、最強を自身の尖兵へと造り替え、SSOGの包囲網へと突撃させる。
その網が破れたことが女王に伝われば、包囲殲滅作戦は山中でのゲリラ戦へと変異する。
こうなれば、48時間以内の殲滅は非常に難しいものと化してしまうだろう。
これが、大田原の考える怪物の狙いの中で最悪のものである。
実際のところ、どこまで怪物が異能に関与したのかは不明だ。
唯一明言できることは、大田原は肉体を蹂躙され、矜持を蹂躙され、秩序の敵へと造り替えられようとしているという事実。
肉体が感覚を取り戻すにつれて、飢餓感はさらに膨れ上がっていく。
だが……。
(ナメるな……!!)
この程度の飢餓感で大田原が折れることがあろうか。
少なくとも、自身から湧き上がる衝動である限り、大田原の意志で抑え込むことができる。
鉄壁の自制心と先代からの教えにより、いともたやすく捕食可能なゾンビを前に、大田原は捕食を踏みとどまった。
己にとって極上の馳走に映るものを前にしても、その心は巌のように揺るぎなし。
内からマグマだまりのようにぼこぼこと湧き上がる食人欲求を、理性という岩盤で抑えつけることで、大田原の精神は安定期に入った。
極限飢餓を迎えない限り、思考を失わない限り、彼が折れることは決してないだろう。
今に限れば最適解と言っていいだろう。
この異能によって呼び起こされる食欲に限度はない。
一度ゾンビを捕食してしまえば、必ずどこかでタガが外れる。
一度タガが外れてしまえば、食人を繰り返してしまうだろう。
そうなれば、それはもう秩序の敵である。
そして大田原はまだ知らないことだが、ゾンビを食べても飢えは回復しない。
無数にある並行世界において、それはすでに実証されている。
那由多乃私も山路フジも正常感染者とはならなかったため、こことは決して交わることはない、少しだけ細部の異なる世界。
それぞれの世界で正常感染者となった黒ノ江和真は限界を迎えてゾンビを食い荒らし、それでも膨れない腹を満たすためにさらなる暴食にひた走る運命をたどる。
決して満ちることのない腹を満たすため、ゾンビとなった村人をひたすらに捕食する道をたどる餓鬼道。
故にこの異能は『餓鬼(ハンガー・オウガー)』と呼ばれているのだ。
けれど、そんな情報を受け取る手段など、異世界を含めてもこの世のどこにもない。
ゆえに、大田原は異能の代償を踏み倒した。
★
大自然の中の透き通った空、鳥のようにドローンが舞う。
かねてから念頭に置いていた追加支援、その要請は決めている。
問題は何を要請するか、だ。
防護服によるウイルス保護が不要になった以上、威力の調整もまた不要だ。
ただし、今回の敗北は武器の性能によるものではなく、敵の悪辣な搦め手に囚われたことが主原因であった。
威力の高いコンバットナイフや狙撃銃だけでは同じ轍を踏むだろう。
試用ではなるが、有力候補が一つ。
スカイスカウター。
一言で言えばサーモグラフィを装着した装着型カメラである。
正常感染者とゾンビの大きな違いは体温であるとブリーフィングで説明を受けている。
怪物とて、生物である以上は代謝をおこなっているだろう。
だが、その分身体はどうだろうか。
不自然な体温を目視で看破できるのであれば、相手の策を一つ奪うことができる。
マスクを剥ぎ取られたからこその試みである。
支援物資はA、B、C……といったようにいくつかの分類グループに分けられている。
当初の予定にない物資も、この分類で指し示せばある程度は要請可能だ。
そしてもう一つ、要請を決めているものがある。
自決用の爆弾だ。
大田原は飢餓程度で秩序の敵へと堕ちはしない。
だが、そこに絶対の保証はない。
なぜなら、異能とはウイルスという異物を取り込んだことによって発動するものだからだ。
大田原自身の肉体は大田原の制御下にあっても、ウイルスは制御できない。
これは意志や精神力では解決のできない、絶対的な事実だ。
異能の代償を踏み倒し続けた結果がどこに行きつくのか。
それが明らかになっていない以上、自身を殺し切る手段を用意しておかなければならない。
信管を起動するのは己自身であり、その爆破対象は己自身。
熱と炎で確実にウイルスごと自身を焼却し切る。
瀕死からも肉体を回復してしまうほどの異能を与えられた以上、最終手段は確保しておかなければならない。
そして、仮に大田原がウイルスや怪物の手先に堕ちたとしても、
成田を筆頭とした狙撃手たちに包囲部隊、彼らが狙撃を雷管に確実に命中させ、憂を断ってくれるだろう。
石像のように動かない大田原にゾンビはようやく興味をなくして去り、再び空を別のドローンが優雅に舞う。
神経のつながりが回復し、腕がわずかに動く。
そして、激痛に耐えれば移動だけならば可能なまでに肉体も回復した。
腕を空に向け、大田原源一郎は司令部に向けて二つのハンドサインを送った。
一つは支援物資の要請。
そしてもう一つは封鎖班への伝達である。
その内訳は。
『境界線で大田原源一郎を見たら、即刻爆殺せよ』
もう後戻りはできない。
大田原源一郎一等陸曹はこれより決死兵となった。
命もろとも祖国の平穏を脅かすものを取り除くべく、行動を開始する。
【F-1/診療所前/一日目・昼】
【
乃木平 天】
[状態]:疲労(中)、ダメージ(中)、精神疲労(小)
[道具]:拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ、ポケットピストル(種類不明)、着火機具、研究所IDパス(L2)、研究所IDパス(L3)、謎のカードキー、村民名簿入り白ロム、ほかにもあるかも?
[方針]
基本.仕事自体は真面目に。ただ必要ないゾンビの始末はできる範囲で避ける。
1.研究所を封鎖。外部専用回線を遮断する。ウイルスについて調査し、VHの第二波が起こる可能性を取り除く。
2.スヴィアを尋問する。
3.一定時間が経ち、設備があったら放送をおこない、隠れている正常感染者をあぶり出す。
4.小田巻と碓氷を指揮する。不要と判断した時点で処する。
5.黒木に出会えば情報を伝える。
6.犠牲者たちの名は忘れない。
[備考]
※ゾンビが強い音に反応することを認識しています。
※診療所や各商店、浅野雑貨店から何か持ち出したかもしれません。
※成田三樹康と情報の交換を行いました。手話による言葉にしていない会話があるかもしれません。
※ポケットピストルの種類は後続の書き手にお任せします
※ハヤブサⅢの異能を視覚強化とほぼ断定してます。
※村民名簿には午前までの生死と、カメラ経由で判断可能な異能が記載されています。
【D-3/保育園グラウンド中央/一日目・昼】
【
黒木 真珠】
[状態]:解凍中
[道具]:拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.ハヤブサⅢ(
田中 花子)の捜索・抹殺を最優先として動く。
1.ハヤブサⅢを確実に抹殺するための準備を整える。
2.ハヤブサⅢを殺す。
3.氷使いも殺す。
4.余裕があれば研究所についての調査
[備考]
※ハヤブサⅢの現在の偽名:
田中 花子を知りました
※上月みかげを小さいころに世話した少女だと思っています
※司令部に物資を要求しています
【C-3/高級住宅街/一日目・昼】
【
大田原 源一郎】
[状態]:ウイルス感染・異能『餓鬼(ハンガー・オウガー)』、全身粉砕骨折(再生中)、臓器破損(再生中)、全身にダメージ(大・再生中)、右鼓膜損傷(再生中)、右脳にダメージ(中)、異能による食人衝動(中・増加中・抑圧中)
[道具]:防護服(マスクなし)、拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.正常感染者の処理
1.
独眼熊を最優先で殺害する
2.追加装備を受け取る
3.美羽への対応を検討(任務達成の障害となるなら排除も辞さない)
4.秩序の敵となった時点で自決をおこなう
※異能による肉体の再生と共に食人衝動が高まりつつあります。
※司令部に支援物資を要請しました。
最終更新:2023年10月29日 21:41