高級住宅街と商店街の間にある空白地帯。
草木が疎らに生い茂っており、放置されたボロボロの空き小屋がところどこに点在していた。
それは急激な開発によって生まれたエアポケットである。

今ではここは主に子供たちの遊び場になっており。
時折やんちゃな学生やずぼらな主婦が商店街から自宅に向かうショートカットに利用されていた。

そんな整備されていない道ともいえない道筋を、2人の少女が駆け抜けていた。
それは遊びでも日常の一部でもない、追ってくる狩人から逃れるための命懸けの逃亡である。

「ハッ…………ハッ…………」

茜が息を切らしながら珠の手を引いて走る。
二人の脳裏に繰り返しの様に浮かぶのは共通した一つの言葉だ。

『あなたの記憶、あなたの想いはあなただけのモノだから』

向かい来る特殊部隊の足止めに残った、上月みかげが最後に彼女たちに送った言葉。
それは自らが歪めてしまった、全てを修復する贖罪の言葉だった。

この言葉によって、異能によって歪められた認識は修復され、
改竄された記憶は正しいモノに戻ってゆく。

だが、珠は未だに混乱の只中に居た。

彼女に施された記憶改竄はみかげの異能のよる物だけではない。
研究員と謎の連中とのやり取りを目撃してしまった事により、研究所によって行われた薬物と暗示による記憶改竄。
みかげの異能は長らく頭の中で絡まっていたそれら全ての糸を一つ一つ解きほぐしていった。

正しい事実。
忘れていた事実。
ねじ曲がっていた事実。
大量の記憶の奔流が珠の小さな頭の内を駆け巡る。

それが齎すのは認識の齟齬が修復されたと言うだけではない。
記憶は正されるだけで失われるわけではない以上、自身の記憶がおかしくなっていた事にも嫌でも気づく。
それら全ての事実と、そこに対する自身の感想と感情と向き合いながら、珠は自分を取り戻している最中だった。

「ダメッ、今は走って…………!!」

足の止まりかけた珠の手を取って、茜が強引に先導する。
茜は食い縛るように自らの唇を噛んで努めて感情を押さえていた。
それは、異能が暴発しないようにするためと言う事もあるが、そうしなければ茜自身が今すぐ踵を返してみかげの下に戻ってしまいそうになる。

認識が修復されたことにより、茜にも猟師の教えを受けたなどと言うみかげの言葉が嘘だと分かってしまった。
ただの女子高生であるみかげが特殊部隊を相手に出来るはずがない。

今すぐに戻ってみかげを助けに行きたい。
だが、それはダメだ。
それこそみかげの覚悟を台無しにしてしまう。

みかげの嘘が分かったことにより、どうしてそんな嘘をついたのか、その意図まで理解できてしまった。
それを理解した茜のすべきことは、みかげを信じて珠をどこか安全な場所まで連れて行くことである。

商店街はすぐそこだ。
逃げ込んだところですぐに安全になると言う訳でもないだろうが。
学校の帰りに寄り道して買い食いしたり適当に店を冷やかしたり、裏道も細道も知り尽くしている。
そこまで逃げ込みさえすれば、何とか逃げ切り身を隠すことくらいはできるだろう。


3人の男女が商店街の裏道を走っていた。

商店街は狙撃手のテリトリーとなっていた。
一時的な無力化に成功して今は平穏は保たれているが、どうなるかわからない以上すぐに離脱すべきだろう。

先頭を切るのは大和撫子然とした少女、氷月海衣だ。
村の住民であり、ある程度の土地勘を持っている彼女が商店街脱出の先頭に立っていた。
できうる限り人気のない物陰を選び、最短で商店街から道筋を選んでゆく。

とは言え、海衣は最低限の店舗と道筋を把握しているだけで商店街に詳しいという訳ではない。
海衣は両親の厳しい教育の下、真面目な少女を演じてきた。
商店街にはたまに学業に必要な物を買いに行ったりするくらいで、それだって大抵は母が済ませてしまう。
多くの習い事を抱える彼女に他の学生たちのように放課後の買い物や買い食いなんて自由が許されるはずもなかった。

そんな彼女にだって遊びの誘いがなかったわけではない。
海衣を気にかけてくれる優しい人たちはいて、何度も放課後に遊びに誘ってくれた。
その度に申し訳なく思いながらその誘いを断ってきた。

だけど一度だけ、そんな海衣の境遇を見かねたのか、無理矢理放課後の商店街に連れていかれたことがある。
そこで始めて買い食いをして、始めて肉屋のコロッケを食べた
店主は覇気がなかったけど友人と一緒に食べた80円のコロッケは今まで食べたどの食べ物よりおいしかったのを覚えている。

その帰り道、買い食いがバレないために急いで帰るためのショートカットした道筋を教えられた。
今辿っているのはその道筋だ。
思い出の道筋を、今は生きるために駆け抜けている。

殿を務める花子は器用にも半身のまま背後に目をやりながら、殆どバック走のような体制で走っていた。。
それでいて走る速度は与田なんかよりも安定して早いのだから恐ろしい運動神経である。

逃走ルートの確保は海衣任せ、自身は後方の警戒を優先していた。
狙撃手の一時的な無力化に成功したが、それもどれほど持つか。
今は謎の男が抑えているが、いつ復活するとも分からない以上、狙撃手への警戒は切れない。

これが狙撃手の厄介さだ。
いるかもしれないというだけで警戒に集中力が削られる。
安全を期するなら一刻も早く狙撃手のテリトリーである商店街から離れたほうがいいだろう。

常に彼女の頭の中には分割思考の様に幾つものタスクが同時に奔っている。
花子の頭の中では逃亡と警戒だけではなく、次の行動について思考が裂かれていた。

商店街を抜けた後でそこに向かうべきか。
当面の目的は情報収集だが、思った以上に特殊部隊の手が広い。

殲滅を目指しているのなら当然だろうが、人が集まりそうな場所には必然的に敵も待ち構えている。
このまま市街地に向かうのは相応のリスクを覚悟せねばならない。
単純に人の多い所に向かえばいいと言うものではないとなると情報収集のハードルは上がっている。

花子一人ならその程度のリスクは呑み込めるのだが、護衛対象が2人もいるとなると渦中に飛び込んでいくのは躊躇われる。
せめて相棒が生きていればよかったのだが。いや、ゾンビになっただけで生きてはいるのだけど。
そう言えば、ホテルに縛り付けた相棒は元気しているだろうか?

そんなどうでもいいところにまで思考が達した所で、商店街の出口が見えてきた。
そのまま走り続け、3人が商店街を抜けだす。
だが、そこで先頭を走っていた海衣が足を止めた。

「ッ、誰か来ます!」

建造物が途切れ視界が開けたところで、向かってくる人影に気づいた。
どれだけ視力が良くとも死角がある限り見えないものはある。
後方を警戒していたこともあり花子も気づくのが遅れた。

向こうから走ってくる人影はもはや接触は不可避の距離にいた。
それに大きな反応を示したのは海衣だった。

商店街に向かうモノ。商店街から出ようとするモノ。
双方が向かう先にいるのならば、バッティングしてもおかしくはない。

それ以前に、この道筋は彼女に教えられたものなのだ。
ならば、この再会は必然であったとも言える。

「朝顔さん……!?」
「って、氷月さん!?」

クラスメイトとの再会だった。
色々ありすぎて半年ぶりにでもあったような気持ちだが、再会と言っても毎日に学校で顔を突き合わせて入るので実際は昨日ぶりだ。
予想外のタイミングでの再開に呆然とする海衣の肩を花子が叩く。

「探していたお友達?」
「ええ……まぁ。そうです。私の友人の朝顔茜さんです」

海衣がそう花子たちに茜を紹介した所で、茜が海衣に飛びついた。

「ちょ、ちょっと…………!」
「嬉しい! 友達だと思っててくれてたんだ!」

何度誘っても袖にされていたし、彼女の事情を無視して強引に誘ったこともあったから、迷惑がられているんじゃないかと内心で思っていたが。
そうじゃないと分かってこんなに嬉しいことはない。

「ってそれどころじゃないんだった!」

だが、思い出したようにすぐさま離れる。
自らの置かれている危機的状況を思い出し喜んでいる場合ではないことに気づいた。
そして焦りをそのまま吐き出すように茜が叫ぶ。

「私たち、特殊部隊に追われているの!」


「えぇッ!? またですかぁ!?」

与田が悲観の籠った声で叫んだ。
彼らが特殊部隊から逃げてくる少女を保護するのはこれで2度目。
特殊部隊との接敵はこれで3度目だ。海衣に限って言えば4度目となる。
この調子ではこの小さな村に特殊部隊が何人送り込まれているのか分かったものではない。

「特殊部隊に追われてるって話、詳しく教えてもらえるかしら」

焦りを見せる与田や茜と対照的に冷静な問いが投げられた。
海衣との再会に喜び彼女しか目に移ってなかったが、茜は今頃になって花子たちの存在を認識する。
与田の方は診療所で顔くらいは見たことはあるが花子に関しては完全な初対面だ。

「えっと……あなたは?」
「田中花子よ。よろしくねん、茜ちゃん。そっちの子も」

パチンとウィンクして珠へと視線を送るが、反応はない。

「君は……日野さんの妹さん、だよね? 顔色が悪いようだけど、大丈夫なの?」

心配そうに海衣が問うが、やはり大した反応はない。
クラスメイトの妹と言うだけであまり直接的な交流があった訳ではないが。
遠目で見かける彼女はもっと活発な印象だったが、今の彼女はどこか不安定で見る影もない。

「その……一言で説明するのは難しんだけど、珠ちゃんはいろいろあって、混乱していて」

茜が代わりに弁明するが、彼女たちに起きた出来事は一言で説明できる様なことではない。
同行していた茜ですら珠に起きた出来事を完全に理解できている訳ではないのだから説明のしようがない。
その辺の事情を察してか花子が話を進める。

「そう。その辺の事情は落ち着いてから聞かせてもらうとして。それよりも今は、すべきことがあるでしょう」

そう言って、花子は茜たちが走ってきた方向を見つめる。

「とりあえず、今のところは追手の姿は見えないわね」

少なくとも花子の鷹の目の及ぶ範囲に追手の姿はなかった。
多少の猶予はあるようだが、余裕で構えてもいられない。

「それは……特殊部隊が襲ってきたときは警察官である薩摩さんと一緒にいて逃がしてもらったんだけど、突破されたみたいで
 追いつかれそうになったところで……その、一緒に逃げてた上月さんが時間を稼いでくれてて」
「上月さんが…………?」
「足止め、ねぇ……」

花子が訝し気に呟く。
ただの素人が特殊部隊相手に足止めなど無謀な話だが、今の村人には異能がある。
異能の内容と使い方次第だが、まったく不可能と言う訳ではないだろう。

「…………上月さんの助けには向かえないのでしょうか?」

経緯を聞いた海衣が躊躇いがちにそう切り出す。
海衣の言葉に茜も希望を込めた視線を向ける。

「そ、そう! そうだね全員で行けば何とか!」

襲撃を受けた時は戦う理由がなかったから逃亡一択だったが、みかげを残してきた今となっては話は別だ。
人数も増えて、大人も2人いる今なら何とかなるかもしれない。

何より海衣の中に花子ならばと言う期待があった。
海衣からすれば花子は自身の素性を隠した信用しづらい胡散臭い人物ではあるものの、その実力だけは信頼している。
合流して戦力も増えた、これだけ人数がいれば特殊部隊にだって対抗できるかもしれない。
だが、その希望を否定するように花子が首を振る。

「ごめんね。それは無理。そればっかりは上月さんって子の実力と天運に任せるしかないわ」

花子は救うべき命、切り捨てる命を割り切れる人間だ。
彼女はトロッコ問題で躊躇なく決断できる。

それは正しいか正しくないかではなく、自分の判断基準を疑わないという事だ。
己の中の優先順位を間違えない。
そうでなければエージェントなどやっていけない。

友達の友達は友達なんて理論で手を伸ばしていたらどれだけ大きな手でも足りなくなる。
特にこんな村民はほぼ知り合いなんて人間関係の狭い界隈ではなおのことだ。
手を伸ばせる人数には限りがある。

確かに花子の中で全員で特殊部隊を仕留めるというプランもなくはない。
だが、今の状況ではそれは厳しい。

人数が増えたと言っても戦力確認すらできてない。
そんな状況では策も練れないし、連携などとれるはずもない。

何より開けた草原と言うのも条件が悪い。
錯乱した珠を庇いながらの戦いになる。
1人、2人ならともかく、それ以上となると花子一人でカバーしきるのはさすがに厳しい。

「酷なことを言うようだけど、切り替えて。まずは自分が生き残ることを考えましょう」

他者を慮れるのは美徳だが、自分を第一に考えてこそだ。
この辺は与田の生き汚さを見習ってほしいところである。

「ッ。…………わかりました」

助けに行くのだって命懸けになる。
他人に向かって命を懸けろなんて誰も強制はできない。
それは彼女のも理解していたのだろう。
茜がこの意見を飲み込む。

「なら、すぐにでも商店街に逃げこまなくっちゃ! 詳しいお話はそちらで」

こんなところで立ち話をして追いつかれたのではみかげに顔向けできない。
話をするのは商店街に逃げ込み安全圏を確保してからで十分だ。

「商店街に逃げ込む、か。なるほど。外様の特殊部隊相手に逃げ切るには悪くないプランね」

花子が頷きながら肯定する。
地の利を生かして逃げるのは理にかなっている。
だが、今の商店街に限って言えばそうではない。

「けど、今は商店街に行くのはお勧めしないわ。
 私達も逃げて来たところなのよ、商店街にいる特殊部隊の狙撃手から」
「そ、そんな…………」

それを聞いた茜が言葉を詰まらせる。
必死で逃げ込もうとした先にも特殊部隊がいるという最悪の知らせだ。
逃げ道を塞がれ、茜の顔にも不安の色が目に見えて増えてきた。

「けど、商店街に行けないならどうしたら…………」

茜が不安を漏らす。
逃げ込むとするなら住宅街だが、ここから住宅街まではそれなりの距離がある。

大所帯になる程、全体の機動性は落ちる。
これを改善するには部隊としての練度を上げるしかないのだが、即席の寄せ集め部隊ではそれも期待できまい。
このまま逃げたところで追いつかれる可能性が高い。

「田中さん…………」

不安そうにする茜を支えながら、海衣が縋るような眼で花子を見つめた。
海衣の性格からして自分一人の問題なら、そんな風に助けを求める様な真似はしなかっただろう。
だが、友人の身の安全も関わってくるとなればそうも言っていられないようだ。
花子としては海衣のそう言った一面が見られたのは喜ばしいのだが、状況的にはあまり喜んでばかりもいられない。

「そうね。まずは避難先を決めましょう」

花子が事態を取り仕切るように切り出した。
だが、決めるといっても候補があるようには思えないが。

「住宅街ではダメなんですか?」
「ダメではないんだけど、念のため避けた方がいいわね」
「どうしてです?」
「理由はいくつかあるんだけど、詳しく説明している時間はないから簡単に大きい所だけ説明すると。
 追手もそこに逃げると読みやすく、他の危険がある可能性が高い場所だからよ」

様々な意味で住宅街は危険度が高い。
商店街のように逃げ込んだ先にも特殊部隊が居ました、では目も当てられない。

「ここから西側に全員で隠れられそうな建物はあるかしら?」

花子が少女たちに尋ねる。
花子も事前のフィールドワークくらいはしているが、地理の情報は地元民に尋ねた方が確実だ。

「ここから西なら……保育園があります」
「……保育園か、悪くないわね」

それなりに広さがあり身を隠す場所もある。
今時の保育園は変質者対策で周囲を壁で取り囲っているため籠城にも向いている。

だが、問題もある。
住宅街もそうだが、ここから西側にある保育園に向かうとなるとさらに時間がかかる。
移動に時間がかかる程、追手に追いつかれる危険性も増す。
その程度の懸念を理解できない花子ではないはずだが、気にした風もなく話を進める。

「そうね。じゃあとりあえずあなた達はそこを目指して、そこで隠れていて」

まるで他人に指示するのような物言い。
それに気づいた海衣がその疑問を指摘する。

「あなたたちって、田中さんはどうするつもりなんです?」
「私はここに残ってちょっと内職をね」

何でもないように言うが、それはつまり一人でここに残るという事だ。

「ダメですよ! それじゃ上月ちゃんとおんなじ……」

茜が拒否反応を示す。
自分たちを逃がすための時間稼ぎ、これでは先ほどの繰り返しだ。

「大丈夫よ、何も直接対峙するわけじゃない。ちょっと地面をいじるだけ。やる事が終わったらすぐに私も追いかけるわ」

舗装されたアスファルトや石畳と違って、未整備の草原や土壌は痕跡が残りやすい。
ただですら大人数の移動はそれだけで痕跡が残りやすいのだ。
大量のゾンビでもいてくれればそれで誤魔化せるところもあるだろうが、元より裏道であるためかゾンビもそれほど見かけない。
痕跡を辿られては、どれだけ意表を突こうとも追いつかれてしまう。

追手が猟犬ならば、これを逃すはずがない。
安全を確保するにはどの道その痕跡をどうにかする必要がある。

「保育園についたら、まずは出入口の確認と脱出ルートの確保。
 もしかしたら通ってたとかで知ってるかもだけど、構造が変わってる可能性もあるから確認しておいて。
 それが出来たら周囲を監視できる場所を見つけて最低一人はそこで周囲を監視すること。できれば外からは見つからない場所が理想的ね。
 地震のおきた時間帯からして保育園にゾンビはいないとは思うけど、警戒は怠らないように。
 後は保育園に誰か来た、もしくは既に誰かいた場合。それが確実に信用できる人間でない場合はすぐにその場を離脱するように」

有無を言わせぬ決定事項を告げるようにテキパキと指示を出してゆく。
だが、空気を読まずこの流れに口を挟む男がいた。

「ちょっと待ってくださいよ! 花子さんが居なくなるのは困りますよ! 僕にこの子たちの世話をしろっていうんですか?」
「いや、センセはお世話される側だと思うけど……」
「それに逃げてる最中に誰かに襲われたら誰が僕の事を守ってくれるっていうんですか!?」

何とも情けない言葉だがここまで堂々と言われるといっそ清々しさがある。

「あら、私と二人きりになりたいってお誘いかしら? なら与田センセも残ってくださっても結構よ」
「いや、それはちょっと……」

自分がまきこまれると察するや否や即引くあたり潔すぎる。

「だったら、わがまま言ってないで海衣ちゃんたちと一緒に避難してちょうだい。ついでに与田センセは2人の異能を診て説明してあげて。自覚することで得るものもあるでしょう」
「えぇっ!? なんで僕が」
「はいはい。あなたの身を護る事にもなるんだから文句言わない」

与田を適当にあしらい、海衣たちへと向き直る。

「保育園について10分経っても合流できないようなら、私は死んだと思って行動して頂戴」
「死ぬって、それは……」

不穏な言葉に海衣が顔を曇らせる。

「念のためよ。さっきも言ったけど直接対峙する訳でもないし、無理をするつもりはないから」

作戦行動をとる場合、最悪を想定しなくてはならない。
そうでなければいつまでも死人を待って、全滅なんてことにもなりかねない。
そうならないための取り決めだ。

「ですけど…………」

無理をしないという花子の言葉はあまり信用できない。
これまでも、一番体を張って無理をしてきたのは他ならぬ花子だ。
いや、信用されていないのは海衣たちの方か。
それだけの役割を任せられると思われていないのだ。

「それよりも、海衣ちゃん。ちょっといい」

僅かに表情を沈めた海衣の耳元に花子が顔を近づける。
花子が何かを告げると、海衣が表情を強張らせ、周囲に聞こえない小声のやり取りが何度かあった。

「頼りにしてるわ」

そう言って海衣の肩をポンと叩いて花子が離れる。

「ちょっと待ってくださいよぉ! 話がまとまったみたな感じになってますけど、逃げた先にも特殊部隊が居たらどうするんですかぁ!?」

まだあきらめていなかったのか、与田は抗議を続ける。
2度あることは3度あるともいう。
2方向からきているのなら3方向にいる可能性も否定できない。

花子のいない状況で出会いでもしたらそれこそお終いだ。
そうはならないよう避難先を選んだつもりだが、可能性はゼロではない。

「そうねぇ……その時は」

花子は悩まし気にうーんと唸り、とびっきりの笑顔で言う。

「諦めて♡」


結論から言えば、花子が工作を終えるまで、特殊部隊が到達することはなかった。

花子は保育園に向かった本物の痕跡を周囲から消して、商店街に向かっているように見せかけた茜と珠、2人分の足跡を偽造した。
少なくとも追手が標的をただのJKだと思っているのならこれで十分騙せるだけの仕事はした。
時間をかければもっと徹底的にやることもできるが、追手とバッティングするのは避けたい。
この辺が潮時だろう。

出来るだけのことはやった。
果たしてこれが成功するかどうかは、相手の能力や性格、どこまで慎重かによるだろう。
追手の詳細を茜から聞き取りはできなかったのは痛いところである。
まあ、どの程度の時間的猶予があるのか分からない状況だったので仕方ない話なのだが。

鷹の眼が東の草原を見る、まだそれらしい人影はない。
足止め役の少女は十分な時間を稼いでくれたようだ。
最悪単独での交戦も視野に入れていたが、そうはならなかったのは幸運である。

だが、このまま誰もやってこないと言う状況はまずありえないだろう。
どちらかはここに来る。
それこそ足止めに残った少女の勝利もあると花子は考えていた。

花子の異能は直接的な攻撃力を持つ物ではないが、異能の脅威は理解している。
異能の何より恐ろしい点は、誰がどのような力を持つかが分からないと言う点だ。

単純な火力であれば銃器の方が上だろう。
だが、何が来るかわからないと言うのはそれだけで恐ろしい武器となる。

殺し合いなんてものは一発が嵌ればそれで終わる。
初見殺しが嵌れば、特殊部隊に対して勝ちを得る事も十分にあり得るだろう。

そう言った意味では、こちらには異能を解析できる与田がいるのは大きい。
あの先生が正常に機能すれば対異能者のアドバンテージが取れる。
もっとも、ここまで幸か不幸か異能者との戦闘はなく、特殊部隊ばかりと戦っているのだが。

特殊部隊が勝利したのであれば残党を狩りに。
少女が勝利したのであれば茜たちとの合流を目指して。
相打ちでもない限り、勝者がここにやってくるはずだ。

追手が標的を見失った可能性もあるが、特殊部隊が素人の追跡もできない間抜けなら話は簡単なのだが。
そんな希望的観測を元に動く訳にもいかない。

ここで待っていれば、遠目にやってくる人物の顔くらいは確認できるだろう。
多少のリスクはあるが、これを確認しておいた方が次の動きが確実になる。

僅かに身を潜め待つ。
すると、遠目に人影が姿が見えてきた。
花子の視力でなければ捉えられない距離。

ガスマスクに迷彩服の防護服。
同じ規格の装備であるため個人は特定できないが特殊部隊だ。
体格からして女性だろうか。分かるのはそれくらいである。

予想通りの最悪の展開だ。
そう都合よくはいかない。

既に賽は投げられた。
あとは結果を御覧じろ。

花子は見つからぬよう身をひそめながら、保育園に向かって音もたてずに走りだした。


風景に紛れるような迷彩色が草原を駆け抜けていた。

それは獲物を追う狩人だ。
秘密特殊部隊の黒木真珠、彼女は取り逃した標的を追っていた。

だが、足止めに残ったみかげの相手と地雷原を迂回したことによるタイムロスはやはり大きかったようだ。
完全に出遅れてしまい、標的の姿は既に影も形もない。

だが、姿は捉えられずとも痕跡は追える。
狩人は草原を駆け抜けながら、注意深く地面を観察していた。

朝になってくれたおかげで足跡もよく見える。足跡は情報の宝庫だ。
足先の向きは逃亡方向を示し、足跡の深さを見ればそれがいつ頃刻まれたモノなのかもおおよそわかる。
歩幅の変化を読み取れば相手の体力や精神状況すら見て取れる。

そして足跡のみならず生い茂る草木の状態に注意を払えば、相手が草原を駆け抜ける際に触れた草や踏みつけた枝が散見される。
玄人であればその手の痕跡は残さない。そうなるよう動くのが身に染みているが、素人はその辺に気にかけないので分かりやすくていい。
これらを辿っていけば逃走経路が見えてくる。

やはり足跡は商店街に向かっているようだ。
しばらくその足取りを追って行き、足跡が商店街の入り口に向かっているのを確認する。

足跡によれば既に商店街に逃げ込んだようである。
未整備の荒地と違って整備された市街地に入られると痕跡を追うのは困難だ。
これ以上は時間の浪費になりかねない。

追跡もここまでか。
そう真珠が撤退しようとしたところで、ピタリとその足を止めた。
その場に膝をつきそれまで流し見で確認していた地面を触り、状態を詳しく調べる。

通常であれば見逃していただろう。
だが、真珠は違和感に気づいた。
その原因は皮肉にもみかげにあった。

みかげが死亡しようとも、彼女の異能の効果は健在だった。
それが時間経過で快復する物なのか、永続的なものなのかは術者であるみかげすら分からなかっただろう。

現在の真珠の認識では自らが教えを与えた罠の達人を相手にしてきたばかりという認識である。
そのためスルーするはずの違和感にも敏感に反応するくらいに、彼女の中の警戒度は上がっていた。
それが原因で足取りがやや遅くなったのも事実だが、今の状況に限って言えばその慎重さが功を奏した。

足跡のサイズや歩幅。周囲の草木や枝葉や小石の配置に至るまでよく再現されているが、整いすぎている。
これまでの足取りを見る限り、小さい女の方はもっと不規則で不安定だった。
よくよく観察すれば巧妙に見せかけているが工作の跡が見て取れる。

「……………どー言う事だこりゃ?」

一人呟き、トントンと銃の腹を指で叩いて思考に没頭する
明らかにただの女子高生の仕事ではない、プロの仕事だ。
だが特殊な訓練を積んだみかげのような例もある。
この工作が行われたこと自体はよしとしよう。

確かに隠蔽工作は追っ手を撒くのに有効な手段である。
有効であるからこそ気にかかる。

みかげは十分な時間を稼いだ。
だが、逃げている奴らからすれば、みかげがどの程度時間を稼げるかなど分かるはずない事だ。
こんな工作をしているような余裕はないはずである。
そんな時間があるなら、さっさと商店街に逃げ込んだ方がいい。

ならば、何故こんなことをした?
答えは簡単、そうする理由が出来たからだ。
何かしらの事情で商店街に侵入できなくなった、そう考えるのが妥当だろう。

だとすると問題なのは、その理由が何であるかより、その理由をどうやって知ったかだ。
遠目から見てわかるような理由ならここに立っている真珠にもわかるはずだ。
そうではないとするならば、何処かから何らかの情報を齎されたと言う事になる。

商店街を抜け出そうとする誰かと出会った?
そこで商店街で起きた何かしらの事情を知らされ商店街を回避した。
それならば一応の筋は通る。
その上で商店街に追手である真珠を誘導できれば万々歳だろう。

商店街に向かったように見せかける工作が行われている以上、普通に考えれば商店街には向かっていないと言う事になる。
だが、あえて商店街に向かう偽装の痕跡を発見させて、本当に商店街に向かったなんて可能性もある。
問題は、相手の思惑や戦術レベルをどこまで考慮するかだ。

結論はすぐに出た。
考えるまでもない。

分からない、だ。

当然である。
よく知りもしない相手の実力や思考など分かるはずがない。
ならばどうしたらいいのか。

潔くあきらめるというのも一つの手だが、取れる手段ならもう一つある。
全て都合よく決めつけで考えてしまえばいいのだ。

真珠の任務はハヤブサⅢの抹殺だ。
それ以外は最悪切り捨てていい。

逃亡していた女学生たちが出会ったのはハヤブサⅢで
この隠蔽工作を行ったのもハヤブサⅢだと都合よく仮定する。

その前提で考えれば見えてくる。
あの豪華客船で一時的とはいえ背中を預けた仲だ。
奴の思考パターンならある程度はトレースできる。

「…………商店街はないな」

まずはその選択肢を消す。
工作の跡をあえて発見させて裏をかくなんてやり方は如何にも奴がやりそうな方法ではあるが。
本当に商店街に逃げ込んだのなら、工作を行うのはその道筋じゃない。
商店街に入った後で地の利を生かしつつ、そこで罠を張るはずだ。

そうしなかったという事は、やはり何かしらの商店街に入れない事情があるのだろう。
担当地区から考えて成田か乃木平に襲われでもしたか。

商店街ではないとなると、どこに向かったのか。
真珠がやって来た東方向はないとして、北の高級住宅街か、西方向のどちらか。

開けた草原の続く西方向よりも入り組んだ住宅街の方が近く、追手は巻きやすい。
セオリーで考えれば住宅街を選ぶ。
だが、当然追手側もそう考えることは相手にだって読めているだろう。

この工作は女学生たちを逃すためのモノである。
それは間違いない。
ただで人を助ける女じゃない。
報酬を得るため先に逃がした女学生たちとの合流を目指すはずだ。

早急な合流を目指すなら、短時間で共有可能なランドマーク的な施設がある方が望ましい。
だが、似たような建造物が立ち並ぶ住宅街では追手が追いづらいのと同じく合流もまた難しくなるだろう。
仮に田中さんの家で合流と言われても、地元民ならともかく外から来た人間にはわかるまい。

となると、住宅街よりもこちらの意表を突きつつ安全が確保できる西側。
女学生たちは恐らく地元民。村内の建造物については詳しいだろう。
彼女たちに尋ねればセーフハウスの心当たりが出てきてもおかしくはない。

安全圏に達するのに時間はかかるだろうだろうが、その時間は自分が稼げばいい。
そう考えるのがヤツらしい思考だろう。

この向こうに、何か施設があったか。
トントンと指でリズムを取りながらブリーフィングで共有された山折村の地図を頭に思い返す。

高級住宅街の外れ。
南西に保育園があったはずだ。
ヤクザ事務所の向かいと言う立地が妙に印象に残ったのを覚えている。

全てを自分の都合のいい前提で行った推察だが、一応の結論は出た。
みかげに時間をかけ過ぎた時点で、逃す確率は高かったのだがら、この予想が外れたところで痛手でもない。

「ま。行ってみますかねぇ」

当て推量であったとしても一度決めたからには手を抜かない。
真珠は保育園に向けて駆け抜け始めた。


花子を残して海衣たちは保育園に向けて走っていた。

先頭を茜に任せ、珠、与田と続き、海衣はその殿を務めていた。
彼女の頭の中では花子に耳打ちされた言葉が思い出されていた。

「最悪、保育園での戦闘になる可能性があるから、その準備と覚悟だけはしておいて」

花子が行ったのは追手を商店街に誘導し、その誘導工作が見破られた場合に備えて避難先から高級住宅街を外すという二重の策だ。
だが、彼女は常に最悪を想定する。
さらに、それらすべてが看破された場合に備え、保育園を舞台とした決戦を想定していた。

追手を撒ければよし、そうでないなら殲滅する。
彼女が講じたのはそういう作戦であった。

逃げ回るばかりではいられない。
いつか倒さなければならない相手だ。
ならば有利な地形で待ち伏せて倒す。
それは理解できる。

「ちょっと待ってください。どうしてそんな事、私だけに?」

分からないのはそこだ。
全員に共有するでもなく、わざわざ耳打ちしてまで海衣にだけ打ち明けるのは何故なのか?

「あなたが鍵だからよ」
「私が…………?」
「そう、相手が斥候(スカウト)としてどれだけ優れていたとしても、読めるのは茜ちゃんたちと工作をした何者か、つまり私が合流した所までよ。
 あなたと与田センセの存在までは読み切れない。そのようにするわ」

予測ではなく、そうすると、はっきりと断言した。
その言葉の強さには頼もしさを通り越して恐ろしさすら感じる。

「これは与田センセと……そうねぇ珠ちゃんにも内緒にしておいて。あの二人は戦闘はできないだろうし。
 茜ちゃんと共有するかはあなたの判断に任せるわ」

それはつまり、茜を巻き込むかどうかは海衣が決めろという事だ。

「まあ、最悪そうなるってだけで、そうならないよう努力するわ。気負わないで待ってて」

気負わすようなことを言うだけ言って、強張った海衣の肩をポンと叩いて。

「頼りにしてるわ」

そんなことを言った。

よくわからない人だ。
本音なのかただの世辞なのか、その真意は海衣にはわからない。
だが、分からなくとも任された以上は全力を尽くす。

海衣はそうやって生きてきた。
両親に従って、従順に見えるよう従ってきた。
生きるために。

これからもそうするだけだ。
生きるために。

「見えて来たよ!」

先頭の茜が叫ぶ。
考え事をしていた顔を上げると、海衣の目にも見えてきた。

決戦の地、保育園が。

【D-3/保育園近く/1日目・午前】

朝顔 茜
[状態]:健康
[道具]:???
[方針]
基本.自分にできることをしたい。
1.保育園に逃げ込む
2.優夜は何処?
3.あの人(小田巻)のことは今は諦めるけど、また会ったら止めたい
[備考]
※上月みかげの異能の影響は解除されました
※能力に自覚を持ちましたが、任意で発動できるかは曖昧です

日野 珠
[状態]:錯乱(中)
[道具]:なし
[方針]
基本.思い……だした。
1.みか姉…………。
[備考]
※上月みかげの異能の影響は解除されました
※研究所の秘密の入り口の場所を思い出しました。

与田 四郎
[状態]:健康
[道具]:研究所IDパス(L1)
[方針]
基本.生き延びたい
1.とりあえず保育園にまで付き合う
2.花子を待つ

氷月 海衣
[状態]:罪悪感、精神疲労(小)、決意
[道具]:スマートフォン×4、防犯ブザー、スクールバッグ、診療所のマスターキー、院内の地図、一色洋子へのお土産(九条和雄の手紙付き)
[方針]
基本.VHから生還し、真実に辿り着く
1.保育園で田中さんを待ちながら、もしもの決戦に備える。
2.女王感染者への対応は保留。
3.嶽草君が心配。
4.洋子ちゃんにお兄さんのお土産を届けたい。

【D-3とD-4の境/草原/1日目・午前】

田中 花子
[状態]:疲労(中)
[道具]:ベレッタM1919(7/9)、弾倉×2、通信機(不通)、化粧箱(工作セット)、スマートフォン、謎のカードキー
[方針]
基本.48時間以内に解決策を探す(最悪の場合強硬策も辞さない)
1.保育園にいる海衣たちと合流する。
2.診療所に巣食うナニカを倒す方法を考えるor秘密の入り口を調査、若しくは入り口の場所を知る人間を見つける。
3.研究所の調査、わらしべ長者でIDパスを入手していく
4.謎のカードキーの使用用途を調べる

【D-4/草原/1日目・午前】

黒木 真珠
[状態]:健康
[道具]:拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.ハヤブサⅢ(田中 花子)の捜索・抹殺を最優先として動く。
1.保育園に向かう。
2.ハヤブサⅢのことを知っている正常感染者を探す。役に立たないようなら殺す。
3.余裕があれば研究所についての調査
[備考]
※ハヤブサⅢの現在の偽名:田中 花子を知りました
※上月みかげを小さいころに世話した少女だと思っています

082.Zombie Corps 投下順で読む 084.愛しの■■へ
時系列順で読む 085.元凶
対特殊部隊撃退作戦「CODE:Aurora」 田中 花子 対特殊部隊撃退作戦「CODE:Elsa(仮)」
与田 四郎
氷月 海衣
目覚めの朝 朝顔 茜
日野 珠
黒木 真珠

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2023年07月14日 22:46