人が踏み入れること無き山林の奥地は、燃え上がるような熱狂に包まれていた。
その熱狂の中心にいるのは対峙する一匹のメスと一匹のオスである。
この山に住まう動物たちがその周囲に取り囲むように集まり、燃える程の熱狂を生み出していた。
ここに人間はいない。完全なる野生の世界。

メスの方は人間の少女の姿をしているが、その中身は獣そのもの。
赤子の時にこの山に捨てられ、一匹の雌熊に育てられた名もなき少女である。
少女は獣の娘として成長し、山の中で生き抜いてきた。
人の世の理など知らぬし、野生の掟こそ彼女の掟。

対峙するは少女の5倍の体積はあろうかという巨大な独眼の熊である。
この山は彼らヒグマたちによって支配されていた。
ヒグマたちはその強大な力で山の動物たちを支配し、恐れられていた。

本州に生息していないはずのヒグマが何故岐阜の山脈に存在するのか?
その疑問に答えられるものなどいない、その答えに意味はない。
何故ならここは力こそ全て。生こそ全ての世界。
ヒグマたちがその力をもってこの地を支配していたという事実こそが全てである。

だが、たった一人の少女によってその支配構造が打ち砕かれようとしていた。
少女の母熊はツキノワグマだった。
岐阜県での生息を確認されている在来種。
彼女の母熊は熊同士の闘争に敗れ、ヒグマによって殺された。

目の前で育ての親を殺された野生の少女は激しい怒りと悲しみ包まれ、その野生を覚醒させた。
少女は次々にヒグマたちを叩きのめし、そして目の前にいるのは最後の一匹だ。
これを倒せばこの山の支配構造は変わる。

山の動物たちはその騒ぎを聞きつけ一堂に集結していた。
この山における最強の衝突。
山の王者が変わる歴史的瞬間を見届けんと、オーディエンスたちは大盛り上がりである。
鳥たちは空から、獣たちは地上から、そして木々の間から小動物や昆虫までもが熱狂して、新たなる山の王者の誕生の瞬間を今か今かと待ち望んでいた。

ヒトの少女と独眼の熊。
共通する言語を持たない二人の間には交わす言葉などない。
山に生きる全ての生物が見守る中、その視線が交錯する。
瞬間、それが戦いの合図となった。

少女は素早く駆け出し、その小柄な体格を生かすように木々の間を巧みにすり抜けてゆく。
木々を盾にするような動きを見せる少女に対して独眼の熊は、構わず木々ごとなぎ倒す勢いで巨大な爪を振るった。
それを迎え撃つ少女の蹴りと振り抜かれた熊爪が衝突して、弾けるような衝撃が走り、周囲の動物たちの毛並みをビリビリと揺らした。

繰り返される衝突に木々が揺れ、地面が震えた。
ギャラリーは、その衝突の度に驚き、歓声、そして時には悲鳴をあげる。
山全体を戦場とするように、その中心で二匹は力の限り衝突を繰り返した。

そして、ついに決定的な瞬間が訪れた。
勝負を焦ったヒグマが大振りの一撃を少女に放った。
だが、少女はそれをうまくかわし熊の側面に回り込んだ。
伝説の猟師に撃ち抜かれた片目の死角。

熊は完全に少女を見失い。刹那、強烈な一撃が叩き込まれた。
その一撃は強靭な骨に支えられた熊の脳を激しくシェイクする。
巨大な熊は悲鳴を上げる事すらなく、昏倒してその場に倒れた。

大きな砂埃が舞い、その場に一瞬、時が止まったような静寂が広がった。
その静寂を打ち破るように少女は勝利の雄たけびを上げた。
それを合図とするように山の動物たちが新しい王者を称えるように歓声のような鳴き声を上げた。

敗者は地に伏せ、勝者は天に雄たけびを轟かせる。
少女と独眼の熊の戦いは、山折山の伝説として動物たちの間に語り継がれていくのであった。


店が立ち並ぶ人里の地。
まるで空でも飛ぶかのように野生児が風を切る。
超人的な身体能力で、重力など無視したように縦横無尽に商店街の屋上を駆け抜けていた。

だが、行われているのは華麗なパルクールなどではなく、その実、尻尾を撒いた逃亡である。
ホームセンターでの激戦。
そこで刻まれた恐怖からから一刻も早く離れたいという衝動的な行動である。

山の王者たるクマカイは敗走を期していた。
ヒグマにすら勝利する彼女に敗北感を刻みこんだのは、吹けば飛ぶような痩せ細ったオスだった。
あの枯れ木の様な手足など、クマカイが少し力を込めただけでへし折れる。
実際一撃であのオスは瀕死に追い込めた。
戦えば確実にクマカイの方が強かったはずだ。

だと言うのに、どう言う訳か敗走しているのはクマカイの方だ。
野生の世界は強い方が勝つという絶対かつ単純な掟によって縛られている。
だが、人間の世界は野生の世界とは違う法則で動いていた。

野生において逃走は恥もなければ敗北でもない。
生き残って生を繋ぐ事こそが至上である。
だが野生にも、いや、野生だからこそ譲れぬ矜持がある。

これまで味わったことのない精神的な敗北。
肉体ではなく意思と言う狂気に負けた。

仮にマダラのオスに敗北したのならばここまでの精神的ダメージは追わなかっただろう。
アレは強者だ。ともすれば山の獣の誰よりも。
だが、クマカイを打ち負かしたあのオスは小鹿にも劣るような弱者だ。
肉体面では勝っていたからこそ、その在り方に理解不能な悍ましさがあった。

強い者が勝つとは限らず。
むしろ弱者の臆病さこそが脅威となる。

げに恐ろしきは人の世か。
お山を越える複雑怪奇な魔境である。

勝利が蚊トンボを獅子に変化るように、敗北は百獣の王をシマウマに変化る。
このままでは心が負けてしまえば、クマカイは山の王としての誇りすらも失うだろう。

敗北の汚名を濯がなければならない。
敗北の汚名を濯ぐには勝利しかない。
彼女の喉は勝利への渇望によって砂漠で彷徨う遭難者のように乾いていた。


年々暴対法の締め付けは強くなり反社組織の取り締まりは厳しくなっている。
昨今はワシらヤクザでございーと看板を掲げるだけで逮捕されかねないご時世である。
だが、この小さな田舎村が世間から隔離された閉鎖的な環境であるがためか、この山折村に根を張る木更津組はいまだに堂々と代紋を掲げた事務所を構えていた。

追手である特殊部隊を閉じ込めた氷の檻を残し、保育園から離れた花子たち一行。
彼女たちが移動したのは、その時代錯誤な悪の城の中だった。
堅気の人間であれば近づくのに躊躇う場所ではあるのだが。
ここを拠点にしようと言いだしたのは花子である。

事務所の周囲はゾンビの死体だらけだった。
ゾンビ喰われた死体もいくつかあるようだが、大半は鋭利な刃物で切り裂かれていた。
ほれぼれする程に見事な太刀筋。花子から見ても達人の業である。

辺り一面に死体の転がる凄惨な光景だが、検分する限り死体は切り殺されてからそれなりの時間が経過していた。
細かいところを無視すれば、ゾンビは全滅しているこの周辺はある程度の安全が確保されているという事である。
それらを加味してこの死体だらけのヤクザ事務所を落ち着ける場所として選択したのだ。人の心がない結論である。

ともかく、特殊部隊の対処で手一杯だったが、ようやく腰だけは落ち着けられそうだ。
5人は2階にある、ひと際豪華な組長室に場を移すと、VH発生からここまでの経緯を互いに共有し始めた。

「そう、アナタたちは創くんとスヴィア・リーデンベルグと一緒にいたのね」

珠たちの話を聞き終えた花子がつぶやく。
妙に知った風なその呟きに、茜が反応を示した。

「天原くんと先生と知り合いなんですか?」
「直接的な面識はないわ。まぁ知り合いの知り合いってとこね」

スヴィアが有名な学者だか研究者だったという噂くらいは生徒たちも聞いたことがある。
その絡みで知っていてもおかしくはないだろうと納得できるが、創まで知っていると言うのは偶然にしてはできすぎだ。

「彼がこっちに来る前の保護者とたまたま同じ仕事をしてて、話を聞く機会があったのよ」
「へぇ。それはまた偶然」
「ねぇ。偶然」

素直に驚く茜に花子は笑顔で適当な相槌を打つ。
珠たちも特に気にせず聞き流していた。
それよりも気になる事があるからだ。

「先生や創くんも心配いていると思うんで合流でたらいいんだけど……」
「そうねぇ。私としてもスヴィアさんにはお会して話を伺いたいところなのだけど。
 だいぶ混乱した状況だったようだし向こうがどう動いたのかわからないとなると、合流するのは難しそうね」
「そう、だよね……」

珠は露骨に肩を落とす。
バラバラになったのは自分が混乱して暴走したからだ。
迷惑をかけてしまった2人がどうなっているのか心配だった。

「それに、みか姉も……」

特殊部隊の女が保育園にたどり着いた時点で足止めに残ったみかげの運命は望み薄だ。
だが、自分の目でその終わりを確認しない限りはどれだけ望みが薄かろうと生きていると信じている。

「希望を持ち続ける事はいいことよ。こんな状況ではなおさらね。
 ひとまず追手はどうにかできたわけだし、あなたがその子を探したいというのなら止めはしないわ」

みかげを秤にかけてトリアージした花子だが、この希望自体を否定はしなかった。
絶望的な状況だからこそ、希望は捨てるべきだはない。

「ただし、私はこの事態を解決ために動くその方針を変えるつもりはないわ。
 その過程で上月さんを探すのは構わないけど、わざわざそちらの捜索に手を裂くつもりはない。わかるわね?」
「……うん。わかってるよ」

ついでで探すのはいい。
けれど、みかげの安否確認を優先するのならここでお別れだと言っていた。
珠は一瞬目を閉じて小さなこぶしをぎゅっと握りしめる。

「大丈夫です……私は、花子さんたちと行きます」

決断する。
火の玉の様に突っ込んでいくだけでは何も変わらない。
まずは前を向いて出来る事をしなければ、それこそみかげに怒られてしまう。
花子はこの決断を「そう」と受け止め、仕切りなおすようにパンと一つ手を叩く。

「では、話を前に進めましょう。
 さっきも話したけど、私たちはこの事態を解決するためにウイルスの発生元である研究所を調べようとしているの。
 けど、研究所に繋がる診療所には奇妙なナニカが巣食っていて近づけない。
 なので秘密の入り口を見つける必要があるんだけど、何か知らない?」

ただの女子学生2人。
何か知っているとも思えないが、ダメ元でも聞いてみるのが肝要だ。

「あのぉ……それと関係してるかわからないんですけど」

珠がおずおずと手上げた。
このように思わぬ成果が転がり込んでくることもあるのだから。


「つまり、あなたは白衣連中の怪しい会合を目撃したと?」

珠の口から語られたのは、みかげの異能によって解放された、封じられていた記憶。
赤い血に彩られた、悍ましき光景である。

「うん、マンホールみたいな穴の前で最初は白衣の人同士が揉めていて、だんだん口論になって。
 それから主任って呼ばれた人が、祭服を来た人たちを呼び込んで……」
「口論してた相手がその祭服たちに殺された、と」

口にしづらいその先を花子が口にし、珠がそれに頷く。

「それはいつ頃のお話かしら?」
「一年くらい前だった……と、思います」
「…………一年前」

口元に手をやり花子が僅かに考え込む。
数秒、思考の海に沈み。背後の与田へと振り返る。

「ねぇ、センセ。祭服連中に心当たりは?」
「ないですね」
「なら主任って人は?」
「そりゃあ、ありますけど。主任なんて何人もいますしどの部署の主任だか……。
 それに一年前ともなると当時の役職まではあんまり覚えてないですね」
「あっそう」

本当に頼りにならない参考人である。

「ちなみに、あなたたち記憶の消去とかそんな事できるの?」
「本部でそういう研究しているという話は聞いたことがありますね。
 長期記憶は無理ですが、まだ固定化される前の短期記憶なら操作できるとか」

未来人類発展研究所は脳科学の研究が行われている。
記憶操作もその成果の一つという事か。

「祭服たちは何者なんでしょう? 今回の事件と関わりがあるのでしょうか?」

同じく珠の話を聞いていた海衣が疑問を呈した。
このバイオハザードは地震による事故によって引き起こされた、という事になっている。
研究員と祭服連中の黒い繋がりがあったのは分かったが今回の事件と関わりがある事なのか。

「さて、それは調べてみないと分からないわね。
 少なくともマンホールみたいな穴って言うのは気になるわ。
 珠ちゃん。その会合が行われていたのはどの辺のことかしら?」
「えっと……たしか、あれ?」

記憶の中にある取引場所を指し示すべく、珠が窓の外を見つめた所で何かに気づいた。

「どうしたの?」
「えっと、あの辺に動く光が……」

視界の端にちらつく光に気づいた。
珠は起きる出来事を光としてみる異能を持つ。
彼女が光を捉えたという事実は無視できるものではない。

言われて花子が超視力で目を凝らし、その詳細を確認する。
そこには建造物の屋根を駆け抜ける人影があった。
よく見れば初めて見る顔ではない、その姿には見覚えがある。

「……んんぅ? あれ、パルクールマンじゃない?」
「パルクールマン?」
「商店街で特殊部隊に向かって行った少年の事よ」

商店街での特殊部隊の狙撃手との攻防戦。
花子たちが逃げる隙を作るべく狙撃手に向かっていった少年である。
まあ実際は、特殊部隊を狙う動きをしていたのを体よく利用しただけなのだが。
あれがなければ全員無傷で狙撃手から逃れることはできなかっただろう。

必死の形相で駆け抜ける様子からして、敗走しているようだ。
だが、特殊部隊相手に生き残っただけでも大したものだろう。
このままの勢いで突き進めば、そのうちこのヤクザ事務所の近くまでぶつかる軌道である。

花子たちからすれば一方的な恩義はある相手ではあるのだが、接触するかどうかとなれば話は別だ。
このまま事務所内に隠れてやり過ごすのがベターである。
もちろん花子としてはそうしたいところなのだが。

「どんな人なんです?」

何気ない疑問のように茜が聞いてきた。
小さな村だ。同年代の少年少女が知り合いである可能性は高い。
花子としては余り答えたくはないのだが、聞かれてしまった以上は答えない訳にもいかない。

「そうねぇ。年は多分、海衣ちゃんたちと同じくらいかしら、黄緑のポニーテールの少年ね」

その特徴を聞いて同じ心当たりに行きついたのか海衣と茜の2人が顔を合わせて反応を見せた。

「それって…………」
「優夜じゃない?」

嶽草優夜。
2人の同級生。特に茜は普段からよくつるむ友人である。
この村でそんな特徴的な髪色をしているのは彼しかいなかった。
と言うより、黄緑ポニーテールの少年なんてこの小さな村に限らずそうそういるものではない。

「迎えに行かなきゃ、行こう氷月さん!」
「待った。その子、屋根の上を飛び回ってるけど、そういう事が出来る人物?」

海衣と共に出迎えに行こうとする茜を花子が止めた。
商店街を屋根から屋根へと渡って行く様はなかなかに超人的である。
あれくらいはできる人間を花子は沢山知っているし、花子自身もやれと言われれば出来ないこともない。
とは言え、この小さな村に住まう普通の学生が出来るのかと言うと疑問が残る。

「どうでしょう? 足は速いですし運動神経はいいほうだったと思いますけど、そこまでじゃあ……」
「うーん。身体強化系の異能なのかもしれないよ?」

身体能力の強化、あるいは重力や風を操っている可能性もあるだろう。
通常では無理でも、今のこの村には無理を可能とする異能と言う力がある。

「なら、あの時、特殊部隊に向かって行ったっていうのは嶽草くんだったって事ですか?」
「そうなるわね。優夜くんっていう子はそういうことをする人なのかしら?」

花子は特殊部隊に自ら向かっていった少年の攻撃性を危惧していた。
だからこそ下手に合流を言い出さないようあえて口にせずにいたのだが。

敵の敵は味方という単純な話でもない。
あの時、狙撃手に向かっていったのは村に攻め入った特殊部隊に対する義憤からなのか。
それとも無謀で無差別な攻撃性によるものなのか。
下手に能力が高そうな分、それが判断できない限り、合流するのに懸念が残る。

「する……かも、しれないですね」
「人に喧嘩を売るような奴ではないですけど……。
 すんごい異能に目覚めて調子に乗って村を守ろうと特殊部隊に向かっていったっていうのは……ある、かも」

友人の性格を思い浮かべ少女たちは妙に苦々しい顔で答える。

「バトルジャンキーとかリスクの高いほうを選ぶギャンブラーそういう訳ではないのよね?」
「むしろ真逆の慎重な人ですよ。見た目に反して。
 いつも誰かの頼み事を聞いて人助けをしているような人なので。悪人ではないかと……」
「まぁ、抱えきれないタスクを自分から背負って逃げ帰ってる、って言うのはあいつらしいちゃらしいかも」

両名の評価は良好だ。
花子は変装した別人である可能性も疑っていたのだが、行動と人格のズレも今の所それほどない。
別人と認めるだけの根拠は薄そうだ。

なにより、海衣と茜がいると知ってこちらに接触しようとしているという状況ならともかく。
偶然コチラが相手を見かけたという状況だ、わざわざ先んじてその友人に変装する理由がない。

「心配のしすぎですって、世話焼きとお人よしが服着てるような奴ですから」
「まあ……そうね。直接の知り合いであるあなたたちの眼を信じましょう」

わざわざ特殊部隊と言う強者を狙ったあたり、無差別犯という可能性も低い。
意図したものかどうかがは不明だが、商店街でこちらを助けてくれたという実績もある。
友人との合流を望む少女たちを止めるだけの理由がない。

「行こう。早くしないと、優夜の奴通り過ぎちゃうよ」
「あっ、ちょっと。引っ張らないで」

花子の許しを得て、茜が海衣を引き連れ事務所から飛び差していった。
その後を追って花子たちも事務所の階段を下って行ったのだった。


「おーーーい、優夜ぁ!!」

外に出た茜は、優夜が通り過ぎないよう声を上げてこちらの存在をアピールしていた。
その隣には、連れ出した時のまま手を繋いだ状態で海衣も立っている。

「おっ。気づいたみたい」

手を振る茜の姿に気づいたのか、空中を進む少年がその軌道を変えた。
逃走から合流に目的も切り替わったからだろう、姿が急速に近づいてくる。

僅かに遅れて事務所から出てきた珠の眼にも、その姿がはっきりととらえられた。
それはとても大きな光に見えた。
この地獄のような舞台で探していた友人との再会は奇跡のような大きなイベントだろう。
珠だってみかげや創を見かけたならこれくらいの光に見えてもおかしくはない。

だから、そういうモノだと納得してしまった。
珠の異能は出来事の大きさは光の大きさで判断できるが、その好悪を判別できない。
それが珠の失敗。

そして、その人影が花子以外のみんなにも目視できる距離まで近づいてきた。
そこで僅かな違和感があった。
近づいているにもかかわらず、減速しない。むしろ加速している。
その違和感を切り裂くように、誰かが叫んだ。

「違います、そいつ本人じゃありません!!」
「ッ!?」

叫んだのは少年少女の友人関係と無関係な与田だった。
その姿を肉眼でとらえた瞬間、彼の持つ異能を見抜く異能によって別人であると見破った。
だがその叫びは余りにも遅い。
自分には無関係な再開だとチンタラ事務所から出てきたのが災いした。
それが与田の失敗。

「…………え?」

だが、異能と言う力を得ようとも彼女たちは戦士ではない。
咄嗟の緊急警告に対して瞬時に臨戦態勢を取れるような精神構造をしていない。
友人との再会と考えていた海衣はよもや攻撃されるなど想定しておらず動けなかった。
それが海衣の失敗。

故に、その声に反応できたのは花子だけだった。
聴覚と神経が直結しているような素早さでベレッタM1919を抜いて銃を構える。

だが、立ち位置が悪い。
出迎えに行った茜と海衣が壁となり、斜線を通すには横に一歩ズレる必要がある。
その一歩よりも襲撃者の方が早い。
それが花子の失敗。

それぞれがミスをした。
一つ一つは小さくとも積み重なったミスは大きな損失を生む。

海衣に向かってミサイルが如き勢いで蹴りが放たれた。
その初撃を防げず、凄まじい跳び蹴りが少女の胸部に炸裂した。


この村には少女の幽霊が出るらしい。

誰も見たいことのない少女が夜の草原を散歩する。
この手の噂には昔から事欠かない村ではあるのだが、その噂は少しだけ毛色が違っていた。
なにせ、その幽霊は昼に出る。
ついでに言えば、両親もいて身元もはっきりしているらしい。

それはただの村の子供じゃないのか?
と言うツッコミはごもっともなのだが、幼稚園生だった当時の私たちは本気でそんな噂を信じていた。

この小さな村で生まれ育った同年代の子供たちはだいたい友達である。
多少の仲の良し悪しやつるむグループはあれど、知らない子供などいるはずもない。
自分たちの知らない子供がいるのは幽霊に違いない。
言い出したのは山折くんだったか、八柳くんだったか。
ともかくそんな結論に至ったようだ。

幽霊の正体を知ったのは保育園を卒園して小学生になった時だ。
古臭いだけの何でもない教室に、その少女は現れた。

優雅な所作に、気品ある礼儀作法。
同じ土地で育ちながら、ずっと隠されていた宝石のような女の子。
氷のように凛とした表情は煌めいているようにすら見えた。

野山を駆け回って遊んでいたサルだった私はその美しさに圧倒された。
義務教育まで軟禁されるように育てられたのだと知ったのはずっと後の事だけど。
おとぎ話の中から抜け出てきたお姫様が現れた! と、おバカな子供だった私は本気でそう思ってドキドキしていた。

彼女は休み時間にも誰に寄せ付けない氷の様な雰囲気を纏っていた。
ずっと一人で黙々と机に噛り付いてノートにペンを走らせていた。
その態度は休み時間はグラウンドで遊ぶことしか考えてない子供にはなかなか理解しがたかったようで、からかうような男子連中も少なからずいた。
「なんでそんなことしてるんだよ」と机を囲んでからかい交じりに尋ねられ、ポツリと「いえではべんきょうできないから」とつぶやいた、あの悲しそうな顔を覚えている。

彼女の両親は毎日のように学校が終わると迎えに来た。
美しいお姫様は、捕らわれのお姫様だった。
まるで悪い魔法使いに連れ去られてしまうように、お姫様に自由はなく。
幼心にも、それが過保護な愛情ではないと気づくのに時間はかからなかった。

どうにも私は拾われっ子らしい。
それでも、とても大事に育てられた。
拾ってくれた両親の事は本当の親だと思っているし、両親から愛情を疑ったことはない。
友人にも恵まれ暖かい人たちに囲まれ孤独を感じたことなど一度もなかった。
だから彼女が両親から向けられていた感情に、それは違うと思えたのだ。

村の長が変わって、子供たちが増えて、校舎が増えて。
私達も義務教育を終えて、高校生になって、新しい校舎に通うに様になった頃。
彼女を迎える両親の姿も見なくなった。

単純に世間体を気にしての事だろう。
田舎の人間にならどう思われてもよかったが、都会から越してきた人達に偏見の目で見られるのは嫌だったのだろう。
私も少しだけ大人になり、そう言った機微が分かるようになって、彼女のを取り巻く状況も見えてきた。

私は、好機だと思った。
長年の夢をかなえるべく、攻勢をかけることにした。
もうお姫様だの幻想を信じる様な年でもない。

私はただ、彼女とお友達になりたかったのだ。


「海衣ちゃん…………ッ!」

友人の皮を被った襲撃者――――クマカイの魔手が迫るその刹那。
繋いでいた海衣の手が背後に引かれる。
そしてダンスでもするようにクルリと体が入れ替わり、茜が前へと身を躍らせた。

茜は与田の声に反応した訳ではない
友人の姿を視界に捉えて、直接その顔を見て、目の前の相手は別人だと、なんとなくわかった。
仲のいい友達なのだ、それくらいは分かる。

そして気が付けば体が動いていた。
考えるよりも先に動いてしまうのは自分の悪い癖だ。
けれど、その悪い癖で友達を助けられたんだから良い癖だったのかもしれないな。
なんて。最期の瞬間までそんなどうでもいい事を考えていた。

氷が砕けるような冷たい音が鳴り響いた。
それは叩き込まれた蹴りによって少女の胸骨が砕けた破滅の音である。

杭の様にめり込んだ足が振りぬかれ、茜の体がバッドで打ち出されるボールのように大きく後方に弾き飛ばされた。
それと入れ替わるように、斜線を確保した花子が一瞬遅れて襲撃者を銃撃する。

クマカイは茜を蹴りぬいた反動を利用して後方へと宙返りして身を躱すが、放たれた弾丸はその頭部を掠めた。
弾丸が頭蓋を滑るよう頭部を削り、剥がれた頭皮の下から新たな頭皮が出現する。

ネコ科動物のように空中で反転したクマカイが四つ足で着地すると自らを狙撃した花子を睨み付ける。
その視線を真っ向から受け止めながら、花子は背後の与田に問う。

「あれは、どういう手合い?」
「喰った相手の肉を被る異能者です」
「そう。つまり、あの身体能力は素ってわけね」

目の前の相手は海衣たちの友人どころか、その友人を殺してその皮を被った輩だと言う事だ。
未来を見るには対象を注視する必要がある。
見破れなかったのはそれを怠った花子の失態だ。

「センセ、茜ちゃんを診て上げて」
「いや、診ろって言われましても…………」

与田が言葉を濁す。
その意味するところを理解しながら花子は続ける。

「いいから。お願い。アレは私が相手するわ、安心して。そっちには絶対に行かせないから」

花子はこれまで用意周到に策を弄して強敵を撃退してきたが。
今回はこれまでとは違う、こちらが奇襲を受けた側である。
小細工なしの正面戦闘となる。
そう言うのは本来であれば相棒の役割なのだが、逃げも隠れもせず花子は前へと踏み出た。

「ぐぅるるるるるるるぅぅううううッッッ!!!」

威嚇するような獣の嘶き。
クマカイも目の前のメスがこの群れのなかで一番強い獲物だと本能的に理解している。
だからこそ勝利せねばならない、己が野生を取り戻すために。

獣が四つ足で地面を蹴った。黄緑のポニーテールが揺れる。
同時に後ろ足で足元に転がる一刀両断されたゾンビの生首を蹴りだし、牽制の礫とする。
迎え撃つ花子は銃のグリップ底で生首を弾き、そのまま矢のように迫る獣に正確に銃口を構えた。

だが、野獣は直進するのではなく、途中にあった電柱を蹴りだし稲妻のように急角度で動きを変えた。
速さと強さを突き詰めたその動きは目にも止まらぬ速さである。
加えて、死角を突くような多角的な動き。
効率化された武術とは違う、狩りに最適化された野生の動きだ。

だが、それ故に、読みやすい。
銃声と共に、高速で跳ねるクマカイが撃ち落とされる。
放たれた弾丸は、胸の中心に正確に叩き込まれていた。

クマカイの動きは確かに速い。
確かに速いが、それだけだ。
対処できない手数や範囲攻撃、捉えられない達人の技術の様に、見えても対応できない類のものではない。
見えていれば、落とせる。

「ギッ……………!!」

撃ち落とされたクマカイは地面に叩き付けられるよりも早く、宙で回って跳ねるようにして立ち上がる。
胸に打ち込まれた弾丸は纏った肉で止まっていた。
皮を脱ぎ捨て囮とする戦術は取らなかったのはこのためだ。
体を掠めた弾丸の威力から、このまま肉の鎧とした方が効果的であると判断した。
実際結果はこの通り、小口径の弾丸なら防げた。

「いいわよ。何度でも何度でも撃ち落としてあげる」

だが、それも一度きりである。
肉の剥がれた同じ場所に打ち込まれればそれで終わりだ。
衝撃までは受け止めきれず、逆流した胃液を喰いしばった口端から垂れ流す。

女から放たれる言葉の圧にクマカイは背筋に僅かな痺れを感じた。
目の前のメスから感じられる猟師とも狂信者ともまた違う、別種の凄み。
方向性で言うならマダラのオスどもに近い。

これでは足りない。
もっと、もっともっともっと。
もっと力を。

そうでなければ、また負ける。
勝者は全てを得て、敗者は全てを失う野生の掟。
クマカイは勝利せねばならない。
この敗北感を濯ぎ、己が誇り(やせい)を取り戻すために。

足元が爆ぜる。
駆けだすその速度は正しく疾風迅雷。先ほどまでの比ではない。
真っ直ぐに花子に向かうのではなく、電柱のみならずヤクザ事務所の壁を蹴りピンボールのように跳ね回る。
そして、足元に転がるヤクザともの死体を踏み砕きながら、その肉片を目晦ましとして撒き餌の様に周囲へ打ち上げる

文字通りの肉の壁に隠されたその動きは、もはや捉えようがない。
それは目にも止まらぬ動きを超え、目に映りすらしない動きだ。
常人であれば自分が死した事すら気づかず、一撃で首をへし折られているだろう。

だが、花子には全て見える。

飛び散る肉片。
その隙間で跳ねまわるクマカイの動き。
光の矢のような勢いで首を刈りに来た一撃をブリッジのような体制で躱すと、すれ違いざまに鳩尾を思い切り蹴り上げた。
クマカイの小さな体が打ち上げられ、バイク事故のように自らの勢いできりもみ回転しながら吹き飛んで行った。

全てを見通す異能の目。
これを前に、半端な目晦ましなど無意味だ。
敵を注視することで未来予知すら可能とする神の瞳。
そして花子には捉えた動きに反応できる反射神経と運動能力がある。

どれほど小細工を弄そうとも、勝利せねばという焦りが、動きを単純化させる。
どれだけ速度と威力を上げても、当たらなければ意味がない。
焦れば焦る程、花子にとってはいいカモだ。

吹き飛ばされたクマカイの体は受け身もとれず地面に叩きつけられ、そのままゴロゴロと転がる。
肉襦袢も地面削られてゆき、真の姿が露わになって行く。

そしてその回転が止まった後になってもクマカイはしばらく立ち上がらなかった。
心折れたのか、土下座のような体勢のまま蹲って動かない。

怯える小動物のように小さく蹲る様は憐れを誘う光景だが。
ロクに話も出来そうにない相手だ。この相手から得られる情報もないだろう。
無差別に人を襲う危険人物。生かしておく価値もない。

花子は一切の感情を動かさず、地面に削られ剥き出しになった生身の後頭部に銃口を向ける。
狙いをつけ、引き金に指をかけた。
後はそれを引くだけという刹那、それよりも一瞬早く、蹲った野生児から、何かが放り投げられた。
全てを見通す瞳が、スローモーションのようにそれを捉える。

スタングレネード。

爆音と閃光により周囲の人間を無力化する閃光発音筒。
土下座の様な体勢は怯えて勝負を諦めた訳ではなく。
目と耳を守るのに最も適した体勢だった。

ギリギリまで引き付けたスタングレネードが炸裂し、音と光が世界を包んだ。


「朝顔さん! 朝顔さん!」

泣き叫ぶように倒れこんだ茜に海衣が縋りつく。
茜はその呼びかけに応えることもできず苦し気に浅い呼吸を繰り返し、口から塊のような血を吐いた。

「処置します、離れてください……!」

そこに与田が駆け付け海衣を引きはがした。
海衣は自失茫然とした様子で胸の前で手を合わせる事しかできなかった。

与田が茜の服を脱がせ傷口を確かめる。
胸部は大きく凹んでおり、強打を受けて胸腔に血液が蓄積する血胸が引き起こされている。

「……麻酔を打ちます」

麻酔と言っても、ヤクザ事務所から拝借した薬物である。
合法的なものではないが毒も薬も使いよう。
痛み止めの麻酔の役割は果たしてくれるだろう。

同じく事務所にあった注射器で麻酔を打ち込み、続いて空になった注射器を脇下に宛がう。
使いまわしは衛生的によろしくないが緊急事態だ。
針を深く突き刺し、胸腔内に溜まった血液の吸引を試みる。

慎重に肺に溜まった血液を抜き取ってゆく。
処置が完了した辺りで麻酔が効いてきたのか、いくらか呼吸が落ち着てきた。
苦しげな表情が和らいだことに、その様子を見守っていた海衣が胸を撫で下ろしたところで。

「朝顔さん――――何か、言い残したことはありますか?」

与田がそう問いかけた。
遺言を聞くようなその言葉に海衣が与田に掴みかかる。

「どういう……つもり?」
「どうもこうも……無理ですよ、こんな所じゃ手術なんてとても」

茜の負った傷は致命傷だった。
折れた肋骨がいろんなところに突き刺さっており、内蔵にも大きな損傷がある。
最新鋭の設備で手術すれば助かる見込みはあるかもしれないが、手術道具の一つもないこの状況では治療は不可能だ。

最初から与田が行っていたのは回復のための治療ではなく。
最期の時間を与えるための終末医療だった。

「…………そん、な」

茜は助からないと。
医師に宣告に目の前が真っ暗になる。

「お願いです……助けて、助けてください! 朝顔さんを助けてください……お願いします……ッ!!」

怒りを秘めた抗議は、縋りつくような懇願へと変わる。
だが、どれだけ頼まれようが与田にはどうしようもない。
ただ苦々しい表情で視線を逸らす事しかできなかった。

「…………いいの、先生を……困らせないであげて」

それでも諦めきれずに食って掛かろうとする海衣を制止する声があった。
茜だ。

「朝顔さん……!?」

海衣は与田の掴みかかっていた手を放して茜の横に屈みこむ。
解放された与田は乱れた襟を正すと、空気を読んでその場から静かに離れた。
これ以上出来ることはない。残されるのは少女たちの時間だ。

「…………手、ごめんね、せっかく……教えてもらったのに」

咄嗟の事だったからだろう。
繋いでいた海衣の手には火傷の痕が刻まれていた。
コントロールの仕方を学んだのに、また暴発させてしまった。

「いい……っ。そんなことはどうでもいいから…………!!」

焼けた手で再び彼女の手を取り握り締める。
火傷の痛みなどどうでもいい。
大切な友達がいなくなってしまう。

「…………どうして? どうして私なんかを庇ったの?」

あの時、狙われたのは海衣だった。
茜が手を引かなければ、こんなことにはならなかったのに。
洋子の時だってそうだ。自分を助けて誰かが死ぬのはもう沢山だ。
自分には誰かに庇われるような価値はないのに。

「友達を、助けるのは…………当たり前じゃん」

海衣の疑問に茜はそんなことかと、唇を震わせながら笑顔を作る。

「…………嬉しかったよ…………友達って……思ってくれてたこと」

ずっと一方的な思いだと思っていたから。
思わず抱き着いてしまうほど、本当に、嬉しかったのだ。

「私……ずっと氷月さんの事…………綺麗だなって思っていた。
 …………見た目だけじゃなくて、周りに流されず……自分を貫く姿とか……すごいなって…………」
「違う。私は、そんな立派な人間なんかじゃ……」

海衣はゆっくりと首を振る。
凄くなんてない。
海衣は逃げる事しか考えていなかった臆病者だ。

両親から。
この村から。
何もかもから逃げ出したかった。

だけど、海衣が人間関係を築けなかったのは両親のせいだけではない。
この村を出ていくと決めた時から、全てを遠ざけていたのは自分自身だ。
いつか必ず別れる相手と心を通わせる勇気がなかった。
それは海衣の弱さだ。

「…………いいよ、それでも」

立派じゃなくても、美しくなくても、臆病者でも、弱くたっていい。
それを含めてあなたなのだから。

「私は……あなたと、お友達になりたかったの」

お姫さまじゃなく、ただあなたとお友達になりたかったんだ。
それが叶った願いの先、ずっと秘めていた願いを叶えよう。

「ねぇ…………海衣ちゃんって呼んでいい?」

ずっとそう呼びたかった。
そう言えば、あの時咄嗟に呼んでしまったなと思い出して少しだけ照れてしまう。

「……うん…………うんっ!」

少女は止めどなく大粒の涙を零しながら頷きを返し、取りこぼさぬよう大切に両手で少女の手を握りしめる。
だが、握り返す力は悲しいほどに弱い。
熱を放つはずの彼女の異能は働かず、体温も失われてゆく。

両手から大切なものが零れ落ちてゆく。
血が、熱が、命が。
繋ぎ止めようと強く握りしめてもそれは無意味で。
ただ、何も出来ない己の無力さをただ突きつけられる。

「ぅあ…………ぁ。ダメ。ダメだ、死なないで…………死なないで茜ちゃん!」

懇願も空しく響く。
全てが失われてゆく。
その絶望を覆い隠すように、瞬間、世界を音と光が包んだ。

強烈な光が目を潰す。
音は爆撃の様に鼓膜を突き抜け、脳を揺らした。

だが、全てがどうでもいい。
光や音よりも、目の前で消えゆく命の方が大切だった。
大切な友達が居なくなってしまう。

全てが白く染まる光の中で、握りしめる手の感触だけが確かだ。
だが、繋いだ手から力が失われるのが分かった。

「ぅぁ……ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!」

少女の喉の奥から、全てをかき消す慟哭のような絶叫が響いた。
シナプスが火花の様に炸裂して脳が弾ける。
内側から発生する灼熱で臓腑が焼ける。
絶望と黒い感情が己の中を支配する。

終わる世界。
全てを終わらせてしまいたい脳内(イメージ)が世界を塗り替えるように広がって行く。

少女の全身から冷気の嵐が噴き出し、暴走する吹雪となって辺り一面に吹き荒れた。
光と音を食い破るように、彼女の殺意が氷となって世界を覆う。

「ッ!?」

今まさに視界を潰した獲物に襲い掛からんとしていたクマカイに向かって、一条の氷が奔った。
スタングレネードに対して防御態勢を取っていた花子たちと違い、クマカイは完全なる攻撃態勢となっていた。
故に、その一撃は強力なカウンターとなる。
襲い掛かる氷の棘が全身へと降りかかり、その一欠片が眼球を掠めた。

「ぐぅっ…………ッ!!?」

クマカイは瞬時に攻撃を取りやめ、動物のような機敏さで後方へ引く。
氷河期のような環境変化。
野生に生きる者は自然には絶対に勝てないと身に染みて理解している。
環境ごと変える力には慄くしかない。

生存本能と自尊心が天秤にかけられ、音を立て砕ける勢いで歯噛みする。
クマカイは引く事を選んだ。
禊は叶わず、敗走を繰り返すしかない。
苦々しい思いを抱えながら、クマカイはその場から離れて行った。

「どこだ…………どこに行ったッ!? 殺す…………殺してやる!!」

殺意と怨嗟の声をまき散らす。
少女はふらつきながら、霞んで殆ど見えない瞳で仇の姿を探していた。

音に揺さぶられて耳鳴りがして激しく頭が痛む。
怒りと悲しみによるものか、それとも閃光に焼かれての事か、流れる涙が止まらなかった。

凍って行く涙を地面に落としながら。
まともに動くのも辛い状況であろうとも止まれない。
暴走する様に憎き仇を探し求めていた。

「止まりなさい。もう逃げたわ。アナタでは追いつけない」

止まれと言う声がした。
だが、海衣は言葉を無視して突き進む。
友の仇だ。
止まれと言われたくらいで止まれるはずがない。

「落ち着いて。いつものあなたらしくもない」
「離せ! アナタに何が分かる!!?」

掴まれた手を乱暴に振り払う。
落ち着けるはずがない、落ち着くつもりもない。
なんとしても友の仇を殺すまで、何がっても止まれるものか!

明らかに暴走する海衣。
それに対して花子は怒るでも窘めるでもなく、氷以上に冷たい声でただ事実だけを告げる。

「能力を解きなさい。このままだと与田先生と珠ちゃんが死ぬわ」
「………………あっ」

その言葉に急速に頭が冷えた。
振り返って、ようやく僅かに回復してきたぼやけた視界で背後を見る。

「ぅっ……ぅ…………」
「………………さ、寒い」

そこには、地面に伏せて彼女の生み出した冷気の波に巻き込まれている珠と与田の姿があった。
フラッシュバンによって身動きを取れなくなった所に襲い掛かった寒波をもろに浴びたようだ。
このまま続けば下手すれば凍死しかねない。

そして回復してきた視力で見れば、一番ひどい被害を被っていたのは目の前の花子だった。
花子の左手は氷に包まれていた。
殺意の氷が向けられたクマカイの一番近くにいたからだろう。
それに巻き込まれて半身を氷に覆われたようだ。

「あの…………私っ」

自らの仕出かしてしまった事を自覚し、海衣が顔を青くしてゆく。
復讐心に捕らわれ仲間たちを傷つけてしまった。

「いいのよ。まだ大した被害が出たわけじゃない。センセと珠ちゃんには後で謝るとして。
 わざとやった訳じゃないのだからそこまで気に病む必要はないわ。反省して二度と繰り返さなければそれでいいのよ」
「…………はい」

項垂れたまま反省を示す。

「けど……田中さんの手が」
「ま、そうね。氷は溶けるのを待つしかないわね」

冷気に煽られただけの与田たちはともかく、花子の左手は氷に覆われている。
こればかりは自然解凍を待つしかない。
奇しくも先ほど閉じ込めた特殊部隊と同じ状況だが、防護服に包まれた無効と違い生身で氷の触れ続けることになる。
凍傷は免れないだろう。

そして、被害を受けたのはもう一人。
体温を失った死体は氷中で氷葬にされていた。
氷に閉じ込められた彼女を解き放つ手段は彼女と共に失われた。

動かすことも触れる事すら許されない。
己の暴走の咎。

「……すいませんでした。落ち着きました」
「ん。茜ちゃんのことは敵を見抜けなかった私の判断ミスよ。それに関しては恨んでくれて構わないわ」
「恨むだなんて、そんな…………」
「ま。その辺は今は内にしまってちょうだい、まずは珠ちゃんたちを介抱しましょう」

そう言って花子はショック状態で動けないままの球たちの下へ向かって行く。
花子はああ言ったが、責任があるとしたならば他ならぬ海衣自身にある。
花子を恨んでなどいない。

だが、茜を殺したあの女を許すつもりはない。
何より奴は、嶽草優夜の皮を被っていた。
つまり嶽草も殺している。友人2人分の仇だ。

その仇は必ず取る。
復讐心に身を任せて殺意を暴走させたりはしない。
暴走する本能ではなく、氷のような理性で殺してやる。
そう氷の棺を見つめながら、掌の痛みに誓う。

【朝顔 茜 死亡】

【D-3/木更津組事務所前/1日目・昼】

田中 花子
[状態]:左手凍傷、疲労(中)
[道具]:ベレッタM1919(1/9)、弾倉×2、通信機(不通)、化粧箱(工作セット)、スマートフォン、謎のカードキー
[方針]
基本.48時間以内に解決策を探す(最悪の場合強硬策も辞さない)
1.珠から聞いたポイントの調査。
2.診療所に巣食うナニカを倒す方法を考えるor秘密の入り口を調査、若しくは入り口の場所を知る人間を見つける。
3.研究所の調査、わらしべ長者でIDパスを入手していく
4.謎のカードキーの使用用途を調べる

氷月 海衣
[状態]:罪悪感、疲労(大)、精神疲労(大)、決意、右掌に火傷
[道具]:スマートフォン×4、防犯ブザー、スクールバッグ、診療所のマスターキー、院内の地図、一色洋子へのお土産(九条和雄の手紙付き)、保育園裏口の鍵
[方針]
基本.VHから生還し、真実に辿り着く
1.珠と与田に謝罪する。
2.女王感染者への対応は保留。
3.茜を殺した仇(クマカイ)を許さない
4.洋子ちゃんにお兄さんのお土産を届けたい。

日野 珠
[状態]:疲労(小)、フラッシュバンによるショック状態、軽度の低体温症
[道具]:なし
[方針]
基本.自分にできることをしたい。
1.記憶の場所に案内する。
2.みか姉に再会できたら怒る。
[備考]
※上月みかげの異能の影響は解除されました
※研究所の秘密の入り口の場所を思い出しました。

与田 四郎
[状態]:フラッシュバンによるショック状態、軽度の低体温症
[道具]:研究所IDパス(L1)、注射器、薬物
[方針]
基本.生き延びたい
1.花子に付き合う
2.花子から逃げたい


超自然的現象によって生み出された冷気によって、クマカイは撤退を余儀なくされた。
氷の棘が刺さった左目からは朱い涙の様な雫が流れていた。
完全に失明した訳ではないだろうが、風景が霞んで殆ど見えなくなっている。

日に2度敗れる、2度目の敗走だ。
野生児は悔しさを滲ませながら、道筋を走る。

駆け抜けてゆくうち、自然の残る雄大で牧歌的な風景はどこか冷たい都会的な景色へと変わって行った。
それは人間が便利で文化的な生活を送るために多くの自然を切り開き生み出した最新部
高級住宅街と言う、彼女の生きた自然の世界とは対極の人工の世界の入り口だった。

動物たち喧騒は都市の静寂に塗りえられた。
青々とした木々は冷たい石とコンクリートの建造物に置き換わってゆく。

体に負った傷や痛みよりも、その光景に息苦しさを感じてしまう。
空に太陽が浮かんでいるのに暗闇の底を走っているような閉塞感があった。
まるで地の底にいるかのよう。

遠く見つめれば、すぐそこに在るはずの故郷は遠く。
山に住まう動物たちもゾンビとなっているだろう。
かつて、そこには熱狂もここでは感じられない。

その山に彼女を待つ者などいない。帰る場所など既に失われている。
彼女が知る由もないが、このVHの始まりの時点で自らの手でその縁を断ち切ってしまった。
もはや、どこにも戻る場所のないひとりぼっち。

閉塞の檻。
絶滅の迫るニホンオオカミのように、孤独の中を走る。
世界が終わったような倒壊と崩壊が並ぶその先で。

懐かしい宿敵(とも)に出会った。

異常なまでに筋肉質な体つきと天を突くような巨躯。
分厚い体毛の生える表皮はワニの堅固な鱗で覆われた。
災害と厄災によって生まれたクマとワニの成れ果て。

野生の少女は血濡れの瞳とボロボロの体で笑みを浮かべた。
母の仇にして山の王者の座をかけて雌雄を決した宿敵。
姿形は変わり果てていたが、それでもすぐに分かった

彼らの山は失われた。
互いに姿も歪み、何もかもが変わり果てた。
ここには決闘を見守るオーディエンスはいない。

だが、それでも、そこに敵が居る。
全てが変わり果てたその先でも、それだけで、ここには野生があった。

人食いの少女と独眼の熊が対峙する。
共通する言語を持たない二人の間には交わす言葉などない。
見守る物などいない静寂の中、ただ視線だけが交錯する。

「――――――なんだ、まだそんな野生(もの)にこだわっているのか」

だが、熊の異形がありえない言の葉を吐いた。
そこには周回遅れを見下す様な嘲笑と悪意が込められていた。
ああ、なんて人間らしい声。
言葉の意味は分からずとも、その悪意だけはクマカイにも理解できた。

その挑発に応えるようにクマカイが喉を鳴らすように嘶き、四つ足で地面を踏みしめる。
交わす言葉も、傷の舐め合いも、孤独への慰めも不要だ。
あるのは元より殺し合う宿命。

「ぐぅぅううああああああああああああああぅうぅッ!!!」

クマカイが負傷を思わせぬ疾風の様な速度で駆けだした。
独眼熊はこれを迎え撃つが、巨大な体躯では機敏な動きに付いていけない。
クマカイはあっという間にその懐に飛び込んだ。

だが何をするでもなく、クマカイはその脇をすり抜けるようにそのまま駆け抜けて行った。
それは視覚でも聴覚でもない、野生の直感。
目の前の存在がソウでありソウでないと理解していた。

クマカイは分身に惑わされず、何の迷いもなく隠れ潜んだ本体へと一直線に向かう。
角の先に潜む相手に向かって、砕く勢いで対面の壁を蹴り三角跳びの要領で飛び込んでゆく。
その流星の様な勢いは、熊の分厚い筋肉もワニの強固な皮も一撃でぶち抜くだろう。
そんな彼女を。

「――――――――ばぁ」

出迎えたのは銃口だった。
銃声が響き、クマカイの体が撃ち落とされた。
それは野生としての誇りを捨てた一撃である。

野生は既に野生ではなく。
敗者は既に敗者ではなかった。

「ははははははッ! これが狩りか、人間どもが夢中になるわけだ!」

嘲笑が轟く。
策を練り準備を重ねた。

分身を見抜いたという成功体験を与えてやれば、簡単に飛び込んでくるだろうと踏んでいた。
後は避けようのない狭い通路で的を撃ち抜くだけである。
よく知る相手だからこそ動きを誘導するのは簡単だった。

罠を張り動きを誘導して獲物を撃ち抜くその快楽。
策がハマった瞬間には野生の時とは比べ物にならぬ興奮があった。
その下卑た笑みからは、猟師としての誇りなど微塵も感じられない。

舗装された冷たい石畳に赤い血液が流れ、溝に沿って流れてゆく。
猟銃の一発を胸に受けたクマカイは地に伏せながら、天を衝くような巨大な獣を睨み付ける。

あの熱狂に燃える山で、共に雌雄決した野生はそこにはなく。
この孤独を分け合えるはずの同族は既に消え果てていた。
彼女は独り、野も花もない場所で朽ちる。

「ではな、野生の王よ。その称号はくれてやる」

野生を超越した獣はそう言い残すと。
かつて同族だったものから向けられる侮蔑の視線に気が付くことすらなく、トドメの一撃を打ち込んだ。


巨大なヒグマが小さな少女を喰らっていた。
勝利の美酒に酔うように、その血肉を味わう。

喰らう度、ベキ、バキと固い荷物を無理矢理折り畳むような鈍い音が響く。
3メートルを超える巨体が、その半分にも満たぬ小柄な少女の肉に収まってゆく。
そして、見るだけで誰もが恐れる合成獣の姿がただの少女へと変わって行った。

クマカイの異能『弱肉強食』
喰らう事を起点とする能力だったからだろう。
殊の外、相性がいい。
肉を纏う異能はすぐに馴染んだ。

自らの異形が相手の警戒を煽ることはナニカも理解していた。
無用な警戒は狩りの邪魔だ。
如何に相手の油断を引き出すかが肝要である。
この姿は狩りに置いて、実に都合がいい。

銃を握る。
そして右に左に素早く構えを繰り返す。

「これは、いい」

熊手の時とはまるで違う、実に手になじむ。
人の手で扱うために造られた武器である。
人の手になじむのは当然のことだ。

人の思考を得て、人の皮を被り、人の武器を操る。
果たしてそれは熊か? 人か? それとも別のナニカなのか?

勝利は蚊トンボを獅子に変化る。
ならば、熊であれば何に変化る?

その答えを知る者などどこにもいないだろう。

【クマカイ 死亡】

【C-3/高級住宅街・道路/1日目・昼】

独眼熊
[状態]:『巣くうもの』寄生とそれによる自我侵食、クマカイに擬態、知能上昇中、烏宿ひなた・犬山うさぎ・六紋兵衛への憎悪(極大)、犬山はすみ・人間への憎悪(絶大)、異形化、痛覚喪失、猟師・神楽・犬山・玩具含むあらゆる銃に対する抵抗弱化(極大)
[道具]:ブローニング・オート5(3/5)、予備弾多数、リュックサック、懐中電灯×2
[方針]
基本.『猟師』として人間を狩り、喰らう。
1.己の慢心と人間への蔑視を捨て、確実に仕留められるよう策を練る。
2.準備が終わり次第、"山暮らしのメス"(クマカイ)と入れ違いになった人間の匂いを辿り、狩りに行く。
3.異能に目覚めた特殊部隊の男(大田原源一郎)は放置し、人間の数を減らさせる。
4.神楽春姫と隠山(いぬやま)一族は必ず滅ぼし、怪異として退治される物語を払拭する。
5."ひなた"、六紋兵衛と特殊部隊(美羽風雅)はいずれ仕留める。
6.正常感染者の脳を喰らい、異能を取り込む。取り込んだ異能は解析する。
7.特殊部隊がいれば、同じように異能に目覚めるか試してみたい。
[備考]
※『巣くうもの』に寄生され、異能『肉体変化』を取得しました。
ワニ吉と気喪杉禿夫とクマカイの脳を取り込み、『ワニワニパニック』、『身体強化』、『弱肉強食』を取得しました。
※知能が上昇し、人間とほぼ同じことができるようになりました。
※分身に独眼熊の異能は反映されていませんが、『巣くうもの』が異能を完全に掌握した場合、反映される可能性があります。
※銃が使えるようになりました。
※烏宿ひなたを猟師として認識しました。
※『巣くうもの』が独眼熊の記憶を読み取り放送を把握しました。
※脳を適当に刺激すれば異能に目覚めると誤認しています。


094.ヤマオリ・レポート 投下順で読む 096.ムッシュ月影の夢想食紀行
時系列順で読む
対特殊部隊撃退作戦「CODE:Elsa(仮)」 田中 花子 研究所へ
与田 四郎
氷月 海衣
日野 珠
朝顔 茜 GAME OVER
元凶 クマカイ GAME OVER
Monster Hunter 独眼熊 いのり、めぐる

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最終更新:2023年10月29日 21:42