厄災の檻が開かれ、不浄が解き放たれた。
女は知る。それは救済。
女は知る。それは奇跡の顕現。
女は知る。それは新生。
―――そして、おわりがはじまる。


死臭が漂う廃墟の中、強面の大男が匍匐前進で物陰を目指して這いずる。
腹這いになり、手足をくねらせながら巨体を動かす有様は野鳥がら逃れるために逃げ惑う芋虫そのものであった。

「…………ッ」

ギリリと奥歯を噛み締めると砕かれた顎に激痛が走る。
『最強』という誇りを自らの失態で穢した怒りと異能の発露による飢餓が大田原源一郎の胸中で渦巻く。
本来の大田原であれば任務中にここまで己の感情を発露させることはない。『機械』と揶揄されるほどの冷たい鉄の理性で思考を制御し、行動する筈だった。

(いかんな。普段より感情が行動に現れている。あの怪物がウイルスに適合させるため俺の脳に干渉したからか)

薄暗い小路に身を隠し、コンクリート塀に背もたれて自身のコンディションを改めて確認する。
大田原の認識は正しい。独眼熊(かいぶつ)は異能を目覚めさせるために彼の脳を傷つかぬよう丁寧に刺激を与えたつもりであった。
独眼熊が弄った場所は感情を制御する右脳。特に前頭前野に無意味な刺激を与えていたため、感情のコントロールが普段より難しくなっている。

余談ではあるが、独眼熊が脳へと刺激を与えたことと大田原が異能に目覚めたことはイコールではない。
その事実を独眼熊と大田原の両者が知ることはなかった。

石壁に背を預けて深く息を吐く。己の奥底から湧き上がる飢餓感を理性という蓋で閉じて肉体の再生を待つ。
数十分間、微動だにせずに待機していたためか破裂した臓腑はおおむね再生し、全身の神経もほぼ完全に繋がった。
座り込んだ姿勢のままで両手の掌握運動を行う。痛みは伴うが座ったままの姿勢ならば射撃は可能と判断。

(瀕死の状態から僅か一時間弱でここまで回復するとは。デメリットはあるがこの異能を駆使しなければあの怪物を駆除できないだろう)

大田原が目覚めた異能は『餓鬼』。人智を超えた驚異的な再生能力と今の彼は知る由もないが身体能力を上昇させる副次効果を得ることができる。
代償は永劫に続く人肉のみを求める飢餓感。ヒトの尊厳を踏みにじるデメリットをヒトのままでいるために大田原は踏み倒し、メリットだけを享受した。
現在は小康を保っているがいつ均衡が崩れるのか彼自身にも分からない。故に大田原は最悪の事態へと陥った時のために支援物資を要求した。
支援物資の到着と肉体の完全再生を待つ。それが今の大田原が打てる最善手である。
現状の確認を終え、大田原は乱れた精神を落ち着けるために大きく深呼吸をした直後。

何かを引き摺る音と丸太を叩きつけたような地鳴りが響く。

奴が来る。精神論では片づけられない脳のダメージが秩序装置にバグを起こし、鉄の如き冷たき理性に熱が入る。
罅割れた脳が無意識のうちに異能を発動させる。全身にじわりと熱が入り、食欲と共に回復が促進された。
足音がこちらに近づく。身を隠す傍らで回収した銃を確認し、それに手をかけようとした瞬間。

隠れ潜んだ小路の隙間から怪物の姿が見えた。

怪物は全身のあらゆるところを食い千切られたスーツ姿の老人――大田原が山折圭介の追跡中に検分した死骸――の腕に喰らいついて引き摺っている。
支援物資が届いていない以上、奴が分身か本体かの判別は不可能。そして、現在スペックでの戦闘は本体どころか分身でも敵わず、自殺行為と同義。
ダメージを受けた脳から湧き出す感情を理性で押さえ、息を殺して怪物が通り過ぎるのを待つ。

足音が通り過ぎたタイミングで大田原の頭上から物資を吊り下げられた三台のドローンが舞い降りた。
ワイヤーで括り付けてあったプラスチックの箱が負傷した大田原の丁度手元に置かれた後、羽音を立てながらドローンは再び上空へと戻る。
骨折にまで回復した手でプラスチックケースを開き、申請した物資を確認を始めた。
一つ目はスカイスカウターと呼ばれるゴーグル型のディスプレイが搭載された赤外線カメラ。分身を生み出す独眼熊の本体を炙り出すための装備。
二つ目は首に装着するタイプのプラスチック爆弾。自身が目覚めた異能の危険性を理解している故、最悪のパターンに備えての自決用の爆弾。
三つ目は追加で申請したもの。独眼熊の体当たりを受け、弾き飛ばされてしまった後の戦闘にて奴の特性をふまえた上で判断した。
ナイフで見掛け倒しだと判断していた鱗に一撃を与えた時、刃が弾かれて強烈なカウンターを食らった。
異能の特性か、その事実から銃撃だけが有効手段だと考察し、万が一味方への誤射が起きても影響がないように今作戦の基本装備の拳銃と予備弾倉を申請。
怪物の強さを考えれば銃弾の予備を気にしていては二の足を踏む。他隊員と連携が望めない以上、己が確実に葬り去らなければならない。
その決意の元、激痛と空腹を堪えて新たに支給された装備を身に着ける。

怪物の足音が遠くなり、大田原は小路から這い出る。既に銃の射程圏から怪物は脱出していた。
スカイスカウターのスイッチを入れ、遠くなった後ろ姿を視界に入れる。
地面に巨大な足跡と人体を引き摺った跡を残すその背中は青々と染まっていた。


山折村の最北。とある場所で厄災の扉が開かれた。
墓荒らしは扉の先を進み、禁忌を暴く。
忌むべき歴史が紐解かれ、一人の村人が根源を知った。
ヒトの認知こそ、ヒトの業こそ、『それ』を呼び覚ます鍵となる。
―――ヒトはそれを■■と呼ぶ。


「―――ね上、姉上。■■、只今参りました」
「―――ね様、お食事とお召し物を持ってまいりました」

雹が吹雪く極寒の洞穴にて。
声に幼さを残す少年と少女の声が狭い空間に反響し、腫れぼった瞼を開いた。
寝返りを打って声のする方へ視線を向ける。木漏れ日のように降り注ぐ月光に照らされるよく似た顔立ちの二人。

「ぁ……あ……。こ……コに、来ては……駄目だ……と……」
「僕らは姉上の弟妹(きょうだい)ですから、村の掟や父上の言いつけなんて守らない、悪い子になったんですよ」

水疱と黒い斑点のような死斑だらけになった手を伸ばす。その手を少年の白い手が包み込んで労わる様な優しい笑顔を向けた。
その傍にいた少女も同様に優しい笑顔を女に向け、手に持った新しい清潔な毛皮を女に欠けた後、女を暖かく抱擁した。

「―――春が来たら、きっと■■様が姉様に会いに来ます。姉様の病はきっと治ります。だから……」

抱きしめたまま、少女は声を震わせる。言葉に出された女の希望。既に枯れ果てたと思っていた涙が双眸から溢れ出す。
少女の背中に棒きれのように痩せ細った腕を回し、小刻みに身体を震わせる。
淀んだ眼を少年の方へと向けると、彼もまた目を伏せて身体を震わせていた。

「では、姉上。失礼しました」
「また明日も参ります。今度は姉様の好きな干し柿を持ってまいりますから楽しみにして下さい」

女の世話を終え、洞穴の出口で少年と少女は女に一礼し、木の板を立てかけただけの扉を閉ざした。
後に残るのは多少身綺麗になった女只一人。毛皮に包まり、身を縮こませる。
びゅうびゅうと雪の混じった隙間風が吹く。女の声を殺した泣き声を根こそぎかき消す。
毛皮の中で女は罅だらけの手の中を見る。そこには■■から贈られた簪が一つ。薄闇の中で翡翠が光沢を放つ。
別れの間際、彼が明から買いつけたという贈り物。また会いに来るという約束の証。
脂で汚れてしまった髪にはもう似合わないけれど、大事な宝物。それを胸に抱き、目を閉じる。
深く深く、意識を夢へと委ねる。彼との思い出を回想しよう。

彼との出会いは、まだわたしが野山を駆け回る童女だった頃。
今ではくすりと笑いが漏れる、最悪な出会い。


女というのは不便だ。
ご神木と呼ばれる大樹の幹に腰掛け、アケビの実に齧り付きながら少女は思う。
弓矢をつがえて獣を狩れば、はしたないと叱られる。
丁度良さそうな棒切れを持って男の子とチャンバラ遊びをすれば、お転婆だと怒られる。

「なーんで女に生まれちゃったんだろ、わたし」

食べ終わったアケビの皮を放り捨て、向かい側の山に向かって少女は一人ぼやく。

ここは京から遥か北東に離れた飛弾国にある集落「隠山の里」。
深山の中で人々は八百万の神に祈りを捧げ、暮らしていた。
少女は集落の長の第一子として生を受けた。彼女は古来より伝わる山の神に祈祷を捧げる巫女になるため教育を受けている。

「巫女になんてなりたくなーい」

両親の耳に入れば激怒され、お説教間違いなしの言葉を太陽に向かって呟く。
隠山の地に根付く教えは彼女にとって窮屈過ぎる。
髪へ捧げる舞いも祈祷の詠も寸分も変えてはならない。代々続く伝統を壊してはならない。そう教えられ、物心つかぬ頃から厳しく指導された。
両親曰く、自分は才能があると褒め称えられていたものの全く嬉しくない。京のお侍さんみたいに剣を交えて踊れば夕飯抜きにされたこともあった。
だから自分で考えた渾身の踊りは弟や妹など、集落の子供達だけに見せるようにしている。
このまま「巫女」として生きることになれば父の決めた相手と婚約し、跡継ぎを生むことになるだろう。
そして自分もいずれ、両親の様な頭の固い大人になるのだと考えると「うげェ」と嫌気がさす。

(そういえば、今日は朝廷からお役人さんが隠山に来るって父様が言ってたわね)

朝餉の時に父がそう言っていたことを思い出す。
だから無礼のないようにと家族に――特に少女へと視線を向けて忠告していた。
里一の問題児である少女は才がある分、父にとって頭が痛くなる存在だったのだろう。
少女も同様。頭の固い父に向けてそれなりに反骨心を抱いており、たびたび反発していた。
それ故、彼女はすぐに答えを出した。

「わたしが迎えに行ってやろ」


弓矢を背負いながら時には傾斜を上り下りし、時には獣の糞を避けながら少女は山道をすいすいと歩く。
里の開けた平野を迂回するように南へと向かわなければならないという掟を少女は常日頃不便に思っている。
なぜか、と幼い頃にその頃は在命していた祖母に聞いたことがあった。祖母は神妙な面持ちで少女に告げた。

『あそこには全身疣だらけの人食いの悪鬼がおるでの。面白半分で行ったらお前も悪鬼の仲間入りじゃ』

「……人食いの悪鬼なんているわけない。牛車でたくさんの人が運ばれてきたの見たことあるし」

回想の中でおどろおどろしく話す過去の祖母に反論する。
祖母はたいそう少女を可愛がり、村の大人たちが教えてくれなかったことを少女に教えてくれた。そんな祖母が少女は大好きだった。
でも、自分の目で確かめていないことを迷信で誤魔化すのは良くないことだと知恵がついた今の少女は思う。
一度、少女は里に訪れた牛車に接触したことがある。曰く、牛車は島流しされた人々を運ぶもので郡司が指示らしい。
だから無闇矢鱈に話しかけるなと役人から直々に説教を受けた。お偉いさんともなれば、お転婆少女も黙るほかなかった。
その日、少女が両親に折檻を受けたのは言うまでもない。

「おっと、あれかな?」

木に登り、遠くを見やると山道を超えてこちらに向かう牛車の一団。周囲には警護するように武士達が取り囲んでいた。
言伝でしか聞いたことのない武士。その堂々たる有様に少女は心躍らせる。

(あの人達からお話を聞いてみたいな。山鳥を狩ってお土産に渡したら喜んでくれるかしら?)

田舎者丸出しの思考をしながら憧れの武士達へと思いを寄せる。
郡司一団と接触した時、役人は終始偉そうに話しており、少女は良い感情を持っていない。寧ろ両親に告げ口したことで深い逆恨みをしていた、
反面、付き従っていた武士達は謙虚でこちらを慮り、帰り際に『金平糖』なる綺麗で甘いお菓子をくれた。話も面白くて強そうで憧れていた。

そうと決まれば行動は早い。武士達へのお土産のために狩りをしよう。
丁度少女の頭上を雉が飛ぶ。少女は木の幹に上り、矢をつがえて放った。
矢は見事、雉を貫いて地に落ちる、少女は撃ち落された雉へと駆け寄り、背中の籠へと放り込む。

「ほんとは血抜きをして渡したかったんだけど……まあいっか!」

うんうんと頷きながら少女は勝手に納得する。
里一番だと大人達から言われた腕前だ。自分の腕を武士達に見せれば里の大人達と違って褒めてくれるかもしれない。
ニヤニヤと都合のいい妄想に耽りながら大樹を駆け上り、先程の一団を探す。

「お侍さん達はどこかなーって、あれは……!」

一団を発見すると、少女は木を飛び降りて駈け出す。背中に冷や汗が流れる。
そう遠くない場所に一団はいた。しかし獣によって足止めを喰らっていた。
その獣は猪や鹿ではない。里でも時たま見かける、人を喰らう大化け物。

「なんでこの時期にクマが出てくるのよ……!」

首周りに白い円状の体毛を生やした九尺の怪物が牛車の牛に狙いを定めて攻撃をしていた。
畦道を駆け抜け、クマとの距離を二町ほどまで詰めるとその惨状が明らかとなる。

(酷い……!)

牛車の周りには倒れ伏す武士達。全員死んではいないようだが、誰も彼も重傷だ。
数台の牛車が倒され、放り出された役人が腰を抜かしている。無事なのは奥に佇む金が飾り付けられた豪奢な一台のみ。
その前に立ちふさがるのは倒された武士と同じ装備の男達。勇ましく刀を構えているが、何もしなければきっと周りの侍達と同じ運命を辿るだろう。

少女は木に登り、竹筒から赤い花から抽出した毒を矢尻に塗りたくる。
一度深呼吸をした後に弓を構え、クマに毒矢を向ける。
クマの皮膚には矢は深く突き刺さらない。その上犠牲者を出さないためには火急を要する。
難易度の高い狙撃ではあるが少女の心が揺らぐことはない。

「―――――ッ!」

狙うのはクマの目。皮膚に覆われていないそこに向け、少女は矢を放った。
武士に爪を振り下ろそうとしていたその瞬間を狙った。

「ゴ、アアアッ!」

もんどりうってクマが仰向けに倒れる。
そしてしばらくのたうち回った後で怪物はその動きを止めた。

「―――大丈夫!?」

クマを仕留めた後、少女は一団が立ち往生していた場所まで走った。
改めて近くで惨状を確認すると酷い有様だった。
武士達が倒れていた場所には鎧の欠片や折れた刀が散らばり、地面にはところどころ血が付いていた。
勇ましく戦った武士達は意識はあるものの豪奢な牛車を守っていた武士団以外は全員重傷だった。

「あ、ああ。すまぬな。お主のお陰で命を拾った。感謝する」
「う、ううん。無事で良かったよ。あっちの男の人は?」
「あのお方らは我らが守護すべき主達だ。某らの不手際で危険な目に合わせてしまった」

不甲斐ないと悔しそうに目を伏せる男達に少女はかける言葉がなかった。
武士達が勇ましくクマに立ち向かっていた反面、牛車に揺られていた役人は別の意味で酷かった。
牛車から転げ落ちた中年の男たちは袴の股間を濡らして大の字で情けなく伸びていた。
同じ男でも何でこうも違うのか、と密かに苛立ちを募らせていると。

「――――騒々しい。何事か」

唯一無事な馬車から聞こえる声。透き通るような、それでいてよく通る少年の声。
偉そうな男の子の声にカチンと来て、ずんずんと足音荒く牛車へと足を進ませる。

「あ、こら。無礼であるぞ!」
「アナタねえ!お侍さん達はアナタ達を守るためにクマと戦ったのよ!そこに労いとか感謝はないの!?」
「武士団は責務を全うしたまでだ。余の従者を危険に晒したことに非があり、失態に労いを与えるなど片腹痛いわ!」
「こ……の……!」

若い武士の止める声など聞かず、牛車の前板に飛び乗る。そのすぐ近くで牛車の乗り手が弱々しく手を伸ばしていたが少女は無視した。
少女は憤りのまま、勢いよく牛車の前簾を開いた。

「せめて顔くらい見せなさい!この威張りんぼ!」

籠の中に太陽の光が差し込む。どんな捻くれた顔つきか拝んでやろうと少女は目を凝らす。
夏の強い日差しが、少年の面立ちを露わにする。

透き通るような白い肌に細面立ちの整った容貌。涼しげな目元にこちらを射抜く様な鋭く怜悧な視線。
目鼻立ちも芸術品のように整っており、女性のように長い睫毛がその美貌を際立たせる。
天照大神を思わせる奇麗な姿に先程の怒りは冷め、少女は息を呑む。

「―――なんだ。どこぞの野猿かと思えば、翡翠の如き澄んだ瞳の小娘だとはな」
「だ、誰がサルですかー!」

「サル」という暴言に少女の怒りが再発する。
その様子に少年は呆れて溜息をつく。

「…………性根は猿であったか」
「猿じゃないわよ!この威張りんぼ!」
「……ならば名はなんと申す。答えよ小娘」

同年代の子供に馬鹿にされ、少女は前板に地団駄を踏む。
その有様に見っとも無いと冷たい視線を向ける少年。
息を整え、少女は未だ呆れ顔の彼に向かって叫んだ。

「―――わたしには、『いのり』って名前があるんだからー!」


唐突に走る雑音。脳裏に浮かぶ誰のものでもない記憶。
ギリギリと万力で締め付けられるような激痛に薄汚い少女は唸り声を上げて蹲る。

「何だ……今のは……!?」

死体が散らばる雪原の中。氷の棺で眠るボブカットの少女の前で独眼熊は呻き声を上げていた。
その姿は以前のような怪物じみた姿ではない。かつて宿敵と定めていた山ごもりのメス――クマカイの姿である。
クマカイの肉を貪り、その能を啜ったお陰で彼女の異能『弱肉強食』をその身に宿した。
彼女の皮を被り、次なる獲物を物色しようとしていたところ、何らかの戦闘があったのであろうこの雪原地帯へと目を付けた。
既に人の気配はなく、代わりに凍り付いた少女の遺骸が氷の檻に閉じ込められていた。
少女が他の感染者と戦闘した結果がこの有様だとすれば、彼女は異能を持つ可能性がある。
そうでなくとも、簒奪した異能の皮を増やせることもあり、氷を砕いて喰らい尽くそうとした瞬間、自分のものではない『ナニカ』の記憶が頭痛と共に訪れた。

(不快だ。実に不快だ……!)

その記憶には人間の喜びがあった。忌むべく人間の記憶があった。
存在しない忌まわしき思い出に暖かさを感じる自分自身にも腹が立った。
弟分の熊を嘲笑う『ナニカ』から入力される記憶が独眼熊の精神を蝕み、過度のストレスを与える。
それが幸が不幸か、彼の中に転機が訪れた。

(お前は、片隅で大人しくしておれ!)

未だ再生され続ける不快感。あり得ない記憶の映像を思考の片隅に追いやる。
そしてノイズをこれ以上呼び起すまいと氷の塊に背を向け、雪原を後にする。

与えられた過度のストレスは独眼熊本来の異能を開花させるきっかけとなった。
それは人間並みの思考を切り分けし、複数の思考を行えるようになる分割思考。
巣くう『ナニカ』にその領域を明け渡し、独眼熊の意味の分からない感情に左右されないための進化。
独眼熊は厄災として一つの階段を上った。


(戻ってきたか)

正常感染者らしい死体を探して来いと命令した分身体が独眼熊の元へ戻る。
口に咥えられたのは老人の死体。そのついでに老人の背中に突き刺さっているのはナイフ。
おそらくであるが、分身が老人の手元にあった武器をついでに持ってくるために突き刺したのだろう。
ゾンビ共に貪られたのか、背骨や臓腑は露出しているが頭部には損傷が見当たらない

分身は死体を独眼熊の眼前に放り出す。この姿では脳を傷つけてしまい兼ねる。
そう思考すると、少女の皮の頭部――正確には口当たり――が隆起する。
ゴムのように皮が伸び、その口から独眼熊の大顎が顕現する。顎の形態を器用に変形させ、頭部だけを捥ぎ取って咀嚼。
その過程で老人の脳から異能を読み取り、その身に宿す。頭部の捕食が完了後、続いて全身を捕食した。
捕食を続ける中、肉が身体に纏わりつく感覚を覚える。
クマカイの異能は肉を纏うもの。その事実を再確認する中で独眼熊の脳裏にある閃きが過ぎった。

(もしかすると、分身にも皮を纏わせることができるかもしれんな)

考えるや否や、蜥蜴擬きから奪った異能を使用。皮を被る異能をもう一つの思考を使って分身に被せるよう制御する。
小さな針穴に糸を通すかのような精密な作業。極限まで神経を尖らせ、皮被りを分身へと移す。
そして、成功する。独眼熊の前には直立するスーツ姿の老人の姿。

「ふむ、悪くない」

口内へと大顎を戻し、少女の姿をした怪物は眼前の老人を見上げる。
試しに探索に行かせていた分身と老人姿の分身に取っ組み合いをさせると力はクマの形態と力は互角。
そして取り込んだ老人の異能の確認。死体から捥ぎ取ったナイフを手に取ると全身のあらゆる感覚が冴えるようだ。
ナイフを離すとその感覚は消え、再び刃を手に取るとその感覚が戻る。

「なるほどな、これは便利だ」

強力な異能を手にしたことに遅ましい歪んだな笑みを浮かべる。
しかし慢心はしない。ひなたらからの敗走が、優越を押しとどめ、平常心へと戻した。

チリチリとノイズが耳に届く。
つい先程の記憶を呼び覚ますような不快な音ではない、もっと機械的な何かの高音。
獣の非常に優れた耳はその高温を聞き取った。

その方向へと頭を向ける。そこはかつて自分が無計画に人間を貪っていた白い建物。
くんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐと、いつぞやの酒精と血の混じった匂い。
特殊部隊――朝廷から派遣された武士団が、いる!


岩戸が閉じる。その隙間から覗くのは月光のみ。
極寒の洞穴の中。女は一人、苦悶の呻きを上げていた。

その手では最早弓矢をつがえない。
その足では最早神楽を舞えない。
その喉では言祝ぎを歌えない。

何よりも女を絶望させたのは彼女の傍らにいる二つの死体。
女と同じように全身が黒い斑点と水疱だらけになった少年と少女だったもの。
首を切断されており、誰の目から見てもその死は明らかだった。

裏切られた。裏切られた。
子供の頃は反感を持っていても、今は尊敬していた両親に。
この地へと救いを求めてきた病に倒れた人々に。
隠山の地に住まう、愛する里の人々に。
そして龍脈を通すとほざき、何年も朝廷から戻ってこない忌まわしき■■に。

「あ、あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"……!!!」

痩せ細った身体で岩戸へと這う。憎悪を呻く度に肺腑が締め上げられ、口から黒ずんだ血を垂らす。
岩戸へと辿り着くと、翡翠の簪を振りかざし、何度も叩きつける。
カン、カン、パキ。
たった数度叩きつけるだけで、翡翠の珠は砕け、笄がへし折れる。
使い物にならなくなったそれを投げ捨て、水疱だらけの指で岩に爪を立てる。
ガリガリガリガリ……プチン。
爪が剥がれ、戸には赤い線が引かれる。
それでも女は手を止めず、何度も岩に爪を立てる。

「…………るさない……!決して許さないッ!隠山も、朝廷も、■■も断じて許さぬッ!!!」

厄に犯されたかつての美姫は嫉妬に塗れた醜女のような憎悪を吐き出す。
その手でもう祈祷など捧げない。
その瞳にもう光など映さない
その喉でもう言祝ぎなど詠わない。

「穏やかな滅びなど許さぬッ!!隠山に!忌まわしき血族に!朝廷に!未来永劫の苦しみを!!!
隠山の里に呪いあれェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!」

嘗ての少女の想いは憎しみに。安寧を願っていた言祝ぎは呪詛に。
いのりはのろいへと反転する。

何の因果が。掠れた叫びの直後に、大地が揺れる。
崩落する洞窟。天井から落ちてきた石が愛していた二人の家族を圧し潰す。
女は岩の隙間に充血した目を向けて月へと怨念を飛ばしていた。
迫りくる死の気配。それでも尚、女は微動だにしない。
いよいよ落ちる岩が女を圧し潰す寸前。

隙間から縦の目が覗いた。
瞳のない、伽藍洞の闇が女の顔を覗き込む。

キー、キー。

ねずみの、鳴き声。

「テン、ソウ、メツ」「ポッ……ポッ……ポッ……」「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
「■■■■■■■■■■■■■■■」「■■■■■■■■■■■■」「■■■■■■■■■」

理解不能な、あらゆる言語が女を包み込む。
その隙間から■■■の目、■の首、皮を剥がされた■……。ありとあらゆる悍ましきモノが女に纏わりつく。
女の意識が刈り取られる最後の瞬間。その体に延ばされる小さな、小さな、たくさんの赤子の手。

おぎゃあ、おぎゃあ。

その音を最後に、女は眠りについた。


再び鳴り響くノイズ。分割した思考を乗り越え、独眼熊の脳を侵食する。
だが、今度は違う。その怨念に怪物は同調した。
膨れ上がる憎悪。滲み出す怨念。臓腑で暴れ狂う呪詛。
白い建物から感じる忌まわしき血脈の気配。
ここにあの男の血筋が隠れ潜んでいる。

「一刻も早く、滅ぼす……!!」

存在するだけで悍ましい。生きて呼吸するだけで吐き気がする。
少女の姿をした呪いから洩れる呪詛。

この建物には一匹、朝廷からの刺客が潜んでいる。
しかし、あの男と同じ血を引いているのであれば奴は返り討ちにするかもしれぬ。
故に、確実に滅ぼすために同じ朝廷の狗を建物に誘導し、送り出す。
そして、その駒は確実にこちらに向かっている。

ナイフをリュックサックのホルダーに仕舞い、生み出した分身に身を隠すように指示をする。
老人の姿をした分身を親玉へと設定し、懐中電灯を持たせて身を隠させる。
もう一体の本来の姿の分身はその巨体で身を隠すことができないため、自分の傍で待機させる。

「では、続きと行こうか」

言葉の終わりと同時に『ナニカ』の異能を使用。
独眼熊本来の腕が少女の背中の皮を突き破り、天へと飛び出す。
並ぶ五本の獣爪は正しく刃。ずらりと並んだその有様は刀剣の様に鋭利。
その途端発動する老人の異能。『剣聖』の如き直感が訪れる未来を予知する。

遠方にて、怪物と勇士それぞれの視線が交差する。

「狩りの時間だ、人間」
「特定外来種(ひょうてき)を確認。速やかに駆逐する」

【E-1/草原/一日目・日中】

独眼熊
[状態]:『巣くうもの』寄生とそれによる自我侵食、クマカイに擬態、知能上昇中、烏宿ひなた・犬山うさぎ・六紋兵衛への憎悪(極大)、犬山はすみ・人間への憎悪(絶大)、異形化、痛覚喪失、猟師・神楽・犬山・玩具含むあらゆる銃に対する抵抗弱化(極大)、分身が二体存在
[道具]:リュックサック、ブローニング・オート5(5/5)、予備弾多数、アウトドアナイフ
[方針]
基本.『猟師』として人間を狩り、喰らう。
1.己の慢心と人間への蔑視を捨て、確実に仕留められるよう策を練る。
2.特殊部隊の男(大田原源一郎)をどうにかして診療所の他の特殊部隊の元に送り込みたい。
3.神楽春姫と隠山(いぬやま)一族は必ず滅ぼし、怪異として退治される物語を払拭する。
4."ひなた"、六紋兵衛と特殊部隊(美羽風雅)はいずれ仕留める。
5.正常感染者の脳を喰らい、異能を取り込む。取り込んだ異能は解析する。
6.特殊部隊がいれば、同じように異能に目覚めるか試してみたい。
[備考]
※『巣くうもの』に寄生され、異能『肉体変化』を取得しました。
ワニ吉と気喪杉禿夫とクマカイと八柳藤次郎の脳を取り込み、『ワニワニパニック』、『身体強化』、『弱肉強食』、『剣聖』を取得しました。
※知能が上昇し、人間とほぼ同じ行動に加え、分割思考が可能になりました。。
※分身に独眼熊の異能は反映されていませんが、『巣くうもの』が異能を完全に掌握した場合、反映される可能性があります。
※分身に『弱肉強食』で生み出した外皮を纏わせることが可能になりました。
※八柳藤次郎の皮を纏った分身体は懐中電灯×2を所持し、身を隠して待機しています。もう一体の分身は独眼熊の傍にいます。
※銃が使えるようになりました。
※烏宿ひなたを猟師として認識しました。
※『巣くうもの』が独眼熊の記憶を読み取り放送を把握しました。
※脳を適当に刺激すれば異能に目覚めると誤認しています。
※■■■■が封印を解いたことにより、『巣くうもの』が記憶を取り戻しつつあります。完全に記憶を取り戻した時に何が起こるかは不明です。


【D-2/草原/一日目・日中】

大田原 源一郎
[状態]:ウイルス感染・異能『餓鬼(ハンガー・オウガー)』、右脳にダメージ(中)、異能による食人衝動(特大・増加中・抑圧中)
[道具]:防護服(マスクなし)、拳銃(H&K SFP9)×2+予備弾倉×2、サバイバルナイフ、装着型C-4爆弾、赤外線カメラ搭載ゴーグル型ディスプレイ
[方針]
基本.正常感染者の処理
1.独眼熊を最優先で殺害する
2.美羽への対応を検討(任務達成の障害となるなら排除も辞さない)
3.秩序の敵となった時点で自決する。
※異能による肉体の再生と共に食人衝動が高まりつつあります。







『――‐―‐――すまぬ、いのり。せめて、余もそなたと共に……』


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司令部へ 大田原 源一郎 巣食う影
THE LONELY GIRLS 独眼熊

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最終更新:2023年12月11日 20:32