出逢い篇
それは、静かで騒々しい幻想郷での、一つの妖恋譚。
ふらりと外から迷い込んだ一人の青年を巡る、彼を捕らえた運命の物語。
彼に囚われた、運命の物語。
その出逢いは唐突で突然で――たまのこうした運命の気紛れを、少なくとも彼女は楽しんでいた。
「咲夜、それは誰? 客人?」
「お嬢様。ええ、黒白と紅白に連れられてきた、外の人間ですわ」
咲夜の紹介に、レミリアは厨房で紅茶をの淹れ方を教わっていた、背の高い青年を見上げた。
「初めまして、○○と申します。お邪魔しています」
「レミリア・スカーレットよ。へえ……」
初めは、何故にここに来ようとしたのか、そもそも自分に挨拶も無く上がりこんでいるとは何事か、とか、そういったものを訊こうとした、はずだった。
「…………変な人間ね」
「そう、でしょうか?」
首を傾げた青年を、レミリアはまじまじと見つめた。
彼に絡む、幾重もの運命が視えたから。
外の世界の人間、だからだろうか。彼が、何の変哲も無い人間、だからだろうか。
しかも、一つとして数奇で無いものは無い。それともそれは、この幻想郷に来てしまったからだろうか。
悪戯に手繰れば――そこまで考えて、レミリアは心の中だけで首を振り、当たり障りのない話題を振った。
「そうよ、私が何者か知らないわけでもあるまい?」
「ああ、吸血鬼、ですよね。霊夢さんと魔理沙さんにお聞きしました」
「…………血を吸われるとか殺されるとか、思わなかったの?」
「…………そういえば、思いもしませんでした」
変な奴だ、と思った。飄々と、あるいはのんぴりとした、全くもって不思議な人間。
だから、彼女は。
「気に入ったわ。貴方のその変な運命も含めてね」
そう、微笑った。
全くもって変な人間だ。
図書館に入った瞬間、子どものように瞳を輝かせた○○を見て、レミリアは笑う。
「まるで子供ね」
「あ、いや、すみません」
照れ臭そうにした○○に、レミリアはもう一度微笑む。
「まあ、読むよりパチェに聞く方が早いかもしれないけどね。こっちよ」
そう歩き出して間もなく、彼女は親友が呼んでもない来客と会話をしているのを見付けた。
「あら、レミィ。そう、それが今回の訪問の原因なのね」
「ええ」
「初めまして、○○と申します」
「礼はなっているようね。パチュリー・ノーレッジよ」
そうパチュリーが応じたことに合わせたかのように、魔理沙と霊夢がレミリアに声をかけた。
「勝手に上がらせてもらってるぜ」
「そろそろお茶が欲しかったのよ、丁度良かったわ」
「貴女達は少し遠慮を知りなさい」
ごく普通の挨拶が交わされた後、魔理沙が口火を切った。
「まあ、訪ねた理由はこいつだ」
「外の人間、ねえ。まあ変だけど、何の変哲もない人間ね」
「私もレミィに同感ね。確かに変わっていても、取り立てて騒ぐほどではないわ」
「それがなあ…」
魔理沙が簡単に説明するところに因ると、彼はまだこの幻想郷に来て三日目なのだが、名のある人妖のほとんどと顔見知りになったという。
例えば、と尋ねると、霊夢と魔理沙が指折り数え始めた。
最初は里に。里の半獣と挨拶し、寺子屋の子供達が起こした騒動で妖精達に懐かれ、ついでに氷精に縁のある妖怪達とも知り合いになり、里に戻った後では雑貨を求めて入った店で半霊の庭師に出会って。
「そういえば、そこからの帰りに咲夜さんにお会いしたんですよね」
「そうなの、咲夜?」
「ええ。初対面で紅茶について語ったのは初めてでしたわ」
「一体どこをどうしたらそうなるのよ。ああ、続けて」
神社に戻ってからは、人形遣いと鬼とスキマ妖怪がたまたま訪ねてきて小さな宴会になって。
その翌日、つまりは昨日だが、里に一人で出た際に急病人に遭い、永遠亭まで運んでいき、あの界隈の面子に気に入られ。
帰りに雨に降られ、傘を持っていたまでは良いが、それを雨宿りしていた式の式の化猫に貸し与えてしまい、ずぶ濡れで帰って来た後に今度は九尾の狐が礼を言いに来て、それから――
「もういいわ、大体わかった」
レミリアは息をつく。なるほど、数奇にも程がある。まるで自分が運命を操っているかのような遭遇頻度だ。
「で、さすがに変だと私と霊夢の意見が一致してな。方々回ってみてるんだが」
「あら、でも今日は宴会じゃなかった? 今聞かずとも……第一、外でどう暮らしてたか聞けばいいことでしょう?」
咲夜の問いに、霊夢と魔理沙は首を振る。
「覚えてないのよ」
「覚えてない?」
「いや、こちらに来てから記憶がぼんやりとしたままで。面目ない」
「あやまることじゃないぜ。ただ、何かあるんじゃないかって思ってさ」
魔理沙の言葉に、レミリアが切り返す。
「それは、霊夢の勘? 何か起こる、っていう」
「勘は働いてるけど、そうでもない。○○さん自体に危険はたぶんないわ」
ではどうして動いているのか、という問いは愚問だった。
要するに、彼はよい暇潰しの材料なのだ。
その当人は、紅茶を啜りながらのほほんとした表情をしていたが。
しばらく歓談していると、どうも○○が外では書生であったことが明らかになってきた。
「じゃあ、外の書物については何かわかるかしら?」
「パチェ、また新しいの入れたの?」
「お、どんなのだ?」
「後で言うわ。とりあえず、外の本についての知識が欲しいのよ。教えてくれないかしら」
「僕にできるなら。とはいえ、一介の学生ですから、わかる範囲には限りがありますよ?」
「十分よ。零より一の方がまだマシとは思わない?」
「確かに」
「じゃあ、ちょくちょく手伝ってもらおうかしら。レミィ、いい?」
「いいわよ。それに、確かに良い暇潰しにはなりそうだわ」
「どんどん扱いが酷くなってくな、お前」
自分達のことは棚に上げて、○○の肩を叩きながら魔理沙が笑う。
「なら、早速幾つかお願いしていいかしら。小悪魔に案内させるわ」
「はい」
パチュリーが小悪魔を呼び、彼女に案内されて○○は図書館の奥に入っていった。
「楽しそうね、気に入った?」
「本のことだもの。それにレミィほどじゃないわ」
「お前らもか……あいつはどうしてこう人外に気に入られるんだ?」
魔理沙が呆れたような苦笑で腕を組む。
「どうしてでしょうか、彼は普通の人間だと言うのに」
「そうね、咲夜。貴女や霊夢や魔理沙のように、何か特別なものを持つわけでもなく、ただただ普通だと言うのにね」
そう言って、パチュリーは紅茶を啜った。
「確かに。普通の人間なのに、とてつもない違和感がある、というところかしら?」
「ん、ということはレミリアもそうなのね」
「ええ」
「あるいは、『外の人間』かつ『普通の人間』だから、と言う可能性があるわね」
「どういうことだ、パチュリー?」
魔理沙の問いに、パチュリーはあっさりと答える。
「外の常識は幻想郷の非常識。外で普通の人間だったのだとしたら、私達にとって違和感が出るのも当然なのかも知れない」
「普通かつ非常識、か。やっぱり変なのね」
「ところで、当の○○が遅いんだが」
魔理沙が図書館の奥を眺めながらそう口にする。確かに遅い。
「パチュリー、そんなに大量にあるのか?」
「そこまで頼んだつもりではないんだけど……」
「パ、パチュリーさまあっ!」
会話を遮るように、小悪魔が駆け戻ってくる。
「どうしたの、小悪魔。○○さんは?」
「そ、それが、目を離した隙に居なくなって……」
「またかあいつは」
「また?」
「子供よ、まるで。好奇心が旺盛すぎるの。目を離したらどこかにふらっと行っちゃうし……まだ幻想郷が珍しいのね」
「また厄介な人ね。それで?」
「あ、あの、危険図書の方には行ってないはずなんですけど、妹様の部屋の扉が開いておられまして……!」
「そういえば、最近は部屋の外に出るのも許可してたわね……」
「探しましょうか」
「そうね、壊れられても後味が悪いし……あら?」
レミリアの感覚が、妹の魔力を捕らえる。至極近い。しかも動きがやたらとゆっくりで――?
そして、その魔力の気配はすぐに本棚の列の角を曲がってこちらにやってきた。
「あーっ! 魔理沙ー! 霊夢ー!」
「………………」
その場にいた全員が、目の前の光景に一瞬我が目を疑った。フランドールと○○。その組み合わせだけでも奇妙だと言うのに。
「ああ、戻って来れました。すみません、迷子になって」
「………………それは良いとして、何故フランを肩車してるの、貴方は」
「はあ、何だか成り行きで」
レミリアの呆れた言葉に、こちらもわけのわからないと言う感じで○○が首を傾げる。
当のフランドールは○○の肩の上から、魔理沙に向かって飛んで行っていたが。
「久し振りね、フラン」
「うん、霊夢は久し振りだねー」
「なあ、何で○○と一緒に来たんだ?」
「え、だって魔理沙達来てるって言ってたから」
「いやいやそうでなくてな?」
どうやら、ふらふらと迷い出た○○を見つけ、誰何したところ名前と共に魔理沙達と一緒に来たことを教えてもらったらしい。
「……本当に、悪運の強い人ね、○○さんは」
「そうなんですかねえ」
その暢気な様子を見て、レミリアが笑い出す。
これは面白い。ここまで数奇な運命を持っていて、そして死に限りなく近いところを歩きながら、しかしそれでも生の道を選ぶ人間。
普通の人間が幻想郷に来ると、かくもこうなるものか。
「あはは、ますます気に入ったわ。貴方はいつ此処を訪れても良い。何時でも来なさい。此処の門は貴方の前には何時でも開かれる」
「お嬢様?」
怪訝そうな咲夜に一つ手を翳して制して、レミリアは笑いすぎて目元に滲んだ涙を拭った。
「そこまで笑うほどおかしいですか、僕は」
「私はむしろ呆れてるんだけどね」
霊夢が肩をすくめて、○○さんには天然たらしの素質があるわよね、と物凄く失礼なことを彼に告げていた。
どうして、あんなことを言ったのか、後にレミリアは自問することになる。
彼に絡むは無数の運命。悪戯に手繰れば――手繰れば。
わかっていたのに、どうして、私は。
その晩に行われた宴会は、○○の人妖達への紹介も兼ねて。とはいえ、ほとんどがもう顔見知りになった後だったが。
ちなみに、鬼だの天狗だのに飲まされた彼はあっという間に潰れてしまっていた。
「なんだ、弱いんだなあ」
「そうですねえ、もう少し持つと思ったんですが」
「あんた達二人にかかって持つ方が不思議よ」
萃香と文のぼやきに、霊夢がやれやれとため息をつく。
「あーあ、駄目だ、完璧寝てるな」
「子供みたいな顔で寝るのねえ」
ぞろぞろと主賓であるはずの彼に集まってきて、誰かが口にした言葉が変な火種になった。
曰く、「可愛い」と。
そこから流れがおかしくなり、挙句の果てに誰が介抱するかで弾幕勝負にまで発展してしまった。
「……どうしてこんな馬鹿馬鹿しい事態になったのかしら」
「霊夢、諦めたら? そういう運命なのよ、きっと」
「レミリア、あんたねえ……」
一斉に始まろうとした勝負だが、空間の関係上代わる代わる弾幕を放っているのでのんびりと酒を呑みながら眺める面子もいた。
「参加しないの?」
「どうして私が介抱なんかしなきゃいけないのよ」
「まあそうだけど。随分気に入ってるみたいだから」
「んー、面白そうくらいには思うけれどね。大人なのに子供みたいで」
そう、寝こけている○○の方を見遣る。誰が介抱するか勝負しているので今は放置中だ。本末転倒である。
レミリアは好奇心から彼の傍に寄ってみた。子供のような寝顔。確かに彼女にしてみたら赤子のような歳だけれども。
昼間に会ったときとは全く違うその表情を面白く思って、彼女は彼の頬を軽く摘んでみた。
「うー……?」
目を覚ましてしまった。いや、寝惚けている?
そう思う間も、なく。
「――――――――――っ!?」
音がしそうなほどにしっかりと腕を掴まれ、レミリアは声を上げそうになるのをこらえた。いや、そんなに力を入れて握り締めているわけではない。だが。
寝惚けたような眼でこちらをを見上げ、安心したように微笑ってまた眠りに付くとは何事か。しかも腕を掴んだまま。
安心するな。お前は私を何だと思っている。私は吸血鬼で、吸血鬼は、畏怖される存在で――!
なのに、どうしてお前は、そんな顔を。
「レミリア、どうかしたの?」
「お嬢様?」
霊夢と戻ってきていた咲夜の言葉に我に返って、レミリアは○○の腕を振り払った。
「な、何、霊夢、咲夜」
「いや、何となく。○○さんはどう?」
「普通に寝てるわ」
「お嬢様、どうかなさいましたか? お顔が……」
「何でもない! 咲夜、私も混じる。行くわよ!」
「は……? はい。承知しました」
一瞬怪訝そうになったものの、咲夜は合点がいったように微笑して彼女の主人に続く。
それを見送って、霊夢はため息を一つつくと、○○を眺めた。
「レミリアがあんなに驚くなんて、一体何をしたのやら」
「あら、見てなかったの霊夢?」
「大胆よ、だっていきなり腕を握り締めたんですもの」
「あんた達もどこから沸いて出るのよ」
やはり騒ぎの傍観側に回っていた紫と幽々子がやってくる。
「でもなるほど、いきなり羽が大きく広がったから何事かと思ったら」
「面白いわねえ、何だか弄りがいがありそうで」
「あら紫、駄目じゃない。やるなら弄るくらいで終わらせては駄目よ」
そんな二人を放置することに決めた霊夢は、空で各々が思いっきり弾幕を張り始めたのを見て、結界を強化し始めた。
ちなみに弾幕勝負は、途中から何が目的だったのかなどすっかり忘れ去られ。
潰れていた○○は途中で目を覚まし、飽きずに弾幕勝負を眺めていた。
宴も終わりに近付いた頃。
「○○」
「え、あ、はい? どうかしましたか?」
レミリアは○○に声をかけて、その隣に座った。
「次に紅魔館にはいつ来る?」
「え、あ、いえ、別に予定は。ああいや、行くのが嫌だと言うわけではなくて」
「じゃあ、早いうちに来なさい。パチェの手伝いもあるでしょう? いいわね?」
「あ、ああ、はい」
それだけを告げて、レミリアはさっと立ち上がる。
「あの」
「何?」
「僕、酔ってたときに何かしましたか?」
「別に、何もしてないわ。それに貴方は寝てたんだから、何もできるはず無いでしょう?」
「まあ……そうなんですけど、紫さんとかに僕が寝惚けてたとか何とか言われて……」
「どうせ与太話でしょ。あんなスキマの言うこと真に受けることないわ」
背を向けてそう告げて、レミリアは足早に立ち去った。
歩きながら掴まれた腕を撫でて、そうした自分に何故だか苛立って、大きく息をつく。
「レミリア、帰るの?」
「ええ。またね」
「○○さんにはいいの?」
「さっき声をかけたわ」
言った後に、何だか妙に笑顔な霊夢を見て、また苛立つ。
「何よ?」
「いいえ。何だか、気に入ったみたいね」
「そういうわけじゃないわ。面白いとは思っているけど」
「そう」
霊夢はそれだけしか言わなかったし、レミリアもそれに返さなかった。
それでも、それでも。
咲夜を呼んで神社を後にしながら、彼女は心の中だけで呟く。
どうして、私は。
「お嬢様?」
気にかけるように声をかけてきた咲夜に一つ首を振る。
「いいえ、くだらないことを思い出しただけ」
本当にくだらない。
あの手の感触を忘れられないのも、あの表情を忘れられないのも。
「本当に、くだらないことよ」
それだけを呟いて、彼女は夜明け前の空に飛び立った。
そして彼女は、とある運命の糸を手繰る。
くるりくるりと、狂り狂りと。
無意識のうちに手繰りだす。
悪戯に手繰れば、詩を織り死を織る織り糸を――
────────
逢瀬、開花篇
それが形になるまでは、かなりの時間を要した。
想いというのはなかなかどうして、自分で気が付くには時間がかかるもので。
ただそれを身で持って体験することになるとは――彼女達も思わなかっただろう。
「あら」
花屋でいろいろと物色している○○に、いきなり声がかけられた。
「ああ、幽香さん。こんにちは」
「ええ、ごきげんよう。花を選んでいるの?」
「はい」
「いいところを選ぶわね。ここの花屋の子達は生き生きしているわ。自然のものには敵わなくてもね」
ふむふむと頷く○○を、他の客達は不思議そうに離れて見守る。
彼の話している相手が一番の原因。四季のフラワーマスター、風見幽香。泣く子も黙る大妖怪である。
なのに普通に会話しているとは何事かと。
「あの吸血鬼へのお土産かしら?」
「あ、ええ、まあ。手ぶらというのもなんですし」
恐れる風も無く、○○はのんびりとそう返す。その様子に幽香は微笑って、幾つか花を指す。
「これがいいわね。後、その花とこちらのも」
「え、あ」
「どうせ花の選び方なんて知らないんでしょう?」
「あー、はい。今もそれで悩んでて」
「だから私が選んであげると言っているの。わかった?」
「ありがとうございます」
丁寧に礼を返す○○にまた可笑しそうに笑って、幽香は選んだ花を包ませた。
山百合、アガパンサス、カスミソウ……まだ蕾が開ききっていないものもあるが、いずれも旬の花で、美しさは際立つもの。
それなのに決して華美に走り過ぎない様は、花には疎い○○にさえ感嘆のため息を吐かせるものだった。
「本当にありがとうございます。僕一人ではこんなに綺麗にできなかったです」
「いいえ、私達もまた愉しんでいるのだから」
「は?」
「何でもないわ。さ、行きなさい」
怪訝に思ったものの、幽香からは楽しげな雰囲気こそ伝わってくるが、悪意はないようなので有り難く厚意を受け取って○○は紅魔館に足を向けた。
それは、幻想郷の大妖達にとっては愉しい暇潰し。
彼女達にしてみればまだまだ若い吸血鬼と、彼女が気に入った変わり者の人間の青年。
妖を恐れぬその外の青年を、彼女達もまた気に入っていたし、彼が何をやらかすだろうかと楽しみに待っていた。
半ばは暇潰し、半ばは好奇心から――
「どうも、こんにちは」
「あ、いらっしゃい。お嬢様がお待ちですよー」
美鈴はそう声をかけて、○○の持っている花束に目を止めた。
「花束ですか、綺麗ですね」
「ええ、手ぶらで来るのも申し訳ないなあと思いまして」
「いいんじゃないですか? きっと喜ばれますよ」
「だといいのですが」
では、と挨拶して、○○はさらに中に進む。
だいぶ慣れてきた紅魔館の中庭を通り、館内に足を踏み入れた。
「あら、いらっしゃい。お嬢様がお待ちよ……って、今日は花束なのね」
「ええ」
○○の持っている花束を見て、ん、と咲夜が首を傾げる。
「……○○さんは、花言葉に詳しかったかしら?」
「あ、いえ、バラとかカーネーションくらいしか。何か拙いものありました?」
「ああ、いいえ、そういうわけじゃなかったの。大丈夫よ、悪い意味のものはないわ」
「なら良かった……何か意味があるものが?」
「そうね……山百合とか」
「どのような?」
「『荘厳』、『威厳』ね」
「ん、では良い意味ですね。良かった良かった」
ほっと胸を撫で下ろしている様子を見て、咲夜は微笑に近いものを浮かべる。何と無邪気なんだろう。
というか、平然と紅魔館に尋ねてこれるだけの度胸があって何を今更という感はあるのだが。
「じゃあ、これは飾っておくわ。お嬢様はこちらよ」
案内されながら、○○はこちらに視線が集まっているのを感じ首を傾げた。
見回すと、妖精メイド達がたまにこちらをちらちら見ている気がする。
「あー、僕、何か悪いことしてますか?」
「ん? あ、気にしないで良いわよ。珍しいのよ、お嬢様を恐れない人間が」
「んー、恐怖心は不思議とないですねえ、そう言われれば」
ふむ、と首を傾げて、○○は朗らかに笑う。
「まあ、第一印象の影響は大きいと言いますし」
「確かに、険悪ムードではなかったものね……」
だからこそお嬢様も気に入ったんだろうけれど、と呟いて、咲夜はティールームの扉をノックした。
室内に通されて、○○は中で待っていた館の主に一礼する。
「こんにちは、レミリアさん」
「いらっしゃい、○○。あら、今日は花なのね」
「ええ」
咲夜が飾る花を見て、レミリアは少し目を細めた。
「趣味は悪くないわね。貴方が選んだの?」
「あ、いえ、さすがに花の見立ては出来なくて」
「まあ、そうでしょうねえ……」
何となく、そういったことに疎いと言うのはわかる気がして、レミリアは頷いた。そして、○○に椅子を勧める。
「お店で見立ててもらったんですよ。たまたま幽香さんに会って」
座って、○○が告げた一言に、レミリアは微かに目を見開いた。
「……幽香、って、風見幽香?」
「はい」
「……私が言うのも何だけど、貴方は度胸があると言うか何と言うか……」
呆れた後、花束に視線を向けて、小さくため息をつく。
「それに、女性に花を贈るのに、誰か他の女性に選んでもらったことを告げるのは無粋じゃないかしら?」
「あ、それは……すみません、気が付かなくて」
○○は率直に頭を下げた。その様子に、レミリアはくすくす微笑う。
「そこまで咎めているわけじゃないのよ、気にしないで」
「でも」
「いいの。それに、この花は気に入ったわ」
妖怪同士のパワーバランスなど、○○が知るはずもないだろう。
ここに来てまだ一月も経っていないし、それに何より普通の人間が興味を持つことでもないからだ。
逆に、妖怪が人間に興味を持つ、というのもあまりしないのだが。
だからこそ、何故幽香が彼の手助けをしたのか、その辺りは気になるところだが――まあ、気紛れ程度だろう。
強い妖怪ほど、妙な気紛れを起こすことが多い。
「それは良かった」
「……嬉しそうね」
「渡した相手が喜んでくれたら、それは嬉しいですよ」
「誰かに選んでもらったのでも?」
「え、あ、それは、えと」
意地悪く笑ってやると、面白いように慌てる。それを楽しみながら、レミリアは紅茶を口に運んだ。
「……ふふ、面白いわね」
「……からかわないでください」
「貴方が子供みたいなのが悪いのよ」
そう、まるで子供。見ていて飽きなくて、からかうと楽しくて。
まあ、先日の宴会の席でのことを謝られたときには、さすがにこちらもどういう顔をして良いのかわからなかったが。
腕を掴んだ非礼を何度も謝る姿を、酔っ払ったはずみのことだ、とあしらったけれど。
それからだろうか。時々来ては、レミリアにこうして手土産を持ってくるようになったのは。
だから、尋ねてみた。
「こうして持ってくるのは、今でも詫びのつもり?」
「んー……最初はそうだったですけれど、今は違いますよ」
「違う? どう違うのかしら?」
「ん、人の家を訪ねるのに、手ぶらは失礼かな、って」
それはおそらく本心で、レミリアは得心したように頷いた。
「まあ、いいわ。悪い気にはならないもの」
「今度は何が良いですかね、何かお菓子でも作ってきましょうか」
「あ、いいわね。この前のクッキーはフランも気に入ってたみたいだし。まあ、咲夜には劣るかもしれないけど」
「精進します」
楽しそうに、嬉しそうに笑う彼の姿を、テーブル越しにレミリアは眺めた。
次の約束をしたことには、気が付かないことにして。
彼が、紅魔館を訪ね始めて、もう一月近くが経とうとしていた。
初めは週に一日二日だったそれが、徐々に日数を増やしていったのはどうしてだったか。
誰も、気にも止めなかったことだったけれど。
それでも、確実に、何かは重なっていっていた。それが何かは、わからずとも。
「なかなか咲かないわね、この花」
パチュリーは読んでいた本から顔を上げて、アガパンサスの蕾を眺めながら頬杖をついているレミリアを見た。
アガパンサス。開けば美しい姿を惜しげもなく晒すであろうその蕾は、まだ固く結ばれたままだ。
「あらレミィ、それなら咲夜に頼めばいいことじゃない?」
「それでは風情がないわ」
「そう。私はてっきり、○○さんの持ってきてくれたものだからかと思っていたけど」
その一言に、レミリアは意識したのか無意識かばさりと一度だけ羽をはためかせた。
「別に、そういうわけじゃないわ。どうしてかな、って思っただけ。この花だけじゃない、○○が持ってきた中で咲いてないのは」
そう、そうなのだ。一週間程前に○○が持ってきた花は、いずれも咲いていたか間もなく咲き、今は土に還っている。
だが、この花だけは頑なに蕾を閉じたままだった。
「……花にも想いがあるのかしら……レミィ、花言葉に興味は?」
「ないわよ。覚えようと思えば覚えるけど、その必要がないんだもの」
「確かに、レミィらしいわ」
パチュリーはそう頷く。吸血鬼は夜の者。夜は妖以外は大抵のものは眠りにつく。それは花も例外ではない。
花にも月下美人や夜来花など例外はあるが、それでも大抵は咲かないものだ。
レミリアも花は嫌いではないだろうが、花言葉まで詳しく興味を持たないのも当然だろう。
「どうしたの、パチェ?」
「いいえ、特に何というわけでもないの。レミィも○○さんも疎い方向が似てると思って」
「む、○○と一緒にしないでよ」
「あら、嬉しいんじゃないの?」
パチュリーの揶揄に、レミリアの羽が慌てるようにバタバタと揺れる。
「そんなわけないじゃない」
声だけは平静を保って、レミリアは顔を背けた。
「第一、これ持ってきたのも、ついでのご機嫌伺いでしょう? 用件はパチェの蔵書整理なんだから」
「そうかしら?」
「どういうこと?」
「彼、レミィに逢うために来てる気がするけれど。特に最近。私の方がむしろついででしょう」
その言葉に、レミリアの羽が音を立てて開く。
「馬鹿なこと言わないで、パチェ」
そんな親友の声にも気にした風もなく、パチュリーはカップを手に取った。
目は口ほどに物を言う、というけれども。
(レミィは全身、かしら)
パチュリーは紅茶を口に運びながら、そんなことを思った。
アガパンサスのように、まだまだ固く閉じた蕾に。
○○が訪ねてくるのは、大抵夕方くらいであった。
日が沈む前。まだ妖怪が蔓延り始める時間の前。
帰りはとっくに日が沈んだ後だったから、誰かが送っていくようになっていた。
いつしか、それが当然になっていった。
ある日訪ねてきていた○○は、目の前で気だるげな様子を見せていたレミリアに首を傾げた。
「どうしました?」
「んー……今日は新月でしょう? 調子が上がらないのよ、どうしても」
妖怪は月の満ち欠けに左右される。吸血鬼たる彼女も例外でなく――むしろ、その二つ名に月を関するからか、影響は大きい。
「ああ、そうか。では、今日お訪ねするのはご迷惑でしたか?」
「そうでもないわ。こういう日は出かける気にはとてもならないから、暇潰しには丁度良いし」
「それなら良かった」
そう微笑う○○とレミリアの前に、紅茶が置かれる。咲夜が新しい紅茶を持ってきたのだった。
「咲夜、それは?」
「○○さんが持ってくださったものですわ。良い葉が入っていたそうで」
「ん……いい香り。いいわね、紅茶は。こういう日には特に」
レミリアは一口飲んで、一つ息を吐く。じわりと身体の中が温まっていくのはいいものだ。
「気に入っていただけたようで何よりです」
「ええ。咲夜、パチェにも持っていってあげて」
「はい」
すっと一礼して咲夜が立ち去る。
しばし二人で歓談していたが、不意に、レミリアが小さな欠伸を漏らした。
「ん……」
「眠いですか?」
「んー……少し早かったからね」
レミリアの目の端に浮かんだ涙を、○○が手を伸ばして拭う。
「あー……僕が来るのが早すぎますか。まだ陽が落ちてないですし」
「そういうわけじゃないわよ。起きる時間は私の自由だから」
「お訪ねするときはもう少し遅い時間にしましょうか?」
「それだと貴方が危ないでしょう」
申し訳無さそうな表情の○○に呆れていると、咲夜が戻ってきた。
「お嬢様、○○さん、お話中申し訳ありません。パチュリー様が少し○○さんをお借りしたいと。外の本のことで訊きたいことがあるそうで」
「別に良いわよ」
「では、失礼します。また後で戻ってきますね」
部屋を出て行く○○を見送って、咲夜が新たに紅茶を注ぐのを眺めていて――ふと、気が付いた。
…………さっき、私は一体何をされた?
小さな、礼を失しない程度の欠伸。生理的に涙が滲むのは仕方ないとして――その後。
彼は、○○は、自分に触れなかったか?
自分に触れて、涙を拭って――いくら新月で気だるくなっていたとしても、そこまで、無防備になっていたつもりではなかったのに。
「お嬢様?」
「何でもないわ。身体がだるいだけ」
咲夜に誤魔化しながら、手の甲を頬に当てるように頬杖を付いた。
何故ここまで慌てるのか、ここまで乱されるのか。わからないまま、レミリアは咲夜が入れた紅茶を手に取る。
自分が○○に対して警戒を解いている? いやそんなことはないはずだ。
そもそも、乱される、とはどういうことか。そんなことを一瞬でも思ってしまうなんて。
「……レミィ、表情が目まぐるしすぎよ」
結局、少し時間が経って○○と共に入ってきた親友の、心底呆れたような声がするまで、レミリアは自分自身を持て余していたのだった。
少しずつ、彼の訪れる時刻が遅くなって。
少しずつ、帰る時刻も遅くなって。
当然ではないはずのそれに気が付かない振りをしていたのは、誰だっただろう。
博麗神社。住み込みの青年は、今日も今日とて神社の仕事をしていた。
拾ってもらった恩は返さねばと、出来ることはやっている。
「○○さん、今日も紅魔館に行くんじゃなかったっけ?」
霊夢に声をかけられて、はい、と返事をする。
「ただ、あまり早いと、どうやらレミリアさんの睡眠の邪魔をしてしまうようで」
「そこまで気を遣う必要はないと思うけど」
それでも、と、霊夢は思う。この人は気を遣って時間を遅くしていくのだろう。
「とりあえず、御札多めに持って行ってね」
「はい。ありがとうございます」
心配することは、一応ないはずだ。気になることがあると言えば、レミリアとの関係がどうなっていくのかというところ。
まあそれもせいぜい好奇心と暇潰し程度のものなのだが。
「○○さんは、レミリアを気に入ってるのね」
「……かも、しれません。不敬かもしれないですが」
少しだけ手を止めて、○○は笑う。
「でも、楽しいんですよ。話したりしていると」
「楽しい、のね」
「ええ、きっと」
今はまだ形にならぬ思いは、それでいいのかもしれない。
「……? どうして霊夢さん、楽しそうなんですか?」
「ちょっとね。面白いことがあると楽しくなりはしないかしら?」
「ああ、確かに楽しくなりますね」
暢気に答える青年は、自分がその対象とも思っていないのだろう。
「まあ、気をつけて行ってらっしゃい。晩御飯は済ませておくから」
「ええ、お願いします。下拵えはしてるので」
「相変わらず準備良いわねえ」
いつの間にか兄貴分のようになってしまった青年に微笑いかけながら、霊夢はふと考える。
彼は、もしかすると、もう外には帰らないのかもしれない。
「どうしました?」
「ううん、何でもないわ。そろそろ行かないと、レミリアが煩いんじゃない?」
「大丈夫ですよ。ああでも、そろそろ準備しないと」
まあ、それでもいいか。
準備をして出かけて行く○○にお札を渡して、腰に手を当てて見送りながら霊夢は思った。
彼女は意識したことはないが、きっと、それが自由なのだろう。
その日の訪問は、約束されたもので。
約束していたから、その約束を彼が守って来るのも当然で。
だから、その日に起こったことは、きっと。
何かに運命められていたのだろう。
それを、認めたくは、なかったけれども。
そして、夜も更けた頃。いつもの通り訪ねてきた○○を迎えて、話をしていた最中。
ふと、レミリアは思い当たることがあって○○に尋ねた。
「そういえば、○○の血はまだ飲んだことなかったわね?」
「そう言われればそうですね」
そうなのだ。初めて逢ってからもう二ヶ月も経とうと言うのに、レミリアはまだ○○の血を飲んだことはなかった。
「どうしてかしら……ああ、○○が私を恐れないからか」
「?」
「私は私を恐れる者の血しか飲まないの。○○はちっとも私を恐れようとはしないから」
「あー……ごめんなさい」
「そこで謝られてもね……」
どこかずれた会話をしながら、レミリアは○○を手招いた。
「はい?」
「物は試し、よね」
○○が近くに寄ってきたのを見計らって、立ち上がって彼の襟元を持って引き寄せる。
「えー、と。これは、食べられる形ですか」
「大丈夫よ、殺さないから」
「……はい」
神妙にした彼に、よろしい、と言ってから、レミリアは彼の首筋に牙を当てた。
瞬間、どくり、と心臓の音がする。○○の胸からの、高い鼓動。
それは畏れ。それは畏敬。血を吸うのに辺り、とても心地の良い感覚。
「面白いのね、○○は」
「え?」
牙を離して、○○の耳元で囁く。
「こういうときにだけ、私に対して畏れるのね」
「……畏れ多い、と言いましょうか」
くすくす微笑って、レミリアは再び○○に牙を当て、突き立てた。
甘い。
口内に広がった味に、レミリアは気を取られる。
「ん……ふ、うっ……」
最近は紅茶で済ませていて、こうして飲むのも久々のような気がして。
だから。
「う……」
その声がするまで、気が付かなかった。
苦しそうな○○の呻きを耳にして、レミリアは慌てて飛び退った。
零れた血がレミリアの服に滴り、赤く染めていく。
「お嬢様?」
控えていた咲夜が尋常でない様子に驚いて駆け寄り、とにかくナプキンをレミリアの口元に当てた。
「どうなさいました?」
「大丈夫、何でもないの、何でも」
レミリアはそう言うと、一つ大きく息をついて○○を見つめる。
「あ、うう……」
当の○○は、ふらふらとバランスを崩すと、その場に倒れ込むように床に手と膝を付いた。そのまま、ゆっくりと片膝を立てて座り込む。
「あ……お気に召しませんでしたか?」
だが口にした言葉はそんな言葉で、レミリアは驚く前に呆れることになる。
「……貧血でふらふらなのに、よくそんなことが言える」
「あー……これが、貧血ですか……」
貧血になったことがなかったらしい。その感覚は確かにレミリアにもわからないが。
頭がくらくらしているらしい○○に近寄り、顔を覗きこむ。
「少し飲みすぎたかもしれないわね」
「……では、少しは舌に合いました?」
「…………そうね」
良かった、と微笑う○○からレミリアは視線を外し、咲夜、と呼びかけた。
「客室を用意して。この様子では帰れないでしょうから」
「はい」
「あ、でも……」
何か言いかける○○に首を振る。
「私が飲みすぎたのが原因だから。今日は大人しくしていなさい」
「はい……すみません」
すまなそうに微笑う○○から目を逸らしたかったのに、何故か逸らせなくなって。
決定的な何かを口にする前に、咲夜が戻ってきたのは、果たして救いだったのかどうか。
「○○は?」
「美鈴に運ばせて客間に。もうほとんど気を失っているような状況でしたが」
「ん、それならいいの」
咲夜の報告を聞きながら、○○の血が付いた服に手をかける。その血を見ながら考える。
自分らしくもない、醜態。
飲んでいるうちに、我を忘れるなんて。
「お嬢様」
「ああ、ありがと、咲夜」
手が止まっていることに気が付いたか、咲夜がレミリアの着替えの手伝いをする。
○○の血は甘かった。甘いだけでなく、そう、完全に、レミリアの好みの味、であった。
だから、蕩けるような気分になって、それでつい飲みすぎて。
でも、たぶんそれだけでなく。
「ありがとう、咲夜。もう休んで良いわ」
「ですが、まだお着替えが途中ですけれども」
「後は自分でやるから。それと、○○が起きたら起こして頂戴」
「わかりました。お休みなさいませ、お嬢様」
「ええ、お休み」
咲夜が出て行くのを見てから、レミリアは寝着も纏わずにベッドに身を横たえた。
○○の表情と、声と、存在と、全てが彼女の中でぐるぐると巡って。
あの宴会の時触れられた腕も、何気なく触れられた頬も、それを思い出しては、変な気分になって。
そして、先程の行為がきっと引き金になってしまった。
「私は……」
呟いて、言葉にするのを躊躇って。心の中だけで。
ああ、私、は。私は、彼に。
客間に運んでもらって、○○は切れ切れの声で礼を述べていた。
「ありがと……ござい、ま……」
「ええと、あんまり話さないほうが良いですよ? 明らかに血が足りてませんし」
美鈴が呆れたように腰に手を当てて、ベッドに放った○○に声をかける。
「まあ、ゆっくり休んでてください。私はまた門に戻りますので」
「はい……ど、もです……」
「律儀ですねえ。では」
それだけ言って、美鈴は部屋を出て行った。
ベッドに横たわって、○○は考える。
今までの彼女との会話と、表情と仕草と。それを思い返して。
そして何より、先程のことを、自分の血を吸った、彼女のことを思い出して。
今は、頬が熱くなるほどの血が足りないけれど。心だけは。
「駄目だな、本当に」
ぼやくけれど、おそらくもう、遅い。
そう、僕、は。僕は、彼女に。
――どうしようもなく、惹かれてしまっているのかも、しれない。
次に○○が目覚めたのは、もう昼も過ぎた後。
慌てて飛び起きて、自分の状況を把握するのに数分かけて、やはり慌てて部屋を出る。
「あら、おはようございます、○○さん」
「おはようございます……ではなく! 僕は一体どれだけ……」
慌てる○○に、咲夜は首を振って笑う。
「大丈夫よ。霊夢には連絡しておいたから」
「す、すみません……こちらにもご迷惑を」
「それも大丈夫。そもそもお嬢様がお決めになったことなんだから」
そこまで言って、そうそう、と続ける。
「お嬢様を起こしてきてくれないかしら? ○○さんが起きたら起こしてくれって言ってたし」
「え、僕がですか?」
「丁度いいでしょう? 私は紅茶を用意してくるから」
「は、はい……」
咲夜に言いくるめられる形で、○○はレミリアの部屋に向かう。
辿り着いて、軽くノック。音沙汰がなくて、もう一度叩いてみた。
「んー……入っていいわよ……」
「失礼します」
「え、○○?」
驚くような声と、○○が扉を開けて入ったのは同時。
「あ…………」
絶句した○○の視界に入ったのは、上掛けを引き上げただけで、何を身に纏っていないレミリアの、白い――
「し、失礼しましたっ!」
慌てて飛び出した○○を、起き抜けから羽を最大限に広げて硬直させるほど驚く破目になったレミリアが見送っていた。
さすがに、想いを自覚した直後にこれは、互いに刺激が強すぎて。
しばらく扉の中と外で、軽いパニックに陥っている二人の姿があった。
ほぼ同時刻――
「あら咲夜、レミィはまだなのね」
「パチュリー様。今○○さんが呼びに行っているので、間もなく来られるはずですが」
そう、とだけ応えて、パチュリーはティーテーブルに視線を移し、目を細めた。
「咲いたわね」
「え、ああ、アガパンサスですか。はい、今朝に」
「そう、ついに咲いたのね」
咲いてしまった、とも言うべきかしら。
パチュリーは口唇の中だけでそう言うと、親友達が来るまでの短い時間の読書を始めた。
アガパンサスは咲いた。
それはどちらの想いを咲かせたものなのか。
その開花がどうなっていくのか、結末に何が訪れるのか。
それは博識の魔女にもわかることはなく。
ただ今は、その花を眺めることだけしか出来ることはなかった。
本来後書は蛇足なのですが、あえて説明をば。
劇中のアガパンサスの花言葉の意味ですが、『恋の訪れ』を意味します。
説明自体が野暮かもしれませんが、とりあえず。
ちなみに山百合は劇中以外に『純潔、飾らない愛』を。
カスミソウは『魅力、無邪気』を意味します。これらも一例に過ぎませんが。
さらに蛇足となりましたが、花言葉説明は以上とさせていただきます。
──────────────────
告白、瞑想篇
その妖恋譚がどのような展開を見せるのか。
友人の鴉天狗に突かれて、彼が大慌てしたのがあっという間に記事になり。
少なくとも、青年の側の想いは幻想郷中の者の知るところとなる。
それに乗じて、彼らの動向に、茶々を入れるか静観するか、とにかく各々が愉しむ準備を始めていた。
そして、○○が紅魔館に入り浸っていることは、もう万人の知るところだった。
陽が落ちる頃に紅魔館に行き、陽が昇る頃に帰る。
毎日ではなかったが、週の半分はそうしていただろう。
名目だけは未だに紅魔館図書館の手伝いだったが、本当の目的は明らかだった。
それでも、誰も止めなかった。止める気も止める必要もなかったから。
「お嬢様、○○さんがいらっしゃいました」
「ん、通して」
「今、呼んで来させております」
咲夜の言葉に頷いて、レミリアは一つ首を傾げた。
「咲夜、何か面白いことでもあったの?」
「え?」
「何だか楽しそうだけど」
「いえ、それはきっと、私ではなくお嬢様が楽しそうだからですよ」
「な、そんな、私は別に」
レミリアが慌てた瞬間、扉をノックする音が聞こえ、うっかり慌てたまま許可を出す。
「お連れ致しました」
「ご苦労様」
妖精メイドは慌てているのには気が付かなかったようで、普通に○○を通した。
「こんばんは、レミリアさん、咲夜さん」
「ええ、良い夜ね」
メイドを下がらせて、咲夜に紅茶を淹れるように命じると、レミリアは彼に椅子を勧めた。
もう慣れたいつものこと。そう、知らず知らずに慣れてしまった状態。
「今日は何の話をしてくれるのかしら? この前の外の話は面白かったわ」
「では、そうですねえ。向こうで読んだ物語の話でも」
記憶が曖昧とは言え、彼の中の見聞きした全ての知識が喪われたわけではなく。
だからその話を聞くのも、レミリアの密かな楽しみになっていた。
「それで続きは――ああ、咲夜、貴女も一緒に付き合いなさい」
「はい。ですが、よろしいのですか?」
「何を言ってるのよ。咲夜も一緒が良いの」
レミリアの可愛らしい我儘に、咲夜は微笑んで従った。
無論、主と友人に、飛び切りの紅茶を用意して。
「○○は今夜はどうするの?」
「ああ、夜明けまで居るつもりです。途中仮眠は取ってしまうかもしれませんけど、とりあえず朝までは」
「里の仕事とか神社とかはいいの?」
「仕事は午後からに回してもらってますから。軽く仮眠を取れば動けます」
そう朗らかに応える○○を少し眩しげに見た後、レミリアはカップをソーサーに戻そうとして、カチャリ、と音を立てた。
「お嬢様?」
「ん、いいえ、何でもないの」
咲夜の言葉に首を振って、レミリアは○○に視線を戻した。
「じゃあ、さっきの話の続きが聞きたいわ。夜はまだ長いしね」
「ええ、それでは――」
話し始めた彼の様子を、楽しそうにレミリアは眺めていた。
その様子は誰が見ても楽しそうで、ささやかに幸せそうで。
恋人同士という形ではまだないにしろ、時間の問題だろうと周りは勝手に考えていて。
不謹慎ながら、賭けまで行われていたりしていて。
だから誰も知らなかった。
吸血鬼の少女が夜毎朝毎、とある運命の情景に苛まれていたことに。
うららかな昼過ぎの神社。掃除をしている霊夢に向けられた声があった。
「霊夢ー」
「あらレミリア、咲夜、早いわね」
今日は神社で宴会。○○が幻想郷に来て大体二ヶ月と言うアバウトな集まりなのは、ただみんな酒が飲みたいだけなのかもしれない。
というか確実にそうだ。人数が半端ではないはず。幹事の魔理沙と萃香の張り切り故か、今回は方々から来ることが決まっている。
「たまには一番乗りもいいでしょ?」
「一番は私よ――ってそれはまあいいや。○○さんなら買い出しに行ってるからいないわよ?」
「そこでどうして○○が出てくるのよ?」
レミリアは日傘を咲夜に渡して、縁側に腰掛けながら霊夢を軽く睨む。
「あら、○○さんがいるから早く来たんじゃないの?」
「違うわよ、そんなのじゃないわ」
ふい、と顔を逸らしたレミリアに、咲夜からお茶が差し出される。
ありがと、と受け取るのを横目に、霊夢はため息をついた。
「まったく、何で人の家でわざわざお茶飲んでるのよ」
「いいじゃない、今日は宴会なんだから」
理由になっていない理由を口にしながら、レミリアは湯のみに口を付けた。
丁度そのとき、空から影が降りてくる。ざっ、と良い音をさせて降り立ったのは当然というべきか、霧雨魔理沙であった。
「あれ、早いな。私が一番乗りかと思ったんだが」
「たまにはいいでしょう?」
「ああ。だが、○○ならもう少しかかるぜ? 今石段上がって来てたからな」
「どうして誰も彼も○○のことを私に言うのよ」
レミリアが呆れたように魔理沙に言い返す。
「あれ、違うのか? てっきりあいつがいるから早く来たのかと」
「違うわよ」
そう言いながら茶を啜っていると、リズム良く石段を登る音がして○○が帰ってきた。
「おかえりー」
「ただいまです。ああ、魔理沙さんはさっき飛んでくのを見ましたが、レミリアさん達もいらっしゃってたんですね」
「ええ」
「ああ、レミリアならお前に……」
言いかけた魔理沙の口に手近にあった煎餅を突っ込んで、何事もないようにレミリアは○○に話しかける。
「買い物とはご苦労ね」
「まあ、居候ですし。宴会の準備も僕の役目ですよ」
「あら霊夢、そうなの?」
「○○さんが準備と片付けやってくれるから大分楽になったわよ」
「……○○さんだけやってて貴女は何もしてないんじゃないかしら?」
咲夜の言葉は真実なのだが、霊夢は素知らぬ顔だ。○○も気にした素振りはない。
「里の人に、お茶菓子を幾つかいただいたんですよ。料理作っている間、みなさんはそれでも食べてお茶飲んで待っててください」
「……本当に一人でやるつもりなのね」
宴の参加者が少しずつ集まり始め、料理も有志によってほとんど完成していた。
始まる前、何回かレミリアが台所に様子を見に行っていたのを、何人かは見てないことにしてやっていた。
本人を突付いても『咲夜が遅いから』と言うに決まっているのも、わかっていたから。
そして――宴が始まる。
「ねえ、○○、少し訊いていいかしら?」
「はい、何でしょう?」
宴会の席。輝夜に問われ、○○は首を傾げる。
「最近吸血鬼にご執心らしいけど、上手く行ってるのかしら?」
「っ!?」
丁度盃を傾けていたということもあり、思い切りむせてしまう。
「あらあら、大丈夫?」
「は、はい、ありがと、ごほ、ございます」
幽々子に声をかけられ、大丈夫だと言葉と素振りで○○は示した。
「姫、御戯れが過ぎますよ」
「いいじゃない、古今東西、色恋沙汰は楽しいものよ」
「その通りね」
輝夜を嗜める永琳に、同意する紫。
「この前のアガパンサスは無事に咲いたようね」
くすくす、と微笑うのは幽香。意味がわからず、○○は再び首を傾げる。
「おやおや、意外と鈍いと見える。ほら、一杯どうだい?」
「ああ、どうも」
「見たまま、かもよ、神奈子」
二柱の神、神奈子と諏訪子もそう楽しむように○○に酒を勧める。
「それにしても、これだけの面々を見て普通に酒を呑める○○はやっぱり変だねえ」
「そうですね。本当に取材のし甲斐のある人間です」
そう笑うのは萃香と文。
そう、なのだ。
宴会が始まり、座に付いて気が付いたときにはすでに、彼は周りをそうそうたる面々に囲まれてしまっていたのだ。
「……言われてみれば、そうなのかもしれないですねえ」
○○自身は泰然と、あるいはのんびりとしたものだった。
そもそも外の人間。そう大きな問題とも捉えていないのだろう。
それが大妖や神々にはまた面白いのか、何人かが楽しそうに笑い声を立てた。
「いいの、レミリア?」
「何が」
「○○さん呼んでこなくて。というかあんた不機嫌過ぎよ」
何とも言えないオーラを全身から醸し出しているレミリアに、霊夢が呆れた声をかける。
「別に良い。楽しんで飲んでるなら」
「絵に描いたような不機嫌だな、お前」
魔理沙も呆れっ放しである。その隣では上海人形や蓬莱人形が微妙に怯えていて、アリスはそちらを宥めるだけで会話には突っ込まない。
「レミィも混じってくれば良いのに」
「嫌よ。何でわざわざあんな中に行かなきゃいけないの」
すっと咲夜にグラスを差し出し、そこに注がれたワインを飲んで、レミリアは不機嫌そうな視線を一瞬だけ動かした。
その瞬間、ぐぐっと重圧が掛かったかのようにがらりと空気が変わって、一瞬全員が身構える。
まさに今レミリアが見た方向から、恐ろしいほどの妖気。殺気。
「……あいつら、一体何を」
「何やってんのよ、○○さんを食べる気なのかしら?」
「幽々子様まで一緒になって……」
「………お嬢様?」
驚くか呆れるかしている面々に、更なる別の重圧が掛かる。今度は至近。
思わず振り返った数人の隣を、大きく羽を広げたレミリアが通っていく。
「………………行って来る」
「ええ、行ってらっしゃい」
本をはらりとめくりながら、巫女と共に二人で動じていなかった魔女が、親友を送り出す言葉をかけた。
少し時間は戻る。
幾分か酒を酌み交わしている中、不意に紫が声をかけてきた。
「本当に貴方は不思議ねえ。吸血鬼に執心してるのもそうだけど。本来人間と妖怪は、互いに退治と捕食を成すものというのは知ってるのよね?」
「ええ、一応は」
「ならば――」
「――どうして、貴方は此処に居ても平然としていられるのかしらね?」
がくり、と胡坐に乗せていた手が地に付きそうなほどの威圧感が、○○を襲った。胡散臭い微笑で、紫は楽しそうに眺めている。
「あらあら紫、駄目じゃない。脅かしちゃ」
そう言う幽々子も、表情は微笑っているが、纏う空気の質が澄んだものに変異していく。
「あんたらは全く……」
呆れた声をあげながらも、くすくすと微笑んで幽香も自身の妖気を上げていく。
「おやおや、これから弾幕勝負でも始まるのでしょうか?」
「というか、戦争起こす気? 紫」
わくわくしている文と、やれやれと呟く萃香。だが、彼女達もまた楽しそうに周りに合わせて妖気を増幅させた。
「無粋ねえ」
「それでも、楽しいのですね、姫」
「ふふ、面白いことするじゃないか」
「戦争は勘弁だけどねー。それよりも弾幕の方が楽しいし」
微笑する月人達も神々も、各々の気迫をぶつけ合う。
○○は動かない。動けない。卑小な人間の身において、ここで潰れてしまわぬのが不思議なほど。
がちがちと奥歯が鳴りそうになり、ぎりと噛みしめる。
怖くないわけがない。根源の恐怖。人間としては当たり前すぎて、そして彼もその当たり前に漏れなかった。
だが、彼はやがてぎこちなく笑むと、そっと手に握り締めていた盃を差し出した。
「……よろしければ、一つ」
「あら、意外ねえ。怖いのでしょう?」
意外そうにしながら、幽々子がその盃に酒を注いでやる。
「はい、怖いです。凄く怖い。今だって、自分でお酒を注いだら、みっともなく溢してしまうでしょう。
実際、震えも止まりません。手だって、ほら」
よく見れば、盃を持つ手はガタガタと震え、しっかりと盃を掴む手は白くなるほど力が入っている。
「ならば、何が貴方にそこまでさせるのかしら?」
「わからない、わかりません。でも、何と言うか、意地なのか」
「意地、ねえ。ふふ、貴方は本当に子供ね。しかも頑固な。大人に叱られて、でも絶対泣くまいと拳を握り締めてる子供」
そんな可愛いものでは決してない。これは喰われるか否か、殺されるか否か、の感覚だから。
「でも、これでわかったかしら?」
「は、い?」
「貴方が恋した吸血鬼も――」
「何をしている」
紫の言葉を遮るような声と共に、ばさりという音を立てて一つの影が○○の背後に立った。
こちらも、この場の雰囲気に負けず劣らず、あるいはそれ以上の気迫と妖気を出しながら――
「レミリア、さん?」
「何をしていた」
「別に何もしてないわよ? ただお話していただけ」
「そんな、貴女の妹のように全てを壊しそうな雰囲気出さなくても大丈夫よ。別にその子に何をしようって訳じゃないんだから」
「どうだか」
疑わしそうな声を出して、レミリアは○○に視線を移し、すぐに逸らした。
「只の人間一人を脅して、何が面白いのかと思ってね」
「あら、別に脅していたわけじゃないわよ?」
「ここまでの妖気に満たしておいて、か」
一触即発とも言える空気の中、くすりと笑えたのは誰か。
「まあ、そう言うな吸血鬼よ。悪戯が過ぎたのは我らにもわかっておる」
神奈子であった。神の威厳というものか、そう、互いを牽制する。
「○○を脅して食べようとかそういうのじゃないから、安心しなよ」
神奈子に接ぐように、諏訪子もまた治めに回った。文がそれに便乗して、盃を掲げる。
「そうそう、私達はただ楽しくお酒を飲んでるだけですよ? ○○さんと一緒に」
「そうよ。それに、○○は貴女のものってわけじゃないでしょ?」
輝夜の言葉に、レミリアの気配が少しだけ揺れ動く。あるいはそれは、決定的な言葉だった。
「ああ、そうだな」
「そうよねえ。収まったところで、貴女もどう?」
やはり胡散臭く話を向ける紫を一瞥して、くるりとレミリアは背を向けた。
「いい。咲夜が居るから向こうに戻る」
「あら、残念ねえ」
本当にそう思っているのかいないのか、紫が残念そうな声を上げた。
レミリアが立ち去って、ようやく重圧の解けた○○が、立ち上がりながら紫に告げた。
「あ、の、紫さん」
「なあに?」
「すみません。レミリアさんのところに行ってきます。その、中座することになって申し訳ありません」
それと、と彼は言葉を繋げた。
「さっき、言いたかったこと、わかった気がします。でも、それでも僕は」
「いいわよ、行ってらっしゃいな」
ひらひらと手を振る面々に頭を下げて、○○はレミリアの後を追っていく。
それを見送って、ふー、と、萃香が伸びをして紫に声をかけた。
「紫ー、レミリアのこと、あんまりからかうと可愛そうじゃない?」
「だって楽しいんだものー」
「いいけど、恋する乙女は強いわよー。今だって、私達全員と戦う気だったわよ?」
幽々子の言葉に、紫はくすくすと笑う。
「だからこそ楽しいのよ」
「やれやれ、厄介な御仁だねえ」
「そういう神奈子も、止める気さらさらなかったでしょ」
「あんたもね」
「しかし、さっきの吸血鬼は見物だったわね。あんなに必死になって」
ふふ、と微笑む輝夜に、永琳も息をつく。
「ええ、本当に。でもむしろ見物だったのは○○さんの方かもしれませんけどね」
「そうねえ。あんなに怯えていたのに、吸血鬼が来た途端にほっとしちゃって」
幽香が盃を傾けつつそう断じた。
根源の恐怖に支配されていたからか、彼はとても、自分の周りの空気に対して敏感になっていて。
「そうですねえ。いやー、思わずシャッター押し損ねたのが悔やまれます」
「それは本当に後で焼かれるんじゃないかな」
それぞれ各々が勝手に会話をしていくうちに、先程の剣呑な雰囲気はいつしかいつもの宴会の空気へと解けていった。
追いついて、○○は大きな声を目の前の彼女にかけた。
「レミリアさん!」
「何、○○。あいつらと飲むんじゃなかったの」
「中座させていただきました」
「そう」
レミリアはふい、と前を向いてしまう。彼は一瞬迷ったが、大人しくレミリアの後ろに付いた。
「おー、落ち着いたか」
「あんたらが本気でやったら洒落になんないからね。ん、○○さんいらっしゃい」
「どうも」
○○は挨拶し、座ったレミリアの隣に腰を下ろす。レミリアも特に止めなかったので、そのままそこに居座ることにしたようだった。
「どうぞ」
「ん、いただくわ」
自分に酌をし、そのときの彼の微笑にレミリアは心が一瞬躍るのと、不本意ながら機嫌が直るのを感じ、それを振り切るように杯に口を付けて――
本来は、こうすべきでないことを痛感してしまった。
だって。何故なら。
このまま、私と共に居たら、彼は近いうちに必ず死んでしまうから。
その情景は、逃れ得ない運命のもなのか。
それは彼女しか視えず、彼女しか知らず。
そして彼女にも、彼の運命はそれしかわからなくなっていた。
そもそも、レミリアは近しくなればなるほど、余計にその者の運命を見なくなる。
咲夜、パチュリー、フランドール、美鈴、他の館の者達――大事であるからこそ、自身の操る運命の干渉を少なくする。
『いずれどうなるか』が解りすぎても、『その者がどうなるか』を知りすぎても、生きると言うことは楽しくないし、何よりレミリアの性に合わないから。
無論無意識に働くこともあるが、そのときは最善になるように努力している、つもりであった。
だからこそ、○○の運命が見えなくなっていたことに、レミリアは初め愕然とした。
自分の中で、そこまで大きな存在になったことを認めたくなかったから、かもしれない。
それでも。日々に募っていく想いは、それを否応無く実感させていた。
「○○、明日は来るのかしら?」
血を飲むために近付いてきて尋ねたレミリアに、彼は少し申し訳無さそうに微笑った。
「すみません、明日はちょっと。その次は来れますが」
「そう。まあ仕方ないわね……」
残念に思って、何故そう思ったのかは考えないようにして、レミリアは彼の首筋に牙を立てる。
心地よい感覚と甘さが、彼女を満足させた。彼から来る畏れもまた心地よい。
日課ではないが、彼が来たときには、レミリアは彼から血をもらうことにしていた。
別に強制ではなく、彼自身も別に構わない、という態度を示せばこそ。
そして、この行為が、レミリアがもう眠り、○○が帰っていくと言う合図。
「また、きます、から」
「ん、わかってるわ」
口を離して、牙の痕からまだ流れ出るのをぺろりと舐め取る。
控えていた咲夜に手当てをしてもらいながら、○○は不思議そうに首を傾げる。
「美味しいものですかね、血なんて」
「私は吸血鬼だからね。特に○○のは美味しいよ」
「それは光栄なのですけどね」
柔らかく笑う彼を、本来は拒絶すべきだったのかもしれない。
こうしている時にも、彼女の脳裏に過ぎるその情景は、おそらく少しずつリミットを知らせていたのだから。
それでも、彼女も紅魔館も、彼を拒むことは出来なかった。
「こういうの繰り返してたら、僕も吸血鬼になったりするんですかねえ」
「それはないわ。私が飲み干さない限り、○○は吸血鬼にはならない」
「そうですか」
なるほど、と頷く彼にとっては、それは些細なことなのかもしれない。けれども。
「少し、貧血が治まったら帰ります」
「ええ」
そう言いながらも、レミリアは結局、○○を見送るまで起きていたのだった。
好きなときに神社に居て、好きなときに里に居て、そして好きなときに紅魔館を訪れる。
そんな自由気ままな彼が、彼女にとっては愛しくて。
そうした、ありふれた人間であるはずの彼が近くなるのに心が躍って。
想いが強くなっていくのを止められなくて。
だからこそ、彼女は彼を眷属にしたいなどとは、思わなくて――
故に、彼女は運命の情景に、さらに苦しめられることになった。
そして、彼が来るのを、彼女は拒めなかったから、なおさらに。
そんな、どうしようもないままに――その時が訪れた。
それは避けようの無いことで。
何よりも彼女はそれを避けたくて。
だから何よりも望んでいたその言葉を。
彼女は何よりも聞きたく無かった。
「どうしたの、○○?」
「え、と。今日は、お伝えしたいことが、あって」
夜半も過ぎた頃。いつもと様子の違う○○に、レミリアは首を傾げてみせた。
そうでなければいい、と思っていたし、今も思っている。
彼の口唇から、決定的な言葉が出てこないようにと。
「レミリアさん」
「何かしら」
「僕は、その、貴女のことが、好きです」
神妙な顔で○○が言った言葉に、レミリアは、しばらく瞑目した。
ああ、その言葉を想定していなかったら、自分は果たしてこの行動を取れていただろうか?
渾身の想いを込めて、背を向ける。
「だから、何だと?」
彼を目の前にして、この言葉を言えるとは、到底思えなかったから。
ただ威圧することを、拒絶することだけを念頭において、言葉を紡ぐ。
「貴方がそうだとしても、私は貴方のことを何とも想っていない」
一言一言をはっきりと、口にする。
その言葉が、自分の心をも傷つけていることにも気が付かず。
「……そう、ですか」
声は、微かに沈んではいたが、優しい声色で。
だからレミリアは、思わず振り返って――振り返ったことを後悔した。
寂しげで優しいその表情を見てしまったから、自分の中の何かが揺らいでしまうようで。
だから、彼女は、せめてと顔を背けた。
「……ああ、そうだ」
「……………はい」
こういうときに何を言えば良いのかわからないような戸惑う気配の後。
「…………それでは、今日はお暇します。また」
「………………ええ」
部屋を出て行く○○を、結局レミリアはもう見なかった。
そのことを後々、彼女は少し後悔することになる。
「あら、○○さん。今日はもう帰るの?」
「ええ、ちょっと」
館の玄関を開けて外に出ようとする○○を見つけ、咲夜は声をかけた。
「まだ夜明け前よ?」
「それでも。また、来ますので」
どこか落ち込んだような雰囲気に咲夜は何かあったことを悟ったが、追求はしなかった。
それは、何が起こったのかも、薄々察してしまっていたからかもしれない。
「わかったわ。とりあえず、見送りに出るから待ってて」
咲夜は身を翻すと、○○の前に立った。
「すみません」
「いいのよ。客人を見送るのもメイドの役目だから」
それでも、会話としては客人相手というより友人のそれに近い。
庭に出て、咲夜は見回りをしていた美鈴に声をかけた。
「美鈴、一つお願いしていいかしら?」
「あ、はい。何でしょう? あれ、○○さん帰るんですか?」
怪訝そうな美鈴に、咲夜は頷いて見せた。
「そうよ。だから貴女が送っていってくれないかしら」
「え、でも門は」
「誰かに任せておきなさい。いざとなったら私も出るし。○○さんもいいわね?」
「え、あ、はい」
とんとんと流れるように話を進めていく咲夜を止められず、○○はただ頷いているだけのようだった。
「では、送りますね」
「すみません、お願いします」
○○が一つ礼をした時、咲夜の背後からパチュリーが現れた。
「パチュリー様」
「ご苦労様、咲夜。○○さん、今夜は帰るのね」
「……ええ」
「そう。とりあえず、これを渡しておくわ。落ち着いたら開きなさい」
メモの切れ端のようなものを渡されて、○○は首を傾げつつも頷く。
「ありがとうございます」
そして、美鈴を護衛として○○は紅魔館から立ち去っていく。
「咲夜」
「はい」
「レミィのこと、お願いするわ」
「はい、承知いたしました」
そう応えた咲夜の声には、単なるメイドとして以上の忠誠が溢れていた。
四半刻の後、テラスに出ていたレミリアは咲夜を呼んで、紅茶を淹れさせていた。
あの部屋に居続けることは、どうしても出来なくて。
「咲夜」
「はい、どうなさいました?」
レミリアは咲夜から紅茶を受け取りながら、ぽつりと呟いた。
「……○○に、好きって言われた」
「そうですか。返事は?」
「返事? それを必要とするの? 私は吸血鬼よ、そんなものいらないわ」
咲夜の反応はレミリアの望んだもので。だからレミリアは、そう言葉を続けた。
「共にはあれど、愛することなどない。彼はただの食糧に過ぎないし、無聊を慰める者に過ぎないのだから」
「それで、断られたのですか」
「……そうなるかしらね」
遠くを見ながら、紅茶に口をつけて、レミリアは息をついた。
そうでもしなければ、落ち着いていられないような、気がして。
「……吸血鬼を好きになるなんて、馬鹿なことを」
そう、馬鹿なことなのだ。人外に惹かれるなど。吸血鬼に恋するなど。
ああ、ならばきっと自分も馬鹿なことをしているのだ。人間なんかに想いを寄せてしまうなんて。
嘲ったのは、一体どちらのことだったのだろうか。
なおも遠くを眺めて、レミリアは小さく呟く。
「此処は、貴方を拒まない。拒めない、から」
だから、貴方はいつでも。届かない、届けられない言葉で、レミリアはもう見えない彼にそう告げた。
彼女の脳裏には一つの情景。一つの光景。
その心が芯まで凍り付くような錯覚を起こす、彼が物言わぬ骸と成り果てる情景。
何度も繰り返す悪夢。何度も繰り返す白昼夢。
もう見えなくなった彼の運命の、おそらくその一端。
彼が傍に来る度に、彼が近付いてくる度に、それは強くなって。
だから、彼女は彼を遠ざけた。遠ざけなければ為らなかった。
それが、ずるずると今の今まで来てしまったのは自分の落ち度だけど。
心の距離が近くなってくる彼を撥ね退けるのは、身を裂くように辛いことだけど。
それでも、それでも彼女は。
私はただ、○○に死んで欲しくないだけ、だから。
紅い月の表情は静かなまま。取り乱しもせず、泣きも喚きもせず。
だからこそ、傍でそれを見ている完全なる従者は、その胸の痛みを只慮ることしか出来なかった。
「しかし一体どうしたんですか、夜明け前に帰るなんて珍しいですよね」
「あー、まあ、少し……」
心なしか元気のない○○に、美鈴は首を傾げる。
「お嬢様と喧嘩でも?」
「んー……あー……振られた、と言いますか、何と言いますか」
「はあっ!?」
美鈴は目を丸くする。彼の言った言葉が信じられなかった。
「それ、お嬢様から断ったんですか?」
「というより、まあ、歯牙にもかけてもらえなかった、って感じで」
「そ、それおかしいですよっ!? だってお嬢様、○○さんが来るのあんなに楽しみにしてて……!」
「それでも」
ぽつり、と彼は言った。
「何も想ってなんかいない、と、そう言われました」
「そんな……」
何かがおかしいと感じた。少なくとも、自分の主人はそういうことには正直であると彼女は思っていた。
「……しばらく、紅魔館にはお邪魔しないつもりです。どうかよろしく言っておいてください」
「ちょ、○○さん……!?」
誰に、とは言わなかった。彼は心なしか顔を伏せて、繰り返した。
「当分は、訪ねることはないと思います、から」
「…………待ってください」
美鈴の声が静かになったことに気がつき、○○が顔を上げる。
「私が言うのも何ですが、お嬢様がそう仰ったのには必ず理由があるはずです」
彼が本当に来なくなれば、お嬢様は哀しむはず、で。
「だから、その辺りもわからずにそう言っているのなら――私は、貴方を怒鳴りつけなければならなくなるかもしれません」
「………………わかって、ますよ」
意外な返答に、美鈴は逆に気を削がれる。
「へ?」
「………………何か理由がある、ってことはわかってます」
「……わかって、って」
一度、凄まじい妖気で圧されたから、わかるのだ。
恐怖を得たから、恐怖を経たから、わかってしまったのだ。
彼女の妖気が、人間に根本的な恐怖を与えるあの気配が、あのときのものとは違っていたことに。
もし、もし、あの言葉が全て真実ならば。
何故貴女は、あんなに哀しい妖気で僕を圧したのか。
どうして、自分を傷つけるような、そんな声色だったのか。
僕のことを、嫌っていたとしても。嫌いだったとしても。
何故、それ以上に、哀しげだったのか。
「僕のことを好きじゃなくても、レミリアさんはあんな物言いを、簡単にする方じゃないと、思ってる」
「じゃあ、どうして……」
問いに、○○は神社の石段に座り込んだ。
「いや、実は、ですね、その、これでも」
「はい」
「結構、ショックだったりするんですよ? 告白して振られるって言うのは」
そのとき、美鈴は思わずぽんと拳で手を打って納得しそうになった。
あまりにいつも通りだったもので、彼女は今の今まで、彼が心底落ち込んでいることに、全く気が付かなかったのだった。
少し落ち着いた後、再び石段を登り始める。
「まあ、お嬢様にもきっと理由があるはずですよ。そうでなければ、○○さんをそもそも館に入れたりしませんって」
「だと、いいのですけれど」
それでも、何も想われてないという可能性はある、というかのように、○○は微苦笑気味に笑った。
石段を登りきって母屋の方に向かうと、霊夢と紫が並んで座っていた。どうやら二人でささやかに飲んでいたようだ。
「あれ、おかえり。今日は早かったのね。珍しいのもいるし」
「ああ、ええ、まあ」
「吸血鬼と喧嘩でもしたのかしら?」
「なら、まだいいのかもしれませんが」
苦笑する○○に、霊夢が微かに眉を顰める。彼女の知る彼は、あまり苦笑しない人だ。
「あらあら、だとすると振られたのかしらね」
「紫……」
「幾らなんでもストレートすぎでは」
呆れる霊夢と美鈴に対し、○○は、その通りです、と両手を挙げた。
「まあそれで、すごすご帰って来たわけで」
「自嘲は貴方に似合わないわね。それより貴方のポケット、何が入っているのかしら?」
紫に言われ、○○は反射的にポケットに手を入れる。そういえば、パチュリーにメモのようなものを貰っていた。
それをポケットから出し、それをおもむろに開いてみる。
「白紙? って……!」
『成功してるかしら、してなくても別に良いんだけど』
唐突に紙からパチュリーの幻像が浮かび上がって、言葉を紡いできた。
「あ、パチュリー様の新しい魔法ですかねえ」
「珍しいもの使ってるわね」
『まあ、美鈴が居るときに開けてたら、成果を報告させて頂戴。そして本題ね。
貴方が思うままに行動するといいわ。レミィのことを本当に想うならね。私からはそれだけよ』
それだけを伝えて、幻像は消える。もう一度閉じて開いたが、もう像は出てこなかった。
「…………」
「どうしました?」
「いや、紅魔館の皆さんって、本当にレミリアさんのことが大好きなんですね」
「それは当然ですよ。だって、私達の大事なお嬢様なんですから」
○○は頷いて、そして、呟いた。
「パチュリーさんにお伝えください。ご助言、ありがとうございます、と」
「お任せください」
「ふふ、じゃあどう? 失恋の憂さ晴らしに、一献付き合わない?」
「有り難い申し出ですが、今日のところは休ませていただきます。霊夢さん、お先に」
「ええ、ゆっくり休んでて」
○○が入っていったのを見送った後、紫は美鈴にも勧める。
「貴女はどう?」
「流石に戻らないと、咲夜さんに怒られてしまうので」
「そう、残念ね。それにしても、吸血鬼も馬鹿なことを。折角の手を振り払ってしまうなんて」
紫の物言いに、美鈴がむっとしたように気配を鋭くする。
「お嬢様を侮辱するのでしたら許しませんよ」
「あらあら、ごめんなさいね。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「紫は喧嘩売ってるように聞こえるのよ」
「あら、それもわかって言ってるわよ」
相変わらず読めない様子に、やれやれ、と霊夢はため息をついた。
「それでもね。最善の手を取らなかったのもまた事実よ」
「レミリアが?」
「だけとは限らないけど。まあそもそも、妖恋譚は相応の覚悟が必要だからね」
「それが足りなかったと言いたいのですか?」
「さてね。言い切るには、まだ早いかもしれないけれど」
紫はそう微笑って、盃に口を付けた。
彼女にとってまだまだ若すぎる二人の行き先を、知っているかのように。
部屋に入って、壁に背をもたせかけたまま、ずるずると○○は座り込んだ。
落ち着いてくると、本当に心から感じてしまう。
振られたこともショック、だったけれども。
それと同じくらいに、彼女にあんな表情をさせたことが。
振り返ったときに一瞬だけ見た、あの苦しそうな表情が。
あの表情をさせてしまったことが。
同じくらい、辛かった。
振られることを考えてなかったわけじゃなく、運が良ければなんて虫のいい話も考えていたけど。
あんな哀しそうな辛そうな顔をされるなんて、考えても無くて。
あんな表情させるくらいなら、言わなければ良かったのではないかと。
ぐるぐると回る思考は堂々巡りになって、ただただ後悔のみが募っていく。
今夜はもう、眠れそうに無い。
心に呟いて、彼は静かに座って夜が明けるのをぼんやりと眺めていた。
貴方は、優しい、から。きっと。
私の傍にいて欲しいと願ったら、貴方はきっと受け入れてしまう。
それこそ、人間であることを止めてでも。
私の眷属になることを願ってでも。
その情景は、意識せずとも浮かんでくる。
○○がその言葉を口にする姿。
それを思う度に、レミリアの心は悲痛な音を立てた。
そうしてしまったら。もしそうしてしまったら。
貴方のその自由を、私は奪ってしまう。
その奔放さも自由さも、何もかも全て。
そうすれば、私の傍に居ても貴方が死なずにすむとわかっていても、でも。
私は貴方に、自由に居て欲しかった。
レミリアが垣間見ることの出来る彼の運命は、もうすでに一つしかなくて。
それを回避させる手段の一つは、決して取りたくないもので。
だから、彼女には。
彼を撥ね退けることしか、手段が残されていなかった。
そう、思っていた。
「……レミィは我が侭ね」
「……そうかしら」
「ええ、そうよ」
パチュリーは本から顔を上げ、どこか沈んでいる親友に優しく微笑みかけた。
「我が侭を言うなら、それを貫き通せば良いのに」
「貫いてるわよ。どうして私が妥協しなきゃいけないの」
「そうね」
でも、貴女は○○さんのことになると。
声にしなかった言葉も、きっと親友には伝わっていて。
だから、その瞳が愁いを帯びているのを、今はただ見守るしかないのだ。
運命の操り糸も解く指も、彼女と彼の手の内にしかないのだから。
そして、優しく哀しくすれ違った想いは交わらぬまま、運命だけが結末に向けて加速していった――
うpろだ1112、1143、1173
───────────────────────────────────────────────────────────
それは、静かで騒々しい幻想郷での、一つの妖恋譚。
ふらりと外から迷い込んだ一人の青年を巡る、彼を捕らえた運命の物語。
彼に囚われた、運命の物語。
その出逢いは唐突で突然で――たまのこうした運命の気紛れを、少なくとも彼女は楽しんでいた。
「咲夜、それは誰? 客人?」
「お嬢様。ええ、黒白と紅白に連れられてきた、外の人間ですわ」
咲夜の紹介に、レミリアは厨房で紅茶をの淹れ方を教わっていた、背の高い青年を見上げた。
「初めまして、○○と申します。お邪魔しています」
「レミリア・スカーレットよ。へえ……」
初めは、何故にここに来ようとしたのか、そもそも自分に挨拶も無く上がりこんでいるとは何事か、とか、そういったものを訊こうとした、はずだった。
「…………変な人間ね」
「そう、でしょうか?」
首を傾げた青年を、レミリアはまじまじと見つめた。
彼に絡む、幾重もの運命が視えたから。
外の世界の人間、だからだろうか。彼が、何の変哲も無い人間、だからだろうか。
しかも、一つとして数奇で無いものは無い。それともそれは、この幻想郷に来てしまったからだろうか。
悪戯に手繰れば――そこまで考えて、レミリアは心の中だけで首を振り、当たり障りのない話題を振った。
「そうよ、私が何者か知らないわけでもあるまい?」
「ああ、吸血鬼、ですよね。霊夢さんと魔理沙さんにお聞きしました」
「…………血を吸われるとか殺されるとか、思わなかったの?」
「…………そういえば、思いもしませんでした」
変な奴だ、と思った。飄々と、あるいはのんぴりとした、全くもって不思議な人間。
だから、彼女は。
「気に入ったわ。貴方のその変な運命も含めてね」
そう、微笑った。
全くもって変な人間だ。
図書館に入った瞬間、子どものように瞳を輝かせた○○を見て、レミリアは笑う。
「まるで子供ね」
「あ、いや、すみません」
照れ臭そうにした○○に、レミリアはもう一度微笑む。
「まあ、読むよりパチェに聞く方が早いかもしれないけどね。こっちよ」
そう歩き出して間もなく、彼女は親友が呼んでもない来客と会話をしているのを見付けた。
「あら、レミィ。そう、それが今回の訪問の原因なのね」
「ええ」
「初めまして、○○と申します」
「礼はなっているようね。パチュリー・ノーレッジよ」
そうパチュリーが応じたことに合わせたかのように、魔理沙と霊夢がレミリアに声をかけた。
「勝手に上がらせてもらってるぜ」
「そろそろお茶が欲しかったのよ、丁度良かったわ」
「貴女達は少し遠慮を知りなさい」
ごく普通の挨拶が交わされた後、魔理沙が口火を切った。
「まあ、訪ねた理由はこいつだ」
「外の人間、ねえ。まあ変だけど、何の変哲もない人間ね」
「私もレミィに同感ね。確かに変わっていても、取り立てて騒ぐほどではないわ」
「それがなあ…」
魔理沙が簡単に説明するところに因ると、彼はまだこの幻想郷に来て三日目なのだが、名のある人妖のほとんどと顔見知りになったという。
例えば、と尋ねると、霊夢と魔理沙が指折り数え始めた。
最初は里に。里の半獣と挨拶し、寺子屋の子供達が起こした騒動で妖精達に懐かれ、ついでに氷精に縁のある妖怪達とも知り合いになり、里に戻った後では雑貨を求めて入った店で半霊の庭師に出会って。
「そういえば、そこからの帰りに咲夜さんにお会いしたんですよね」
「そうなの、咲夜?」
「ええ。初対面で紅茶について語ったのは初めてでしたわ」
「一体どこをどうしたらそうなるのよ。ああ、続けて」
神社に戻ってからは、人形遣いと鬼とスキマ妖怪がたまたま訪ねてきて小さな宴会になって。
その翌日、つまりは昨日だが、里に一人で出た際に急病人に遭い、永遠亭まで運んでいき、あの界隈の面子に気に入られ。
帰りに雨に降られ、傘を持っていたまでは良いが、それを雨宿りしていた式の式の化猫に貸し与えてしまい、ずぶ濡れで帰って来た後に今度は九尾の狐が礼を言いに来て、それから――
「もういいわ、大体わかった」
レミリアは息をつく。なるほど、数奇にも程がある。まるで自分が運命を操っているかのような遭遇頻度だ。
「で、さすがに変だと私と霊夢の意見が一致してな。方々回ってみてるんだが」
「あら、でも今日は宴会じゃなかった? 今聞かずとも……第一、外でどう暮らしてたか聞けばいいことでしょう?」
咲夜の問いに、霊夢と魔理沙は首を振る。
「覚えてないのよ」
「覚えてない?」
「いや、こちらに来てから記憶がぼんやりとしたままで。面目ない」
「あやまることじゃないぜ。ただ、何かあるんじゃないかって思ってさ」
魔理沙の言葉に、レミリアが切り返す。
「それは、霊夢の勘? 何か起こる、っていう」
「勘は働いてるけど、そうでもない。○○さん自体に危険はたぶんないわ」
ではどうして動いているのか、という問いは愚問だった。
要するに、彼はよい暇潰しの材料なのだ。
その当人は、紅茶を啜りながらのほほんとした表情をしていたが。
しばらく歓談していると、どうも○○が外では書生であったことが明らかになってきた。
「じゃあ、外の書物については何かわかるかしら?」
「パチェ、また新しいの入れたの?」
「お、どんなのだ?」
「後で言うわ。とりあえず、外の本についての知識が欲しいのよ。教えてくれないかしら」
「僕にできるなら。とはいえ、一介の学生ですから、わかる範囲には限りがありますよ?」
「十分よ。零より一の方がまだマシとは思わない?」
「確かに」
「じゃあ、ちょくちょく手伝ってもらおうかしら。レミィ、いい?」
「いいわよ。それに、確かに良い暇潰しにはなりそうだわ」
「どんどん扱いが酷くなってくな、お前」
自分達のことは棚に上げて、○○の肩を叩きながら魔理沙が笑う。
「なら、早速幾つかお願いしていいかしら。小悪魔に案内させるわ」
「はい」
パチュリーが小悪魔を呼び、彼女に案内されて○○は図書館の奥に入っていった。
「楽しそうね、気に入った?」
「本のことだもの。それにレミィほどじゃないわ」
「お前らもか……あいつはどうしてこう人外に気に入られるんだ?」
魔理沙が呆れたような苦笑で腕を組む。
「どうしてでしょうか、彼は普通の人間だと言うのに」
「そうね、咲夜。貴女や霊夢や魔理沙のように、何か特別なものを持つわけでもなく、ただただ普通だと言うのにね」
そう言って、パチュリーは紅茶を啜った。
「確かに。普通の人間なのに、とてつもない違和感がある、というところかしら?」
「ん、ということはレミリアもそうなのね」
「ええ」
「あるいは、『外の人間』かつ『普通の人間』だから、と言う可能性があるわね」
「どういうことだ、パチュリー?」
魔理沙の問いに、パチュリーはあっさりと答える。
「外の常識は幻想郷の非常識。外で普通の人間だったのだとしたら、私達にとって違和感が出るのも当然なのかも知れない」
「普通かつ非常識、か。やっぱり変なのね」
「ところで、当の○○が遅いんだが」
魔理沙が図書館の奥を眺めながらそう口にする。確かに遅い。
「パチュリー、そんなに大量にあるのか?」
「そこまで頼んだつもりではないんだけど……」
「パ、パチュリーさまあっ!」
会話を遮るように、小悪魔が駆け戻ってくる。
「どうしたの、小悪魔。○○さんは?」
「そ、それが、目を離した隙に居なくなって……」
「またかあいつは」
「また?」
「子供よ、まるで。好奇心が旺盛すぎるの。目を離したらどこかにふらっと行っちゃうし……まだ幻想郷が珍しいのね」
「また厄介な人ね。それで?」
「あ、あの、危険図書の方には行ってないはずなんですけど、妹様の部屋の扉が開いておられまして……!」
「そういえば、最近は部屋の外に出るのも許可してたわね……」
「探しましょうか」
「そうね、壊れられても後味が悪いし……あら?」
レミリアの感覚が、妹の魔力を捕らえる。至極近い。しかも動きがやたらとゆっくりで――?
そして、その魔力の気配はすぐに本棚の列の角を曲がってこちらにやってきた。
「あーっ! 魔理沙ー! 霊夢ー!」
「………………」
その場にいた全員が、目の前の光景に一瞬我が目を疑った。フランドールと○○。その組み合わせだけでも奇妙だと言うのに。
「ああ、戻って来れました。すみません、迷子になって」
「………………それは良いとして、何故フランを肩車してるの、貴方は」
「はあ、何だか成り行きで」
レミリアの呆れた言葉に、こちらもわけのわからないと言う感じで○○が首を傾げる。
当のフランドールは○○の肩の上から、魔理沙に向かって飛んで行っていたが。
「久し振りね、フラン」
「うん、霊夢は久し振りだねー」
「なあ、何で○○と一緒に来たんだ?」
「え、だって魔理沙達来てるって言ってたから」
「いやいやそうでなくてな?」
どうやら、ふらふらと迷い出た○○を見つけ、誰何したところ名前と共に魔理沙達と一緒に来たことを教えてもらったらしい。
「……本当に、悪運の強い人ね、○○さんは」
「そうなんですかねえ」
その暢気な様子を見て、レミリアが笑い出す。
これは面白い。ここまで数奇な運命を持っていて、そして死に限りなく近いところを歩きながら、しかしそれでも生の道を選ぶ人間。
普通の人間が幻想郷に来ると、かくもこうなるものか。
「あはは、ますます気に入ったわ。貴方はいつ此処を訪れても良い。何時でも来なさい。此処の門は貴方の前には何時でも開かれる」
「お嬢様?」
怪訝そうな咲夜に一つ手を翳して制して、レミリアは笑いすぎて目元に滲んだ涙を拭った。
「そこまで笑うほどおかしいですか、僕は」
「私はむしろ呆れてるんだけどね」
霊夢が肩をすくめて、○○さんには天然たらしの素質があるわよね、と物凄く失礼なことを彼に告げていた。
どうして、あんなことを言ったのか、後にレミリアは自問することになる。
彼に絡むは無数の運命。悪戯に手繰れば――手繰れば。
わかっていたのに、どうして、私は。
その晩に行われた宴会は、○○の人妖達への紹介も兼ねて。とはいえ、ほとんどがもう顔見知りになった後だったが。
ちなみに、鬼だの天狗だのに飲まされた彼はあっという間に潰れてしまっていた。
「なんだ、弱いんだなあ」
「そうですねえ、もう少し持つと思ったんですが」
「あんた達二人にかかって持つ方が不思議よ」
萃香と文のぼやきに、霊夢がやれやれとため息をつく。
「あーあ、駄目だ、完璧寝てるな」
「子供みたいな顔で寝るのねえ」
ぞろぞろと主賓であるはずの彼に集まってきて、誰かが口にした言葉が変な火種になった。
曰く、「可愛い」と。
そこから流れがおかしくなり、挙句の果てに誰が介抱するかで弾幕勝負にまで発展してしまった。
「……どうしてこんな馬鹿馬鹿しい事態になったのかしら」
「霊夢、諦めたら? そういう運命なのよ、きっと」
「レミリア、あんたねえ……」
一斉に始まろうとした勝負だが、空間の関係上代わる代わる弾幕を放っているのでのんびりと酒を呑みながら眺める面子もいた。
「参加しないの?」
「どうして私が介抱なんかしなきゃいけないのよ」
「まあそうだけど。随分気に入ってるみたいだから」
「んー、面白そうくらいには思うけれどね。大人なのに子供みたいで」
そう、寝こけている○○の方を見遣る。誰が介抱するか勝負しているので今は放置中だ。本末転倒である。
レミリアは好奇心から彼の傍に寄ってみた。子供のような寝顔。確かに彼女にしてみたら赤子のような歳だけれども。
昼間に会ったときとは全く違うその表情を面白く思って、彼女は彼の頬を軽く摘んでみた。
「うー……?」
目を覚ましてしまった。いや、寝惚けている?
そう思う間も、なく。
「――――――――――っ!?」
音がしそうなほどにしっかりと腕を掴まれ、レミリアは声を上げそうになるのをこらえた。いや、そんなに力を入れて握り締めているわけではない。だが。
寝惚けたような眼でこちらをを見上げ、安心したように微笑ってまた眠りに付くとは何事か。しかも腕を掴んだまま。
安心するな。お前は私を何だと思っている。私は吸血鬼で、吸血鬼は、畏怖される存在で――!
なのに、どうしてお前は、そんな顔を。
「レミリア、どうかしたの?」
「お嬢様?」
霊夢と戻ってきていた咲夜の言葉に我に返って、レミリアは○○の腕を振り払った。
「な、何、霊夢、咲夜」
「いや、何となく。○○さんはどう?」
「普通に寝てるわ」
「お嬢様、どうかなさいましたか? お顔が……」
「何でもない! 咲夜、私も混じる。行くわよ!」
「は……? はい。承知しました」
一瞬怪訝そうになったものの、咲夜は合点がいったように微笑して彼女の主人に続く。
それを見送って、霊夢はため息を一つつくと、○○を眺めた。
「レミリアがあんなに驚くなんて、一体何をしたのやら」
「あら、見てなかったの霊夢?」
「大胆よ、だっていきなり腕を握り締めたんですもの」
「あんた達もどこから沸いて出るのよ」
やはり騒ぎの傍観側に回っていた紫と幽々子がやってくる。
「でもなるほど、いきなり羽が大きく広がったから何事かと思ったら」
「面白いわねえ、何だか弄りがいがありそうで」
「あら紫、駄目じゃない。やるなら弄るくらいで終わらせては駄目よ」
そんな二人を放置することに決めた霊夢は、空で各々が思いっきり弾幕を張り始めたのを見て、結界を強化し始めた。
ちなみに弾幕勝負は、途中から何が目的だったのかなどすっかり忘れ去られ。
潰れていた○○は途中で目を覚まし、飽きずに弾幕勝負を眺めていた。
宴も終わりに近付いた頃。
「○○」
「え、あ、はい? どうかしましたか?」
レミリアは○○に声をかけて、その隣に座った。
「次に紅魔館にはいつ来る?」
「え、あ、いえ、別に予定は。ああいや、行くのが嫌だと言うわけではなくて」
「じゃあ、早いうちに来なさい。パチェの手伝いもあるでしょう? いいわね?」
「あ、ああ、はい」
それだけを告げて、レミリアはさっと立ち上がる。
「あの」
「何?」
「僕、酔ってたときに何かしましたか?」
「別に、何もしてないわ。それに貴方は寝てたんだから、何もできるはず無いでしょう?」
「まあ……そうなんですけど、紫さんとかに僕が寝惚けてたとか何とか言われて……」
「どうせ与太話でしょ。あんなスキマの言うこと真に受けることないわ」
背を向けてそう告げて、レミリアは足早に立ち去った。
歩きながら掴まれた腕を撫でて、そうした自分に何故だか苛立って、大きく息をつく。
「レミリア、帰るの?」
「ええ。またね」
「○○さんにはいいの?」
「さっき声をかけたわ」
言った後に、何だか妙に笑顔な霊夢を見て、また苛立つ。
「何よ?」
「いいえ。何だか、気に入ったみたいね」
「そういうわけじゃないわ。面白いとは思っているけど」
「そう」
霊夢はそれだけしか言わなかったし、レミリアもそれに返さなかった。
それでも、それでも。
咲夜を呼んで神社を後にしながら、彼女は心の中だけで呟く。
どうして、私は。
「お嬢様?」
気にかけるように声をかけてきた咲夜に一つ首を振る。
「いいえ、くだらないことを思い出しただけ」
本当にくだらない。
あの手の感触を忘れられないのも、あの表情を忘れられないのも。
「本当に、くだらないことよ」
それだけを呟いて、彼女は夜明け前の空に飛び立った。
そして彼女は、とある運命の糸を手繰る。
くるりくるりと、狂り狂りと。
無意識のうちに手繰りだす。
悪戯に手繰れば、詩を織り死を織る織り糸を――
────────
逢瀬、開花篇
それが形になるまでは、かなりの時間を要した。
想いというのはなかなかどうして、自分で気が付くには時間がかかるもので。
ただそれを身で持って体験することになるとは――彼女達も思わなかっただろう。
「あら」
花屋でいろいろと物色している○○に、いきなり声がかけられた。
「ああ、幽香さん。こんにちは」
「ええ、ごきげんよう。花を選んでいるの?」
「はい」
「いいところを選ぶわね。ここの花屋の子達は生き生きしているわ。自然のものには敵わなくてもね」
ふむふむと頷く○○を、他の客達は不思議そうに離れて見守る。
彼の話している相手が一番の原因。四季のフラワーマスター、風見幽香。泣く子も黙る大妖怪である。
なのに普通に会話しているとは何事かと。
「あの吸血鬼へのお土産かしら?」
「あ、ええ、まあ。手ぶらというのもなんですし」
恐れる風も無く、○○はのんびりとそう返す。その様子に幽香は微笑って、幾つか花を指す。
「これがいいわね。後、その花とこちらのも」
「え、あ」
「どうせ花の選び方なんて知らないんでしょう?」
「あー、はい。今もそれで悩んでて」
「だから私が選んであげると言っているの。わかった?」
「ありがとうございます」
丁寧に礼を返す○○にまた可笑しそうに笑って、幽香は選んだ花を包ませた。
山百合、アガパンサス、カスミソウ……まだ蕾が開ききっていないものもあるが、いずれも旬の花で、美しさは際立つもの。
それなのに決して華美に走り過ぎない様は、花には疎い○○にさえ感嘆のため息を吐かせるものだった。
「本当にありがとうございます。僕一人ではこんなに綺麗にできなかったです」
「いいえ、私達もまた愉しんでいるのだから」
「は?」
「何でもないわ。さ、行きなさい」
怪訝に思ったものの、幽香からは楽しげな雰囲気こそ伝わってくるが、悪意はないようなので有り難く厚意を受け取って○○は紅魔館に足を向けた。
それは、幻想郷の大妖達にとっては愉しい暇潰し。
彼女達にしてみればまだまだ若い吸血鬼と、彼女が気に入った変わり者の人間の青年。
妖を恐れぬその外の青年を、彼女達もまた気に入っていたし、彼が何をやらかすだろうかと楽しみに待っていた。
半ばは暇潰し、半ばは好奇心から――
「どうも、こんにちは」
「あ、いらっしゃい。お嬢様がお待ちですよー」
美鈴はそう声をかけて、○○の持っている花束に目を止めた。
「花束ですか、綺麗ですね」
「ええ、手ぶらで来るのも申し訳ないなあと思いまして」
「いいんじゃないですか? きっと喜ばれますよ」
「だといいのですが」
では、と挨拶して、○○はさらに中に進む。
だいぶ慣れてきた紅魔館の中庭を通り、館内に足を踏み入れた。
「あら、いらっしゃい。お嬢様がお待ちよ……って、今日は花束なのね」
「ええ」
○○の持っている花束を見て、ん、と咲夜が首を傾げる。
「……○○さんは、花言葉に詳しかったかしら?」
「あ、いえ、バラとかカーネーションくらいしか。何か拙いものありました?」
「ああ、いいえ、そういうわけじゃなかったの。大丈夫よ、悪い意味のものはないわ」
「なら良かった……何か意味があるものが?」
「そうね……山百合とか」
「どのような?」
「『荘厳』、『威厳』ね」
「ん、では良い意味ですね。良かった良かった」
ほっと胸を撫で下ろしている様子を見て、咲夜は微笑に近いものを浮かべる。何と無邪気なんだろう。
というか、平然と紅魔館に尋ねてこれるだけの度胸があって何を今更という感はあるのだが。
「じゃあ、これは飾っておくわ。お嬢様はこちらよ」
案内されながら、○○はこちらに視線が集まっているのを感じ首を傾げた。
見回すと、妖精メイド達がたまにこちらをちらちら見ている気がする。
「あー、僕、何か悪いことしてますか?」
「ん? あ、気にしないで良いわよ。珍しいのよ、お嬢様を恐れない人間が」
「んー、恐怖心は不思議とないですねえ、そう言われれば」
ふむ、と首を傾げて、○○は朗らかに笑う。
「まあ、第一印象の影響は大きいと言いますし」
「確かに、険悪ムードではなかったものね……」
だからこそお嬢様も気に入ったんだろうけれど、と呟いて、咲夜はティールームの扉をノックした。
室内に通されて、○○は中で待っていた館の主に一礼する。
「こんにちは、レミリアさん」
「いらっしゃい、○○。あら、今日は花なのね」
「ええ」
咲夜が飾る花を見て、レミリアは少し目を細めた。
「趣味は悪くないわね。貴方が選んだの?」
「あ、いえ、さすがに花の見立ては出来なくて」
「まあ、そうでしょうねえ……」
何となく、そういったことに疎いと言うのはわかる気がして、レミリアは頷いた。そして、○○に椅子を勧める。
「お店で見立ててもらったんですよ。たまたま幽香さんに会って」
座って、○○が告げた一言に、レミリアは微かに目を見開いた。
「……幽香、って、風見幽香?」
「はい」
「……私が言うのも何だけど、貴方は度胸があると言うか何と言うか……」
呆れた後、花束に視線を向けて、小さくため息をつく。
「それに、女性に花を贈るのに、誰か他の女性に選んでもらったことを告げるのは無粋じゃないかしら?」
「あ、それは……すみません、気が付かなくて」
○○は率直に頭を下げた。その様子に、レミリアはくすくす微笑う。
「そこまで咎めているわけじゃないのよ、気にしないで」
「でも」
「いいの。それに、この花は気に入ったわ」
妖怪同士のパワーバランスなど、○○が知るはずもないだろう。
ここに来てまだ一月も経っていないし、それに何より普通の人間が興味を持つことでもないからだ。
逆に、妖怪が人間に興味を持つ、というのもあまりしないのだが。
だからこそ、何故幽香が彼の手助けをしたのか、その辺りは気になるところだが――まあ、気紛れ程度だろう。
強い妖怪ほど、妙な気紛れを起こすことが多い。
「それは良かった」
「……嬉しそうね」
「渡した相手が喜んでくれたら、それは嬉しいですよ」
「誰かに選んでもらったのでも?」
「え、あ、それは、えと」
意地悪く笑ってやると、面白いように慌てる。それを楽しみながら、レミリアは紅茶を口に運んだ。
「……ふふ、面白いわね」
「……からかわないでください」
「貴方が子供みたいなのが悪いのよ」
そう、まるで子供。見ていて飽きなくて、からかうと楽しくて。
まあ、先日の宴会の席でのことを謝られたときには、さすがにこちらもどういう顔をして良いのかわからなかったが。
腕を掴んだ非礼を何度も謝る姿を、酔っ払ったはずみのことだ、とあしらったけれど。
それからだろうか。時々来ては、レミリアにこうして手土産を持ってくるようになったのは。
だから、尋ねてみた。
「こうして持ってくるのは、今でも詫びのつもり?」
「んー……最初はそうだったですけれど、今は違いますよ」
「違う? どう違うのかしら?」
「ん、人の家を訪ねるのに、手ぶらは失礼かな、って」
それはおそらく本心で、レミリアは得心したように頷いた。
「まあ、いいわ。悪い気にはならないもの」
「今度は何が良いですかね、何かお菓子でも作ってきましょうか」
「あ、いいわね。この前のクッキーはフランも気に入ってたみたいだし。まあ、咲夜には劣るかもしれないけど」
「精進します」
楽しそうに、嬉しそうに笑う彼の姿を、テーブル越しにレミリアは眺めた。
次の約束をしたことには、気が付かないことにして。
彼が、紅魔館を訪ね始めて、もう一月近くが経とうとしていた。
初めは週に一日二日だったそれが、徐々に日数を増やしていったのはどうしてだったか。
誰も、気にも止めなかったことだったけれど。
それでも、確実に、何かは重なっていっていた。それが何かは、わからずとも。
「なかなか咲かないわね、この花」
パチュリーは読んでいた本から顔を上げて、アガパンサスの蕾を眺めながら頬杖をついているレミリアを見た。
アガパンサス。開けば美しい姿を惜しげもなく晒すであろうその蕾は、まだ固く結ばれたままだ。
「あらレミィ、それなら咲夜に頼めばいいことじゃない?」
「それでは風情がないわ」
「そう。私はてっきり、○○さんの持ってきてくれたものだからかと思っていたけど」
その一言に、レミリアは意識したのか無意識かばさりと一度だけ羽をはためかせた。
「別に、そういうわけじゃないわ。どうしてかな、って思っただけ。この花だけじゃない、○○が持ってきた中で咲いてないのは」
そう、そうなのだ。一週間程前に○○が持ってきた花は、いずれも咲いていたか間もなく咲き、今は土に還っている。
だが、この花だけは頑なに蕾を閉じたままだった。
「……花にも想いがあるのかしら……レミィ、花言葉に興味は?」
「ないわよ。覚えようと思えば覚えるけど、その必要がないんだもの」
「確かに、レミィらしいわ」
パチュリーはそう頷く。吸血鬼は夜の者。夜は妖以外は大抵のものは眠りにつく。それは花も例外ではない。
花にも月下美人や夜来花など例外はあるが、それでも大抵は咲かないものだ。
レミリアも花は嫌いではないだろうが、花言葉まで詳しく興味を持たないのも当然だろう。
「どうしたの、パチェ?」
「いいえ、特に何というわけでもないの。レミィも○○さんも疎い方向が似てると思って」
「む、○○と一緒にしないでよ」
「あら、嬉しいんじゃないの?」
パチュリーの揶揄に、レミリアの羽が慌てるようにバタバタと揺れる。
「そんなわけないじゃない」
声だけは平静を保って、レミリアは顔を背けた。
「第一、これ持ってきたのも、ついでのご機嫌伺いでしょう? 用件はパチェの蔵書整理なんだから」
「そうかしら?」
「どういうこと?」
「彼、レミィに逢うために来てる気がするけれど。特に最近。私の方がむしろついででしょう」
その言葉に、レミリアの羽が音を立てて開く。
「馬鹿なこと言わないで、パチェ」
そんな親友の声にも気にした風もなく、パチュリーはカップを手に取った。
目は口ほどに物を言う、というけれども。
(レミィは全身、かしら)
パチュリーは紅茶を口に運びながら、そんなことを思った。
アガパンサスのように、まだまだ固く閉じた蕾に。
○○が訪ねてくるのは、大抵夕方くらいであった。
日が沈む前。まだ妖怪が蔓延り始める時間の前。
帰りはとっくに日が沈んだ後だったから、誰かが送っていくようになっていた。
いつしか、それが当然になっていった。
ある日訪ねてきていた○○は、目の前で気だるげな様子を見せていたレミリアに首を傾げた。
「どうしました?」
「んー……今日は新月でしょう? 調子が上がらないのよ、どうしても」
妖怪は月の満ち欠けに左右される。吸血鬼たる彼女も例外でなく――むしろ、その二つ名に月を関するからか、影響は大きい。
「ああ、そうか。では、今日お訪ねするのはご迷惑でしたか?」
「そうでもないわ。こういう日は出かける気にはとてもならないから、暇潰しには丁度良いし」
「それなら良かった」
そう微笑う○○とレミリアの前に、紅茶が置かれる。咲夜が新しい紅茶を持ってきたのだった。
「咲夜、それは?」
「○○さんが持ってくださったものですわ。良い葉が入っていたそうで」
「ん……いい香り。いいわね、紅茶は。こういう日には特に」
レミリアは一口飲んで、一つ息を吐く。じわりと身体の中が温まっていくのはいいものだ。
「気に入っていただけたようで何よりです」
「ええ。咲夜、パチェにも持っていってあげて」
「はい」
すっと一礼して咲夜が立ち去る。
しばし二人で歓談していたが、不意に、レミリアが小さな欠伸を漏らした。
「ん……」
「眠いですか?」
「んー……少し早かったからね」
レミリアの目の端に浮かんだ涙を、○○が手を伸ばして拭う。
「あー……僕が来るのが早すぎますか。まだ陽が落ちてないですし」
「そういうわけじゃないわよ。起きる時間は私の自由だから」
「お訪ねするときはもう少し遅い時間にしましょうか?」
「それだと貴方が危ないでしょう」
申し訳無さそうな表情の○○に呆れていると、咲夜が戻ってきた。
「お嬢様、○○さん、お話中申し訳ありません。パチュリー様が少し○○さんをお借りしたいと。外の本のことで訊きたいことがあるそうで」
「別に良いわよ」
「では、失礼します。また後で戻ってきますね」
部屋を出て行く○○を見送って、咲夜が新たに紅茶を注ぐのを眺めていて――ふと、気が付いた。
…………さっき、私は一体何をされた?
小さな、礼を失しない程度の欠伸。生理的に涙が滲むのは仕方ないとして――その後。
彼は、○○は、自分に触れなかったか?
自分に触れて、涙を拭って――いくら新月で気だるくなっていたとしても、そこまで、無防備になっていたつもりではなかったのに。
「お嬢様?」
「何でもないわ。身体がだるいだけ」
咲夜に誤魔化しながら、手の甲を頬に当てるように頬杖を付いた。
何故ここまで慌てるのか、ここまで乱されるのか。わからないまま、レミリアは咲夜が入れた紅茶を手に取る。
自分が○○に対して警戒を解いている? いやそんなことはないはずだ。
そもそも、乱される、とはどういうことか。そんなことを一瞬でも思ってしまうなんて。
「……レミィ、表情が目まぐるしすぎよ」
結局、少し時間が経って○○と共に入ってきた親友の、心底呆れたような声がするまで、レミリアは自分自身を持て余していたのだった。
少しずつ、彼の訪れる時刻が遅くなって。
少しずつ、帰る時刻も遅くなって。
当然ではないはずのそれに気が付かない振りをしていたのは、誰だっただろう。
博麗神社。住み込みの青年は、今日も今日とて神社の仕事をしていた。
拾ってもらった恩は返さねばと、出来ることはやっている。
「○○さん、今日も紅魔館に行くんじゃなかったっけ?」
霊夢に声をかけられて、はい、と返事をする。
「ただ、あまり早いと、どうやらレミリアさんの睡眠の邪魔をしてしまうようで」
「そこまで気を遣う必要はないと思うけど」
それでも、と、霊夢は思う。この人は気を遣って時間を遅くしていくのだろう。
「とりあえず、御札多めに持って行ってね」
「はい。ありがとうございます」
心配することは、一応ないはずだ。気になることがあると言えば、レミリアとの関係がどうなっていくのかというところ。
まあそれもせいぜい好奇心と暇潰し程度のものなのだが。
「○○さんは、レミリアを気に入ってるのね」
「……かも、しれません。不敬かもしれないですが」
少しだけ手を止めて、○○は笑う。
「でも、楽しいんですよ。話したりしていると」
「楽しい、のね」
「ええ、きっと」
今はまだ形にならぬ思いは、それでいいのかもしれない。
「……? どうして霊夢さん、楽しそうなんですか?」
「ちょっとね。面白いことがあると楽しくなりはしないかしら?」
「ああ、確かに楽しくなりますね」
暢気に答える青年は、自分がその対象とも思っていないのだろう。
「まあ、気をつけて行ってらっしゃい。晩御飯は済ませておくから」
「ええ、お願いします。下拵えはしてるので」
「相変わらず準備良いわねえ」
いつの間にか兄貴分のようになってしまった青年に微笑いかけながら、霊夢はふと考える。
彼は、もしかすると、もう外には帰らないのかもしれない。
「どうしました?」
「ううん、何でもないわ。そろそろ行かないと、レミリアが煩いんじゃない?」
「大丈夫ですよ。ああでも、そろそろ準備しないと」
まあ、それでもいいか。
準備をして出かけて行く○○にお札を渡して、腰に手を当てて見送りながら霊夢は思った。
彼女は意識したことはないが、きっと、それが自由なのだろう。
その日の訪問は、約束されたもので。
約束していたから、その約束を彼が守って来るのも当然で。
だから、その日に起こったことは、きっと。
何かに運命められていたのだろう。
それを、認めたくは、なかったけれども。
そして、夜も更けた頃。いつもの通り訪ねてきた○○を迎えて、話をしていた最中。
ふと、レミリアは思い当たることがあって○○に尋ねた。
「そういえば、○○の血はまだ飲んだことなかったわね?」
「そう言われればそうですね」
そうなのだ。初めて逢ってからもう二ヶ月も経とうと言うのに、レミリアはまだ○○の血を飲んだことはなかった。
「どうしてかしら……ああ、○○が私を恐れないからか」
「?」
「私は私を恐れる者の血しか飲まないの。○○はちっとも私を恐れようとはしないから」
「あー……ごめんなさい」
「そこで謝られてもね……」
どこかずれた会話をしながら、レミリアは○○を手招いた。
「はい?」
「物は試し、よね」
○○が近くに寄ってきたのを見計らって、立ち上がって彼の襟元を持って引き寄せる。
「えー、と。これは、食べられる形ですか」
「大丈夫よ、殺さないから」
「……はい」
神妙にした彼に、よろしい、と言ってから、レミリアは彼の首筋に牙を当てた。
瞬間、どくり、と心臓の音がする。○○の胸からの、高い鼓動。
それは畏れ。それは畏敬。血を吸うのに辺り、とても心地の良い感覚。
「面白いのね、○○は」
「え?」
牙を離して、○○の耳元で囁く。
「こういうときにだけ、私に対して畏れるのね」
「……畏れ多い、と言いましょうか」
くすくす微笑って、レミリアは再び○○に牙を当て、突き立てた。
甘い。
口内に広がった味に、レミリアは気を取られる。
「ん……ふ、うっ……」
最近は紅茶で済ませていて、こうして飲むのも久々のような気がして。
だから。
「う……」
その声がするまで、気が付かなかった。
苦しそうな○○の呻きを耳にして、レミリアは慌てて飛び退った。
零れた血がレミリアの服に滴り、赤く染めていく。
「お嬢様?」
控えていた咲夜が尋常でない様子に驚いて駆け寄り、とにかくナプキンをレミリアの口元に当てた。
「どうなさいました?」
「大丈夫、何でもないの、何でも」
レミリアはそう言うと、一つ大きく息をついて○○を見つめる。
「あ、うう……」
当の○○は、ふらふらとバランスを崩すと、その場に倒れ込むように床に手と膝を付いた。そのまま、ゆっくりと片膝を立てて座り込む。
「あ……お気に召しませんでしたか?」
だが口にした言葉はそんな言葉で、レミリアは驚く前に呆れることになる。
「……貧血でふらふらなのに、よくそんなことが言える」
「あー……これが、貧血ですか……」
貧血になったことがなかったらしい。その感覚は確かにレミリアにもわからないが。
頭がくらくらしているらしい○○に近寄り、顔を覗きこむ。
「少し飲みすぎたかもしれないわね」
「……では、少しは舌に合いました?」
「…………そうね」
良かった、と微笑う○○からレミリアは視線を外し、咲夜、と呼びかけた。
「客室を用意して。この様子では帰れないでしょうから」
「はい」
「あ、でも……」
何か言いかける○○に首を振る。
「私が飲みすぎたのが原因だから。今日は大人しくしていなさい」
「はい……すみません」
すまなそうに微笑う○○から目を逸らしたかったのに、何故か逸らせなくなって。
決定的な何かを口にする前に、咲夜が戻ってきたのは、果たして救いだったのかどうか。
「○○は?」
「美鈴に運ばせて客間に。もうほとんど気を失っているような状況でしたが」
「ん、それならいいの」
咲夜の報告を聞きながら、○○の血が付いた服に手をかける。その血を見ながら考える。
自分らしくもない、醜態。
飲んでいるうちに、我を忘れるなんて。
「お嬢様」
「ああ、ありがと、咲夜」
手が止まっていることに気が付いたか、咲夜がレミリアの着替えの手伝いをする。
○○の血は甘かった。甘いだけでなく、そう、完全に、レミリアの好みの味、であった。
だから、蕩けるような気分になって、それでつい飲みすぎて。
でも、たぶんそれだけでなく。
「ありがとう、咲夜。もう休んで良いわ」
「ですが、まだお着替えが途中ですけれども」
「後は自分でやるから。それと、○○が起きたら起こして頂戴」
「わかりました。お休みなさいませ、お嬢様」
「ええ、お休み」
咲夜が出て行くのを見てから、レミリアは寝着も纏わずにベッドに身を横たえた。
○○の表情と、声と、存在と、全てが彼女の中でぐるぐると巡って。
あの宴会の時触れられた腕も、何気なく触れられた頬も、それを思い出しては、変な気分になって。
そして、先程の行為がきっと引き金になってしまった。
「私は……」
呟いて、言葉にするのを躊躇って。心の中だけで。
ああ、私、は。私は、彼に。
客間に運んでもらって、○○は切れ切れの声で礼を述べていた。
「ありがと……ござい、ま……」
「ええと、あんまり話さないほうが良いですよ? 明らかに血が足りてませんし」
美鈴が呆れたように腰に手を当てて、ベッドに放った○○に声をかける。
「まあ、ゆっくり休んでてください。私はまた門に戻りますので」
「はい……ど、もです……」
「律儀ですねえ。では」
それだけ言って、美鈴は部屋を出て行った。
ベッドに横たわって、○○は考える。
今までの彼女との会話と、表情と仕草と。それを思い返して。
そして何より、先程のことを、自分の血を吸った、彼女のことを思い出して。
今は、頬が熱くなるほどの血が足りないけれど。心だけは。
「駄目だな、本当に」
ぼやくけれど、おそらくもう、遅い。
そう、僕、は。僕は、彼女に。
――どうしようもなく、惹かれてしまっているのかも、しれない。
次に○○が目覚めたのは、もう昼も過ぎた後。
慌てて飛び起きて、自分の状況を把握するのに数分かけて、やはり慌てて部屋を出る。
「あら、おはようございます、○○さん」
「おはようございます……ではなく! 僕は一体どれだけ……」
慌てる○○に、咲夜は首を振って笑う。
「大丈夫よ。霊夢には連絡しておいたから」
「す、すみません……こちらにもご迷惑を」
「それも大丈夫。そもそもお嬢様がお決めになったことなんだから」
そこまで言って、そうそう、と続ける。
「お嬢様を起こしてきてくれないかしら? ○○さんが起きたら起こしてくれって言ってたし」
「え、僕がですか?」
「丁度いいでしょう? 私は紅茶を用意してくるから」
「は、はい……」
咲夜に言いくるめられる形で、○○はレミリアの部屋に向かう。
辿り着いて、軽くノック。音沙汰がなくて、もう一度叩いてみた。
「んー……入っていいわよ……」
「失礼します」
「え、○○?」
驚くような声と、○○が扉を開けて入ったのは同時。
「あ…………」
絶句した○○の視界に入ったのは、上掛けを引き上げただけで、何を身に纏っていないレミリアの、白い――
「し、失礼しましたっ!」
慌てて飛び出した○○を、起き抜けから羽を最大限に広げて硬直させるほど驚く破目になったレミリアが見送っていた。
さすがに、想いを自覚した直後にこれは、互いに刺激が強すぎて。
しばらく扉の中と外で、軽いパニックに陥っている二人の姿があった。
ほぼ同時刻――
「あら咲夜、レミィはまだなのね」
「パチュリー様。今○○さんが呼びに行っているので、間もなく来られるはずですが」
そう、とだけ応えて、パチュリーはティーテーブルに視線を移し、目を細めた。
「咲いたわね」
「え、ああ、アガパンサスですか。はい、今朝に」
「そう、ついに咲いたのね」
咲いてしまった、とも言うべきかしら。
パチュリーは口唇の中だけでそう言うと、親友達が来るまでの短い時間の読書を始めた。
アガパンサスは咲いた。
それはどちらの想いを咲かせたものなのか。
その開花がどうなっていくのか、結末に何が訪れるのか。
それは博識の魔女にもわかることはなく。
ただ今は、その花を眺めることだけしか出来ることはなかった。
本来後書は蛇足なのですが、あえて説明をば。
劇中のアガパンサスの花言葉の意味ですが、『恋の訪れ』を意味します。
説明自体が野暮かもしれませんが、とりあえず。
ちなみに山百合は劇中以外に『純潔、飾らない愛』を。
カスミソウは『魅力、無邪気』を意味します。これらも一例に過ぎませんが。
さらに蛇足となりましたが、花言葉説明は以上とさせていただきます。
──────────────────
告白、瞑想篇
その妖恋譚がどのような展開を見せるのか。
友人の鴉天狗に突かれて、彼が大慌てしたのがあっという間に記事になり。
少なくとも、青年の側の想いは幻想郷中の者の知るところとなる。
それに乗じて、彼らの動向に、茶々を入れるか静観するか、とにかく各々が愉しむ準備を始めていた。
そして、○○が紅魔館に入り浸っていることは、もう万人の知るところだった。
陽が落ちる頃に紅魔館に行き、陽が昇る頃に帰る。
毎日ではなかったが、週の半分はそうしていただろう。
名目だけは未だに紅魔館図書館の手伝いだったが、本当の目的は明らかだった。
それでも、誰も止めなかった。止める気も止める必要もなかったから。
「お嬢様、○○さんがいらっしゃいました」
「ん、通して」
「今、呼んで来させております」
咲夜の言葉に頷いて、レミリアは一つ首を傾げた。
「咲夜、何か面白いことでもあったの?」
「え?」
「何だか楽しそうだけど」
「いえ、それはきっと、私ではなくお嬢様が楽しそうだからですよ」
「な、そんな、私は別に」
レミリアが慌てた瞬間、扉をノックする音が聞こえ、うっかり慌てたまま許可を出す。
「お連れ致しました」
「ご苦労様」
妖精メイドは慌てているのには気が付かなかったようで、普通に○○を通した。
「こんばんは、レミリアさん、咲夜さん」
「ええ、良い夜ね」
メイドを下がらせて、咲夜に紅茶を淹れるように命じると、レミリアは彼に椅子を勧めた。
もう慣れたいつものこと。そう、知らず知らずに慣れてしまった状態。
「今日は何の話をしてくれるのかしら? この前の外の話は面白かったわ」
「では、そうですねえ。向こうで読んだ物語の話でも」
記憶が曖昧とは言え、彼の中の見聞きした全ての知識が喪われたわけではなく。
だからその話を聞くのも、レミリアの密かな楽しみになっていた。
「それで続きは――ああ、咲夜、貴女も一緒に付き合いなさい」
「はい。ですが、よろしいのですか?」
「何を言ってるのよ。咲夜も一緒が良いの」
レミリアの可愛らしい我儘に、咲夜は微笑んで従った。
無論、主と友人に、飛び切りの紅茶を用意して。
「○○は今夜はどうするの?」
「ああ、夜明けまで居るつもりです。途中仮眠は取ってしまうかもしれませんけど、とりあえず朝までは」
「里の仕事とか神社とかはいいの?」
「仕事は午後からに回してもらってますから。軽く仮眠を取れば動けます」
そう朗らかに応える○○を少し眩しげに見た後、レミリアはカップをソーサーに戻そうとして、カチャリ、と音を立てた。
「お嬢様?」
「ん、いいえ、何でもないの」
咲夜の言葉に首を振って、レミリアは○○に視線を戻した。
「じゃあ、さっきの話の続きが聞きたいわ。夜はまだ長いしね」
「ええ、それでは――」
話し始めた彼の様子を、楽しそうにレミリアは眺めていた。
その様子は誰が見ても楽しそうで、ささやかに幸せそうで。
恋人同士という形ではまだないにしろ、時間の問題だろうと周りは勝手に考えていて。
不謹慎ながら、賭けまで行われていたりしていて。
だから誰も知らなかった。
吸血鬼の少女が夜毎朝毎、とある運命の情景に苛まれていたことに。
うららかな昼過ぎの神社。掃除をしている霊夢に向けられた声があった。
「霊夢ー」
「あらレミリア、咲夜、早いわね」
今日は神社で宴会。○○が幻想郷に来て大体二ヶ月と言うアバウトな集まりなのは、ただみんな酒が飲みたいだけなのかもしれない。
というか確実にそうだ。人数が半端ではないはず。幹事の魔理沙と萃香の張り切り故か、今回は方々から来ることが決まっている。
「たまには一番乗りもいいでしょ?」
「一番は私よ――ってそれはまあいいや。○○さんなら買い出しに行ってるからいないわよ?」
「そこでどうして○○が出てくるのよ?」
レミリアは日傘を咲夜に渡して、縁側に腰掛けながら霊夢を軽く睨む。
「あら、○○さんがいるから早く来たんじゃないの?」
「違うわよ、そんなのじゃないわ」
ふい、と顔を逸らしたレミリアに、咲夜からお茶が差し出される。
ありがと、と受け取るのを横目に、霊夢はため息をついた。
「まったく、何で人の家でわざわざお茶飲んでるのよ」
「いいじゃない、今日は宴会なんだから」
理由になっていない理由を口にしながら、レミリアは湯のみに口を付けた。
丁度そのとき、空から影が降りてくる。ざっ、と良い音をさせて降り立ったのは当然というべきか、霧雨魔理沙であった。
「あれ、早いな。私が一番乗りかと思ったんだが」
「たまにはいいでしょう?」
「ああ。だが、○○ならもう少しかかるぜ? 今石段上がって来てたからな」
「どうして誰も彼も○○のことを私に言うのよ」
レミリアが呆れたように魔理沙に言い返す。
「あれ、違うのか? てっきりあいつがいるから早く来たのかと」
「違うわよ」
そう言いながら茶を啜っていると、リズム良く石段を登る音がして○○が帰ってきた。
「おかえりー」
「ただいまです。ああ、魔理沙さんはさっき飛んでくのを見ましたが、レミリアさん達もいらっしゃってたんですね」
「ええ」
「ああ、レミリアならお前に……」
言いかけた魔理沙の口に手近にあった煎餅を突っ込んで、何事もないようにレミリアは○○に話しかける。
「買い物とはご苦労ね」
「まあ、居候ですし。宴会の準備も僕の役目ですよ」
「あら霊夢、そうなの?」
「○○さんが準備と片付けやってくれるから大分楽になったわよ」
「……○○さんだけやってて貴女は何もしてないんじゃないかしら?」
咲夜の言葉は真実なのだが、霊夢は素知らぬ顔だ。○○も気にした素振りはない。
「里の人に、お茶菓子を幾つかいただいたんですよ。料理作っている間、みなさんはそれでも食べてお茶飲んで待っててください」
「……本当に一人でやるつもりなのね」
宴の参加者が少しずつ集まり始め、料理も有志によってほとんど完成していた。
始まる前、何回かレミリアが台所に様子を見に行っていたのを、何人かは見てないことにしてやっていた。
本人を突付いても『咲夜が遅いから』と言うに決まっているのも、わかっていたから。
そして――宴が始まる。
「ねえ、○○、少し訊いていいかしら?」
「はい、何でしょう?」
宴会の席。輝夜に問われ、○○は首を傾げる。
「最近吸血鬼にご執心らしいけど、上手く行ってるのかしら?」
「っ!?」
丁度盃を傾けていたということもあり、思い切りむせてしまう。
「あらあら、大丈夫?」
「は、はい、ありがと、ごほ、ございます」
幽々子に声をかけられ、大丈夫だと言葉と素振りで○○は示した。
「姫、御戯れが過ぎますよ」
「いいじゃない、古今東西、色恋沙汰は楽しいものよ」
「その通りね」
輝夜を嗜める永琳に、同意する紫。
「この前のアガパンサスは無事に咲いたようね」
くすくす、と微笑うのは幽香。意味がわからず、○○は再び首を傾げる。
「おやおや、意外と鈍いと見える。ほら、一杯どうだい?」
「ああ、どうも」
「見たまま、かもよ、神奈子」
二柱の神、神奈子と諏訪子もそう楽しむように○○に酒を勧める。
「それにしても、これだけの面々を見て普通に酒を呑める○○はやっぱり変だねえ」
「そうですね。本当に取材のし甲斐のある人間です」
そう笑うのは萃香と文。
そう、なのだ。
宴会が始まり、座に付いて気が付いたときにはすでに、彼は周りをそうそうたる面々に囲まれてしまっていたのだ。
「……言われてみれば、そうなのかもしれないですねえ」
○○自身は泰然と、あるいはのんびりとしたものだった。
そもそも外の人間。そう大きな問題とも捉えていないのだろう。
それが大妖や神々にはまた面白いのか、何人かが楽しそうに笑い声を立てた。
「いいの、レミリア?」
「何が」
「○○さん呼んでこなくて。というかあんた不機嫌過ぎよ」
何とも言えないオーラを全身から醸し出しているレミリアに、霊夢が呆れた声をかける。
「別に良い。楽しんで飲んでるなら」
「絵に描いたような不機嫌だな、お前」
魔理沙も呆れっ放しである。その隣では上海人形や蓬莱人形が微妙に怯えていて、アリスはそちらを宥めるだけで会話には突っ込まない。
「レミィも混じってくれば良いのに」
「嫌よ。何でわざわざあんな中に行かなきゃいけないの」
すっと咲夜にグラスを差し出し、そこに注がれたワインを飲んで、レミリアは不機嫌そうな視線を一瞬だけ動かした。
その瞬間、ぐぐっと重圧が掛かったかのようにがらりと空気が変わって、一瞬全員が身構える。
まさに今レミリアが見た方向から、恐ろしいほどの妖気。殺気。
「……あいつら、一体何を」
「何やってんのよ、○○さんを食べる気なのかしら?」
「幽々子様まで一緒になって……」
「………お嬢様?」
驚くか呆れるかしている面々に、更なる別の重圧が掛かる。今度は至近。
思わず振り返った数人の隣を、大きく羽を広げたレミリアが通っていく。
「………………行って来る」
「ええ、行ってらっしゃい」
本をはらりとめくりながら、巫女と共に二人で動じていなかった魔女が、親友を送り出す言葉をかけた。
少し時間は戻る。
幾分か酒を酌み交わしている中、不意に紫が声をかけてきた。
「本当に貴方は不思議ねえ。吸血鬼に執心してるのもそうだけど。本来人間と妖怪は、互いに退治と捕食を成すものというのは知ってるのよね?」
「ええ、一応は」
「ならば――」
「――どうして、貴方は此処に居ても平然としていられるのかしらね?」
がくり、と胡坐に乗せていた手が地に付きそうなほどの威圧感が、○○を襲った。胡散臭い微笑で、紫は楽しそうに眺めている。
「あらあら紫、駄目じゃない。脅かしちゃ」
そう言う幽々子も、表情は微笑っているが、纏う空気の質が澄んだものに変異していく。
「あんたらは全く……」
呆れた声をあげながらも、くすくすと微笑んで幽香も自身の妖気を上げていく。
「おやおや、これから弾幕勝負でも始まるのでしょうか?」
「というか、戦争起こす気? 紫」
わくわくしている文と、やれやれと呟く萃香。だが、彼女達もまた楽しそうに周りに合わせて妖気を増幅させた。
「無粋ねえ」
「それでも、楽しいのですね、姫」
「ふふ、面白いことするじゃないか」
「戦争は勘弁だけどねー。それよりも弾幕の方が楽しいし」
微笑する月人達も神々も、各々の気迫をぶつけ合う。
○○は動かない。動けない。卑小な人間の身において、ここで潰れてしまわぬのが不思議なほど。
がちがちと奥歯が鳴りそうになり、ぎりと噛みしめる。
怖くないわけがない。根源の恐怖。人間としては当たり前すぎて、そして彼もその当たり前に漏れなかった。
だが、彼はやがてぎこちなく笑むと、そっと手に握り締めていた盃を差し出した。
「……よろしければ、一つ」
「あら、意外ねえ。怖いのでしょう?」
意外そうにしながら、幽々子がその盃に酒を注いでやる。
「はい、怖いです。凄く怖い。今だって、自分でお酒を注いだら、みっともなく溢してしまうでしょう。
実際、震えも止まりません。手だって、ほら」
よく見れば、盃を持つ手はガタガタと震え、しっかりと盃を掴む手は白くなるほど力が入っている。
「ならば、何が貴方にそこまでさせるのかしら?」
「わからない、わかりません。でも、何と言うか、意地なのか」
「意地、ねえ。ふふ、貴方は本当に子供ね。しかも頑固な。大人に叱られて、でも絶対泣くまいと拳を握り締めてる子供」
そんな可愛いものでは決してない。これは喰われるか否か、殺されるか否か、の感覚だから。
「でも、これでわかったかしら?」
「は、い?」
「貴方が恋した吸血鬼も――」
「何をしている」
紫の言葉を遮るような声と共に、ばさりという音を立てて一つの影が○○の背後に立った。
こちらも、この場の雰囲気に負けず劣らず、あるいはそれ以上の気迫と妖気を出しながら――
「レミリア、さん?」
「何をしていた」
「別に何もしてないわよ? ただお話していただけ」
「そんな、貴女の妹のように全てを壊しそうな雰囲気出さなくても大丈夫よ。別にその子に何をしようって訳じゃないんだから」
「どうだか」
疑わしそうな声を出して、レミリアは○○に視線を移し、すぐに逸らした。
「只の人間一人を脅して、何が面白いのかと思ってね」
「あら、別に脅していたわけじゃないわよ?」
「ここまでの妖気に満たしておいて、か」
一触即発とも言える空気の中、くすりと笑えたのは誰か。
「まあ、そう言うな吸血鬼よ。悪戯が過ぎたのは我らにもわかっておる」
神奈子であった。神の威厳というものか、そう、互いを牽制する。
「○○を脅して食べようとかそういうのじゃないから、安心しなよ」
神奈子に接ぐように、諏訪子もまた治めに回った。文がそれに便乗して、盃を掲げる。
「そうそう、私達はただ楽しくお酒を飲んでるだけですよ? ○○さんと一緒に」
「そうよ。それに、○○は貴女のものってわけじゃないでしょ?」
輝夜の言葉に、レミリアの気配が少しだけ揺れ動く。あるいはそれは、決定的な言葉だった。
「ああ、そうだな」
「そうよねえ。収まったところで、貴女もどう?」
やはり胡散臭く話を向ける紫を一瞥して、くるりとレミリアは背を向けた。
「いい。咲夜が居るから向こうに戻る」
「あら、残念ねえ」
本当にそう思っているのかいないのか、紫が残念そうな声を上げた。
レミリアが立ち去って、ようやく重圧の解けた○○が、立ち上がりながら紫に告げた。
「あ、の、紫さん」
「なあに?」
「すみません。レミリアさんのところに行ってきます。その、中座することになって申し訳ありません」
それと、と彼は言葉を繋げた。
「さっき、言いたかったこと、わかった気がします。でも、それでも僕は」
「いいわよ、行ってらっしゃいな」
ひらひらと手を振る面々に頭を下げて、○○はレミリアの後を追っていく。
それを見送って、ふー、と、萃香が伸びをして紫に声をかけた。
「紫ー、レミリアのこと、あんまりからかうと可愛そうじゃない?」
「だって楽しいんだものー」
「いいけど、恋する乙女は強いわよー。今だって、私達全員と戦う気だったわよ?」
幽々子の言葉に、紫はくすくすと笑う。
「だからこそ楽しいのよ」
「やれやれ、厄介な御仁だねえ」
「そういう神奈子も、止める気さらさらなかったでしょ」
「あんたもね」
「しかし、さっきの吸血鬼は見物だったわね。あんなに必死になって」
ふふ、と微笑む輝夜に、永琳も息をつく。
「ええ、本当に。でもむしろ見物だったのは○○さんの方かもしれませんけどね」
「そうねえ。あんなに怯えていたのに、吸血鬼が来た途端にほっとしちゃって」
幽香が盃を傾けつつそう断じた。
根源の恐怖に支配されていたからか、彼はとても、自分の周りの空気に対して敏感になっていて。
「そうですねえ。いやー、思わずシャッター押し損ねたのが悔やまれます」
「それは本当に後で焼かれるんじゃないかな」
それぞれ各々が勝手に会話をしていくうちに、先程の剣呑な雰囲気はいつしかいつもの宴会の空気へと解けていった。
追いついて、○○は大きな声を目の前の彼女にかけた。
「レミリアさん!」
「何、○○。あいつらと飲むんじゃなかったの」
「中座させていただきました」
「そう」
レミリアはふい、と前を向いてしまう。彼は一瞬迷ったが、大人しくレミリアの後ろに付いた。
「おー、落ち着いたか」
「あんたらが本気でやったら洒落になんないからね。ん、○○さんいらっしゃい」
「どうも」
○○は挨拶し、座ったレミリアの隣に腰を下ろす。レミリアも特に止めなかったので、そのままそこに居座ることにしたようだった。
「どうぞ」
「ん、いただくわ」
自分に酌をし、そのときの彼の微笑にレミリアは心が一瞬躍るのと、不本意ながら機嫌が直るのを感じ、それを振り切るように杯に口を付けて――
本来は、こうすべきでないことを痛感してしまった。
だって。何故なら。
このまま、私と共に居たら、彼は近いうちに必ず死んでしまうから。
その情景は、逃れ得ない運命のもなのか。
それは彼女しか視えず、彼女しか知らず。
そして彼女にも、彼の運命はそれしかわからなくなっていた。
そもそも、レミリアは近しくなればなるほど、余計にその者の運命を見なくなる。
咲夜、パチュリー、フランドール、美鈴、他の館の者達――大事であるからこそ、自身の操る運命の干渉を少なくする。
『いずれどうなるか』が解りすぎても、『その者がどうなるか』を知りすぎても、生きると言うことは楽しくないし、何よりレミリアの性に合わないから。
無論無意識に働くこともあるが、そのときは最善になるように努力している、つもりであった。
だからこそ、○○の運命が見えなくなっていたことに、レミリアは初め愕然とした。
自分の中で、そこまで大きな存在になったことを認めたくなかったから、かもしれない。
それでも。日々に募っていく想いは、それを否応無く実感させていた。
「○○、明日は来るのかしら?」
血を飲むために近付いてきて尋ねたレミリアに、彼は少し申し訳無さそうに微笑った。
「すみません、明日はちょっと。その次は来れますが」
「そう。まあ仕方ないわね……」
残念に思って、何故そう思ったのかは考えないようにして、レミリアは彼の首筋に牙を立てる。
心地よい感覚と甘さが、彼女を満足させた。彼から来る畏れもまた心地よい。
日課ではないが、彼が来たときには、レミリアは彼から血をもらうことにしていた。
別に強制ではなく、彼自身も別に構わない、という態度を示せばこそ。
そして、この行為が、レミリアがもう眠り、○○が帰っていくと言う合図。
「また、きます、から」
「ん、わかってるわ」
口を離して、牙の痕からまだ流れ出るのをぺろりと舐め取る。
控えていた咲夜に手当てをしてもらいながら、○○は不思議そうに首を傾げる。
「美味しいものですかね、血なんて」
「私は吸血鬼だからね。特に○○のは美味しいよ」
「それは光栄なのですけどね」
柔らかく笑う彼を、本来は拒絶すべきだったのかもしれない。
こうしている時にも、彼女の脳裏に過ぎるその情景は、おそらく少しずつリミットを知らせていたのだから。
それでも、彼女も紅魔館も、彼を拒むことは出来なかった。
「こういうの繰り返してたら、僕も吸血鬼になったりするんですかねえ」
「それはないわ。私が飲み干さない限り、○○は吸血鬼にはならない」
「そうですか」
なるほど、と頷く彼にとっては、それは些細なことなのかもしれない。けれども。
「少し、貧血が治まったら帰ります」
「ええ」
そう言いながらも、レミリアは結局、○○を見送るまで起きていたのだった。
好きなときに神社に居て、好きなときに里に居て、そして好きなときに紅魔館を訪れる。
そんな自由気ままな彼が、彼女にとっては愛しくて。
そうした、ありふれた人間であるはずの彼が近くなるのに心が躍って。
想いが強くなっていくのを止められなくて。
だからこそ、彼女は彼を眷属にしたいなどとは、思わなくて――
故に、彼女は運命の情景に、さらに苦しめられることになった。
そして、彼が来るのを、彼女は拒めなかったから、なおさらに。
そんな、どうしようもないままに――その時が訪れた。
それは避けようの無いことで。
何よりも彼女はそれを避けたくて。
だから何よりも望んでいたその言葉を。
彼女は何よりも聞きたく無かった。
「どうしたの、○○?」
「え、と。今日は、お伝えしたいことが、あって」
夜半も過ぎた頃。いつもと様子の違う○○に、レミリアは首を傾げてみせた。
そうでなければいい、と思っていたし、今も思っている。
彼の口唇から、決定的な言葉が出てこないようにと。
「レミリアさん」
「何かしら」
「僕は、その、貴女のことが、好きです」
神妙な顔で○○が言った言葉に、レミリアは、しばらく瞑目した。
ああ、その言葉を想定していなかったら、自分は果たしてこの行動を取れていただろうか?
渾身の想いを込めて、背を向ける。
「だから、何だと?」
彼を目の前にして、この言葉を言えるとは、到底思えなかったから。
ただ威圧することを、拒絶することだけを念頭において、言葉を紡ぐ。
「貴方がそうだとしても、私は貴方のことを何とも想っていない」
一言一言をはっきりと、口にする。
その言葉が、自分の心をも傷つけていることにも気が付かず。
「……そう、ですか」
声は、微かに沈んではいたが、優しい声色で。
だからレミリアは、思わず振り返って――振り返ったことを後悔した。
寂しげで優しいその表情を見てしまったから、自分の中の何かが揺らいでしまうようで。
だから、彼女は、せめてと顔を背けた。
「……ああ、そうだ」
「……………はい」
こういうときに何を言えば良いのかわからないような戸惑う気配の後。
「…………それでは、今日はお暇します。また」
「………………ええ」
部屋を出て行く○○を、結局レミリアはもう見なかった。
そのことを後々、彼女は少し後悔することになる。
「あら、○○さん。今日はもう帰るの?」
「ええ、ちょっと」
館の玄関を開けて外に出ようとする○○を見つけ、咲夜は声をかけた。
「まだ夜明け前よ?」
「それでも。また、来ますので」
どこか落ち込んだような雰囲気に咲夜は何かあったことを悟ったが、追求はしなかった。
それは、何が起こったのかも、薄々察してしまっていたからかもしれない。
「わかったわ。とりあえず、見送りに出るから待ってて」
咲夜は身を翻すと、○○の前に立った。
「すみません」
「いいのよ。客人を見送るのもメイドの役目だから」
それでも、会話としては客人相手というより友人のそれに近い。
庭に出て、咲夜は見回りをしていた美鈴に声をかけた。
「美鈴、一つお願いしていいかしら?」
「あ、はい。何でしょう? あれ、○○さん帰るんですか?」
怪訝そうな美鈴に、咲夜は頷いて見せた。
「そうよ。だから貴女が送っていってくれないかしら」
「え、でも門は」
「誰かに任せておきなさい。いざとなったら私も出るし。○○さんもいいわね?」
「え、あ、はい」
とんとんと流れるように話を進めていく咲夜を止められず、○○はただ頷いているだけのようだった。
「では、送りますね」
「すみません、お願いします」
○○が一つ礼をした時、咲夜の背後からパチュリーが現れた。
「パチュリー様」
「ご苦労様、咲夜。○○さん、今夜は帰るのね」
「……ええ」
「そう。とりあえず、これを渡しておくわ。落ち着いたら開きなさい」
メモの切れ端のようなものを渡されて、○○は首を傾げつつも頷く。
「ありがとうございます」
そして、美鈴を護衛として○○は紅魔館から立ち去っていく。
「咲夜」
「はい」
「レミィのこと、お願いするわ」
「はい、承知いたしました」
そう応えた咲夜の声には、単なるメイドとして以上の忠誠が溢れていた。
四半刻の後、テラスに出ていたレミリアは咲夜を呼んで、紅茶を淹れさせていた。
あの部屋に居続けることは、どうしても出来なくて。
「咲夜」
「はい、どうなさいました?」
レミリアは咲夜から紅茶を受け取りながら、ぽつりと呟いた。
「……○○に、好きって言われた」
「そうですか。返事は?」
「返事? それを必要とするの? 私は吸血鬼よ、そんなものいらないわ」
咲夜の反応はレミリアの望んだもので。だからレミリアは、そう言葉を続けた。
「共にはあれど、愛することなどない。彼はただの食糧に過ぎないし、無聊を慰める者に過ぎないのだから」
「それで、断られたのですか」
「……そうなるかしらね」
遠くを見ながら、紅茶に口をつけて、レミリアは息をついた。
そうでもしなければ、落ち着いていられないような、気がして。
「……吸血鬼を好きになるなんて、馬鹿なことを」
そう、馬鹿なことなのだ。人外に惹かれるなど。吸血鬼に恋するなど。
ああ、ならばきっと自分も馬鹿なことをしているのだ。人間なんかに想いを寄せてしまうなんて。
嘲ったのは、一体どちらのことだったのだろうか。
なおも遠くを眺めて、レミリアは小さく呟く。
「此処は、貴方を拒まない。拒めない、から」
だから、貴方はいつでも。届かない、届けられない言葉で、レミリアはもう見えない彼にそう告げた。
彼女の脳裏には一つの情景。一つの光景。
その心が芯まで凍り付くような錯覚を起こす、彼が物言わぬ骸と成り果てる情景。
何度も繰り返す悪夢。何度も繰り返す白昼夢。
もう見えなくなった彼の運命の、おそらくその一端。
彼が傍に来る度に、彼が近付いてくる度に、それは強くなって。
だから、彼女は彼を遠ざけた。遠ざけなければ為らなかった。
それが、ずるずると今の今まで来てしまったのは自分の落ち度だけど。
心の距離が近くなってくる彼を撥ね退けるのは、身を裂くように辛いことだけど。
それでも、それでも彼女は。
私はただ、○○に死んで欲しくないだけ、だから。
紅い月の表情は静かなまま。取り乱しもせず、泣きも喚きもせず。
だからこそ、傍でそれを見ている完全なる従者は、その胸の痛みを只慮ることしか出来なかった。
「しかし一体どうしたんですか、夜明け前に帰るなんて珍しいですよね」
「あー、まあ、少し……」
心なしか元気のない○○に、美鈴は首を傾げる。
「お嬢様と喧嘩でも?」
「んー……あー……振られた、と言いますか、何と言いますか」
「はあっ!?」
美鈴は目を丸くする。彼の言った言葉が信じられなかった。
「それ、お嬢様から断ったんですか?」
「というより、まあ、歯牙にもかけてもらえなかった、って感じで」
「そ、それおかしいですよっ!? だってお嬢様、○○さんが来るのあんなに楽しみにしてて……!」
「それでも」
ぽつり、と彼は言った。
「何も想ってなんかいない、と、そう言われました」
「そんな……」
何かがおかしいと感じた。少なくとも、自分の主人はそういうことには正直であると彼女は思っていた。
「……しばらく、紅魔館にはお邪魔しないつもりです。どうかよろしく言っておいてください」
「ちょ、○○さん……!?」
誰に、とは言わなかった。彼は心なしか顔を伏せて、繰り返した。
「当分は、訪ねることはないと思います、から」
「…………待ってください」
美鈴の声が静かになったことに気がつき、○○が顔を上げる。
「私が言うのも何ですが、お嬢様がそう仰ったのには必ず理由があるはずです」
彼が本当に来なくなれば、お嬢様は哀しむはず、で。
「だから、その辺りもわからずにそう言っているのなら――私は、貴方を怒鳴りつけなければならなくなるかもしれません」
「………………わかって、ますよ」
意外な返答に、美鈴は逆に気を削がれる。
「へ?」
「………………何か理由がある、ってことはわかってます」
「……わかって、って」
一度、凄まじい妖気で圧されたから、わかるのだ。
恐怖を得たから、恐怖を経たから、わかってしまったのだ。
彼女の妖気が、人間に根本的な恐怖を与えるあの気配が、あのときのものとは違っていたことに。
もし、もし、あの言葉が全て真実ならば。
何故貴女は、あんなに哀しい妖気で僕を圧したのか。
どうして、自分を傷つけるような、そんな声色だったのか。
僕のことを、嫌っていたとしても。嫌いだったとしても。
何故、それ以上に、哀しげだったのか。
「僕のことを好きじゃなくても、レミリアさんはあんな物言いを、簡単にする方じゃないと、思ってる」
「じゃあ、どうして……」
問いに、○○は神社の石段に座り込んだ。
「いや、実は、ですね、その、これでも」
「はい」
「結構、ショックだったりするんですよ? 告白して振られるって言うのは」
そのとき、美鈴は思わずぽんと拳で手を打って納得しそうになった。
あまりにいつも通りだったもので、彼女は今の今まで、彼が心底落ち込んでいることに、全く気が付かなかったのだった。
少し落ち着いた後、再び石段を登り始める。
「まあ、お嬢様にもきっと理由があるはずですよ。そうでなければ、○○さんをそもそも館に入れたりしませんって」
「だと、いいのですけれど」
それでも、何も想われてないという可能性はある、というかのように、○○は微苦笑気味に笑った。
石段を登りきって母屋の方に向かうと、霊夢と紫が並んで座っていた。どうやら二人でささやかに飲んでいたようだ。
「あれ、おかえり。今日は早かったのね。珍しいのもいるし」
「ああ、ええ、まあ」
「吸血鬼と喧嘩でもしたのかしら?」
「なら、まだいいのかもしれませんが」
苦笑する○○に、霊夢が微かに眉を顰める。彼女の知る彼は、あまり苦笑しない人だ。
「あらあら、だとすると振られたのかしらね」
「紫……」
「幾らなんでもストレートすぎでは」
呆れる霊夢と美鈴に対し、○○は、その通りです、と両手を挙げた。
「まあそれで、すごすご帰って来たわけで」
「自嘲は貴方に似合わないわね。それより貴方のポケット、何が入っているのかしら?」
紫に言われ、○○は反射的にポケットに手を入れる。そういえば、パチュリーにメモのようなものを貰っていた。
それをポケットから出し、それをおもむろに開いてみる。
「白紙? って……!」
『成功してるかしら、してなくても別に良いんだけど』
唐突に紙からパチュリーの幻像が浮かび上がって、言葉を紡いできた。
「あ、パチュリー様の新しい魔法ですかねえ」
「珍しいもの使ってるわね」
『まあ、美鈴が居るときに開けてたら、成果を報告させて頂戴。そして本題ね。
貴方が思うままに行動するといいわ。レミィのことを本当に想うならね。私からはそれだけよ』
それだけを伝えて、幻像は消える。もう一度閉じて開いたが、もう像は出てこなかった。
「…………」
「どうしました?」
「いや、紅魔館の皆さんって、本当にレミリアさんのことが大好きなんですね」
「それは当然ですよ。だって、私達の大事なお嬢様なんですから」
○○は頷いて、そして、呟いた。
「パチュリーさんにお伝えください。ご助言、ありがとうございます、と」
「お任せください」
「ふふ、じゃあどう? 失恋の憂さ晴らしに、一献付き合わない?」
「有り難い申し出ですが、今日のところは休ませていただきます。霊夢さん、お先に」
「ええ、ゆっくり休んでて」
○○が入っていったのを見送った後、紫は美鈴にも勧める。
「貴女はどう?」
「流石に戻らないと、咲夜さんに怒られてしまうので」
「そう、残念ね。それにしても、吸血鬼も馬鹿なことを。折角の手を振り払ってしまうなんて」
紫の物言いに、美鈴がむっとしたように気配を鋭くする。
「お嬢様を侮辱するのでしたら許しませんよ」
「あらあら、ごめんなさいね。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「紫は喧嘩売ってるように聞こえるのよ」
「あら、それもわかって言ってるわよ」
相変わらず読めない様子に、やれやれ、と霊夢はため息をついた。
「それでもね。最善の手を取らなかったのもまた事実よ」
「レミリアが?」
「だけとは限らないけど。まあそもそも、妖恋譚は相応の覚悟が必要だからね」
「それが足りなかったと言いたいのですか?」
「さてね。言い切るには、まだ早いかもしれないけれど」
紫はそう微笑って、盃に口を付けた。
彼女にとってまだまだ若すぎる二人の行き先を、知っているかのように。
部屋に入って、壁に背をもたせかけたまま、ずるずると○○は座り込んだ。
落ち着いてくると、本当に心から感じてしまう。
振られたこともショック、だったけれども。
それと同じくらいに、彼女にあんな表情をさせたことが。
振り返ったときに一瞬だけ見た、あの苦しそうな表情が。
あの表情をさせてしまったことが。
同じくらい、辛かった。
振られることを考えてなかったわけじゃなく、運が良ければなんて虫のいい話も考えていたけど。
あんな哀しそうな辛そうな顔をされるなんて、考えても無くて。
あんな表情させるくらいなら、言わなければ良かったのではないかと。
ぐるぐると回る思考は堂々巡りになって、ただただ後悔のみが募っていく。
今夜はもう、眠れそうに無い。
心に呟いて、彼は静かに座って夜が明けるのをぼんやりと眺めていた。
貴方は、優しい、から。きっと。
私の傍にいて欲しいと願ったら、貴方はきっと受け入れてしまう。
それこそ、人間であることを止めてでも。
私の眷属になることを願ってでも。
その情景は、意識せずとも浮かんでくる。
○○がその言葉を口にする姿。
それを思う度に、レミリアの心は悲痛な音を立てた。
そうしてしまったら。もしそうしてしまったら。
貴方のその自由を、私は奪ってしまう。
その奔放さも自由さも、何もかも全て。
そうすれば、私の傍に居ても貴方が死なずにすむとわかっていても、でも。
私は貴方に、自由に居て欲しかった。
レミリアが垣間見ることの出来る彼の運命は、もうすでに一つしかなくて。
それを回避させる手段の一つは、決して取りたくないもので。
だから、彼女には。
彼を撥ね退けることしか、手段が残されていなかった。
そう、思っていた。
「……レミィは我が侭ね」
「……そうかしら」
「ええ、そうよ」
パチュリーは本から顔を上げ、どこか沈んでいる親友に優しく微笑みかけた。
「我が侭を言うなら、それを貫き通せば良いのに」
「貫いてるわよ。どうして私が妥協しなきゃいけないの」
「そうね」
でも、貴女は○○さんのことになると。
声にしなかった言葉も、きっと親友には伝わっていて。
だから、その瞳が愁いを帯びているのを、今はただ見守るしかないのだ。
運命の操り糸も解く指も、彼女と彼の手の内にしかないのだから。
そして、優しく哀しくすれ違った想いは交わらぬまま、運命だけが結末に向けて加速していった――
うpろだ1112、1143、1173
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