60-7 侍
本陣四天王
服部党練達 | 刀忍者 | 55 | 蘇生・壱 | |
徳川方士隊 | 陰陽 | 55 | ||
砥鹿社神官 | 弓神主 | 55 | ||
本多忠朝 | 鉄砲鍛冶 | 55 | ||
三河製茶人 | 薬師 | 55 |
永禄三年(1560年)大高城兵糧入れで初陣後、関ヶ原の戦いまで生涯五十七度の戦いにおいて傷一つ負わなかったと言われる。
鹿角脇立兜をかぶり、止まったトンボさえも真っ二つになるという名槍「蜻蛉切」を片手に、家康とともに主要合戦にはほとんど参陣した。姉川の戦いでは朝倉勢1万を相手に単騎突入。小牧・長久手の戦いでは豊臣勢数万に対してわずか三百の手勢で渡り合い、小田原攻めの際は、別働隊として関東の諸城を攻略している。
家康の関東入封に際して上総大多喜十万石を拝領し、関ヶ原の戦い後は伊勢桑名で十万石の他に次男忠朝が大多喜五万石を領する。慶長十五年十月十八日六十三歳で死去。