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第3・4(2)エ(ア) 集団自決の経緯

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pipopipo555jp

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沖縄集団自決裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第3 争点及びこれに対する当事者の主張
第3・4 争点4(真実性の有無)について
第3・4(2)原告らの主張
第3・4(2)エ 渡嘉敷島について

第3・4(2)エ(ア) 集団自決の経緯



安里巡査の「沖縄県警察史」における記述(甲B16・772ないし775頁)及び星雅彦の取材結果(甲B17・210ないし213頁)によれぱ,渡嘉敷島の集団自決の経緯は,概ね以下のようなものであったことが分かる。

安里巡査の「沖縄県警察史」における記述と、星雅彦氏の取材結果「集団自決を追って」と、この2つからどうして下記のような物語が生まれるのか、とても不思議だ。安里巡査が1971年までに星雅彦氏に語ったことと、1988年に「沖縄県警察史」に語ったこととの矛盾や差異を、原告弁護団はどう処理したのだろうか、とても不可解だ。星雅彦氏が、安里(比嘉)巡査と古波蔵(米田)村長との、相対立する2つの見解を併記しているにもかかわらず、理由を示さず勝手に一方だけを抜き出した原告弁護団の恣意性には、恐れ入った。この裁判提訴のプロパガンダ性がここに凝縮されているのかもしれない。…(引用者)

a (原告らによる再構成:3月23日~27日朝)*


昭和20年3月23日には初めて本格的な渡嘉敷島への空襲が行われ,村役場や郵便局が焼けた。同月25日には,艦砲射撃も加わった。古波蔵村長は在郷軍人であり,安里巡査は,沖縄本島に妻子を置いて単身1月下旬に赴任したばかりであった。小学生まで陣地構築に協カしてきた住民が,これからどうすべきか相談するため,安里巡査は,同月27日朝から赤松大尉を捜し回った。

b (原告らによる再構成:3月27日午後~隊長からの指示伝達)*


安里巡査は,同月27日午後,タ方近くになって,西山の谷間の日本軍陣地で陣地構築の指示をしていた赤松大尉に会った。陣地壕はまだほとんど掘られていなかった。赤松大尉は,安里巡査に対し,
「島の周囲は敵に包囲されているから,逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから,住民は一か所に避難した方がよい。」
と言った。そこで,安里巡査は,居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し,自らも各壕を回って伝えた。防衛隊の1人から古波蔵村長へ伝達をし,古波蔵村長からも同様の伝達が出た。


c (原告らによる再構成:住民避難と3月28日朝の村幹部"協議")*


渡嘉敷村の約3分の2の住民が,大雨の中を恩納川に沿って北上した。米軍に追われた阿波連の人たちは。1時間遅れて西山に到着した。同月28日午前7時ころ,防衛隊の数人が西山盆地に集まれと叫び,住民は命令どおり200メートル離れた平坦な場所へ移動した。郵便局長,校長,助役,幹部十数人が,3時間ほど,これからどうするかについて協議した。話し合ううち,玉砕するしかないという結論になった。


d (原告らによる再構成:手榴弾の炸裂まで)*


具体的にどうするかという段階になって,全員が死ぬには手榴弾が足りなかったため,防衛隊の1人が、
「友軍の弾薬貯蔵庫から,手榴弾を取ってきましょう。」
と申し出,防衛隊3人が出かけた。

それから1時間後に,防衛隊が住民に対し玉砕の話を広めた。村の指導者は,それぞれ家族や親戚に玉砕の話をした。古波蔵村長が全員の中央に立って,
「敵に取り囲まれて逃げられないから,玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳を唱え,笑って死のう。」
と言った。

手榴弾の炸裂音が起こった。

e (原告らによる再構成:村長の逆上と将校の威嚇)*


逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300人が,日本軍陣地へ向かったが,300メートルも進まないうちに,米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。村長は逆上して
「女,子どもは足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい。」
と叫んだ。そこで防衛隊長である屋比久孟祥と富山兵事主任が,日本軍陣地に駆け込み,住民を撃ち殺すために機関銃を貸してほしいと願い出たが,そのような武器は持ち合わせていないと怒鳴りつけられた。住民の集団が日本軍陣地100メートルまで接近していたが,将校は,泣き叫ぶ住民に対し,抜刀して立ち去るよう威嚇した。

住民は,恩納川の谷間へと散っていった。

f (原告らによる再構成:阿波連の人々の集団自決)*


西山盆地でほとんど無傷でいた阿波達の人たちは,300人の集団が去った後,殺し合いを始めた。迫撃砲の炸裂晋を聞きながら,なたや鎌を借りて生木を切ってこん棒を作り,ベルトで家族を殺した。

手榴弾で死にそこなった住民は,農具を凶器にして殺し合った。

こうして集団自決があったのは,昭和20年3月28日の午後1時ころであった。



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