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第4・5(4)イ 「母の遺したもの」について

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沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第4 当裁判所の判断
第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について
第4・5(4) 集団自決に関する文献等の評価について

第4・5(4)イ 「母の遺したもの」について




(ア)(「母の遺したもの」による隊長会見場面)*

「母の遺したもの」(甲B5)には,その第一部に初枝の手記である「血ぬられた座間味島」が収録されているところ,そこには,初枝が昭和20年3月25日に盛秀助役らと原告梅澤に会いに行った際のこととして,
「助役は隊長に,
『もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ,老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう,忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください』
と申し出ました。」

「私はこれを聞いた時,ほんとに息もつまらんばかりに驚きました。重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て,垂直に立てた軍刀で体を支えるかのように,つかの部分に手を組んでアゴをのせたまま,じーっと目を閉じたっきりでした。」

「私の心が,千々に乱れるのがわかります。明朝,敵が上陸すると,やはり女性は弄ばれたうえで殺されるのかと,私は,最悪の事態を考え,動揺する心を鎮める事ができません。やがて沈黙は破れました。」

「隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と,私たちの申し出を断ったのです。私たちもしかたなくそこを引きあげて来ました。」

「ところが途中,助役は宮平惠達さんに,
『各壕を廻って皆に忠魂碑の前に集合するように…』」
「後は聞き取れませんが,伝令を命じたのです。」
との記述がある(甲B5・39,40頁)。この記述は,座間味島の住民が原告梅澤に集団自決を申し出,弾薬の提供を求めたのに対し,原告梅澤がこれを拒絶した内容になっており,原告梅澤が座間味島の住民の集団自決について,消極的であったことを窺わせないではない。

(イ)(梅澤陳述書による隊長会見場面)*

しかしながら,この記述は,原告梅澤が「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と述べたことを記述するのみで,「一応」という表現が付されていることや,盛秀助役らの申出に対し,原告梅澤がしばらく沈黙したこと,原告梅澤と盛秀助役らの面会後の記述で,唐突に盛秀助役が宮平惠達に伝令を命じた部分があること,肝心の伝令の内容が記述されていないことを考慮すると,原告梅澤との面会の場面全体の理解としては,原告梅澤による自決命令を積極的に否定するものではなく,盛秀助役や初枝らの申出を受けた原告梅澤の逡巡を示すものにすぎないとみることも可能である。

もっとも,この点について,原告梅澤は,その陳述書(甲B1)において,初枝が語る同じ場面について,
「問題の日はその3月25日です。夜10時頃,戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役の盛秀,収入役の宮平正次郎,校長の玉城政助,吏員の宮平惠達,女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。
『いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。』

『老幼女子は,予ての決心の通り,軍の足手纏いにならぬ様,又食糧を残す為自決します。』

『就きましては一思いに死ねる様,村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。』

その言葉を聞き,私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」

「私は5人に毅然として答えました。
『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。』
と。また,
『弾薬,爆薬は渡せない。』
と。折しも,艦砲射撃が再開し,忠魂碑近くに落下したので,5人は帰って行きました。翌3月26日から3日間にわたり,先ず助役の盛秀さんが率先自決し,ついで村民が壕に集められ,次々と悲惨な最後を遂げた由です。」
と記載しており(甲B1・2,3頁),原告梅澤は,本人尋問において,同趣旨の供述をしている。

しかしながら,初枝の記憶するやりとりとして「母の遺したもの」に記載してあるのは,前記のとおりであり,かつ,初枝が残したノート(甲B32)も,同様の記載にとどまっている。

そして,宮城証人は,この点について,
「武器提供は断ったとは言っていましたけれども,そういう最後まで生き残ってというふうなことは,もし梅澤さんがおっしゃっていれば母はちゃんとノートに書いたと思います。」
と証言している。こうした事実に,原告梅澤作成の陳述書(甲B33)の記載内容の信用性についての,これまでの検討結果からすると,原告梅澤の供述等は,初枝の記憶を越える部分について,信用し難い。

(ウ)(初枝は、直接集団自決命令の有無を語る立場ではなかった)*

ところで,証拠(甲B21,乙4,9及び50)によれば,初枝が昭和20年3月25日に原告梅澤と面談した後,盛秀助役に
「役場の壕から重要書類を取ってきて,忠魂碑前に持ってくるように」
と命じられたこと,初枝は,妹や宮平澄江らを誘い,5人で書類を運ぶこととしたこと,初枝らは,1回目の重要書類を運び終えたが,1回目に役場の壕に出かけた際,照明弾が投下され,艦砲射撃が激しくなったこと,初枝らは,谷底に身を縮めていたことが認められる。そうすると,初枝は,座間味島の集団自決の際,現場である忠魂碑前にいなかったことになり,原告梅澤と面談した後,原告梅澤はもちろん,集団自決に参加した者との接触も断たれていたのであるから,直接的には原告梅澤の集団自決命令の有無を語ることのできる立場になかったこととなる。

(エ)(前手記記述は否定したが梅澤命令説を否定したとまでいえない)*

したがって,(ア)記載の「母の遺したもの」の記述から,直ちに梅澤命令説を否定できるものではないというべきである。もとより,「母の遺したもの」の記述からすれば,前記「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(下谷修久刊行「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」所収)及び「沖縄敗戦秘録-悲劇の座間味島」(乙19)にある原告梅澤の自決命令の記載が初枝の体験談としては措信し難いことはいうまでもない。

しかしながら,反面,第4・5(2)ア(イ)eで記載したとおり,「母の遺したもの」には,初枝が木崎軍曹からは
「途中で万一のことがあった場合は,日本女性として立派な死に方をしなさいよ」
と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載されており(甲B5・46頁),この記載は,日本軍関係者が米軍の捕虜になるような場合には自決を促していたことを示す記載としての意味を有し,梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る。



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