15年戦争資料 @wiki

控訴人準備書面(2)1/2

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可

控訴人準備書面(2)1/2


平成20年9月8日 
大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中  


控訴人ら訴訟代理人

弁護士  松  本  藤  一
弁護士  徳  永  信  一
弁護士  岩  原  義  則
弁護士  大  村  昌  史
弁護士  木  地  晴  子
弁護士 中  村  正  彦
(以下略)



第1 住民証言等にみる軍の「善き関与」

1 はじめに

検定審査会の考え方によれば、「軍の関与」は、沖縄戦における住民の集団自決の主たる要因であったとされているが、「軍の関与」は多義的であり、軍隊が島に駐留していたことも含む広い概念であり、「軍の命令」ないし「隊長命令」との関係でいえば、その存在を積極的に否定する状況証拠といえるものも少なくない。

また、『沖縄県史第10巻』『座間味村史下巻』『渡嘉敷村史資料編』等に収められた住民らの証言には、兵士らと住民とが極限状況の中でお互いをいたわり、配慮している人間的な触れ合いがなされている例としての「軍の関与」(これを「(軍の)善き関与」という。)や、軍の強制や命令とは何ら関わりなく自決が生じている例(これを「(軍の)関与なき自決」という。)が多々あることは、原審最終準備書面(その2)、控訴理由書p59~において繰り返し述べたところであり、これらはいずれも住民の集団自決が軍ないし隊長の「命令」によって生じたものでないことを強く示唆している。

ここでは、それら「(軍の)善き関与」の証言のいつくかを代表例として拾いあげ、それらが《梅澤命令》ないし《赤松命令》を否定する重要な状況証拠であることを整理する。

2 金城重明証言-赤松隊による救護活動-

(1)証人金城重明は、
原審証拠調べにおいて裁判官からの補充尋問に対し、集団自決の現場から生き残った後、赤松隊に保護されていたときの状況について次の通り証言している。

「川べりを、我々がいたところですが、小さな小川、その川べりを赤松さんが歩いておられた、そのときにですね、それは私はもう既に負傷してますから、指が全部入るほど、迫撃砲か何かでえぐり取られていたんで、もう治療を要する、けれでも軍の医療班のところに行くとばんそうこうだけくっつけている。治療できないんですよ、薬がないから。渡嘉志久へ行けば薬はあるだろうよと、そう言っておられたんですね。私は確認するために、ああ渡嘉志久へ行けば薬がありますかと言ったら、日本刀を抜かんばかりに怒りが彼の言葉として出たことも事実です」(金城調書p43~44)。

赤松隊長が怒った理由について金城は、「権威のある者の発言はもう1回で十分だと言わんばかりにしかられた」と証言している(同p44)。

    これから明らかなように、赤松隊は集団自決の現場から生き残った金城を保
護し、不十分ながらもばんそう膏を貼るなどの治療を施し、「渡嘉志久に行けば薬があるはず」と治療薬のありかまで教えていたのである。

(2) 曽野綾子著『ある神話の背景』には、
集団自決で負傷した村民が赤松隊の医
療班から手当てを受けていた事実が記録されており、当時赤松隊の衛生兵だった若山正三は、曽野の質問に対し次の通り証言している(甲B18p121~122)。

曽野:「村民の治療をなさったのは、若山さんのご一存ですか?」
若山:「いや、軍医や隊長の意向でもありましたんでね。」
曽野:「若山さんが、こっそり行っておあげになったんじゃありませか?」
若山:「いやそんなことはないです。明らかに隊長と軍医に言われたです。」
曽野:「それを証言なさいますか?」 
若山:「それはまちがいないことです。」

(3)《赤松命令説》が真実であり、部隊のために住民に犠牲を強いる非情な決断をしたのであれば、
赤松隊長は金城に対しても、自決の完遂を命じるはずではないのか。事実は全く反対であり、負傷した金城を保護して応急措置を行い、貴重な薬のありかまで教えて、そこでの治療を示唆しているのである。『ある神話の背景』に記述されていた赤松隊による集団自決に失敗した住民救護の事実は、金城証言によって裏付けられたのである。

金城を含めた住民に対する赤松隊の救護活動の事実は、赤松隊長の「善き関与」を示すエピソードであり、《赤松命令説》が虚偽であることを裏付ける最たる証拠である。

3 知念朝睦証言-子供らへの食料供与命令-

 当時赤松部隊唯一の沖縄県出身者であった証人知念朝睦は、原審証拠調べにおいて、集団自決が起こった後に陣地を訪ねて来た10歳の女児と男児に対する対応について、次の通り証言している。

 「戦隊長の命によりまして、乾麺麭を上げてやりましたら、帰りました。」(知念調書p2下から9行目以下)

 「はい、これは言いました。とにかく絶対死ぬなと、捕虜になってもいいから生きなさいと、死ぬのは兵隊さんだけだと、こう言っておりましたら帰りました。」(同p2下から5行目以下)

 「たしか私は財布をやったと思います。」「これはもう兵隊でございますし、死んだらその財布は何も必要なくなると。そういうことで、おまえら絶対生きなさいよと、生きたらこの金は使えるはずだから、必ずそれを持っていきなさいと言って渡しました。」(同p3下から9行目下)

 上記知念証言は、『沖縄県史第10巻』(乙9)p772下段以下にも掲載されている。

 赤松隊長の命によって知念証人が「絶対死ぬな、生きなさいと」言って食料や財布を子供たちに渡した事実は、いずれも《赤松命令説》を正面から否定するものであり、まさしく「軍の善き関与」を示すものである。

4 伊礼(古波蔵)蓉子証言-「命は大事にしなさい」と励ました赤松隊長-


 当時渡嘉敷島女子青年団長だった伊礼蓉子は『ある神話の背景』において次の通り証言している(甲B18p236)。

 「私は7月12日に、赤松さんのところへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことあるんですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒られて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさいと言って戻された。大変規律正しい軍隊でしたので、私たちが向こうへ行くにも、ちゃんと証明書貰って、そこには家々があって(監視所のことか? 曽野注)そこを幾箇所か通過しなければ赤松隊長さんの壕には行けなかった。」

 また、同女は『沖縄県史第10巻』所収の渡嘉敷女子青年団匿名座談会において、次の通り証言している(乙9p788。女子成年団長「K」が伊礼(古波蔵)である。)。

 「(自決に失敗して本部へ行く途中)私は、西山陣地の下の方で重機を構えていた高橋軍曹の所へ行って、この重機で私をうって下さいと哀願しましたら、生きられるだけがんばりなさいと励まされてひきかえしました。」

 これらは赤松隊長らが住民に対し、死ではなく、命の大切さを説き、生き延びるようにと言ったことを内容とするもので、いずれも《赤松命令説》を正面から否定する軍の「善き関与」を示すものである。

5 宮城初枝証言-木崎軍曹による手榴弾交付と無事を喜んだ梅澤隊長-

(1)
 原判決は、初枝が木崎軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」として手榴弾を渡されたエピソード(甲B5p46)について、「梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る」(原判決p117)とする。
しかし、木崎軍曹による手榴弾の交付がどのような意味を持つのかは、証言の前後の文脈を踏まえ、具体的な場面と状況を考えなければならないはずであり、そうしてみれば、それが「梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る」とした原判決の証拠評価がいかに浅薄なものであるかが分かる。
(2)
 木崎軍曹が初枝ら3名の女性らに手榴弾を渡した経緯は、初枝の手記において詳細に述べられている(甲B5p12~)。無差別艦砲射撃に続く米軍の上陸が予想されるなかで、初枝は、宮里盛秀助役ら村の幹部らとともに本部壕に行くが、そこで控訴人梅澤が「今晩は一応お帰りください。お帰りください」として助役の申し出を断る場面を目撃して引き返した後、朝になって夥しい米艦隊をみて「もうだめだ」と打ちのめされ、「兵隊さんの近くにいれば安心だ」と思って整備中隊の壕に行き、そこで玄米ご飯や牛肉の缶詰めを「食べなさい」と手渡された。いよいよ米軍の上陸がはじまり、部隊は敵に斬り込みをかけることになり、初枝ら5人は、集合場所の稲崎山に弾薬運びを頼まれ、そこで斬り込み隊の生存者と合流する約束で別行動をとる。この時に、木崎軍曹から手榴弾が渡されたのである(甲B5p46)。午前4時頃、目的地に弾薬を運び終え、夜が明けても兵士は誰一人として姿を見せなかったため、みんな玉砕したと思い、「死にましょうよ。敵に捕らわれて辱めを受けて殺されるくらいなら」と木崎軍曹から手渡された手榴弾で自決を決行するが、不発弾だったため果たせず、投身自殺するべく裏海岸めがけて無我夢中で走ったものの、そこで敵の艦隊を目の当たりにしてこれもあきらめた。やがて敵機に発見され機銃掃射を浴びせられるなどした後、谷川へ下りて水を飲んでいるとき、宮里良三を含む部落の人4、5人と出会い、内藤中尉の部下が、自決してしまったのかと探していたことを聞かされ、併せて「すぐ行きなさい。心配しているよ」と言われて稲崎山へ急いで戻ると、全滅したと思い込んでいた部隊の兵士らと再会し、梅澤部隊長と内藤中尉は、「ご苦労だった。それにしても無事で何よりだった。本当によかった」と、心から労をねぎらい、その無事を喜んだということである(甲B5p51)。

(3)
 初枝の手記からみて、木崎軍曹から手渡された手榴弾は、部隊とは別行動をとる初枝らに対する「万一」のための対処法であったことは明らかである。この「万一」のために手榴弾を手渡したことの意味づけについては、原審最終準備書面(その1)p58等で繰り返し説明しているように、当時、兵士も住民も、米軍に捕まったら男は八つ裂きにされ、女は強姦され米兵の慰み物にされると信じ切り、実際、無差別艦砲射撃や機銃掃射を受ける状況下においてますますその恐怖が高まるなか、「米軍に捕まったら、生きるよりもよほどつらい地獄のような目にあう。そうなりそうになったら自決を」という内容(曽野綾子「疲れ切った温情」甲B94p68、小林よしのり「善意から出た関与」甲B87p71)に他ならず、「部隊の行動を妨げないため、部隊に食糧を供給するため」に住民に自決を命じたとする無慈悲な《隊長命令》の内容を含まないことは明らかである。

(4)
 この点、被控訴人らは任務達成を喜んでいるに過ぎない、万一のために手榴弾を渡すという「自決の命令」と無事を喜ぶエピソードは両立し得るなどという。
しかし、初枝らは集合場所である稲崎山に弾薬を運びその任務を果たした後、自決を図ったが果たせぬまま山を下り、敵機の機銃掃射をやりすごし、谷川付近で水を飲んでいるときに出会った部落の人から稲崎山に部隊が集結していることを聞かされて急いで戻り、そこで部隊と再会したのである。稲崎山に到着した梅澤隊は当然初枝らが任務達成をしたことを知り、その上でそこにいない初枝らの身を案じて探していたのである。

 そして何よりも、部隊と合流した際に、控訴人梅澤自身が、「ご苦労だった。それにしても無事で何よりだった。本当によかった」とその「無事」を喜んでいるのである(甲B5p51)。控訴人梅澤が初枝を含む住民に自決を強いる命令を出していないことは明らかである。

 被控訴人らの主張(控訴人梅澤は、初枝らの無事ではなく任務達成を喜んでいるに過ぎない)は、文脈を曲解しているばかりか、いつの間にか「万一」のために木崎軍曹がした手榴弾の交付を《梅澤命令》だと主張して、《梅澤命令》の中身を完全にすり替えているのである。

(5)
 このことは、初枝が部隊と合流した後、梅澤部隊長の頼みに応じて澄江と2人で部隊の道案内をすることになって出発する際、残る3人に「もし明日まで戻らなかったら2人は死んでいるんだから、兵隊さんから手榴弾を貰って自決しなさいね」(甲B5p52)と言いふくめていることからも理解することができる。この初枝の指示は、木崎軍曹の指示と同じく、残る2人のことを案じて「万一」のためになされたものであることは明らかである。木崎軍曹も初枝も、決して手榴弾による自決を望んでいるわけではない。あくまでも無事を望みつつ、「万一」のとき、地獄のような目にあうことを避けるため、自決を指示したものであった。被控訴人らは、かかる初枝の指示も「命令」だというのだろうか。被控訴人らの強弁がためにする曲解であることは明らかである。 

(6)
 そもそも、甲B5は、初枝が《梅澤命令》を否定した告白を受け、全体として梅澤命令説を完全に否定するものである。その中に収録されているエピソードが、梅澤命令説を肯定する根拠となるわけがない。初枝のこの部分の証言も、《梅澤命令》を否定すべきエピソードとして記載されているのである。控訴人梅澤が自ら「それにしても無事でなによりだった。本当によかった」と初枝らの無事を喜んだことや、谷川で水を飲んでいた初枝らに出会った宮里良三らが、「すぐ行きなさい。心配しているよ」と稲崎山に集合した部隊が初枝らを心配していることを告げている事実もまた、軍から自決命令など出ていないことを証明する間接事実である。

 併せて初枝から、「いざとなったら自決するつもりでいたんですけど、本能的に死ぬのがこわくなるんですね。それで、家が下谷さんたちをお世話していた関係から、気心の知れた整備中隊の壕に、私たちを殺して下さい、とお願いに行ったんです。そしたら、待ちなさい、そんなに死に急ぐことはない、とさとされましてね。しばらくすれば、われわれは敵に向って突撃するつもりだから、そのあとはこの壕が空になる。まだ米や缶詰が残っている。だからこの壕を使いなさい。ここなら安全だから-と励まされました」という証言を聞いた本多靖春が「この初枝さんの証言から、住民たちは自決命令のあるなしにかかわらず、死ぬ覚悟でいたことが明らかである。そして梅沢少佐以下の軍関係者が、住民たちに自決を思いとどまらせようとしていたことも認めてよいであろう」(甲B26p305)としていることも指摘することができる。

 明らかに、これら初枝の手記や証言に現れた諸事実は、木崎軍曹による手榴弾の交付も含め、いずれも《梅澤命令》を否定すべき状況証拠たる「軍の善き関与」の実例である。 


6 宮里育江証言-梅澤隊長の食糧携行命令と長谷川少尉の保護命令-

(1)
 育江の証言は、『座間味村史下巻』(乙50)、『潮だまりの魚たち』(甲B59)にも収められており、そこには陳述書(乙62)に記述された兵士から「自決しなさい」と手榴弾を手渡された経緯についても、より詳しく証言されており、これを一読すれば、それが《梅澤命令》を支持するどころか、これと矛盾するものであることは容易に了解することができる。 

 育江は、軍に徴用されて経理を担当する事務についていた。3月25日の朝、米軍が隣の安室島に上陸したことを告げ、いよいよ特幹兵が出撃することになった。育江らは、「私たちも武装しますから、皆さんの洋服を貸して下さい。それを着ますので、一緒につれて行って下さい」とせがんだが、小隊長は「あなた方は民間人だし、足手まといになるから連れていくわけにはならない」と断った。そして別れ際、「これをあげるから、万一のことがあったら自決しなさい」と手榴弾を渡されたのである(乙50p61、甲B59p162)。

 なぜか陳述書では、「万一のことがあったら」の部分が削除されているが、初枝の場合と同様、部隊は決して育江らの死を望んではいたものではない。そのことは、陳述書には掲載されていないが、『座間味村史下巻』及び『潮だまりの魚たち』に収められた育江証言に含まれた以下の2つのエピソードからも明らかである。

(2)
 1つは控訴人梅澤からの「食料携行命令」のエピソードである。 

 『座間味村史下巻』に収められた証言録のなかで、育江は、「3月26日朝、『敵艦隊座間味に上陸した』と伝令がきました。そして、『女性の軍属のみなさんは、住民が裏の山に行っていますから、食糧の持てるだけのものは持って移ってください。部隊長の命令です』と言われ、出ていくことにしました」(乙50p61)と証言している。このエピソードは『潮だまりの魚たち』にも収められており、「女性の軍属の皆さんは、島の人たちが裏の山に避難しているから、持てるだけの食料を持ってそこへ移って下さい。部隊長の命令です」との命令を受けた育江ら女性軍属5人が裏の山(高月山)に避難する途中、上陸した米兵に暴行・虐殺される恐怖から前日もらった手榴弾で自決を試みるが失敗に終わった一部始終が記録されている(甲B59p163~)。

 この育江の証言は重要である。梅澤は、伝令を通じて、女性軍属5名に住民が避難している裏の山(高月山)村に移るよう、そして食料を「持てるだけ持って」移るように命令しており、そこに控訴人梅澤の当時の意思と行動が明確に読み取れる。

 控訴人梅澤から育江らに対し、避難場所への移転が命じられたのは米軍上陸後の3月26日の朝であり、忠魂碑前に住民が集合した3月25日の翌日である。3月26日の朝、育江らに住民が避難している裏の山に移れと命令することは、それ自体《梅澤命令》の内容とは真っ向に反する。しかも、「持てるだけの食料を持って」というのは、当然、高月山に避難している住民たちに食料が渡ることも想定されており、育江らには、避難している住民らとともに生き伸びることが求められていたことを意味する。それこそが控訴人梅澤の意図であった。
そもそも軍隊のために住民を犠牲にする無慈悲な《梅澤命令》の中身には、軍隊のための食糧の確保という目的があったはずであり、この「食料携行命令」は、真っ向から《梅澤命令》の内容に反しており、その存在を否定するものである。  

(3)
 更に、『座間味村史下巻』や『潮だまりの魚たち』には、育江の証言として、米軍が上陸してから数日後、重傷を負った長谷川少尉が部下の上等兵らに育江らを保護して親元へ届けるよう指示した経緯が、長谷川少尉の死とともに川が急に干上がった不思議な現象とともに記録されている。

 「しばらくして、死の近いことを悟ったのか、傍にいた藤田上等兵と山下伍長に手元の刀を手渡しました。『自分はもう駄目だから、この日本刀で刺し殺してくれ。それから、この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい』。少尉の傷の状況を知っている二人は承知しました」(甲B59p167、乙50p62も同旨)。そして急に川が干上がり、移動を余儀なくされた育江らは、最後の激戦に巻き込まれずにすんだ。育江たちは後日「泉の水が消えたのは、少尉の魂が水を吸い取って、その場所の危険を育江たちに告げたのではなかろうか」と語り合って冥福を祈ったという(甲B59p168)

 長谷川少尉は、育江らの身を案じ、その身辺を保護して親元まで届けるよう部下に指示しているのである。それは「保護命令」といってもよいだろう。部隊が育江らに対し、親元とともに、「自決」ではなく生き伸びることを望んでいたことは明らかである。このエピソードもまた《梅澤命令》を否定する「軍の善き関与」であると断じる所以である。 

7 上洲幸子証言-もし敵に見つかったら・・・の意味-

 上洲幸子は陳述書(乙52)において、「米軍が上陸して4、5日たった頃」筒井中尉から「アメリカ軍が上陸しているが、もし敵に見つかったら、捕まるのは日本人として恥だ。捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい」と「指示」を受けたと述べる(乙52p1、甲B9、乙53も同趣旨)。

 しかし、筒井中尉が「もし敵に見つかったら」という仮定的な条件がつけられていることを見過ごしてはならない。筒井中尉は命令を遂行する義務をもった軍人である。もし集団自決が《梅澤命令》によるものであれば、筒井中尉は、「既に自決命令は出ている。直ちに自決せよ」と言うはずではないか。これもまた初枝証言や育江証言の中に出てくる「万一のための手榴弾交付」と同じく、幸子の無事を願いつつ、米兵の暴行・虐殺から幸子の身を守ろうとするものであり、むしろ《梅澤命令》を否定すべき「軍の善き関与」として位置づけられるものである。ここでも、これを《梅澤命令》だと捉えることは本件各書籍に描かれた《梅澤命令》の中身を根本的に変質させるすり替えに他ならない。

 なお、幸子は、神戸新聞のインタビューに対し、はっきりと「集団自決の命令はなかったが」と答えている(甲B9)。幸子自身、この筒井中尉の「もし見つかったら‥‥‥。捕まらないように、舌を噛み切ってでも死になさい」との指示が、《梅澤命令》とは異なるものであることを十分認識していたのである。 

8 宮里トメ証言-兵士による安全誘導と食料の返還-

 原判決が《梅澤命令》の真実相当性の根拠として挙げている宮里トメの証言は、『沖縄県史10巻』(乙9p732~)、『座間味村史下巻』(乙50p39~)、特に『潮だまりの魚たち』(甲B59p87~)に詳細に記載されている。 

 トメは、「軍の命令」を聞いていないが、米軍上陸後、「万一に備えて」持っていたネコイラズにより家族で自決することを決め稲崎山に登るが疲れ果てて死ぬ気力も失せた(甲B59p95)。やがて島の陸空を取り囲まれた状況等を実際に見て、「死を免れない」と考えたが、更に避難を重ねるうちに、日本兵に遭遇し「すでに敵兵はすぐ近くまで攻めて来ていて、危険だから、島の裏海岸を通った方が安全です」と親切に指示を受けている(乙B59p98)。

 更に、トメは、芋を掘る鍬を勝手に使う日本兵に対し啖呵を切り、かつて分宿していた中原上等兵と再会し、掘った芋を同人から返還を受け、更に同人から謝罪の意味であろう追加の食料を届けてもらっている(甲B59p108、乙50p47、48)。 

 こうしたトメの証言は、米軍上陸後の絶望的な戦況のなかにあった兵士達と住民達との関わりや交流の実際を伝えるものとして貴重であるが、兵士から、安全な道を指示されたり、食料を届けられたりするなど、部隊の活動を妨げないため、部隊に食料を供給するために住民に自決を命じる《梅澤命令》が出されていたとすれば、絶対にありえないことである(因みに、宮里ナヘも、わずかの食料からわけてくれる兵隊さんがいたことを証言している〈乙9p750〉)。 

 被控訴人らは、日本軍の「命令」は絶対であったとしながら、トメの証言に表れているような絶対的な「自決命令」と真っ向から矛盾する諸事実を全く見ようとしない。トメの証言を「隊長命令」を推認する根拠の一つとしてあげている原判決も同様である。証言を素直にみれば、《梅澤命令》の虚構性は明らかである。



目安箱バナー