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富里安江『赤ん坊のミルク代りに椎の実を噛み砕いて…』

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渡嘉敷村史資料編 p381

赤ん坊のミルク代りに椎の実を噛み砕いて…

渡嘉敷 富里安江(当時二九歳)


  私の家は、阿波連神杜のところを右に曲って、一番はずれの家でね。

  私の夫は、あれは何年だったか、十七年か十八年だったはず、召集されたものだから、三歳になる長男つれて実家に帰っていたサー

  家にはね、長男の嫁さんと、私の息子と同じ歳の男の子、妹が三人、次女は十七歳、三女は十三歳、四女は、五つだったか、六つだったか、小学校にまだ行ってなかった。

  それに、父親と母親、ダー 幾つだったかね、二人とも五〇代よ。

  男の兄弟が二人、長男は、支那事変にひっぱられ、次男は、球部隊の経理にいたが、一〇・一〇空襲の後、面会に帰って来て、もう船がなくなって、島にいたら、そのまま防衛隊にとられてよ。

  三月二三日(昭和二〇年)、ちようど彼岸の日だったヨー、御馳走つくって仏壇にも供えて、あれは、何をしに家を出たかね。

  今の青年の家の宿舎(職員用)があるでしょう。あそこはよ、全部田圃だったがよ、そこに水を引く小川があって、橋グヮーがかかっていた。

  その橋の上で、パラパラパラーされてよ、一〇月空襲で経験しているから、ハイ、これは敵だ! とすぐ気付いて、豆腐もっていたが、あれはどうしたかね。

  すぐ家に逃げ帰って、家の裏に防空壕掘ってあったから、そこに隠れていたが、一日中、爆弾落としたり、機銃射ったりして、昼中、もう壕から動けなくなって、日が暮れてから、トー、一〇月空襲と違うから、といってオンナガーラに作っておいた避難屋(ヒナンヤー)に九人家族はいって、もう、その日から戦(イクサ)は始まって、昼は飛行機がくるから外に出られない、夜になるとはい出して、家に行って、米やら味噌やら取って来るわけよ。

  艦砲が始まったのは、二五日だったかね、落ちて破裂するときはヨー、壕が地震みたいにゆれて、丸太組んでチカシ(支柱)してあったが、天井から土は落ちるし、子どもたちは泣くし、大変だったヨー。

  今、玉砕場と呼ぱれているところよ、あそこに行ったのは、アメリカーが上陸して後だったはずよ。


  青年団が来て、北山(ニシヤマ)の軍の防空壕に集まれー、するものだから、二七日の晩から登っていったサーね。

  ダー、子ども二人も抱えているでしょう、男は、おじい(父親)だげサーね。

  暗いし、道は判らないし、川伝いに登っていったから全部ビショピショ濡れて、黒砂糖や鰹節もっていったけど、途中で弾はボンボン落ちるし、どこで捨てたかね、軍の防空壕に着いたら、何んにも持っていないサー。

  むこうに着いたらヨー、軍の偉い人が、お前たちは、すぐ帰れ、といわれて、何しに登ってきたか判らなくなって、先に登った人たちが、むこうで死んでいたヨー

  玉砕場からは、村で組み分けして、ハイ、この班は、何処のカーラ、この組の避難場は、どの山といわれて、降りてきたが、敵は、すぐそばの山に登って、大砲、迫撃砲、機関銃と撃ってくるわけよ。

  谷川から遠廻りしたりして、自分たちが元いた避難場所に帰ってくるまで、四日ぐらいかかったはずよ。食べ物はないし、水ばかり呑んで。

  そして、オソナガーラの元の避難屋(ヒナンヤー)に着いたが、食べ物は少ないし、人は、渡嘉敷の人も阿波連の人も大勢いるし、もう、トイシガバーケー(奪い合い)だったヨー。

  三月から八月に山おりるまで、雨は降るし、着換えはないし、シラミよー、掃き捨てられるほどいたヨー、着物の縫い目、襟首、腋、全部ムサムサー(もぞもぞ)してサー、あヽ、今、思い出しても気持ち悪くなるサー。

  食べ物はね、田圃つくっていたから米が少しあったサー、家の裏の防空壕に隠してあったからヨー、それ取りに夜、アメリカーターが寝しずまった頃、避難屋(ヒナンヤー)を出て、米とって帰りに、アメリカードー(アメリカ兵だぞー)すると、放り出して逃げたりして、全部は運べなかったサー。

  芋や野菜は、初め自分の畑から掘っていたがヨー、もう後では、他人の畑だろうが関係なかったサー、近くの畑からヨー、盗んだりして、男のいる家はヨー、浜に寄り物、アネ、特攻機が当たって沈められた船から、メリケン粉が流れてきたり、缶詰や果物、粉ミルクも流れてきたらしいよ、それを拾って食べたり、魚とったり、逃げ出Lた豚や山羊つかまえて殺して食べていたが、ダー、私たちは、男は年寄り一人、嫁も私も、子持ちで、あまり働けないわけよ。

  それでも、一べん豚つかまえて、トー(やれ)今日は御馳走にありつける、と思って、首に縄つけて引張っていたら、日本軍の兵隊がとび出して来て、持って行きよった。

  あの時は、アメリカーも怖いが、日本兵も怖かったヨー、食べ物は、あらいざらい持って行くし、山おりようとすると、スバイだといって殺されるしL、

  田に稲が実るまで、食べ物はないし、大変だったヨー、ソテツよ、アメリカーに見つからないように、山いって切ってくるわけサーね。

  それを切千しして、乾いたものを川にもっていってさらすサーね、今度は、カマジー(南京袋)に入れて発酵させて、虫が湧くまで待ってから、ようやく食べられるようになるサー、さらし方が弱くてもダメ、虫が湧く前に食べてもダメ、待ち切れたいで食べた人たち、もう中毒してバタイだよ、島の人は、よく知っているから中毒した人はあまりいないが、大和兵隊たちよ、それも、下端の人、可愛想に食べ物がないから、もう待ち切れなくなって、すぐ食べてよ、それで死んだ人も出ているよ。

  ソテツも全部切り倒されて、後はヨー、椎の実ヨー、前の年に落ちて角(ツノ)(芽)が生えているものよ、それを拾って、どろどろになるまでかみ砕いて、湯で溶いて、子どもたちに飲ませたり、山羊に喰わせていた草ヨー、それも全部食べたサー。

  籾とられるようになって少しはよくなったが、それも米を一合か二合、シラギル(精白)までが大変よ、アメリカーの目をかすめて、田圃から稲の穂だけ苅り取って、壕に持ち込んであったイシウーサー(石臼)で挽いて、玄米にして、一升瓶に入れで、グーシ(細竹)でつくわけよ。

  そうして半つき米ぐらいについた米を一合か二合大きな鍋に入れ、あとは、摘んできた草、ダシも油も入れないジューシー(雑炊)、それもボロボロー、それにソテツ入れたり、ダー、九名も家族がいるし、米が少しでも入っているだげでも有難いだったヨー。

  玉砕場から降りてくるときヨー、母親は、死んだ人たち見てかね、ブチクン(失神)して、ずーと私がおんぶして逃げまわったサー。

  私たちが山おりて捕虜になる前よ、伊江島の十七、八歳の若い人たちが、アメリカーのビラ持って日本軍の陣地に行きよったが、全部捕まえられて帰って来なかったですよ。

  私たちが山おりたのは、確か、八月の十四日だったはず、親戚ぜんぶ集めて相談してから、日本軍に見つからないよう、夜、四、五人ずつ別れて、やられるかも知れないサーね、日本軍にヨー。

  それで隠れかくれして降りて、十四日には、渡嘉敷の近くまで来て、もう部落は、伊江島の人たちで一杯サーね、

  そこで一晩すごして、夜明けに部落に入って来たよ。

  うちは、おかげで誰一人かけなかったが、次男ヨー、防衛隊から帰って来てから、ダー、食べ物はないし、栄養失調で体、弱っていたし、あれ一人よ亡くなったのは。私の夫は、支那で戦死して、ダー、私が再婚したものだから年金もとれなくて。

  シージャー(椎)の実をかんで育てた子どもも、もう、四〇サーね、島から出ていって、今は私一人だよ。


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