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2 台湾の日本語教育の歴史的展開

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植民地支配と日本語
第一章 台湾における日本語普及政策

2 台湾の日本語教育の歴史的展開


台湾での日本の植民地政策はまず同化政策として現れる、とよく指摘されている。総督府の言語政策もそのなかに位置しており、植民地政策の重要な一環であった。ここで、まず学校教育を中心にその日本語普及政策の時代区分を概観しておこう。

第一段階は、一八九五年から一八九八年七月勅令一七八号の台湾公学校令発布までの期間である。このあいだに、芝山岩学堂と国語伝習所をはじめ、台北県立日本語学校、基隆学校・宜蘭国語会などの県、庁立の日本語学校が設立された。そのいずれも応急的な要素をもち、「施政上の便を謀る」ための性質が目立つ。

第二の段階は、台湾公学校令発布から一九一九年(大正八年)一月の台湾教育令公布までである。公学校令によれば、公学校は台湾人の子弟に「徳教ヲ施シ実学ヲ授ケ、以テ国民的性格ヲ養成シ同時ニ国語ニ精通セシムルヲ以テ本旨」としている。この期間に、公学校令の改正をはじめ、たえず教育制度が修正され、学年の変更、修業年限および授業科目の変動などもつねであった。

一八九八年三月から九年問台湾総督府民政局長の任にあった後藤新平は、「教育方針は未だ考究中」と断ったうえで、当面の大事は、「乃ち国語の普及なり。目下は唯此の目的を達するを第一とす。此の
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第一主眼にして達せらるヽ日は、教育の方針も亦考究を経て確立の秋来るべし」と述べ、むしろ日本語の普及を教育方針確立の前提条件としている。しかし教育方針が揺れていたため、日本語普及政策の実行に、制度としての保証を提供するまでには至らなかった。学校教育では、日本語の授業が重要視される一方、大正中期までは漢文の授業が依然一定の比重を占めていた。学校教育用語の面では、大正二年総督府が教科書を改正した機会に、日本語教育において母語の使用を禁止したにもかかわらず、大正八年の教育令までは徹底されなかった。

第三の段階は、一九一九年(大正八年)一月の台湾教育令公布から一九四五年までである。そのあいだにいくらかの調整もみられ、さらに細かく分析することも可能であるが、日本語普及政策の確立と強化および基本的な立法措置の整備などの面から、大きく一つの時代として考えられる。台湾教育令は、それまでの公学校令と違い、「国語に精通せしむる」の代わりに、「国民たるの性格を涵養し国語を普及する」ことを普通教育の目的として強調する。これは、もっと広い範囲での日本語普及を意味していると考えられる。

一九二二年二月、新台湾教育令が公布されてから、いわゆる内台共学時代に入る。新台湾教育令は「内地人」と「本島人」の区別の代わりに、「国語を常用する者」と「国語を常用しない者」という分け方で、はじめて台湾人の学生が日本人学生と同じ学校で勉強することを認めた。事実上、もちろんそれはほんの一握りの特権的階層の子弟にかぎられていた。政策主体としての台湾総督府が、国語の概念をもって立法措置に臨んだことはかつてなかった。「国語」の常用か否かという基準を打ちだしたことから、その言語政策の一端がうかがわれる。その意味で、注目すべきことである。さらに、一九四一年(昭和一六年)四月には台湾公立国民学校規則が発布され、日本語教育が一段と強化された。

学校教育から日本語普及の実態をみると、日本語教育を受けた児童の比率は、一八九九年(明治三
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二年)の時点では二%だったが、一九一八年(大正七年)は一六%弱、一九三五年(昭和一〇年)は四一・五%、一九四四年(昭和一九年)は七一%にのぼった。

学校教育を通して日本語の普及をはかろうとすると同時に、「社会・家庭の国語化」の政策もとられた。一九一〇年代からおかれた国語普及会、国語夜学会、国語練習会などがそれである。これらは、地方官庁所管の組織・施設として、一九二〇年頃から、常時日本語の普及に利用されるようになった。一九一四年(大正三年)には台湾総督を総裁とする台湾教育会が、「国語演習会」を創設し、年に一回のぺ-スで全島の日本語コンクールにあたる演習会を催した。これは、やがて日本語普及のための大がかりな行事となり、日本の敗戦まで計三一回行われた。

一九二八年(昭和三年)、官庁に社会教育係が設けられるようになり、一九二九年台中に国語講習所が設立された。一九三一年、総督府は府令の形で、公立の特殊教育施設に対して国庫補助を行うように決めた。それ以後、各州、庁に国語講習所が設けられ、これに呼応して総督府社会課は「公学校に入学し得ない児童は勿論、七〇歳以下の成年は男女を問わず悉く国語講習所に入所せしめて国語を学習させ、なお国語講習所も各部落に設置せしむるを理想とし、将来はこの理想に向って奨励をなす計画」を打ちたてた。一九四一年(昭和一六年)の『台湾事情』は、一年に一〇〇日以上、一年ないし四年のあいだ日本語教育を施す国語講習所および簡易国語講習所が一万五〇〇〇カ所をこえて、生徒数は七六万人以上であると報告している。「生徒のなかには乳呑児をかかへた主婦もあって、夜間電灯の下で乳房を含ませながら講習を受けてゐるのなど実に涙ぐましいものがある」と、ある日本人は記録している(加藤春城「台湾の国語教育」一九四二)。

一九三七年には「国語常用家庭」制度が設けられ、家族全員が日本語を常用し、そのうえに、「皇民的生活」すなわち神宮大麻の奉齊、服装住居および生活習慣などの日本化も要求された。一九三八年から「国語を中心とする生活の指導と、皇民生活を営ましめんとする家庭の幼児に対する基礎的錬成」という自的を掲げた「幼児国語講習所」まで開かれ、一九四二年(昭和一七年)には一七九七ヵ所にも達し、園児は七万人をこえた。

台湾総督府は、このようにその統治政策のもっとも基本的な条件として、手段をつくして日本語の普及をはかろうとした。一九三二年から四年問台湾総督の任にあった中川健蔵は、総督府の植民地行政と言語問題に対する認識を次のように述懐している。

わたしは最近台湾に在任しましたが、いわゆる国語が十分に理解されて初めて、国民性を会得するのであるとゆうことは、植民地に行くと実によく分かります。日本精神の涵養が植民地統治の上には、最も必要であって、歴史の話もし、色々学校で教育をするが、実は言葉の意味が十分に理解されて初めて、国家精神の涵養ができるのであります。(中略)国語の普及とゆうことが新領土の国民性を形作る上に一番必要であります。植民地の統治には、同化主義がよいとか、悪いとか、或いはその土地の風俗に従って行くべきものであるとか、言われていますが、もし植民地を日本の本当の領土たらしめんとするには、どうしても其処の住民が日本精神を持たなければならん、それにはどうしても国語が必要である、それで国語普及とゆうことは、植民地行政上に非常に重要性がある。(「国語運動」第一巻二号、一九三七)

年度別 国語教習所 簡易国語教習所 合計
所数 生徒数 所数 生徒数 所数 生徒数
昭和6年 68 561 805 31201 873 31762
  7年 185 4835 702 27675 887 32510
 10年 1629 63023 754 31370 2383 94393
  13年 3454 214865 3852 257277 7306 472142
 15年 11206 547469 4627 215794 15833 764263
『台湾事情」(昭和16年版・台湾総督府刊)による
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日本語の普及が新領土の「国民性を形作る」ため、「日本精神」をもたせるために、いちばん必要なこととされ、植民地統治上、不可欠なことと考えられ、推しすすめられてきたのである。一九四二年の時点では、日本語教育を受けた人数はすでに三二〇万人をこえ、当時の台湾総人口の五七%を占めた。

他方少数民族に対する日本語普及対策も重要視された。樺山総督は就任早々、「本島ヲ拓殖セントセバ、必ズ先ヅ生蕃ヲ訓服セシメザルベカラズ」と訓示をだした。伊沢もはじめから「生蕃教育」に関心をもち、一八九六年九月に「生蕃教育について学務部長通知」をだしており、のちにも数回言及している。台湾の原住民族は高山族というが、じつは広域に分布する言語と文化の違う九つの部族(アタイヤル、サイセット、ブヌン、ツオゥ、ルカイ、パイワン、アミ、ピュマ、ヤミ)を総称したいい方である。明末から「蕃人」、「土蕃」と呼ばれてきた。日本植民地時代には「蕃族」、「蕃人」と呼ばれていたが、民族矛盾を緩和するため、一九三五年からは「高砂族※」と公的に改称した。高山族に対する日本語普及政策は、資源開発と治安整備に結びつけて考えられており、一九二七年までには、すでに全人口の三分の一に対してある程度の日本語教育を施した(「台湾原住民の向化」台湾総督府警務局理蕃課編)。

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※ 高砂という呼称の由来には、日本人がはじめて台湾にきたとき、その美しい景色が播州の高砂の海辺に似ているとみて、台湾のことを高砂と称したという説のほかに、倭冠が台湾の「打狗山(タアカオスア〕」の発音をなまってタカサゴ・タカサグンと呼んだという説がある。ちなみに、「高雄」という地名も同じように、「打狗山」の発音から日本人が漢字にあてたものであった。漢文の構文論と造語法からみても、高も雄も修飾語的言葉で、中心詞としての名詞がなくて、この二字だけでは地名になれないのである。
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少数民族への日本語普及の担当機関は一般とは違っていた。一八九六年(明治二九年)四月、軍政から民政に切りかえた総督府は、蕃地を民政局殖産部の管轄下においた。九月、恒春国語伝習所チロソ分教場が設けられ、いわゆる「蕃人」への日本語教育がはじまった。同年に一〇ヵ所の蕪墾署が設置され、翌年四月の撫墾署長会議で、「各蕃社より児童の怜悧なる者を一所に集め、日常の生活に須要なる事項及五〇音並びに簡易なる数字の類を教授せんことを希望す」と打ちだした。一八九八年六月に撫墾署が廃止され、その事務は弁務署第三課に移された。二三の弁務署では、派出所を設けて蕃童教育を実施したが、正式な教育機関を設けるまでには至らなかった。
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一九〇一年一一月に弁務署が廃止され、新設置の警察本署に蕃務課(のち理蕃課)が設けられた。警察本署は各要地に警察官吏派出所を設置し、所員が執務のかたわら蕃童を集めて教育するという方策を講じた。蕃童教育所と称する教育機関が警察官の手によって、はじめて作られたのである。警察と教育、あるいは警察と言語との結びつきは、植民地での言語政策の本質的な一面を物語っている。一九〇五年二月、蕃人子弟就学に関する公学校規程が勅令により公布され、国語伝習所の代わりに、一五ヵ所の公学校が設立された。「國語を教え」、「國風に化せしむる」ことが、その規程によって公学校の目的として決められている。その際、当時のいわゆる歴史仮名遣いではなく、表音的仮名遣いがつかわれていたことに注目すべきだろう。のちに民政長官の名義で、蕃童教育標準、蕃童教育綱要、蕃童教育費額標準などが制定され、蕃地関係の各庁長に通告され、一九二八年まで実施された。それ以後、蕃童教育所が設置されるようになった。一九三六年七月、総務長官から「高砂族国語講習所規程準則」が通達され、警察官吏駐在所または派出所に、成人向けの国語講習所を設置させた。授業はたいてい夜間に行われ、教師もほとんどは警察官だった。一九四三年末には、二七二ヵ所の国語講習所が設置され、講習を受けた人数は二万人をこえた。

植民統治に対する少数民族の反抗が頻発したこともあるが、樺山時代から「生蕃対策」には非常に神経がつかわれてきた。そして、日本語教育もその有効な手段として考えられ、台湾総督府警務局の『高砂族の教育』(一九四三年版)によれば、山地高砂族の教育費はすべて国費で、教育所においては授業料を徴収せず、教科書なども給与制であった。これにより、日本語の普及は他の地方より、むしろ少数民族の方がすすむことになり、「皇民化」教育もより徹底された。のちに組織された高砂義勇隊の肉搏斬込隊や敵陣夜襲隊が、侵略戦争の第一線にだされたことなどは有名な話である。それに対して、たとえば海南島に派遣された、文化水準が高いとされている漢族系の台湾人志願兵は、「陣前起義」し、国民政府に寝返ってしまった
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という例がある。

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