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【日中歴史研究】南京事件の中国側論文(要旨)
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【日中歴史研究】南京事件の中国側論文(要旨)
2010.1.31 22:53
日本軍が上海を占領した後、3つのルートから南京攻略を開始し、12月13日、南京は陥落した。敗退した中国軍の大半は捕虜となり、集団で日本軍に殺害された。第16師団の中島今朝吾師団長は12月13日の日記で、数千人の捕虜を処理したと記述した。日本軍の南京における戦闘の報告は敵の数の羅列が多く、捕虜数はほとんど触れていない。日本軍は上から下まで徹底的に捕虜を殺害する方針を実施したことがうかがえる。
多くの中国兵士が軍服を脱ぎ難民区に隠れたが、日本軍は顔だけで敗残兵を随意に判断し、多くの平民が軍人として殺害された。12月24日、金陵大学の難民所のテニスコートから、一日だけで200~300人が五台山と漢西門外に連れて行かれ、殺害された。
日本軍が南京郊外の農村部でも市民への虐殺を実施した。金陵大学教授が1938年に行った調査では、南京郊外の一部地域では、被害者総数は3万950人。平均して住民の千人のうち29人が死亡し、7世帯に1人が殺害されている。
捕虜と平民に対する虐殺以外に日本軍の中国女性に対するレイプも大量に行われ、国際安全区にいた米国人宣教師の記述によれば「私のドイツ人同僚の推測では2万件のレイプ事件があった。私は少なくとも8千件はあると思う。金陵大学周辺だけで100以上の例を詳しく知っている」。その後、性病が軍内で流行することを恐れた日本軍は南京で慰安所を設立し、強制的に多くの中国人女性を日本軍の性の奴隷にした。
南京市内での暴行を見た米国人記者が欧米新聞で報道し、国際社会に大きな衝撃を与えた。1938年2月、華中方面軍司令官の松井石根大将が日本の参謀本部に呼び戻された。だが日本軍が南京占領した翌日、東京では40万人が南京陥落を祝った。南京のニュースは日本では封印され、戦後の東京裁判で日本国民は初めて真相を知った。
戦後、同盟国と中国が東京と南京で南京大虐殺に関する裁判を行った。東京裁判の判決は「南京占領後の一カ月の間、南京市内と近郊で2万件のレイプ事件が発生。占領後6週間で、南京市内と近郊で殺害された平民と捕虜は20万人以上」と認定した。南京で行われた中国国防省の軍事法廷では「南京大虐殺の中で、集団で殺害された人数は19万人、個別で殺害されたのは15万人余り、被害者総数は30万人以上」と認定している。(筆者は栄維木・社会科学院近代史研究所「抗日戦争研究」編集長)