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山の中へ

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中公新書256
名嘉正八郎・谷川健一編
沖縄の証言(上)
庶民が語る戦争体験
中央公論社刊
昭和46年7月25日初版
昭和57年2月1日5版


山の中へ

北谷村(ちゃたんそん)砂辺(すなべ)
喜屋武(きやん)スミ
家事三十九歳

 私たちはクマヤーのガマ〔白然の洞窟〕という自然壕に、みんなといっしょにはいっていました。もう艦砲がはじまっていました。それで危険になってきて、そこでどうしようかと、村中の人たちが相談して、その夜九時ごろにみんな村から出て避難するようにときまったんです。

 私たちは嘉手納(かでな)の汽車の道、その道をたどって北に向かい、それからずっと山原(やんばる)に向かって歩いて、名護(なご)に行きました。

 砂辺を発つときに、夕方、アメリカの船が燃えているのを見ました。だれかが日本の水上特攻隊がやったのだろうと話していました。その一時間前に、北谷のハンビ飛行場〔現在〕の手前のジャーガル〔謝苅〕にまがる橋のところで、兵隊さんがバンザイ、バンザイして、特攻隊が出て行くのを見送っているのを、私たちは見ていたんです。

 その日は、朝からの艦砲がやんで後、喜屋武さん(この男の方はあとで亡くなられたそうですが……)という村の指導者が壕に来て、みんな出て見なさい、日本の連合艦隊がたくさん来ているよ、いくさは勝っているんだよ、といってですね、私たちは壕から出て海を眺めたんです。

 そうしたらまもなく、とつぜん軍艦から攻撃があったんですよ。私たちはあわててすぐ壕にもどって、もうぜんぜん壕から出られなかったんです。それから夕方になって艦砲がやんで、特攻隊が出て行って、あとでみんな避難のために出発ということになったとき、敵の軍艦が燃えているのを見ました。

 砂辺を発ってから恩納(おんな)で夜が明けたんですけれど、私たちはアダンの下に隠れて、少し眠りました。私は長女〔十二歳〕と次女〔五歳〕と三女〔二歳〕をつれていました。長男〔十五歳〕は農兵隊に出ていました。それから私たちは、恩納から歩いて、名護に出て、さらに北に向かって歩いて、羽地(はねじ)村の川上(かわかみ)から仲尾次(なこうじ)に行って、そこの避難小屋にいたんです。

 そこにも艦砲が飛んできたので、そこから山の中にはいって、多野(たのう)岳のあっちこっちに逃げ隠れていました。もう食糧はなにも持っていませんでした。多野岳には、日本の海軍がいたんです。海軍の小屋から少し離れた山の下の岩穴に、たくさんの米俵が積まれていました。それは友軍の米でした。朝の七時ごろから番兵が立っていました。だから私たちは、おようど朝の七時ごろまでに、山の急坂をおりて行って、その米を少しずつ盗んで来たんですよ。

 それから多野岳にも弾が飛んできたので、私たちは逃げて、山を越えて東側の、久志(くし)村〔現在名護市〕の三原(みはら)というところに行きました。三原というところはなにもないところで、川ばたに、自分たちで茅を集めて小屋をつくって、食糧は山のあっちこっちの畑からイモを掘って食べていました。天仁屋(てにや)までも行きました。

 多野岳から三原に来るときは、砂辺の部落の人たちも何人かいっしょでした。みんな友軍の米を取ってきて持っていましたから、三原では、その米を節約して食べていました。ところが、山の中から出てきた敗残兵のような日本兵が、米を持っている避難民からつぎつぎと坂り返して、また山の中に行ってしまいました。

 私は多野岳から三原に来るとき、子供たちをつれていることだし、米は持てそうもなかったので、山の中の叢(くさむら)に隠してあったんですよ。それをあとで取りに行ったんです。部落の娘さんをつれて多野岳にまた行ってみたんです。そしたら、三原の山の中でも防衛隊や日本兵の二、三人の死体を見ましたけれど、海箪の野戦病院の小屋まで来たら、小屋の廂(ひさし)の下に、何人も死体がころがっていましたよ。生きている兵隊が三人いました。一人の兵隊は、両手がなくなっていて、あき罐のころがっている前にすわっていたんです。もう動けないようでした。その人が、おばさん、と叫んだもんだから、私は驚いて、はいと返事したら、水をくんで飲ましてくれないか、というんです。そしたら、足を怪我している兵隊と、どこか怪我してやはり動けないで寝ころがっている兵隊とが、自分たちにも水を飲ましてくれ、と頼むんです。三人眼だけパチパチして虫の息で生き残っていたんです。弾はときどき飛んでくるし、私はどうしたものかと迷いましたよ。水をくんでやらないと、その罰で弾があたりやしないかしら、また水をくんでいるうちに弾にあたりやしないかしら、と私は心配しながらも、岩のあいだからポタリポタリ落ちる水をあき罐にためて、それを三人の兵隊に口まで持って行って飲ましてやったんです。

 三人から感謝されましたけれど、寝ころがって起ききれない若い兵隊は、ありがとうおばさんとくり返Lいっていました。その言葉使いから、私は沖縄出身とわかって、兄さんは沖縄人(うちなーんちゅ)でしょう。はい沖縄人ですよ。それじゃどこなの。泡瀬(あわせ)のカンジェクぐゎ〔金細工小(ぐゎ):屋号=呼称。小は沖縄的表現の接尾語〕というところのものです。そう、それじゃゆっくりゆっくりでも這って歩けたら、いっしょにつれて行くけど、と私はいったんです。どうも動けませんよおぱさん、ねえだからおばさん、もし泡瀬の人に会ったら、泡瀬のカンジェクぐゎの息子が多野岳で倒れているから、つれに来れるんだったらつれに来てくれって伝えてくれませんか、というもんだから、私は、じゃそうするよ、といって別れたんです。

 それから三原の山の中で、偶然にも泡瀬の男の人に会ったんですよ。それで私は、さっきの怪我した兵隊のことを話したんですよ。そしたら、ああそれは親兄弟以上にはどうにもなりませんねおぱさん、といっていました。それじゃカンジェクぐゎの親兄弟にもし会ったら、そういい伝えてくださいね、といってその人とも別れたんです。

 それから、米を持って三原へ帰るとき、道をまちがえて、馬の死んでいるところに出たんですよ。そこから引き返して歩いているとき、部落のウマニーぐゎ〔義姉の家〕のおじいと出会いました。おじいは荷物を背負っていました。ゆっくりゆっくりおりて来るところでしたけれど、急に荷物といっしょにどんどんころがって行ったんですよ。それでも私は助けることができないもんだから、そのまま三原に行ったんです。三原の山の中で、またも日本兵の死体と出会いました。そして三原に行ったら、山の中でころがったおじいは大した怪我もせずに帰って来ましたけれど、そのおじいはまもたく栄養失調で亡くなられました。また、あとでだれかが多野岳に米を取りに行ったら、もう米もなくなっていて、海軍の小屋も焼きはらわれていたそうです。

 三原ではお年寄がほとんど栄養失調でつぎつぎと亡くなってしまいました。三原にはもう食糧になるものがなにもなくなって、みんなといっしょに私たちは大川(おおかわ)〔旧久志村〕に移りました。

 大川では、名護の方まで山からおりて行って、イモ掘りに出かけました。甘藷(いも)はいくらでも取れたので、食糧には当分こまらずにいたんです。ところが、あとからは、捕虜をつかまえにアメリカーが回っていましたから、私たちはもう名護の方にも行けなくなりました。そしてとうとう、大川にもカチミヤー〔捕虜をっかまえる人〕が来ていました。

 そのころ、名護には、アメリカーが多かったもんですから、私は子供たちをやらして、アメリカーから煙草ぐゎをもらってこらしたんです。その煙草ぐわを持って、私は安部(あぶ)、嘉陽(かよ)、天仁屋まで行って、イモや食糧と替えてきたりしていました。MPが通らないうちに、明け方に行って、ときにはヒージャー〔山羊〕の肉とも取り替えてきました。天仁屋の学校には、那覇(なは)の人たちがいました。那覇の人たちは、反物も持っていましたけれど、食糧難で飢えているのですから、私は食糧としか交換しませんでした。

 捕虜になるときは、男の人たちはみんな大川の山の中に逃げてしまって、女子供だけが残っていました。私は小さい子供はおんぶして大きい子供たちは手をつないで、捕虜にはなるまいと思って、逃げるつもりでした。そしてカチミヤーが来たときには、小屋の裏からそのへんをおろおろ逃げ回っていましたけれど、アメリカーに追い回され、囲まれてしまって、とうとうつかまってしまったんですよ。

 それから捕虜はぞろぞろ歩いて、古知屋(こちや)・潟原(かたばる)〔旧金武(きん):地名を2つつなぐ用法は、沖縄特有の連用語〕の方へつれて行かれました。歩いているとき、アメリカーもついていました。私はバーキ〔ざる〕に米五合ぱかりと、ウサおぼさんから預かっていた油鍋を入れて、頭にのせて歩いていたんです。そのバーキの中の鍋を、どういうわけかアメリカーは取って道に捨てるんですよ。鍋は預かりもんだから、なくしたらたいへんだと思い、アッサミョー〔感嘆詞〕、私は拾って、またパーキの中に入れたんです。すると、また取って捨てるので、また私が拾いに行こうとすると、アメリカーは捨ててはみたものの、自分で拾ってくれて、しかたなさそうに私のバーキの中に入れてくれました。

 古知屋には、日本兵が山から出てきて、避難民から食糧をもらいに来て、まる一日イモ掘り作業に出てから、また山の中へ逃げて行きました。髪もぽうぼうして武器も持たず、見るからに気の毒な姿でした。

 私たちは戦争が終わってあともずっと古知屋で開墾作業をしながら暮らしていました。



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