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こじつけの手法

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正論2006年9月号(産経新聞社・扶桑社)
靖国特集 
沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実
弁護士 徳永信一


こじつけの手法


渡嘉敷島の場合は、もっと手の込んだ捏造がなされていた。

朝日新聞は昭和63年6月16日付夕刊に、当時、渡嘉敷村役場で兵事主任だった富山真順氏の語を新証言と銘打ち、
「3月20日に軍が17才未満の少年らを非常招集して2個の手榴弾を配り、兵器軍曹が『いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残り一個で自決せよ』と命じた」と報じた。この記事は、平成2年3月に出版された渡嘉敷村の『村史通史編』に収載され、これを執筆した安仁屋政昭沖縄国際大学教授は、手榴弾が軍の厳重な管理のもとに置かれた武器であることを理由に、「これこそ『自決強要』の物的証拠というものである」と主張する。

手榴弾の配布をもって自決強要の物的証拠だとする安仁屋教授の主張は、同教授の「解釈」ないし「評価」にすぎないものを事実だと強弁するものである。つまり、手榴弾の配布は自決命令と同じことだというすりかえのレトリックを用いて、自決命令をこじつけようとしているのだ。

しかも、そもそもこの新証言には重大な疑問がある。

富山氏は、沖縄戦を特集した『潮』1971年11月号に、手記を寄せていた。そこには「いざとなれぱ敵を殺してから自分も死のうといつも2個の手榴弾をぶらさげていた」とある。そして同じ『潮』に掲載された星雅彦著『集団自決を追って』には、村長から機関銃を借りてこいと言われて、軍陣地に駆け込んだ富山氏が「足手まといになる住民を撃ち殺すから機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられたことが記録されている。また、昭和62年に出版された渡嘉敷村史資料編には、富山氏の証言が掲載されているが、そこでは青少年を招集して手榴弾を配布したことなど一切語られていない。富山氏の新証言なるものの信頼性は限りなく怪しい。

さらにまた、百歩譲って、富山氏の前記証言を真実だと仮定してみても、米軍が上陸する前、赤松隊と村民が協カしあって特攻ボート等の整備作業を行っていた昭和20年3月20日の時点での「手榴弾の配布」を「これこそ『自決強要』の物的証拠」とする論理そのものが成立しえないことは明らかであろう。赤松隊は、3月20日時点では、まもなく特攻隊として敵艦隊に突撃して自爆する予定だったのだ。後に守備隊に転身し、持久戦を闘うことになろうとは夢にも思っていなかったのである。

赤松元大尉は、『ある神話の背景』のなかで、「正直言って、初め村の人たちをどうするかなどということは、頭にありませんでした。何故かとおっしゃるんですか。我々は特攻隊です。死ぬんですから、後のことは、講かがなんとかやるだろうと思ってました。すくなくとも我々の任務ではない、という感じですね。」と語っている。

特攻で全減する部隊が、その後にあるかも知れない米軍の上陸に備え、住民に自決用の手榴弾を配ったとしても、それは「捕虜になるよりは死を」という村民の願いに応えたものに過ぎない。そもそも軍が全減した後の自決命令に強制カがあろうはずもない。かかる手榴弾の配布をもって、住民に自決を強要した証拠だとする安仁屋教授の主張が、こじつけとすりかえの詭弁であることは誰の目にも明らかであろう。


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