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I 沖縄戦前夜―序にかえて

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pipopipo555jp

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野村正起
沖縄戦負兵日記
玉砕戦一等兵の手記
1974年10月15日 第1刷発行
1978年 8月15日 第2刷発行
太平出版社

I 沖縄戦前夜―序にかえて



一九四四年(昭和一九)年八月五日の朝、沖縄本島那覇港内港に上陸した同島守備部隊の一部支隊は、その規模においてゆうに一個師団を上回る大部隊であった。

わたしは、このなかに混っていた海上特科隊-暁一六七四四部隊(船舶工兵第二六連隊)の兵であったが、いまもなおわたしの脳裡には、そのときの情景が髣髴とよみがえってくる。

この大部隊によって埋められた内港の岸壁には、大発動艇(大発)が蝟集していた。そして沖合には駆逐艦数隻と貨物船十余隻の船団が並び、空には数機の倶察機が旋回していた。

それが鮮明な空と草色の海をバックにした滴るような緑の樹木の点在する港の風景にマッチして、いかにも印象的であった。

わたしは、その時の感動をまだ忘れることができない。……門司を出てからの五日間。絶えず敵潜水艦と敵機の襲撃に脅かされてきたわれわれにとって、この沖縄本島への上陸は、文字どおり蘇生の思いがしたものである。

このとき上陸した暁部隊の兵員は、途中で奄美大島へ派遣された第三中隊を除く本部及び本部付通信小隊、材料小隊、第一・第二中隊の七百十余名であった。

部隊は、間もなく宿舎に向かって出発。四辺にひしめく他の部隊のなかをぬって、港の裏町に入った。
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そこには、高い石垣の塀に囲まれた赤瓦葺きの家や、屋根の上に獅子を象った棟瓦のある家など、沖縄特有の家々が建ち並んでいた。

ゆきかう住民は、陽にやけたきつい顔立ちで、耳にする年寄りのことばはまったくわからず、なんだか、われわれは異国に来た思いにかられた。

だが、その裏町を抜けて那覇の町に入ると、さすがに本土の繁華街に変わらぬ建物も数多く見られた。しかし住民の姿は少なく、道路の両側一杯に、隊伍を整えた部隊が往来し、そのなかを兵士や荷物を満載した軍用トラックが砂ぼこりを巻き上げながら走っていた。

やがてわれわれの部隊は、那覇の町をよぎって、宿舎と定められた裏通りの天妃(てんぴ)国民学校(小学校)、に入っていった。

このわれわれの暁部隊は、それより約一か月半前の六月二三日に、沖縄島守備軍である第三二軍司令部直轄部隊として、和歌山の船舶工兵第九連隊補充隊において、新たに編成された部隊であった。

わたしはそのとき、中支の鯨六八八四部隊(歩兵第二三六連隊)から転属してきた三年兵(一九四二年徴集の現役兵)の一等兵で、以後、無線通信兵として部隊本部付通信小隊に属していた。


三日めの昼下がりであった。わたしの属していた通信小隊の第二分隊と本部および材料小隊の各一個分隊を合わせた四十余名は、本部の中村少尉の指揮する先遺小隊として、本部の駐屯地国頭郡本部町渡久地(くにがみぐんもとぶちょうとぐち)へ向かうべく、那覇港岸壁から第一中隊の大発六隻に分乗して、港を後にした。渡久地は西海岸北部の港町である。同じ西海岸南部の那覇から、海路渡久地へ向かうことは、一三〇キロといわれる本島の長さを、ほぽ二分した航程になる。この航程を走る大発の速力は、一一ノットであった。しかし、その航海には、途中の仲泊(なかどまり)で碇泊したために、結局二日の日程を要したが、わたしは、
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このときの海から見たすばらしい沖縄の風景を、いまだに忘れることができない。

静かな紺青の海の向こうの珊瑚礁には、白々と波が砕け散つて、海岸に群生する阿壇が風に騒いでいた。なだらかな緑の山裾に点在する民家が、ぎらつく陽光に映え、白っぽい空に入道雲が悠然と浮かんでいた。

夕方、各艇は、波静かな仲泊の入江に投錨。その夜は、全員、艇内に寝た。


翌朝遅く、艇隊は仲泊を発進。めざす渡久地へ向かったが、平坦な地方である中南部の沿岸を過ぎて、山岳地帯となった北部沿岸にさしかかると、波はしだいに荒くなった。

その海の向こうの海岸には、深緑の山々が群がり重なって迫り、海中に数多くの奇岩が屹立して荒波を砕き、前日に変わる男性的な景観に溢れていた。

夕刻、到着した渡久地港は、背後に山の迫った小さな港で、岸壁間際まで人家が密集し、港内には伝馬船や漁船がひしめい
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なと自分は直感しました。もうそのときは、敵機の姿はなく、舟艇は、全速力で港に近づいていました。艇首の数人と、艇内をよろめきながら艇尾にたどり着くと、人のかたまりの中に、市川兵長殿の死体があったのです。後頭都から前額部にかけて大きな穴が開き、あたりは血だらけになつていました……」。

稲葉はここまで話すと、急に顔をしかめてくちびるをかんだ。

二月中旬の曇った朝。部隊本部より、「敵機動部隊迫ル!」との入電があり、中隊は、異常な緊張につつまれた。

間もなく配置につく他の部隊が潮風の吹きつける海岸の道路をあわただしく移動していった。

中隊も、午後から名護方面に向かって出発した。

分隊は、わたしと稲葉を、残留する第二小隊の通信係としてあとに残し、分隊長以下、中隊に従った。

なお、中隊との交信は、距離が近いので六号無線機(携帯無線機)を使用。交信時間は、三時より別命あるまで二時間毎と定められた。

午後三時、初回の交信は、感度が悪かったため、二人は海岸に出て実施した。

夕刻、曇っていた空が、にわかに一面に焼けて、なんだか不吉な思いにとらわれた。だが、その夜はぶじに明けた。

今晩は、ことのほか冷えた。風も強く、ガタガタと小屋の戸を鳴らした。わたしと稲葉は、火鉢にかんかん炭火をおこして暖をとった。

午後八時の交信前であった。わたしは学校から借りた藤村の『夜明け前』を読みふけっていた。す
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ると、六号無線機のダイヤルをいじくっていた稲葉が、突然、「古兵殿、出ました!」と顔色を変えてわたしを呼んだ。ひよっとしたら……と語り合っていた敵の無線電話のことである。

わたしはすばやくかれに近づいて、レシーバーをとつた。と、「……」「……」呼びかけ、応答する敵兵の声が、異様に太く耳に迫った。

ほどなく、その声は消えたが、あまりにも間近な敵の存在に、二人は目を見合ったまま沈黙した。だが、この敵の鋭鋒は、二月一八日に至つて、硫黄島に向けられたことが判明し、中隊は、他の部隊とともに配備を解いて引揚げた。

硫黄島における激戦は、そこが沖縄と同じく本土に近い島であるだけに、これまでにない関心をよんで、将兵は、小型の現地新聞「沖縄新報」を奪い合うように読みふけった。

われわれは、ひそかに無線機でラジオ・ニュースを聴取して、その戦況に一喜憂した。

そんなある日、れいによって部落へ食糧調達に出ていた大須賀と芹沢が、日がとっぷりと暮れてから悄然と帰ってきた。

「だめですよ。自分たちが行くと、『兵隊が来たために敵の飛行機がやって来る!』などと、聞こえよがしにいうやつがおりまして……」。大須賀が眉間にしわをよせて、吐き出すようにいった。

二人の語るところによれば、いつもの民家へでかけたのだが、そこ見慣れない髯面の男が数人いて、そんなことをいうものだから、なにも分けてもらえなかったとのことであった。

皆はその話を聞いて激高した。まさか住民からそのような不遜なことばを浴びせられようとは、夢にも思わなかったことである。

「おれたちはこの島が危くなったから来ているのだ。それをやつらは、おれたちが来たから、敵の飛
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(3月にはいると)

すれに飛んできて機銃掃射をしていった。

われわれの壕の上も、日に何回となくそのアメリカ軍機が掠めた。そしてあたりに人影でも見かけると、真っ赤な曳光弾を浴びせていった。

アメリカ軍機は、いよいよ上陸部隊の来島を誇示するかのように、傍若無人に飛びはじめたのである。

三月一九日、ついに「敵大機動部隊、沖縄本島ニ迫ル」との公式発表があり、甲号戦備が下令せられた。

このときわれわれの中隊は、高安に待機を命じられたが、隊内は異常に緊張し、改めて兵員の編成換えや、弾薬の支給などがあわただしく行なわれた。

付近の道路は、配置につく他部隊兵士の往来が激しく、狭隘な高安の一角からも、全島にわたる各部隊の動向がしのばれた。

だが、この緊迫した軍の動きをよそに、沖縄の空は冴え、海は澄んで、山野はあまりにも静かであった。
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