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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か1

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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―1

太田良博
昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで
琉球新報朝刊に連載
『太田良博著作集3』p167- 171
目次


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【引用者註】赤松擁護と、「住民不在の戦争」の裏側からの弁護

曽野綾子氏(以下、作者と略す)の『ある神話の背景』で、赤松神話のバイブルとされているのが『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記である。その「神話部分」の執筆者として、意見をのべざるをえない。

『ある神話の背景』は、多くの関係者の証言で構成され、同時に、人間の問題を掘り下げたものである。ただ、「証言」そのものの検討が、十分になされているとは思えない。証言の中に、もし「ウソ」がまじっていたら、全体の構成がぐらつく。ことに、加害者側の証言(厳密な意味では証言とはいえない)は、ふつう信憑性がうすく、都合のよい自己弁護になりがちである。

たとえば、特攻艇出撃中止に関する証言で、赤松第三戦隊は沖縄本島の船舶団本部に打電し、同本部から、転進命令の返電をうけたというのは、ちょっと理解しにくい。

船舶団長の大町大佐は、約十五人の幕僚をつれて慶良間列島視察にきている(赤松隊は
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承知)。本島の船舶隊本部は、首脳部のいない留守部隊である。目と鼻の先にいる大町大佐に指揮を仰がずに、わざわざ留守部隊に連絡するというのは、軍隊の常識では考えられない。また命令は軍司令部から出されたように書かれているが、たとえそうであっても、座間味、阿嘉島をへて渡嘉敷島に向かいつつある直属上官たる大町大佐の指示を待たずに、渡嘉敷島の第三戦隊だけが単独行動をとることは、「独断専行」の言いわけもたたないほど命令系統を無視した行為である。

第三十二軍高級参謀八原博通元大佐の『沖縄決戦』によると、八原大佐は、敵が慶良間を攻撃したとき、同地域の特攻艇の出撃に期待をかけたが、特攻出撃の気配なく、遂に失望したとのべている。すると高級参謀は「転進命令」を関知しなかったことになる。

特攻艇出撃中止のような軍の最高作戦事項について高級参謀が知らなかったとはどういうことか。しかも特攻艇の慶良間配備は八原参謀の意見に基づくものである。

「貴様は逃げる気か」と大町大佐は、激怒して赤松戦隊長を叱りつけたというが、当の大町大佐が戦死している今日、言葉を持つのは赤松氏だけである(右の件につき防衛庁戦史室発行の『沖縄方面陸軍作戦』の記録はチグハグである)。

裁判では、一方に検事(告発者)がいて、他方に弁護士がいるのは当然だが、赤松事件に関しては「判事」はいない。『ある神話の背景』が、「人間が人間を裁くことはむつかしい」168

という思想に立っている以上、作者は判事たりえない。

「もしも私がその島の指揮官であったなら、私は自分の身心を助けるために、あらゆる卑怯なことをやったに違いない」という作者。実は、その部分が、『ある神話の背景』の論理構成全体の支点の役目をなしている。

作者が赤松の立場に身をおきかえて自己内省をやることで、人間としてのおののきを感ずるのは、主観的には誠実といえる。

しかし半面、この自己内省は、客観的には、赤松の立場の擁護となり、告発者に対する批判となる。ただし、「汝らのうち罪なき者、石もてこの女を打て」というキリスト教的思想からすれば、地上的な「罪に対する裁きの問題」は成り立たなくなる。裁判官は殺人犯でも裁けなくなる。

誰が赤松を「告発」する資格があるかということではなく、どうして、赤松に住民を殺す資格があったのか、ということが問題であり、赤松を告発するのは特定の個人ではなく、社会のルールである。

戦場の異常な環境と心理に基づく行為を、平和時に云々することはむつかしいとの考え方もあるが、これは「裁き」の否定になる。戦場に限らず、すべての殺人行為は異常な環境と心理の中でおこなわれ、あとで、冷静な立場と判断からの裁きをうけるのである。戦
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場の特殊事項が「免責」の理由になるなら、軍法会議や戦犯裁判は成立しない。

『ある神話の背景』は、「人が人を裁くことのむつかしさ」という次元のちがう問題を「社会が、行為を裁く刑事責任」の中に持ち込んでいるような気がする。赤松の立場に身をおいて考える作者は、「もしあのとき、自分が渡嘉敷島の住民の一人であったら、果たして赤松隊の行動を弁護する気になっただろうか」という住民の立場からも考えてみる必要があったのではないか。

『ある神話の背景』について私が持っている疑問のひとつは、なぜ、渡嘉敷島の事件だけが弁護に価するかということである。沖縄戦の各地で起こった同様な事件、あるいは中国その他外地での日本軍による対住民加害事件について、作者はどう考えるかということである。

軍隊は住民を守るためにあるのではないとして、曽野氏は、「軍の主とする所は戦闘なり、故に百年皆戦闘を以て基準とすべし」との作戦要務令綱領の一文をあげる。

これは、「住民不在の戦争」の裏側からの弁護であり、そのなかで戦争目的そのものが陥没する。作戦要務令その他の典令は軍事テクニックに関するもので、軍人モラルを示した軍人勅諭の解釈である戦陣訓には「住民を愛護せよ」とある。軍略と軍政は並行すべきで、敵国住民でも保護、宣撫しなければ戦争目的は遂行できない。いわんや自国住民に対
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してはなおさらである。現に、赤松隊の連下氏は「軍は住民を守る任務を持っていた」とのべている。早い話が、米軍は戦闘間、敵国の沖縄全住民を保護しているではないか。米軍の保護下にせっかくはいった住民の幾人かを、赤松隊はごていねいにも殺害しているのである。

戦闘員相互間の殺し合いは、正当防衛論で、辛うじて説明されるが、非戦闘員の立場は別である。赤松隊員の住民殺戮行為は、いかなる正当防衛に基づくのか判断しにくい。
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