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  • rabe10月29日
    十月二十九日 ラウテンシュラーガー氏が北戴河から上海経由で戻り、インシュリンを届けてくれた。ドーラが天津で買っておいてくれたものだ。 非常に落ち着いた気持ちになれたとき、私は次のような文句を頭にたたきこんだ。 関係各位! 幾度でもくりかえしいってやろう。 おいおい、ばかなまねはよせ! 防空壕の前でしゃがむなんて 無分別もいいところだ! だいいち、爆弾ってやつは ふつう上から落ちてくるものなんだ。 破片も空からふってくる。 そんなのにあたってみろ、えらく痛いぞ。 もし間に合わずに、爆弾が落ちたら、 おまえはきっとこういうだろう。 だけどね、じゅうぶんよけられると思っていたんだよ。 ちょっと見てみたかっただけなんだ…… ばかなことをいうんじゃない! もっと頭を働かせるんだ! 防空壕へ入れ。 防空壕へとはっていけ! よく考えればわかるはずだ! ...
  • rabe12月29日
    日本語版ラーベの日記「南京の真実」には、12月29日の項はなし。 但し、中文にはあり。 ラーベの日記index
  • 中文10月29日
    10月29日 下雨天,估计日机不会来。我不得不惭愧地承认,厨师和奶酪都成了完全次要 的事情。上海防线的战斗对我们大家的情绪都产生了影响,在这场战斗中,除去双 方都有巨大损失以外,其他一切肯定也都超过了至今有过的程度。这样,日本人在 上海实际上也许已经或接近达到了他们的目的。我们不相信他们会向中国的“兴登 堡防线”发起冲锋,虽然谁也不知道他们现在究竟还有什么打算。中国人不是没有 进行过英勇的防守,我们现在看到的已足以证明,他们维护了中国军队的声誉。我 们在这里作过许多估计和讨论,日本人是否能够突破扬子江上的水雷封锁区,并攻 占扬子江的防御工事。如果出现了这种情况,南京就会面对日本的舰队,那将会是 一个令人痛心的结局,不过我们还没有到这个地步,也有些人认为这是不可能的。 沃尔特马德昨天继续旅行到汉口去了。里贝还在这里,他在结束了电厂的2号涡 轮机和3号涡轮机的修理...
  • rabe10月27日
    十月二十七日 中国側は日本軍が上海郊外の大場を突破したことを認めた。いまや、かの「ヒンデンブルク・ライン※」まで後退したのだ。 ※第一次世界大戦の際のヒンデンブルク将軍による包囲作戦にあやかつたもの。絶対防衛線の意。 ラーベの日記inndexへ
  • rabe10月28日
    十月二十八日 九時十分空襲警報。だが間違いだった。それ以外は仕事に追われて、平穏な一日だつた――晩にある事件が起こるまでは。コックの曹保林は、いい加減なやつで、夕食にチーズを出すようにいわれていたのに、用意しなかった。叱られると、腹を立て、来月の一日かぎりで暇をとりたいといいだした。けんかに負けたかわり、そうやって格好をつけたのだ。出て行くならとっとと出てけ! かまうもんか! そんなことで折れると思ったら大間違いだぞ。俺はチーズが食いたいんだ! ラーベの日記indexへ
  • rabe11月29日
    十一月二十九日 シュペアリングから電話。王固盤が辞任し、後任が指名されたとのこと。 スマイスは、「こんどの警察庁長は、警察といっしょに逃げ出すようなことはないだろう」と言っている。もしそうだとしたらこれは初めてのいいニュースになるだろう。十六時に会議。たとえ日本が承認しなくても、なんらかの手を打たなければ。 ローゼンから電話。日本人は安全区に関する提案に応ずるかどうかまだ検討中だといってきたという。もしかしたら祖国ドイツからなにか働きかけがあったのではないどろうか。それにしても唐生智がしたような発言(「南京を死守する」云々)は、迷惑千万だ。司令官というものはそういうものかもしれないが、やつはとかく大見得を切りたがる。まともに防衛できもしないくせに、よくもそんな口がきけたもんだ。われわれはこの揚子江のデルタ地帯で文字通りの袋の鼠だというのに。 持ち物を整理していた...
  • rabe1月10日
    一月十日 ローゼンが、手紙を持ってきてくれた。ドーラのはもちろん、ミュンヘンにいる二人の子ども、グレーテルとオットーのもある。そのほかに『ティルマンの息子たちの物語』というきれいな本とソーセージニ本、クネッケパンニパック、インシュリン、バター一キロ。こんなにいろいろ贈り物に囲まれると、なんだか慰問袋をもらった兵隊のような気がする。 九時 クレーガーが、石田少佐から返事をもらって帰ってきた。日本軍はなんと、我々に米や小麦粉を売ろうとしない。はっきり約束したくせに。自治委員会だけに売ろうというのだ。我々のほうでは、言われたとおり今朝早々と米の販売を中止してしまった。難民たちはひどくがっかりした。自治委員会がまだ専用の販売所を開いていないからだ。これは大変なことになる! ローゼンが本部に訪ねてきた。日本軍は、私にだけでなくローゼンにも、報告書に少し手加減してもらいたいといって...
  • rabe1月12日
    一月十二日   南京が日本人の手に渡って今日で一ヵ月。私の家から約五十メートルほどはなれた道路には、竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。   ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館を訪ねて、昨日の家捜しを報告し、ローゼン、アリソン氏、プリドー=ブリュン各氏と相談した。この件について、全員の意見が一致した。すなわち、日本の警察は、外国人の建物に入るときには、その国の大使館へ事前に連絡するか、もしくはその国の大使館員を同伴する義務がある、ということだ。   こうしているあいだに、米の販売が全面的に中断されてしまった! 米だけではない、石炭も安全区に運びこめなくなった。日本軍は塀に貼り紙をして、自分の住居に戻れといっている。肝心の家が焼き払われたり略奪にあったりしていることなんか、てんでおかまいなしなのだ。   日本人と友好的にやっていくにはどうするかと...
  • 中文9月29日
    9月29日  今天是雨天,不用担心有飞机空袭。我和普罗布斯特博士拜访了大使特劳特曼 博士、大使馆参赞菲舍尔、下关电厂、中校阿德霍尔特(译注:前文为中尉,原文如 此)和纳可可公司的 C. 恽。  晚上,阿德霍尔特带来消息说,施特雷齐乌斯夫人在青岛因心脏病去世。
  • AFP-BB2008年3月29日
    AFP-BB2008年3月29日 http //www.afpbb.com/article/life-culture/life/2371032/2784494 沖縄の集団自決訴訟 元守備隊長らの請求棄却 2008年03月29日 06 25 発信地 東京 前の写真 | 次の写真 関連写真 2枚 沖縄県糸満(Itoman)市で、第2次大戦中の沖縄戦戦没者の慰霊碑に手を合わせる人々(2005年6月22日撮影)。AFP/Toru YAMANAKA 【3月29日 AFP】第2次世界大戦中の沖縄戦で、旧日本軍指揮官が住民らに対し集団自決を命じたとの記述がある、ノーベル賞(Nobel Prize)作家・大江健三郎(Kenzaburo Oe)さんの「沖縄ノート(Okinawa Notes)」(1970)をめぐり、当時の沖縄守備隊長(91)らが名誉が傷つけられたとし...
  • 中文10月2日
    10月2日 天空略有云。8时响起了警报,但不久就取消了。一定是信号装置什么地方有毛病。周工程师9时乘轮船去汉口。 收到的来信有: 妻子从天津寄来的,落款日期9月24日; 奥托从埃尔兰根寄来的,落款日期9月9日; 维利从宾德寄来的,落款日期9月11日。 维利的信带来了他父亲于9月11日去世的消息。噩耗使我很悲痛。他的家人们会怎样呢?但愿他的母亲有权申请养老金!这个噩耗让我领悟到一个道理:在这个遭受狂轰滥炸的地方也不必太担心,命运选中了谁,那就是谁,在这里或是在和平的德国都是如此。 收到了德国大使馆的下述通知: 德国政府为大使馆包租的印度支那轮船航运公司(怡和洋行)的“库特沃”号轮船已于昨天驶抵南京,停泊在下关上游约两英里处。 该轮船供全体德国公民作应急的住宿处。 德国大使馆 1937年10月1日于南京 【exi...
  • 中文10月25日
    10月25日 美丽的秋日天气,十分平静。 我相信,日本人知道今天我要庆祝28周年结婚纪念日,所以特别照顾。妻子发过上次的电报后可能已到北京去了(就是说,日本人把“北平”的名称重又改为了“北京”,现在就只差他们把现在的“南京”改称为“南平”即“南方和平”了——它与狂轰滥炸真是多么相称!)。不过,为了保险起见,我还是给在天津的老地址拍了电报,着实出了不少汗,因为用英文写东西不是那么轻松的。不信你试试看!在节前的快活气氛中,受伤的霍特先生获得了“抗射击嘉德勋章”,就是说,是一个系在白色袜带上并写有“霍尼(译注:霍特的呢称)也许是想错了”字样的勋章(取自我的勋章箱子),图案为两枝交叉的火枪,包装是一只蓝绸面子和白绸衬里的雪茄烟匣子。效果相当不错!霍特几乎笑得伤口也痊愈了,并且完全没有预料,全世界都在说:这只能是拉贝做的好事! 妻子请韩(湘琳)先生给我送来了4大盆紫莞花(读作:菊...
  • rabe1月9日
    一月九日 午前十時。自治委員会のメンバー、王承添(通称ジミー)との談合。数日前、国際委員会の活動を日本軍が力ずくでやめさせようとしていたと聞かされる。結局これは実行には移されなかったが、我々は今後難民に米を売ってはならないことになった。もし、自治委員会が販売を引き受けるというのなら、異存はない。 ローゼン家とヒュルター家、それから大使館にいってみた。どこも問題はないが、電気も水もとまっている。 十一時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった「小規模の」死刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池のなかに中国人(民間人)を追いこんだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士のひとりが近くにあった砂嚢のかげにごろりと寝ころび、男が水中に沈むまで発砲し続けたというのだ。 ローゼンとヒュルター、シャルフェンベルクの三人がイギリス砲艦ク...
  • 中文12月29日
    12月29日  我为那个准备恢复电厂供电的日本工程师招到了50名工人,并另外派了30名工人供维修水厂使用。我们欧洲人同日本人一样关心尽快得到照明和水。中午我同斯迈思博士一起拜会了日本大使馆的福井先生。我们请求允许我们运输燃煤和大米。福井先生愿意替我们到军方说情,他本人帮不了我们的忙,因为一切得通过军事当局。10时,福井先生和高玉先生来访,他们为我送来了上海的邮件。这是极其令人高兴的。其中有3封信是妻子从上海寄来的(最后一封信注明的日期是12月22日),还有两份公文:一是礼和洋行经理鲍尔博士给克勒格尔的公文,注明的日期是12月17日;二是大使馆参赞菲舍尔给我的公文,注明的日期是12月22日,这份公文全文如下: 德国总领事馆 上海 1937年12月22日 亲爱的拉贝先生:  本月18日在南京的日本大使馆参赞日高通知我,根据他个人的查实,大使先生的房子和德国大使馆...
  • rabe1月2日
    一月二日 本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げてきた。クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀をとび越えた。塀はひじょうに高いのだが、警官がひとり手伝ってくれたので、私もあとを追おうとした。ところが二人ともバランスを崩して落ちてしまった。さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。その間にクレーガーは兵たちをとっっかまえた。やつらはあわてふためいて逃げていった。ただちょっと様子を見にきただけだというのだ! 十日前、銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを鼓楼病院に運んだが、今日ようやく退院が許された。入院費は一日当たり八十セント。お金がないというので、私がかわりに払った。 日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。演説者が協力ということばを口にしてい...
  • rabe12月9日
    十二月九日 いまだに米を運ぶ作業が終らない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。残っていたアメリカ人たちといっしょに、ドイツ大使館のシャルフェンベルグ、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗っているが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。 さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうち、だれひとり生きてはいなかったという。 午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。南西の境の丘から、炎と...
  • rabe12月28日
    十二月二十八日 あいもかわらず、放火がくりかえされる! まるで重い病いにでもかかっているようだ。おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々として進まない。難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。酔ったいきおいで、日本兵がますます乱暴を働くにきまっているからだ。慰めようとするが、いまひとつ力がこもらない。それはそうだろう、そういう我々自身、信じていないのだから! 誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。そのため何万人もの人が登録所につめかけた。安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。私はドイツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。ここではハーケンクロイツのついた私の車を知らない者はない。なんとかして道をあけようとして、ぶつかり、押し合いへし合いしている。そのわずかな隙間に滑りこみつつ、ようやく目的地に着いた。私が通ったとたん、あっとい...
  • rabe12月2日
    十二月二日 フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。 電報 一九三七年十二月一日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より十一月三十日の貴殿の電報の件以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ 日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責も負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質を取られないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」...
  • rabe12月20日
    十二月二十日 委員会本部に日本人将校がきていた。南京一のホテル、首都飯店を片づけたいので作業員を二十人集めてくれないかという。このホテルには日本軍の参謀将校が泊まることになっている。私は十六人世話した。昼にはこの将校が自分でトラックに乗せて連れ帰るうえ、五中国ドル支払われるという約束だった。これが日本軍が示したはじめてのまともな対応だった。中国人たちも明らかにいい感じを受けていた。 寧海路に着いてから、棲霞山の江南セメントエ場のシンバーグ氏と知り合った。けがした中国人を数人、南京に運ぶつもりだったという。ラジオで、南京は完全に落ち着いており、電気・水道や電話設備も正常化しているといっていたからだ。いざ来てみて、そうとうびっくりしたらしい。日本軍にとめられ、けが人を途中で送り返さなくてはならなかったとのこと。それでもとにかく南京にいこうと心に決め、延々と続く道を歩いているところを...
  • rabe11月19日
    十一月十九日  雨は降り続き、荷造りも続く。帳簿をしめようと思うのだが、こう用事が多くてはとてもそこまで手が回らない。韓はかなりの金額を集金してきた。私は社の金をほとんど全額、それから自分の金も二千ドル漢口へ振り込んだ。従業員には十一月分の給料を払った。これで、店がまだ開いているうちに食料品が買えるだろう。あと石炭一トンに石油を四缶貯蔵できる。いまのところそれで精いっぱいだ。使用人たちは、おびえきった目をしておろおろいている。ついに私もクトゥー号で逃げ出すと思っているのだ。どんなことがあってもここを動かないから、と言い聞かせると、ようやくみなほっとした顔をした。  国際委員会が発足した。主要メンバーは鼓楼病院のアメリカ人医師、それから金陵大学の教授たち。全員宣教師だ。難民区を作ろうというのがその目的だ。つまり、城壁のなか、あるいは外に中立地域をつくり、万が一砲撃されたとき、非戦闘...
  • rabe1月1日
    一九三八年一月一日 昨日の夜九時半、七人の同志が年始に来た。アメリカ人のフィッチ、スマイス、ウィルソン、ミルズ、ベイツ、マッカラム、リッグズの面々だ。手元に残った最後の赤ワインをあけ、一時間ほどおしやべりした。日頃は意気軒昂のベイツが、疲れはてて眠りこんでしまったので、はやめにお開きになった。私にも中国人の客にとっても休養をとることに異存はなかったから、そろって十一時に寝た。 朝七時ごろ、張がきた。かみさんの容態が悪化したという。私は大急ぎで服を着て、鼓楼病院へ連れて行った。三回目だ。 家に戻ると、盛大な歓迎が待っていた。うちの難民たち「老百姓(ラオバイシン)」(中国語で名もなき民の意)はずらりと両側に並び、私に敬意を表して、日本軍からもらった何千もの爆竹をいっせいに鳴らした。こうして新しい自治政府を祝うのだ。それから六百人全員で私を取り囲み、白い包装紙に朱液で書かれた...
  • 中文10月26日
    10月26日 航空天候!但上午仍很平静,我们可以安心地去做我们的工作。14时30分有警报,15时15分又解除了。我们没有见到飞机,但是据说在飞往南京的途中发生过激烈的空战和轰炸。16时又响起了警报。我用18倍的新望远镜,第一次在我的头顶上方看到有7架轰炸机,我随即迅速地向后退了几步。我一放下望远镜,就几乎看不见飞机了。由于望远镜放大的倍数很高,我把敌机的距离搞错了。我必须先习惯这一点。日机在城南方向又投下了一批炸弹,16时15分,危险过去了。 里贝先生完成了在电厂的工作,他可以到长沙去了,上海却发来了电报:“等待信示。不要急于结束工作!”我在西门子洋行工作了27年,还没有收到过这么好的电报,我真想也成为一名涡轮机装配师。为此我在下午买了一只中国钢盔,一方面为了留作纪念,另一方面是防止上海总部电讯部来电话揍我的脑袋,因为我收取炮兵学校过去的外欠债务进度太慢。各家报纸报道说,太仓仍...
  • rabe11月28日
    十一月二十八日 昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。 「防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の場合にそなえている」という答えが返ってきた。 次に、「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は「そのときは日本人がすればよい」というものだった。 言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは・・・・・・。さすが、賢明なお考えだ! 神よ、ヒトラー総統さえ力をお貸しくだされば!本格的な攻撃が始まったら、どんなに悲惨なことになるだろうか。想像もつかない。 ローゼンからこんなことも聞いた。総統...
  • rabe12月23日
    十二月二十三日 昨夜、総領事館警察の高玉清親氏来宅。外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたいとのこと。なんと今日の昼までに、という。そんなことがらくにできるのは一国の大使館くらいなものだろう。我々にはそんな簡単な仕事ではない。だが、やりとげた。さっそくクレーガー、シュペアリング、ハッツに来てもらい、地区ごとに分担を決め、時間までにちゃんと仕上げた。それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは三十八軒。うち、一軒(福昌飯店)は燃やされてしまった。だがアメリカ人の被害ははるかに甚大だ。全部で百五十八軒にものぼる。 リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、二万三千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。金庫は無事だった。どうしても開けられな...
  • 中文10月28日
    10月28日 天空有些云,尽管如此,9时10分还是有警报。但只是一场虚惊,9时40分就取消了。除此以外,这一天很平静,是工作忙碌的一天。晚上出了一点小事,据说调皮的厨师蔡为晚餐准备了奶酪,但吃饭时却没奶酪。我发了火,骂了他,并说要在下月1日就解雇他。他斗不过我,转身就走开了。走就走吧,就我而言,我不会让步,我要我的奶酪! 《試訳》 雲が空の一部にある、それでも、9時10分にやはり警報があった。しかしその場の無駄な恐怖におわる、9時40分に取り消された。このこと以外では、とても落ち着いた、忙しく働く一日だった。晩に一点の小事があった。聞くところによると腕白なコックの蔡は夕食のためにチーズを用意したが、しかし食事をする時はチーズがない。私は発火して、彼をののしって、来月1日に彼を解雇すると言った。彼は私と闘うことができないで、すぐその場を離れ始めた。行くなら行ってよい、あえて言う...
  • rabe1月3日
    一月三日 きのう夜七時に、スマイスがフィッチあての報告書を手に医者の許伝音氏のところからやってきた。  フィツチ様!  本日午後四時三十分ごろ、劉培坤は、暴行されそうになった妻を守ろうとして日本兵に射殺されました。  近所の家が日本兵に占領されているため、わが家はいま、逃げてきた婦人たちでいっぱいです。私はシュペアリング氏に手紙を書き、すぐにこちらへきて我々を守って下さるようお願いしました。シュペアリング氏の体があかない場合、ここ寧海路五号に、だれか他の外国人をさしむけていただけないでしょうか?            敬具                       許伝音 本部に泊まりこんでいるはずのシュペアリングをスマイスが探しに行っている間、私はマギーといっしょに日本大使館へ行った。マギーはすでにこの件について詳しい報告を受けていた。田中氏に軍部に出向いて...
  • rabe1月8日
    一月八日 ローゼン、ヒュルター、シャルフェンベルクの三氏が、明日イギリス大使館の二人といっしょに南京にくると福井氏が知らせてくれた。ローゼン、ヒュルターの家はどちらも無事だ。ドイツ大使館も。ただローゼン家からは車と自転車、それから酒が数本盗まれた。イギリス人の家の様子はわからない。シャルフェンベルクの家は安全区の外だったこともあって、ひどい荒らされようだった。ヒュルターの家に泊めてもらわなければなるまい。こまったことに、どこも電気や水がとまっている。そこで福井氏にまた手紙を書いた。アメリカ大使館の人たちの家も同じ状態らしい。みな、寒い寒いと言いながら、大使館の大きな暖炉にへばりついているという。電気や水が使えるよう、日本軍に要求すればいいと思うのだが。 福井氏がいうには、日本大使館が国から新しい車を取り寄せるそうだ。ドイツ大使館に、おそらく他の大使館にもだろうが、盗まれた車を弁償...
  • rabe1月4日
    一月四日 あいにく、わが家は安全区のはじにある。そのうち、火の手がのびてくるのではないかと不安でたまらない。きのう、またしても近所で三軒放火された。いまこうしているうちにも、南の方で新たに煙がたちのぼっている。それはそうと、市内はあい変わらず腎に包まれている。下関の発電機は無事なはずなのに。幾度も日本側に抗議しているが、さっぱりだ。 取り締まりのため軍事警察がおかれてからは、治安は全体的にはたしかによくなったといえるだろう。けれども警察官のなかにもいかがわしい連中がいる。そいつらは見て見ぬ振りをするだけではない。いっしょになって悪事を働くことさえあるのだ。 ラーベの日記indexへ
  • rabe1月6日
    一月六日 ばんざい! アメリカ大使館のアリソン、エスピー、マクファディェンの三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、蕪湖で待機していたのだ。アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。 これで日本の軍当局から米と小麦粉(これは軍が略奪したものだが)が買える。価格は高いが(米一袋約十三メキシコドル)、約五万メキシコドル買うことにした。石炭も一万二千メキシコドルぐらい買っておかなくては。難民の蓄えが底をついてきたので早急に手を打つ必要がある。 韓はあまり乗り気ではない。米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。すでに南西部では砲声が聞こえたという。「そうなれば米だって小麦粉だってただで手に入りますよ」。けれども私は、心ならずも韓に言い聞かせなければならなかっ...
  • rabe11月23日
    十一月二十三日 五十五歳の誕生日だ。誕生日おめでとう! 最初のプレゼントはこの曇り空だ。ありがたい! ドーラからは祝電としゃれたマフラー。ほんとうにありがとう! といってもマフラーは届かなかった。大使夫人に預けたということだが、夫人の説明はどうも賄に落ちない。たぶん小包は郵便で送られ、そのまま郵便が止まってしまったのだろう。しかたがない! 下関駅にはひっきりなしに負傷兵が到着する。スマイス教授はボランティアの学生を駅にやって病人の面倒を見させている。私の車を出そう。 韓が耳寄りな話を持ってきてくれた。友人の中国人が、なんと、トラックニ台、ガソリン百缶、小麦粉二百袋を私に贈ってくれるというのだ。ありがたい! 誕生日プレゼントだと思って、好意を受けることにした。大いに役に立つ。食糧と車はぜひとも必要だから本当に助かる。ぬか喜びでないといいが! 十七時。前の外交部長...
  • rabe12月27日
    十二月二十七日 サンタクロースのまねをしようと思い、百二十六人いる難民の子どもたちに二十セント硬貨を贈ることにした。ところがさんざんな目にあってしまった。もみくちゃにされて、ひきさかれそうになったのだ。乳飲み児を抱いた父親たちが押しつぶされそうになっているのに気がついて、私はあわてて中止した。プレゼントをもらったのはおよそ八十人から九十人。いずれ折を見て、だれがまだもらっていないか聞いてみよう。今日、本部を片づけた。仕事もないのに、ここには怠け者の苦力がたくさん泊まりこんでいた。ものの二十分でぴかぴかになり、元通り堂々たる姿になった。 鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五ヵ所も銃剣で刺されている。金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、そのうちの一人だという。この元兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。目下この方法が取ら...
  • rabe1月5日
    一月五日 わがジーメンス・キャンプはほかの収容所からあまり芳しくない評判をとっている。韓がちょっぴりよけいに米を配るからだ。なにしろ韓は気がいいから! いくらなんでも五百平方メートルの庭に六百二人は狭すぎるので、難民を一部、他の収容所に移そうとしたがうまくいかなかった。ここだけが安全だと思っているので、だれも出たがらない。まあ、しかたないだろう! 衛生状態が気になる。これについては私もどうしていいのかわからない。伝染病がひろがらないといいが。今日の午前までは水が出たのだが、午後になってとまってしまった。電気はまだつかない。それなのに、近所ではいまだに家が燃えている。 登録はまだ終わっていない。何万人もの女の人が乳のみ児をかかえて五列に並んだまま、もう六時問も外で待たされている。果てしなく長い行列だ。このきびしい寒さのなか、いったいどうやって耐えているのかと思う。 ...
  • rabe1月7日
    一月七日 福田氏に国際委員会の趣意書を渡す。氏の話だと、なにがなんでも南京の秩序を即刻回復せよ、と東京から厳命があったとのこと。また、行政的な職務(この私、ラーべの「市長職」も?)も我々「よそ者」ではなく、すべて自治委員会が担当すべし、といってきたという。 そういわれてしまっては、手も足もでない。願わくは自治委員会にそれだけの能力があらんことを。 南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。 きょう午前十時ごろ、私の留守中...
  • rabe11月20日
    十一月二十日 十八時に号外が出た。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから、南京は死守されるそうだとも。 ラーベの日記index
  • rabe11月21日
    十一月二十一日 防空壕は心配の種だ。水位があがる一方だからだ。使えなくなったらどうしよう。水を汲み出そうにもひまがない。どこかにもっとちゃんとした防空壕はないだろうか。安全な防空壕がいくつか作られたという話だ。我々が使えるところがあるといいのだが! 発電所の管理人白(パイ)さんがここに泊めてもらえないだろうかといってきた。もちろん承諾した。主任技術者の陸法曾さんも、奥さんと使用人をつれて来たいという。トランスオーシャン通信社の人たちがクトゥー号で避難するので、校舎があく。そこを使ってもらうことにしよう。 十三時半に私は中山埠頭へいった。十四時のランチでクトゥー号へいって、自分の荷物をたしかめるためだ。十六時になってようやくランチがすがたをみせた。クトゥー号で荷物をたしかめる時間はたった十分しかなかった。今朝最後に送り出した荷物もちゃんとあったので安心した。のんびりとカード...
  • rabe11月25日
    十一月二十五日 医者が足りない。香港、上海、漢口の赤十字に、医師と医薬品を求むと電報を打った。外国人の医者は頼めない。この電報はアメリカ大使館の仲介だが、大使館は(ほかのどこの国の大使館も同じだ)自国民に対して南京を去るよう勧めているからだ。 もう一度、昔の故宮宝物を救い出す手伝いをするはめになろうとは。夢にも思わなかった。だが、そういうことになってしまったのだ。(これらの中国の芸術作品は百年ほど前から評価され、集められるようになった。ラーべもすこしコレクションをもっていた) 私のトラックは恰和通レンガエ場からの誕生祝いだ。しばらくの間学生が負傷者の世話をするために使っていたが、こんど杭立武さんに提供した。なんと一万五千箱もの故宮宝物を港へ運ぶことになったのだ。そのため、杭立武さんはありったけの車を集めた。政府はこれを漢口へ運ぶつもりなのだ,もしこれが日本人の手に落ちる...
  • rabe12月26日
    十二月二十六日十七時 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!なんたって六百人をこす人々の命なのだから。新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。元中国兵という擬いで処刑されるのだという。わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。いま、日本兵が四人、庭で良民証を作っている。今日中には終わらないだろうが、そんなことはどうでもいい。将校が決定した以上、もうひっぱられる心配はないのだから。 葉巻とジーメンスのカレンダーを担当の将校に渡したとき、百子亭にある家からもうもうと煙が上がってきた...
  • rabe11月24日
    十一月二十四日 ロイター通信社がはやくも国際委員会の計画について報じた。すでにきのうの昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。 当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーべを代表に、イギリス人、アメリカ人・デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。&BR()ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、とはいえ公式の...
  • rabe12月22日
    十二月二十二日 憲兵本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになった由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。 そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。あのあたりはもう安全区に入っている。そうなったらわが家も危ない。仲間と安全区の中を片づけていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのをみつけた(たった一つの沼だけで三十体あった)。ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。 わが家の難民はいまだに増えるいっぽうだ。私の小さな書斎だけでも六人が寝ている。オフィスと庭も見わたすか...
  • rabe11月27日
    十一月二十七日 コックの曹はまだよくならない。良い薬を処方してもらったのだが、薬局が軒並み逃げてしまったので、手に入らなかったという。今日、五日も経ってからようやく、使用人仲間は曹のことを私に知らせなければと思いついたらしい。とりあえず、とぼしい買い置きのなかからすこしわけてやった。おまけにこの一週問、曹は火の気のない部屋で寝ている(節約のためだが)。だから石油ストーブを貸した。なぜ石炭ストーブを焚かないのかと聞くと、板金屋が全部しまっているので、室内煙突が買えないとの返事。嘘だと思うが、もうすこし事情を調べてみなければ。 曹はあまり仲間に取り入らなかつた。それでみな彼を見殺しにしたのだ。むろんそんなことがあっていいはずがない。 ローゼンは私のために献身的につくしてくれる。ここに残っているドイツ人のなかで、私がいちばん気がかりらしい。いっしょにジャーディン社の...
  • rabe12月25日
    十二月二十五日 昨日の午後、日記を書いているとき、張と中国人の友人たちがひっそりと小さなクリスマスツリーの飾り付けをしていた。そういえば以前、張はよくこれを手伝っていた。 小さいというのを別にすれば、このツリーは、前に飾っていたのとそっくり同じだ。なんとクリスマスの庭(キリスト誕生の瞬問を再現した厩の模型)まであった。厩をとりかこむ動物たちも。人になれているのも野生のも入り混じっている。私たち家族はみなこれを見て喜んだものだった。食堂のまん中の扉が開いて、わずかばかりのロウソクが部屋に貧弱な光を投げかけると、それでもそこはかとなくクリスマスの気分が漂った。 クレーガーとシュペアリングがクリスマスツリーを見にきた。南京広しといえどもツりーがあるのはここだけだ。クレーガーは白ワインを一本提げてきた。シャルフェンベルク家の瓦礫から「救出された」ものだ。残念ながら漏れてしまって...
  • rabe11月22日
    十一月二十二日 靴屋め。くたばっちまえ ! 空襲警報が鳴ると、そらきた、とばかり、かみさんや子ども、じいさん、ばあさん、それから何だかしらないが一族郎党ひきつれて逃げこんでくるくせに、防空壕が八十センチ近くも水に浸ったとなると、水汲みだといっても知らん顔。顔も出しやしない。いまに見てろ! ローゼンから電話。空き家になった大使館で十時にここに残っているドイツ人たちで、今後の身の振り方を話し合いたい由。その前にと、うちのメンバーをかき集めた。防空壕の水を汲み出さなければ。さっきあんなふうに書いたが、靴屋のことは水に流そう。かみさんと三人の子ども、それから六、七人の親戚がかけつけてせっせと水を汲み出しはじめたのだ。とうとう水はなくなった。ところが、なんと西側の壁が崩れているではないか。がっくりした。 空襲の間にドイツ大使館でローゼンと話す。それはそうと、ローゼンはあいかわらずこ...
  • rabe12月24日
    十二月二十四日 昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルンを今朝もういちど念入りに箱に詰め、ジーメンスのカレンダーといっしょに鼓楼病院へもっていった。女性たちへのクリスマスプレゼントだ。 ちょうどいい機会だからと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口がきけるが、明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。 地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。七歳くらいの男の子のもあった。銃...
  • 中文11月29日
    11月29日 我今天发觉一个富人也有他的忧愁,虽然我只是以代理方式拥有我的财产,即我的新宫殿(张群部长的房子)。我曾很随便地让这家佣人为我带来的卐字旗弄一根旗杆来,他也很快就把所要的东西弄来了。可是,他拿给我看的旗杆账单上写着:35元!因为前几天我在我的院子里竖起了两根新旗杆,所以我恰好熟悉这些价格(战争时期的价格!):一根旗杆3元,而我的佣人张(国珍)买的旗帜是每面2元。这个宫廷仆人先生毫不犹豫地把一个工资不菲的佣人一个月的工钱算进了旗杆里。我没有狠狠地斥责他。但是韩先生认为,这在富人家里司空见惯,富人就是要比别人多付出一点儿。抱着这样观点的这些男孩子想要赢得战争根本不可能! 施佩林打来电话说,警察厅厅长王固磐下台了,任命了一个新人接替他的位置。斯迈思博士就此报告说,这个新人或许会留在这里,就是说,不会带着他的警察部队逃跑。这回终于有了一个好消息。下午4时召开了委员会会议。我...
  • rabe11月10日
    十一月十日 爆撃機が九機ほど、上空を飛びかっている。中国側は猛烈に砲撃しているが、当たらない。 高射砲弾のかけらがすきまなく降ってくる。近所の屋根がガタガタ音をたて始めたので、リーべを除く全員を防空壕へ避難させた。リーべは校門のところで私のツァイス製の望遠鏡で上空を観察中。爆撃を無事にやりすごせると、いつもほっとする。うまい具合に避難させるのは難しくなるいっぼうだ。運良くいままで無事だったせいか、みな、気がゆるんでしまった。折に触れて雷を落とさないことには、危険を感じなくなっている。ところで、うちの防空壕は地下水ですっかりふやけてしまった。地下水をさえぎるのは大仕事だ。何時間も汲み出さなければならない。 上海から戻ってきたわが国の軍事顧問の話では、前線のうしろでは、軽症を負った中国人の兵士たちがうろついているという。もう統制がとれなくなっているのだろう。そのため、夜はもは...
  • rabe12月10日
    十二月十日 不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。 金誦盤氏から力になりたいとの申し出があった。金氏は医者で、ドイツ語を話す。安全区の外にある八つの野戦病院の責任者だとのこと。そこには軽症者しか入っていないのだそうだ。...
  • 中文10月27日
    10月27日 日本人攻占太仓的消息现在已得到中国人的证实,后者现在已撤到了他们所谓的“兴登堡防线”。上海的邮件、电报之类还收得到。据说,甚至还可以坐火车到达上海西站。上海是一片混乱!战斗想必十分激烈。在国际租界的边界处的战斗中,欧洲人也受到了日机的扫射。有两名德国人受伤,一名英国士兵被打死。接着,英国士兵得到了守卫这一段国际租界的命令,射击任何一架飞越国际租界边界的日本飞机。 今天,南京这里十分平静,尽管是很好的航空天候,但完全没有空袭或警报。我不断听到关于日本人在使用毒气弹的传说。据说已有200箱带红十字标记的日本弹药运到了上海。施爸爸(译注:指后文的施佩林先生)家庭生活的下述经历,说明目前上海局势不是“完全没有”问题,在此,要感谢我,我把它重复一遍。如有不妥,我保留意见,不承担责任。在施先生住房的附近落下了几枚很大的炸弹,把许多房屋炸得稀巴烂,甚至后来还在报纸上作了报道。施...
  • ホールボディ検査・計画と結果報告
    放射能汚染とデマ汚染に抗す ホールボディ検査・計画と結果報告 ホールボディ検査・計画と結果報告論評 福島県「県民健康管理調査」検討委員会 結果、一次発表 結果、二次発表 二本松市 南相馬市7~8月 10/25朝日スクープについて 10/28記者会見について 背景情報 尿検査 論評 資料・ブタペストにおけるホールボディカウンター測定 ver_6南相馬市のWBC検査の結果は安心できるか.pdf 福島県 「県民健康管理調査」検討委員会 県民健康管理調査について 福島県HP    http //wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT NEXT_DISPLAY_ID=U000004 CONTENTS_ID=24287 「県民健康管理調査」検討委員会について 福島県HP ...
  • 高知新聞社説2008年3月29日
    高知新聞社説2008年3月29日 http //203.139.202.230/? nwSrl=225026 nwIW=1 nwVt=knd 【集団自決判決】歴史の深さ検定にも 2008年03月29日08時47分  太平洋戦争末期の沖縄戦に関する岩波新書「沖縄ノート」などの記述をめぐる訴訟の判決で、大阪地裁は「慶良間諸島での住民集団自決に軍が深く関与したのは認められる」として、作家、大江健三郎さんらの記述は誤りとする当時の守備隊長らの訴えを退けた。  表現の自由にも配慮した妥当な判決と言えるが、判決は教科書検定の在り方にも一石を投じる。昨年三月の高校日本史教科書検定では、この訴訟を理由の一つに「日本軍による強制」という記述の削除・修正を求める意見が付いたからだ。  今回の判決とて史実論争では一つの結論にすぎない。その奥深さを思うと、確定判決も出ていな...
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