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  • rabe12月25日
    十二月二十五日 昨日の午後、日記を書いているとき、張と中国人の友人たちがひっそりと小さなクリスマスツリーの飾り付けをしていた。そういえば以前、張はよくこれを手伝っていた。 小さいというのを別にすれば、このツリーは、前に飾っていたのとそっくり同じだ。なんとクリスマスの庭(キリスト誕生の瞬問を再現した厩の模型)まであった。厩をとりかこむ動物たちも。人になれているのも野生のも入り混じっている。私たち家族はみなこれを見て喜んだものだった。食堂のまん中の扉が開いて、わずかばかりのロウソクが部屋に貧弱な光を投げかけると、それでもそこはかとなくクリスマスの気分が漂った。 クレーガーとシュペアリングがクリスマスツリーを見にきた。南京広しといえどもツりーがあるのはここだけだ。クレーガーは白ワインを一本提げてきた。シャルフェンベルク家の瓦礫から「救出された」ものだ。残念ながら漏れてしまって...
  • rabe12月29日
    日本語版ラーベの日記「南京の真実」には、12月29日の項はなし。 但し、中文にはあり。 ラーベの日記index
  • rabe12月2日
    十二月二日 フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。 電報 一九三七年十二月一日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より十一月三十日の貴殿の電報の件以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ 日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責も負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質を取られないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」...
  • rabe12月28日
    十二月二十八日 あいもかわらず、放火がくりかえされる! まるで重い病いにでもかかっているようだ。おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々として進まない。難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。酔ったいきおいで、日本兵がますます乱暴を働くにきまっているからだ。慰めようとするが、いまひとつ力がこもらない。それはそうだろう、そういう我々自身、信じていないのだから! 誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。そのため何万人もの人が登録所につめかけた。安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。私はドイツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。ここではハーケンクロイツのついた私の車を知らない者はない。なんとかして道をあけようとして、ぶつかり、押し合いへし合いしている。そのわずかな隙間に滑りこみつつ、ようやく目的地に着いた。私が通ったとたん、あっとい...
  • rabe12月14日
    12月14日 (※この日の日記は無いようです)
  • rabe12月20日
    十二月二十日 委員会本部に日本人将校がきていた。南京一のホテル、首都飯店を片づけたいので作業員を二十人集めてくれないかという。このホテルには日本軍の参謀将校が泊まることになっている。私は十六人世話した。昼にはこの将校が自分でトラックに乗せて連れ帰るうえ、五中国ドル支払われるという約束だった。これが日本軍が示したはじめてのまともな対応だった。中国人たちも明らかにいい感じを受けていた。 寧海路に着いてから、棲霞山の江南セメントエ場のシンバーグ氏と知り合った。けがした中国人を数人、南京に運ぶつもりだったという。ラジオで、南京は完全に落ち着いており、電気・水道や電話設備も正常化しているといっていたからだ。いざ来てみて、そうとうびっくりしたらしい。日本軍にとめられ、けが人を途中で送り返さなくてはならなかったとのこと。それでもとにかく南京にいこうと心に決め、延々と続く道を歩いているところを...
  • rabe12月23日
    十二月二十三日 昨夜、総領事館警察の高玉清親氏来宅。外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたいとのこと。なんと今日の昼までに、という。そんなことがらくにできるのは一国の大使館くらいなものだろう。我々にはそんな簡単な仕事ではない。だが、やりとげた。さっそくクレーガー、シュペアリング、ハッツに来てもらい、地区ごとに分担を決め、時間までにちゃんと仕上げた。それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは三十八軒。うち、一軒(福昌飯店)は燃やされてしまった。だがアメリカ人の被害ははるかに甚大だ。全部で百五十八軒にものぼる。 リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、二万三千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。金庫は無事だった。どうしても開けられな...
  • rabe12月27日
    十二月二十七日 サンタクロースのまねをしようと思い、百二十六人いる難民の子どもたちに二十セント硬貨を贈ることにした。ところがさんざんな目にあってしまった。もみくちゃにされて、ひきさかれそうになったのだ。乳飲み児を抱いた父親たちが押しつぶされそうになっているのに気がついて、私はあわてて中止した。プレゼントをもらったのはおよそ八十人から九十人。いずれ折を見て、だれがまだもらっていないか聞いてみよう。今日、本部を片づけた。仕事もないのに、ここには怠け者の苦力がたくさん泊まりこんでいた。ものの二十分でぴかぴかになり、元通り堂々たる姿になった。 鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五ヵ所も銃剣で刺されている。金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、そのうちの一人だという。この元兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。目下この方法が取ら...
  • rabe12月26日
    十二月二十六日十七時 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!なんたって六百人をこす人々の命なのだから。新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。元中国兵という擬いで処刑されるのだという。わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。いま、日本兵が四人、庭で良民証を作っている。今日中には終わらないだろうが、そんなことはどうでもいい。将校が決定した以上、もうひっぱられる心配はないのだから。 葉巻とジーメンスのカレンダーを担当の将校に渡したとき、百子亭にある家からもうもうと煙が上がってきた...
  • rabe12月22日
    十二月二十二日 憲兵本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになった由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。 そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。あのあたりはもう安全区に入っている。そうなったらわが家も危ない。仲間と安全区の中を片づけていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのをみつけた(たった一つの沼だけで三十体あった)。ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。 わが家の難民はいまだに増えるいっぽうだ。私の小さな書斎だけでも六人が寝ている。オフィスと庭も見わたすか...
  • rabe12月24日
    十二月二十四日 昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルンを今朝もういちど念入りに箱に詰め、ジーメンスのカレンダーといっしょに鼓楼病院へもっていった。女性たちへのクリスマスプレゼントだ。 ちょうどいい機会だからと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口がきけるが、明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。 地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。七歳くらいの男の子のもあった。銃...
  • rabe12月5日
    十二月五日 よく晴れた日曜日だというのに朝っぱらから腹が立ってしかたない。運転手が迎えにこなかったのだ。呼びにやる。雷を落とす。悪態をつく。詫びを入れる。もう一度雇う。思えば、これで二十五回目だ! というわけでやっとのことで車に乗りこんだとたん、今度は空襲警報だ。爆弾が落ちた。だが今は許可証を持っているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。それにあまりにやることが多くて、爆弾などかまってられない。こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。 アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。つまり、日本政府はまた拒否はしてはきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。 ベイツ、シュペアリングとい...
  • rabe11月25日
    十一月二十五日 医者が足りない。香港、上海、漢口の赤十字に、医師と医薬品を求むと電報を打った。外国人の医者は頼めない。この電報はアメリカ大使館の仲介だが、大使館は(ほかのどこの国の大使館も同じだ)自国民に対して南京を去るよう勧めているからだ。 もう一度、昔の故宮宝物を救い出す手伝いをするはめになろうとは。夢にも思わなかった。だが、そういうことになってしまったのだ。(これらの中国の芸術作品は百年ほど前から評価され、集められるようになった。ラーべもすこしコレクションをもっていた) 私のトラックは恰和通レンガエ場からの誕生祝いだ。しばらくの間学生が負傷者の世話をするために使っていたが、こんど杭立武さんに提供した。なんと一万五千箱もの故宮宝物を港へ運ぶことになったのだ。そのため、杭立武さんはありったけの車を集めた。政府はこれを漢口へ運ぶつもりなのだ,もしこれが日本人の手に落ちる...
  • rabe12月1日
    十ニ月一日 九時半に、クレーガー、シュペアリング両人を平倉巷で開かれる委員会へ行く。いろいろな役目をわりふって、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米三万袋と小麦粉1万袋を提供すると約束。残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉は売ればいい。できるだけ高値で。難民用の給食所をつくる予定だ。 三つめの防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入り口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から二万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の十万ドルの第一回目だ。のこりはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめただけだった。 フィッチ、クレーガー、スマイス、YMCAの王(ワン)、リッグズ、私のメンバーで寧海路五号にある家を見に行く。明日から、ここを委員会の本部にするつもりだ。スマイスは、家のりっぱなことと豪華な調度品、それから一万七千五百ドルもの値打ちのある防空壕...
  • rabe12月6日
    十二月六日 ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ。残りの人々もいつでも乗りこめるよう準備している。われわれの仲間だけが拒否した。これは絶対に内緒だが、といってもローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和が来るといい、ローゼンはそういっていた。 中国語で書かれた安全区の地図 拡大 黄上校との話し合い忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか、あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げ込もうとしている連中をわが兵士の役に立てることができたのですぞ!」...
  • rabe12月3日
    十二月三日 ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関の艀(はしけ)でこちらにきたのだが、そのまま漢ロヘとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所へ行ったのだ。私がそういうと、何度かためらったあと、ローゼンも認めた。細かい内容についてはもちろん何も聞き出せなかったが、こちらもそれ以上聞くつもりはなかった。そういう行動に出たというだけで十分だったからだ。うまくいくといいが! ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。 ドイツ大便館南京分室 漢口発 三七年十二月二日 南京着 十二月三日東京、十二月二日日本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできるだけ寛大に扱う考えをもっております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦...
  • rabe12月4日
    十二月四日 どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話を引いている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた八台のトラックのうち、半分しか着かなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。百メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。 難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへいかないようにと、繰り返し書き立てている。この赤新聞は、「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」などとほざいているのだ。 ラーベの日記index
  • rabe12月9日
    十二月九日 いまだに米を運ぶ作業が終らない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。残っていたアメリカ人たちといっしょに、ドイツ大使館のシャルフェンベルグ、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗っているが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。 さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうち、だれひとり生きてはいなかったという。 午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。南西の境の丘から、炎と...
  • rabe12月7日
    十二月七日 昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい五時ころ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で! あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、その人たちとともに残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。 そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。 これから文字通りの無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。約束の食糧のうち、ここ...
  • rabe12月8日
    十二月八日 昨日の午後、ボーイの張がかみさんを鼓楼病院から連れ帰った。まだすっかりよくなったわけではないが、時が時だけにどうしても子どものそばにいたいというのだ。のこりの家族が四十マイルも離れたところにいるといって、張は嘆いた。病気の曹の仕事を一部、引き受けてくれていたので迎えにいく時間がなかったのだという。だれもそれを私に言ってくれなかった。だから、張の身内はとっくに全員ここにきているとばかり思っていたのだ。かわいそうだがもう手遅れだ。 二年ほど前、トラウトマン大使が北載河で開かれたティーパーティーの席で私にこういって挨拶したことがあった。「やあ、南京の市長が来た!」そのころ私は党の地方支部長代理をしているのだが、いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪(ひょうたん)から駒が出た。といったからって、ヨーロッパ人が中国の町の市長になどなれないのはわかりきっている。しかし、このと...
  • rabe12月12日
    十二月十二日 日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も、規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。朝の八時に、再び砲撃が始まった。 十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。 休戦協定の内容は――この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。 軍使は、白...
  • rabe1月10日
    一月十日 ローゼンが、手紙を持ってきてくれた。ドーラのはもちろん、ミュンヘンにいる二人の子ども、グレーテルとオットーのもある。そのほかに『ティルマンの息子たちの物語』というきれいな本とソーセージニ本、クネッケパンニパック、インシュリン、バター一キロ。こんなにいろいろ贈り物に囲まれると、なんだか慰問袋をもらった兵隊のような気がする。 九時 クレーガーが、石田少佐から返事をもらって帰ってきた。日本軍はなんと、我々に米や小麦粉を売ろうとしない。はっきり約束したくせに。自治委員会だけに売ろうというのだ。我々のほうでは、言われたとおり今朝早々と米の販売を中止してしまった。難民たちはひどくがっかりした。自治委員会がまだ専用の販売所を開いていないからだ。これは大変なことになる! ローゼンが本部に訪ねてきた。日本軍は、私にだけでなくローゼンにも、報告書に少し手加減してもらいたいといって...
  • rabe12月11日
    十二月十一日 八時 水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの「ペーター」のお気に召したらしい。さっきから声を限りに合奏している。からす(ラーベ)よりカナリアのほうが神経が太いようだ! 爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区(セーフティ・ゾーン)」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。 九時 ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後だ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。ホテルの前にとまっていた車が二...
  • rabe12月31日
    十二月三十一日 今日、うちの難民がふたり、外をぶらついていたところを日本兵に連れていかれて、略奪品を運ばせられた。昼、家にもどると、かみさんのひとりがひざまずいて訴えた。「お願いです! うちの人を連れ戻してください。でないと、殺されてしまいます!」みるも哀れな姿だった。しかたなく私はそのかみさんを車に乗せて、中山路でようやく連中を見つけた。 武装した兵隊二十人とむきあう。案の定二人を引き渡そうとはしない。私の立場はちょっと具合の悪いものだった。なんとか連れ戻すことができたときには心底ほっとした。 家に戻ってから難民を集めて、この二人のおろか者をみなの前で叱りとばした。ばかなことをして捕まっても知らんからな。六百三十人もいる人間のあとをそのたびに追っかけちゃいられない。いったい何のためにここに逃げてきたんだ? また私が助けに行くと思ったら大まちがいだ。こんなことが続いたら...
  • rabe12月10日
    十二月十日 不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。 金誦盤氏から力になりたいとの申し出があった。金氏は医者で、ドイツ語を話す。安全区の外にある八つの野戦病院の責任者だとのこと。そこには軽症者しか入っていないのだそうだ。...
  • rabe12月30日
    十二月三十日 新しく設立された自治委員会は、五色旗(北京政府時代の中国国旗)をたくさん作った。一月一日に大がかりな公示がある。そのとき、この旗が振られることになっている。この「自治委員会」は我々に取って代わろうとしている。仕事を引き継いでくれるというのなら文句はない。だが、どうも金目当てのような気がしてしかたがないのだ。 こちらからは何ひとつ引き渡さない。あくまでも、ごり押しされた場合にかぎる。ただし、そのときもねばれるだけねばるつもりだ。思うに、日本の外交官たちは日本軍のやり方を恥ずかしく思っているらしい。だからドイツの旗がついた家が四十軒も略奪にあい、しかもそのうち何軒も焼き払われたなどということはうやむやにしておきたいのだ。 ぬかるみとごみにまみれた通称ジーメンス・キャンプのわが庭の藁小屋のなかで、二晩続けて子供が生れた。男の子と女の子。こんな宿しか産婦に与えられ...
  • rabe12月13日
    underlineは誤訳が指摘されている箇所です。 十二月十三日 日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。 本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、私が役員として加わった。ここしばらくこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。 委員会のメンバー二人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気をとりもどした。 外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われて...
  • rabe1月12日
    一月十二日   南京が日本人の手に渡って今日で一ヵ月。私の家から約五十メートルほどはなれた道路には、竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。   ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館を訪ねて、昨日の家捜しを報告し、ローゼン、アリソン氏、プリドー=ブリュン各氏と相談した。この件について、全員の意見が一致した。すなわち、日本の警察は、外国人の建物に入るときには、その国の大使館へ事前に連絡するか、もしくはその国の大使館員を同伴する義務がある、ということだ。   こうしているあいだに、米の販売が全面的に中断されてしまった! 米だけではない、石炭も安全区に運びこめなくなった。日本軍は塀に貼り紙をして、自分の住居に戻れといっている。肝心の家が焼き払われたり略奪にあったりしていることなんか、てんでおかまいなしなのだ。   日本人と友好的にやっていくにはどうするかと...
  • rabe12月20日/コメントログ
    御意見をどうぞ -- (pippo) 2006-10-22 22 41 30
  • 中文9月25日
    9月25日  阳光明媚,天气晴朗!这样我们就可能会有空中来访。假如紫金山被乌云笼罩, 那就不会有危险,因为朋友和敌人都担心自己的飞机会撞上山头。这是中尉阿德霍 尔特对我说的。他一定知道这事,因为在这里他是探照灯和高炮方面的专家。  根据今天德文《远东新闻报》的简讯称,德国大使特劳特曼博士为保障留在南 京的德国人的安全,已做好了准备。我们听到后都急于想知道他要怎么做。昨天在 大使馆举行的座谈会上,他透露了一项很不错的计划。他向怡和洋行包租了一艘英 国轮船库特沃号,据说,每天租金为1000墨西哥比索,这艘轮船将载着凡是能 离开的德国人溯江而上,也就是说离开危险区,但不太远,以便不久又可以返回。 我说这是个好主意。遗憾的是,我们暂时还不知道我们应该怎样登上这艘轮船,因 为还缺少必不可少的运送我们登船的摩托艇。尽管大使馆的几位官员(许尔特尔和霍 特)有一艘摩托艇,但它...
  • 中文10月25日
    10月25日 美丽的秋日天气,十分平静。 我相信,日本人知道今天我要庆祝28周年结婚纪念日,所以特别照顾。妻子发过上次的电报后可能已到北京去了(就是说,日本人把“北平”的名称重又改为了“北京”,现在就只差他们把现在的“南京”改称为“南平”即“南方和平”了——它与狂轰滥炸真是多么相称!)。不过,为了保险起见,我还是给在天津的老地址拍了电报,着实出了不少汗,因为用英文写东西不是那么轻松的。不信你试试看!在节前的快活气氛中,受伤的霍特先生获得了“抗射击嘉德勋章”,就是说,是一个系在白色袜带上并写有“霍尼(译注:霍特的呢称)也许是想错了”字样的勋章(取自我的勋章箱子),图案为两枝交叉的火枪,包装是一只蓝绸面子和白绸衬里的雪茄烟匣子。效果相当不错!霍特几乎笑得伤口也痊愈了,并且完全没有预料,全世界都在说:这只能是拉贝做的好事! 妻子请韩(湘琳)先生给我送来了4大盆紫莞花(读作:菊...
  • 中文12月29日
    12月29日  我为那个准备恢复电厂供电的日本工程师招到了50名工人,并另外派了30名工人供维修水厂使用。我们欧洲人同日本人一样关心尽快得到照明和水。中午我同斯迈思博士一起拜会了日本大使馆的福井先生。我们请求允许我们运输燃煤和大米。福井先生愿意替我们到军方说情,他本人帮不了我们的忙,因为一切得通过军事当局。10时,福井先生和高玉先生来访,他们为我送来了上海的邮件。这是极其令人高兴的。其中有3封信是妻子从上海寄来的(最后一封信注明的日期是12月22日),还有两份公文:一是礼和洋行经理鲍尔博士给克勒格尔的公文,注明的日期是12月17日;二是大使馆参赞菲舍尔给我的公文,注明的日期是12月22日,这份公文全文如下: 德国总领事馆 上海 1937年12月22日 亲爱的拉贝先生:  本月18日在南京的日本大使馆参赞日高通知我,根据他个人的查实,大使先生的房子和德国大使馆...
  • rabe1月5日
    一月五日 わがジーメンス・キャンプはほかの収容所からあまり芳しくない評判をとっている。韓がちょっぴりよけいに米を配るからだ。なにしろ韓は気がいいから! いくらなんでも五百平方メートルの庭に六百二人は狭すぎるので、難民を一部、他の収容所に移そうとしたがうまくいかなかった。ここだけが安全だと思っているので、だれも出たがらない。まあ、しかたないだろう! 衛生状態が気になる。これについては私もどうしていいのかわからない。伝染病がひろがらないといいが。今日の午前までは水が出たのだが、午後になってとまってしまった。電気はまだつかない。それなのに、近所ではいまだに家が燃えている。 登録はまだ終わっていない。何万人もの女の人が乳のみ児をかかえて五列に並んだまま、もう六時問も外で待たされている。果てしなく長い行列だ。このきびしい寒さのなか、いったいどうやって耐えているのかと思う。 ...
  • rabe1月2日
    一月二日 本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げてきた。クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀をとび越えた。塀はひじょうに高いのだが、警官がひとり手伝ってくれたので、私もあとを追おうとした。ところが二人ともバランスを崩して落ちてしまった。さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。その間にクレーガーは兵たちをとっっかまえた。やつらはあわてふためいて逃げていった。ただちょっと様子を見にきただけだというのだ! 十日前、銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを鼓楼病院に運んだが、今日ようやく退院が許された。入院費は一日当たり八十セント。お金がないというので、私がかわりに払った。 日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。演説者が協力ということばを口にしてい...
  • rabe11月15日
    十一月十五日 政府は南京から撤退するつもりだ。私は交通部(運輸省)でそう確信した。執務室も廊下も旅行かばんと荷箱で足の踏み場もない。揚子江上流の長沙に移ることになっているのだ。それから鉄道部へ行った。そこのボーイからこっそり聞き出したのだが、ここも明日荷造りするらしい。 ドイツ大使夫妻のところにお茶によばれ、シュペーマン将軍を紹介される。太原府から来たそうだ。クトゥー号は、まず女性と貴重品を漢口に運んでから、大使館の人間と残りのドイツ人を運ぶ予定になっているという。国民政府が逃げ出したら、大便館もぐずぐずしてはいられない。さもないと、敵対的な地域に残ってしまうことになる、というのがおおかたの意見だ。 ラーベの日記index
  • rabe1月1日
    一九三八年一月一日 昨日の夜九時半、七人の同志が年始に来た。アメリカ人のフィッチ、スマイス、ウィルソン、ミルズ、ベイツ、マッカラム、リッグズの面々だ。手元に残った最後の赤ワインをあけ、一時間ほどおしやべりした。日頃は意気軒昂のベイツが、疲れはてて眠りこんでしまったので、はやめにお開きになった。私にも中国人の客にとっても休養をとることに異存はなかったから、そろって十一時に寝た。 朝七時ごろ、張がきた。かみさんの容態が悪化したという。私は大急ぎで服を着て、鼓楼病院へ連れて行った。三回目だ。 家に戻ると、盛大な歓迎が待っていた。うちの難民たち「老百姓(ラオバイシン)」(中国語で名もなき民の意)はずらりと両側に並び、私に敬意を表して、日本軍からもらった何千もの爆竹をいっせいに鳴らした。こうして新しい自治政府を祝うのだ。それから六百人全員で私を取り囲み、白い包装紙に朱液で書かれた...
  • rabe11月28日
    十一月二十八日 昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。 「防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の場合にそなえている」という答えが返ってきた。 次に、「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は「そのときは日本人がすればよい」というものだった。 言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは・・・・・・。さすが、賢明なお考えだ! 神よ、ヒトラー総統さえ力をお貸しくだされば!本格的な攻撃が始まったら、どんなに悲惨なことになるだろうか。想像もつかない。 ローゼンからこんなことも聞いた。総統...
  • rabe1月3日
    一月三日 きのう夜七時に、スマイスがフィッチあての報告書を手に医者の許伝音氏のところからやってきた。  フィツチ様!  本日午後四時三十分ごろ、劉培坤は、暴行されそうになった妻を守ろうとして日本兵に射殺されました。  近所の家が日本兵に占領されているため、わが家はいま、逃げてきた婦人たちでいっぱいです。私はシュペアリング氏に手紙を書き、すぐにこちらへきて我々を守って下さるようお願いしました。シュペアリング氏の体があかない場合、ここ寧海路五号に、だれか他の外国人をさしむけていただけないでしょうか?            敬具                       許伝音 本部に泊まりこんでいるはずのシュペアリングをスマイスが探しに行っている間、私はマギーといっしょに日本大使館へ行った。マギーはすでにこの件について詳しい報告を受けていた。田中氏に軍部に出向いて...
  • rabe1月8日
    一月八日 ローゼン、ヒュルター、シャルフェンベルクの三氏が、明日イギリス大使館の二人といっしょに南京にくると福井氏が知らせてくれた。ローゼン、ヒュルターの家はどちらも無事だ。ドイツ大使館も。ただローゼン家からは車と自転車、それから酒が数本盗まれた。イギリス人の家の様子はわからない。シャルフェンベルクの家は安全区の外だったこともあって、ひどい荒らされようだった。ヒュルターの家に泊めてもらわなければなるまい。こまったことに、どこも電気や水がとまっている。そこで福井氏にまた手紙を書いた。アメリカ大使館の人たちの家も同じ状態らしい。みな、寒い寒いと言いながら、大使館の大きな暖炉にへばりついているという。電気や水が使えるよう、日本軍に要求すればいいと思うのだが。 福井氏がいうには、日本大使館が国から新しい車を取り寄せるそうだ。ドイツ大使館に、おそらく他の大使館にもだろうが、盗まれた車を弁償...
  • rabe1月4日
    一月四日 あいにく、わが家は安全区のはじにある。そのうち、火の手がのびてくるのではないかと不安でたまらない。きのう、またしても近所で三軒放火された。いまこうしているうちにも、南の方で新たに煙がたちのぼっている。それはそうと、市内はあい変わらず腎に包まれている。下関の発電機は無事なはずなのに。幾度も日本側に抗議しているが、さっぱりだ。 取り締まりのため軍事警察がおかれてからは、治安は全体的にはたしかによくなったといえるだろう。けれども警察官のなかにもいかがわしい連中がいる。そいつらは見て見ぬ振りをするだけではない。いっしょになって悪事を働くことさえあるのだ。 ラーベの日記indexへ
  • rabe1月6日
    一月六日 ばんざい! アメリカ大使館のアリソン、エスピー、マクファディェンの三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、蕪湖で待機していたのだ。アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。 これで日本の軍当局から米と小麦粉(これは軍が略奪したものだが)が買える。価格は高いが(米一袋約十三メキシコドル)、約五万メキシコドル買うことにした。石炭も一万二千メキシコドルぐらい買っておかなくては。難民の蓄えが底をついてきたので早急に手を打つ必要がある。 韓はあまり乗り気ではない。米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。すでに南西部では砲声が聞こえたという。「そうなれば米だって小麦粉だってただで手に入りますよ」。けれども私は、心ならずも韓に言い聞かせなければならなかっ...
  • rabe1月9日
    一月九日 午前十時。自治委員会のメンバー、王承添(通称ジミー)との談合。数日前、国際委員会の活動を日本軍が力ずくでやめさせようとしていたと聞かされる。結局これは実行には移されなかったが、我々は今後難民に米を売ってはならないことになった。もし、自治委員会が販売を引き受けるというのなら、異存はない。 ローゼン家とヒュルター家、それから大使館にいってみた。どこも問題はないが、電気も水もとまっている。 十一時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった「小規模の」死刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池のなかに中国人(民間人)を追いこんだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士のひとりが近くにあった砂嚢のかげにごろりと寝ころび、男が水中に沈むまで発砲し続けたというのだ。 ローゼンとヒュルター、シャルフェンベルクの三人がイギリス砲艦ク...
  • rabe11月23日
    十一月二十三日 五十五歳の誕生日だ。誕生日おめでとう! 最初のプレゼントはこの曇り空だ。ありがたい! ドーラからは祝電としゃれたマフラー。ほんとうにありがとう! といってもマフラーは届かなかった。大使夫人に預けたということだが、夫人の説明はどうも賄に落ちない。たぶん小包は郵便で送られ、そのまま郵便が止まってしまったのだろう。しかたがない! 下関駅にはひっきりなしに負傷兵が到着する。スマイス教授はボランティアの学生を駅にやって病人の面倒を見させている。私の車を出そう。 韓が耳寄りな話を持ってきてくれた。友人の中国人が、なんと、トラックニ台、ガソリン百缶、小麦粉二百袋を私に贈ってくれるというのだ。ありがたい! 誕生日プレゼントだと思って、好意を受けることにした。大いに役に立つ。食糧と車はぜひとも必要だから本当に助かる。ぬか喜びでないといいが! 十七時。前の外交部長...
  • rabe10月29日
    十月二十九日 ラウテンシュラーガー氏が北戴河から上海経由で戻り、インシュリンを届けてくれた。ドーラが天津で買っておいてくれたものだ。 非常に落ち着いた気持ちになれたとき、私は次のような文句を頭にたたきこんだ。 関係各位! 幾度でもくりかえしいってやろう。 おいおい、ばかなまねはよせ! 防空壕の前でしゃがむなんて 無分別もいいところだ! だいいち、爆弾ってやつは ふつう上から落ちてくるものなんだ。 破片も空からふってくる。 そんなのにあたってみろ、えらく痛いぞ。 もし間に合わずに、爆弾が落ちたら、 おまえはきっとこういうだろう。 だけどね、じゅうぶんよけられると思っていたんだよ。 ちょっと見てみたかっただけなんだ…… ばかなことをいうんじゃない! もっと頭を働かせるんだ! 防空壕へ入れ。 防空壕へとはっていけ! よく考えればわかるはずだ! ...
  • rabe11月20日
    十一月二十日 十八時に号外が出た。中国の新聞で、国民政府が重慶に移るといっている。南京のラジオも同じことを伝えた。それから、南京は死守されるそうだとも。 ラーベの日記index
  • rabe11月21日
    十一月二十一日 防空壕は心配の種だ。水位があがる一方だからだ。使えなくなったらどうしよう。水を汲み出そうにもひまがない。どこかにもっとちゃんとした防空壕はないだろうか。安全な防空壕がいくつか作られたという話だ。我々が使えるところがあるといいのだが! 発電所の管理人白(パイ)さんがここに泊めてもらえないだろうかといってきた。もちろん承諾した。主任技術者の陸法曾さんも、奥さんと使用人をつれて来たいという。トランスオーシャン通信社の人たちがクトゥー号で避難するので、校舎があく。そこを使ってもらうことにしよう。 十三時半に私は中山埠頭へいった。十四時のランチでクトゥー号へいって、自分の荷物をたしかめるためだ。十六時になってようやくランチがすがたをみせた。クトゥー号で荷物をたしかめる時間はたった十分しかなかった。今朝最後に送り出した荷物もちゃんとあったので安心した。のんびりとカード...
  • rabe1月7日
    一月七日 福田氏に国際委員会の趣意書を渡す。氏の話だと、なにがなんでも南京の秩序を即刻回復せよ、と東京から厳命があったとのこと。また、行政的な職務(この私、ラーべの「市長職」も?)も我々「よそ者」ではなく、すべて自治委員会が担当すべし、といってきたという。 そういわれてしまっては、手も足もでない。願わくは自治委員会にそれだけの能力があらんことを。 南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。 きょう午前十時ごろ、私の留守中...
  • rabe10月27日
    十月二十七日 中国側は日本軍が上海郊外の大場を突破したことを認めた。いまや、かの「ヒンデンブルク・ライン※」まで後退したのだ。 ※第一次世界大戦の際のヒンデンブルク将軍による包囲作戦にあやかつたもの。絶対防衛線の意。 ラーベの日記inndexへ
  • rabe11月24日
    十一月二十四日 ロイター通信社がはやくも国際委員会の計画について報じた。すでにきのうの昼、ローゼンも、ラジオで聞いたという。それによると、東京で抗議の動きがあるとのこと。とっくに南京から逃げ出したくせになんでアメリカがでしゃばるのか、ということらしい。それを受けてローゼンは上海のドイツ総領事館あてにこんな電報を打った。いつものようにアメリカ海軍の仲介だ。 当地の国際委員会、ドイツ・ジーメンス社のラーべを代表に、イギリス人、アメリカ人・デンマーク人、ドイツ人の各委員は、中国および日本に、南京に直接戦闘行為が及んだ場合の一般市民安全区の設置を求めております。アメリカ大使は総領事館を通じ、この件を上海の日本大使と東京へ伝えました。この保護区は一朝有事の際に、非戦闘員にのみ安全な避難先を提供するものです。&BR()ドイツ人の代表に免じ、この人道的な提言に対する、非公式の、とはいえ公式の...
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