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宇宙歴1211年 梅雨 パルネシア
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私の空は四角い天井だった。
部屋の隅に蹲って天井を眺めていた。
生活に必要最低限の用品しか置かれていない部屋なので、寝る以外はすることがない。
生まれた時からずっとそうだった。
だから私は本当の空を知らない。
コンクリートに囲まれた無駄に高いそれが私の唯一の空だった。
鉄格子と防弾ガラスの幾層も張られた窓から差し込む光が私にとっての太陽の光だった。
その窓は天井の上、ギリギリにあり、外の様子はわからない。
それでも私は幸せだった。
でも・・・。
どうして私は外に出られない?
ほかの人は青天白日の下、元気に走り回っていると言う。
一日に二度の食事を持ってきてくれていた、前任の炊事係の人が教えてくれた。
その人はもういない。
私と親しくしただけで殺されてしまった。
どうして他人は自由なのに私に自由はないの?
ねぇ、どうして?
その問いに答えてくれる人は、いない。
どうして私だけなのかな?
理不尽だよね。不条理だよね。
おかしいよね。
そう思ってしまった。
この世を恨んでしまった。
疑問を感じてしまった。
こうして私は『私』ではなくなった。
この話は、人知を超えた力が招いた、人による、人のあずかり知らぬ能力の悲劇である。
1
四人が訪れたその町は、敷地面積だけが、異常に広く、喧噪が溢れていた。
「じゃあー、夕方、宿の前に集まるまで自由行動でー」
妙に間延びした声が残りの三人へと呼びかける。
「ん、了解。…ってか初めての単独行動だな」
間延びしたメリルの意見に簡単に了解を出したのはユーク。フェイとレナの幼馴染であり、この人物の意見は、すなわち幼馴染全員の意見を代弁したものに他ならない。
これは長い付き合いの中で自然に決まったことであり、なんの衒いもない。
それを、メリルもわかっているのか、ただ単に聞くのが面倒なのか、他の二人の同意すら求めず話を続ける。
「ん、これで移動も三回目だしぃー、あんた達も慣れたでしょー?」
「えぇと…、まあ…」
とりあえず曖昧に返すフェイ。
「じゃー、五時にここ、集合ねぇー」
『ここ』の時に自分の足元を指しながら、メリルは言った。
現在昼前11時前後。
長い自由時間の始まりだった。
曇り空の下をフェイは一人で歩いた。
なんでも、ここ一週間以上、ずっと雨か曇りが続いているらしい。
町には、雑踏というより寧ろ喧噪が蔓延り、騒がしい様相を呈していた。
昨日今日この町を訪れたフェイにでもわかる程に道行く人は慌てていた。
「メリルはこの空気にいち早く気づいていたのかな…?」
フェイは独り言を漏らした。
独り言を悠長に聞いている者は、周りにはいない。
町の市場は客足が多く、酷く雑多な印象を与えていた。
この町の金銭を持っている訳ではないので、自由時間と言っても、ひとえに暇なだけである。
市場の品物を買うでもなく見て回っていたのだが、さすがに1時間が限界ではある。
飽きが出てきた、丁度その時、市場の奥のほうから、追跡されながらも必死に逃亡する見慣れた影が近づいてきた。
「あ、……ちょっと…フェ…イ、…かくまって……って…、きたあああああ」
息も絶え絶えにレナはフェイに話しかけるが、逃走者にそんな悠長な時間はない。
すぐに走り去り、見えなくなった。
「何だったんだ…あいつ…」
幼馴染であるので、気になりはするが、面倒事はごめん被りたい。
とりあえず、触れないことにした。
君子危うきに近寄らずである。
「おい、そこの少年」
不意に背後から声をかけられた。
嫌な予感しかしない。
「あ、はい…」
振り返ると、やはり先程追いかけていたうちの数人が怪訝そうな視線をこちらに投げかけていた。
柔和そうなおじさんなのに眉間に皺を寄せて明らかに不満顔だ。
「あの子と知り合いかい?ずいぶん親しそうだったけど」
「いや、昨日そこらへんで意気投合しただけの見ず知らずの他人です(嘘)」
「そうかい、ちなみに変な語尾が見えるけどおじさんの見間違いだよね?」
やばい!ばれた!?
「ええ、ええ!見間違いです!!どうかお気になさらずに!!」
「…まあいいか。よし、じゃあ俺たちも追いかけるぞ」
追跡者のおじさんは振り返り、仲間たちに呼びかけ、追跡を再開しようとする。
「あ、ちょっと待ってください」
「ん?何だい?」
「ちなみにあの子は何をしたんですか?」
聞き出したかったので呼び止めたが、見た目は優しそうなおじさんなのにあからさまに嫌な顔をした。
「万引き食い逃げ全部合わせて12件。まったく…近頃の若い者は……」
そのままブツブツと何かを呟きながら仲間たちとどこかへ駆けていった。
何だろうあの人、見た目は大黒天なのに中身は般若だぞ…。
人間の心の一般例なのかもしれない。
ってか、12件食い逃げって…、よく食べきれたな!!
「はあ…はあ……」
レナは橋の下に隠れていた。
欄干に華美な装飾を施してある橋だが、そんなことはこの際関係なかった。
自由行動だからってさすがに食い逃げはまずかった…。いや、料理はまずくなかったけど。
あと、万引きと万引きと買い食らいと万引きはまずかった。
全部食べ物を盗んだ訳ですが。
「だって……金ないもん……」
あのアマ……金渡さなかったくせに自由行動なんてなめやがって…。
心の中で悪態をついていると、不意に声がかけられた。
「君もお金ないの?私と一緒だね」
驚いて声のしたほうを向くと、そこには簡素な服を着た少女が一人、レナに無垢な笑顔で笑いかけていた。
「へー、じゃあ外に出たのは初めてなんだ?」
市場の道の道上を、フードを深くかぶりながらレナは尋ねた。
「うん、今までどうやっても出してもらえなかったから」
隣の少女は、口では答えているが、視線は終始、市場の食べ物にくぎ付けである。
年はレナと同じくらいだろうか、好奇心が強く、行動も幼いため、もっと若く見える。
「んー、ちなみに名前は?」
レナはごくごく自然に尋ねたつもりだったが、
「名前…?」
少女は首をかしげ、わからない風を装った。
「え?」
これだ。
この少女は、一般的な知識はある程度あるのだが、知らない人がいないような根本的な知識が一部欠落している。
だからこそ、見た目の年齢より、実際の年齢より、はるかに幼く感じてしまうのだ。
「名前、ないの?」
「うーん……わからないかな…」
自分の名前を知らないというより、名前という概念がない様子なのが一番気になる。
「やっぱり、名前ってないとダメなのかな…?」
市場の露店から視線をレナに移しながら少女は問うてきた。
「普通はあるものだと思うけどな…」
「そうなんだ…」
シンプルに不安そうに少女は俯く。
「じゃあさ…」
少女のほうを見ながら、レナは言った。
「今からでも名前、付ければいいんじゃないかな?」
少女は驚いたようにこちらを見た。
「名前、付けてくれるの?」
いや、私が付けるとは言っとらんがな。
喉まで出かけたが、すんでのところでこらえた。
「えっと…私でいいの…?」
「うん!」
即答だった。
「でもそんなすぐに名前なんて浮かばないしなあ…」
レナは独り言のようにそう呟いたのだが、「なんでもいいよ」と笑顔で言われてしまったので、逆に浮かばなくなってしまった。
なんでもいいと言われると考えてしまう。
「うーん…」
何気なく周りを見渡せば、当たり前のように市場の露店。
道行く間に市場の結構奥まで来てしまったらしい。
ふと、横の店を見れば、目を引くのは鮮やかな猩猩緋のグローブ。
「……みとん?」
我ながら簡単すぎるネーミングだとは思った。
「かわいいね!私もいい響きだと思うなー」
訂正しようと思ったところにそんな風に言われると訂正のしようがない。
っていうか、『私も』ってどういうことだ、『も』って。
「んー…じゃあ、みとんで…」
何というか…テンションが逆に下がる。
「わーい!!ありがとう!」
隣で飛び上がるものだから、視線が集中する。
「あ!!お前は!!」
途端に背後からかかる声。
フラグですね。わかります。
「さっき食い逃…って、おい!逃げるな!!」
フードを目深にかぶり直し、逃げていくレナ。
「あ、ちょっと待ってよー」
そしてなぜか追いかけるみとん。
15分後。
再び橋の下に隠れて、やり過ごした二人だった。
ちなみにレナは息が上がっていたが、みとんは疲れた風はなかった。
「それでそのまま集合時間まで隠れて今に至る」
レナが、ない胸張って自慢げに話しているが、それ自慢話じゃないと思います。
「ふーん…で、この子誰な訳ー?」
場所は現在、宿の一室。
メリルが男女分けて二つ借りた内の、女性用に借りたほうの部屋である。
「ん?みとんだよー!さっき付けてもらったの!」
「そういう事を聞いてるんじゃないんだけどなあー」
メリルが困ったように頭を掻く。
「この子、出で立ちとか本当に知らないみたい」
「んー…、聞き捨てならないなー」
メリルがゆっくりと、諭すように言う。
「もしかしてここに来たことと関係あるかもしれないなあー」
「ふーん…」
そしてレナとフェイがみとんのほうを見る。
会話の内容が分かっているのかいないのか、終始笑顔である。
ちなみに、フェイは自分から会話に加わろうとしなかっただけで、断じて空気ではない。
ユークは、追跡者の人々に馬鹿正直に幼馴染だと言ったようで、自由時間ずっと働かされたようだ。今はご機嫌ナナメのまま隣の部屋で寝付いてしまっている。
「ちなみにメリルは自由時間なにしてたの?見かけなかったけど」
「ああ、私ぃ?私はねー…」
メリルがもったいぶるように会話を一旦止める。
こいつ本当に嫌な奴だと思う。
「以前ここ来た時にこの町のことは大体把握したからねー。怪しいところがあるからそこ調べてたのよー」
「えっ、一人で行ったのか…」
「誰かさんたちが役立たずなものでねえー」
何気なく言ったら皮肉で返されました。
「まあ、そこは重要参考人物収容施設って言うあまりにも単純なネーミングセンスなんだけど、つい数日…」
「あ、そこ私がいたところだ!」
メリルが話している最中に、みとんが大きな声で言う。
「……えっと、あなたそこ出身?」
「うん、退屈なところだったけど」
「……」
今日一日、曇天で我慢していた空が、急に泣き出した。
静かになった部屋に、いきなり降り出した雨がトタンを打つ音だけが響いた。
最初に口を開いたのはレナだった。
「ねえ、みとん」
「ん?なぁに?」
「もう眠くない?私たち重要な話があるから先に寝てもいいよ?」
いつもなら我先に寝ると言って聞かないレナが珍しいことを言っている。
明日この雨が雪になるかもしれない。現在梅雨だけど。
「んー、わかった。じゃあもう寝る」
みとんは、案外素直に聞いた。
根っからいい子なのかもしれない。
「フェイ、メリル」
「ん?」「はいー」
レナが不意に名前を呼んだ。
「隣の部屋行きましょ。馬鹿が一人寝てるけど」
「よし、じゃあ行くか」
こうして三人は立ち上がって隣の部屋に向かった。
「おやすみ、みとん」
「…おやすみなさい」
挨拶だけを交わして。
そして、電気を消して隣の部屋に向かった。
隣の部屋に入って、電気をつけても、ユークは変わらず爆睡を続けた。
ああ、そういえばこいつはこういうやつだった。
部屋の造りはさっきの部屋と全くと言って差し支えないほど同じだが、用意されたベッドの数だけが一つ少ない。
「二人ともよく聞いてねー。あの子かなりやばいかもしれないわー」
「えっと…やっぱりそうなんだ…」
「話の流れからしてそんな感じはしてたけど…」
「二人とも相当深刻に受け止めてるわねー」
寧ろ、この場面でも語尾を伸ばすメリルは何者なのだろう。
「さっき話した、重要参考人物収容施設って言うところはねー、その名の通り、100年以上の懲役を持つ重罪人や、町にとってかなりのデメリットになる人物を収容しておく場所なのー」
「なるほど……、でもあの子は懲役持ってそうにないし、町にとってデメリットがあるとは思えない」
「うん。どちらかと言うとみとんはメリットになりそうだけどなあ」
レナは少し、いや、かなり不満そうだ。
「そうねぇ。でもちゃんと聞いてきたわよー、三日ほど前に脱獄した少女の話」
フェイは唾を呑んだ。レナは何も言わない。
「脱獄の際、施設は全壊。収容者は全員死亡。周辺地区も殆ど燃えちゃったらしいわー。施設全壊まで5分もかからなかったってー」
「そんな…」
フェイとレナは息を呑む。
「あんた達が自由時間に行ってた市場とは正反対にあるからわからなかったと思うけどねぇー、町の反対側はそれはもう酷い有様よー」
「…それは本当にみとんがやったの……?」
レナが恐る恐る聞いた。
「あの子が自分で言ったでしょ?あの施設出身ってー」
「……」
それきりレナは俯き、黙り込んでしまった。
『うん、今までどうやっても出してもらえなかったから』
みとんが昼間言ったあの言葉。令嬢なのか、何らかの理由があるのかと思っていたが、こんな真実だとは思わなかった。
「そりゃ認めたくないのはわかるけどねぇー…最悪の場合も想定しておいてねー…?」
最後のメリルの言葉は、レナだけでなくフェイの心にも突き刺さった。
神妙な雰囲気の三人と対象的に、背後からは健康的な寝息が一定周期で絶えず聞こえていた。
翌朝。
「で、俺が寝てる間にそんな重要な話をしていたのか?」
ユークがご立腹そうに尋ねてきた。
今しがた昨晩の説明をしたらこの様である。
憤懣の様子をおくびも隠さないところが何ともユークらしい。
「僕に怒らないでよ…、ユークが疲れて寝てた原因はレナだし、そのレナが食い逃げする理由を作ったのはメリルなんだから…」
八つ当たりも甚だしい。
理不尽な八つ当たりはやめてほしいと切に思うフェイだった。
2
「斑猫より蜘蛛へ」
それは、宿の反対に位置するビルの屋上。雨が降りしきる中に交わされた幻燈の様な通信の会話。
「蜘蛛より斑猫。ターゲット捕捉したか?」
「はい。ターゲット≪イフリート≫は現在町の中央、宿の一室にいる模様です」
「そうか、≪イフリート≫は普段、誰よりも温厚な性格をしているからな。タイミングが見つかり次第、うまく言いくるめて至急捕獲せよ」
「はっ」
この短い会話を聞いた者は、いない。
「こりゃ酷いな…」
ユークがぽつりと漏らした。
「この風景がずっと続いてるのよー」
黒く濁った雲の下、昨晩まで続いた雨天により鎮火された、元は町であっただろう場所。
そこは焼け野原だった。
いや、それよりもっと酷い。
数日前まで建物だったものは吹き飛ばされ、飛ばされた無機物の残骸の表面はあまりの高温に硝子のようになっている。
有機物は悉く炭化し、黒だけが視界を埋めていた。
その炭化したものが延々と、同心円を描くように積みあがっていた。
そこは廃墟の風貌と言うより寧ろ、隕石の落下現場に等しい。
「で、見たらわかる通りあのクレーターみたいな奴の丁度中央に施設があったわけねー」
「これを…みとんがやったの…?」
「えー、私覚えてないよ」
レナの呟きを質問と受け取ったのか、みとんが答えた。
「…二重人格らしいわよー。なんでももう一人だった時の記憶はなくなるらしいわー」
「でもやっぱり信じられないな…」
フェイも思わず呟いた。
四人が絶句する中、みとんだけが、違う感想を持った。
「んー……、お家なくなっちゃったのかあ…残念だなあ…」
みとんが心底残念そうに言った。
なくした張本人の台詞には思えない。
「わあ、黒いのいっぱいだー」
そしてみとんはそのまま黒い山の向こうまで行ってしまった。
「…連れてきてよかったのか?」
「んー…、あのままずーと宿にいるよりはいいんじゃないのー」
みとんがいなくなったことを確認し、ユークがメリルに尋ねた。
「まあ、少なくとも何か起こらないと解決できないじゃないのー」
「そういうもんなのか…」
どちらかと言うと呆れが先に来る。
この辺り一帯を焦土にした人物に何か起こさせたらいろいろ危険なのではないだろうか。
「ねえ、ここからみとん見えないけどいいの?」
レナが何気に聞いた一言だが、メリルが一蹴した。
「まあ、子供じゃあるまいし誘拐なんかされないでしょー…」
メリルはそこで一旦言葉を切ったが、
「ん……?…誘拐……?」
メリルがそれきり何も話さなくなったので、不審に思ったユークが声をかけた。
「おい、どうした……って、本当にどうした!?」
そこには、顔面蒼白のメリルが立っていた。
「やばいわぁ……忘れてたぁ…」
「何を…?」
三人の頭の上にはクエスチョンマークが飛んでいる。
「昨日ここに来て聞いたのよー…まさかレナと合流してるとは知らなかったから…」
「だから、何を?」
「この町のお偉いさんが…いや、国ね。ここら一帯を治める国があの子を秘密裏に始末しようとしていたのよ…。とりあえず早く探しに行くわよー」
「そういうことは忘れるなよ…」
レナとユークが駆け出しながら愚痴った。
光ではなく本質を見る目。
コロナに匹敵する高温のフレアの鎧。
腕の一振りで山一つを真二つに裂く剣戟。
一人だけで何千何万という戦力にも及ぶという。
大陸の一つを簡単に灰燼にすることが出来ると言う災厄の種。
その名≪イフリート≫。
レナがみとんと名付けた少女のもう一つの人格。
みとんが陽なら≪イフリート≫は陰。
四人が炭素の山を越えると、どういう経緯を経たのか、みとんは既にもう一つの人格になっていた。
空は、雲があったのだが、乾燥により、とうに雲はなくなり、赤く歪んでいる。
「来て、しまったのだな」
容姿はみとんと瓜二つであるが、その声にあどけなさや幼さは含有されていなかった。
この短期間に一体何があったのか、みとんはもう一人へと変貌を遂げていた。
彼女の足元には、火達磨になった哀れな人物が。
この場に知る人はいないが、この人物が昨晩『斑猫』と名乗っていた者である。
「もう一人の私はお前たちに被害が及ばないようにわざと距離をとったというのに」
「そ…そんな…」
信頼されていたのだろうか?
その信頼の照り返しなのだろうか?
わからない。
≪イフリート≫は唐突に話題を変換した。
「今の私の目は光を映すことはない。だが、お前たちの本当の目的は見ることが出来る」
「それって…」
レナが尋ねようとしたが最後まで言うことは叶わない。
「今がその時ではない。決断の時は別にあるだろう」
「決断の時…?」
≪イフリート≫はレナを指して言った。
「お前はもう一人の私にとても気に入られている。だが、だからこそ決断しなければならない時がくるだろう」
「……」
レナは、その言葉をどう受け取ったのか、何も言わず、ただただ見つめ返していた。
みとんの時よりなお紅い、≪イフリート≫の瞳を。
真実を見る目を。
「ところでさー」
なぜこのタイミングで間の抜けたしゃべり方をする奴が入ってくるんだ…!
今いい感じだったのに…!
「みとんは≪イフリート≫の時の記憶はなかったみたいだけど今はお気に入りだったとかわかってるみたいじゃなーい?記憶とかあるの?」
「少なくとも私は覚えている。もう一人の方がどうかは知らんがな」
「なるほど」
「あと入れ替わるタイミングも私にはどうしようもない。もう一人の…みとんと呼んでいたか?彼女が決めているらしい」
「なるほど…そうなのね…」
「ふむ、もうそろそろ時間のようだ。最後に私からのお願いだ」
≪イフリート≫は自らの意思が消える直前に言った。
「もう一人の私を…幸せにさせてやってくれ」
淡く揺らめく炎のように、笑いながら。
3
「ドライアイになるかと思った…」
「っていうかよくしゃべれたな…、俺なんか息をするのも大変だったぞ…」
やはり皆、見た目以上に大変だったらしい。
「しっかし…本当に覚えてないのねぇ…」
あの後、みとんに戻ったのはいいが、間の出来事が全く記憶にないらしい。
「あいつも意味深なことばっかり話して核心には触れなかったしー…」
≪イフリート≫をあいつ呼ばわりとは…、なんともまあメリルらしいことだ。
「今はレナと二人きりか…どういう結論になるんだろうな…」
「まあ、ここに残して置けないのは確かだから連れて行くか、それとも…」
「始末するか、ねー…」
フェイがお茶を濁すと、メリルがなんともないように言ってのける。
少なくとも≪イフリート≫は始末できないだろうに。
「ま、それはレナが決めることだな」
「うん、一番親しいしね」
「まー、それが自然と摂理よねー」
二人は今、星を見に行っている。
梅雨明けのした、夏の星座の星空を。
「斑猫からの通信がありません」
「そうか、ならば失敗したと考えるのが一般か…」
暗い闇の片隅で、二人が会話を交わす。
「なるべく穏便に済ませたかったが…、少数精鋭では無理があったな」
「では、次は…?」
「…アレを使うか」
「アレですか…」
自らを蜘蛛と称していた人物は、溜息混じりに、アレと呼ばれた者”たち”を招集しに向かった。
「きれいな星空だね」
梅雨明けした夜空には、夏の星座が、宝石を散りばめたように、余すところなく輝いている。
「…うん」
笑顔のみとんに、レナは笑顔で返そうとしているが、その顔が固いことはレナですらわかる。
わかっているのだ。連れていけないことくらい。
≪イフリート≫は、自身に変わるタイミングはみとん次第だと言った。
しかし幼い感性の持ち主であるので、感情的に暴走することは十二分にありえる。
そんな子を連れてはいけない。
だからといってこのままにしておくこともまた、できない。
「あの星にも『名前』があるんだよね?なんて名前かなあ」
「うーん…私、星とかには詳しくないからなあ」
その上、この町には初めて訪れたのだ。
天体の座標が変化すれば、自ずと視認可能な星も変化してくる。
「あの小さな星にも、あの光が強い星にもずーっと昔から名前があるんだよね?」
みとんが本当の幼子のように問うてくる。
「え、あ、うん」
レナは曖昧にしか返せない。
「私に、そんな大事な『名前』を付けてくれてありがとね」
みとんは笑う。
「でも…、でも……だからこそ逆によく考えないといけないのに。私は…」
レナは、口籠る。
「ううん、大切なのはね、中身じゃないの。…今まで名前のなかった私に、名前をつけてくれた、その事実が嬉しいんだよ」
無邪気な笑顔はこの時、よく映えた。
「みとん……」
名前を呼ぶと、みとんは照れたように笑った。
「えへへ……、……だからね…だからこそね…、そんな君にお願いがあるんだ…」
レナはこの時間がもっと続いてほしかった。もっと続くものだと思っていた。
しかし当のみとんからその時間は破られる。
「私を、殺して?…レナ」
彼女が初めて他人の名前を呼ぶ瞬間は、あまりにも悲しいお願いを、最も親しい人に頼んだ時であった。
4
「私ね、馬鹿だけどね、ちゃんとわかるよ」
みとんが、星からレナの方に向き直りながら言った。
「……」
レナは何も言えない。みとんの方に向くことすらも億劫だった。
「もう一人の私、危険なんだよね…?この前まで住んでたところはなくなっちゃったしたくさんの人が死んだんだよね?」
「……」
レナは答えることができない。
「たくさんの人を殺したのに、私だけ生きてるのっておかしいよ」
「……」
良い性格なのだろう。
根っからの善人なのだろう。
でも、そのために自分の命をも捨てる、その覚悟をするためにどれ程の時間を要しただろう。
もしかしたら今までかなりの時間を弄してきたが、誰にも言い出せずにいて、昨今の出来事が契機になったのかもしれない。
「でもね、私はね、知らない人に殺されるのは嫌だな…」
「………!」
レナは、自身が泣いていることに初めて気が付いた。
「…いつから……?」
「最初からかな」
レナの小さな言葉に、みとんは困ったように笑いながら答えた。
「星の話をしていた時からずっとだよ」
「……」
なんだか、自分がみとんより精神幼いのではないかと錯覚してしまう。
子供っぽいからこその踏ん切りの良さ。
子供っぽいからこその優しさ。
子供っぽいからこその考え方があったのだ。
「えっと…どこまで話したかな……、まあ、とにかく、だからレナにお願いしたんだ」
「私には…」
出来ない。そう続けたかったが、それすらも叶わない。
「みとんにも…家族はいるでしょ…?」
「ううん、いないの」
返って来たのは、悲しい台詞だった。
「生まれて少しした時に死んじゃったんだ…。今ならわかるよ、私の責任なんだって」
みとんは自虐的に笑った。
なぜだろう、普段の明るい笑いも絵になっているのに、自虐的な笑いの方が彼女の魅力が引き立つのは。
「でも、今までずーっと見たかった物が見れたからもういいんだ。私だけ幸せになるのはよくないよ」
レナは、悲しみの水に沈んだ星たちから、横のみとんに視線を移した。
涙で滲んだ視界の端に、それでもみとんは笑っていた。
「……」
何も言わずに。
それを見た瞬間、レナは決めた。
「私のこと…は気にしないで……私、嬉しかったんだ……本当の空…見れた……か、ら……あり…がとう…レ…ナ…」
今際の言葉だった。
夏に入った、星の輝く静かな夜のことだった。
余談にはなるが、その後、国家の特殊部隊が町を訪れたが、何もせずに帰っていったそうだ。
最終更新:2013年01月14日 00:39