第537話:No Mercy 2:King's Howling(前編) 作:◆l8jfhXC/BA
叫んだ後静かに椅子に掛けると、ダナティアはそのまま黙り込んだ。
誰も何も語ることはなく、ただ静寂だけがマンションの一室を満たしていた。
それを破ったのは、唐突な電子音だった。
「……そう言えば、ずっと透視が出来なかったわね。
ドクター、悪いけど電話はまかせたわ」
「了解した」
鳴り響く携帯電話の呼び出し音を聞いて指示を出すと、ダナティアは静かに目を閉じた。
その横で、メフィストは立ち上がって音の方へと向かう。
机に置かれたままになっていた、携帯電話の通話ボタンに指を伸ばすと、
「……なんてこと!」
驚きと自責を含んだダナティアの声が、部屋に響いた。
その一言で、手元の端末が絶望的な状況を伝えてくると理解する。
しかし躊躇いは一切生まれず、全員の視線を受ける中、メフィストはボタンを押して口を開いた。
「私だ」
『志摩子とセルティが死んだわ』
ひどく端的に、最悪の状況が知らされた。
『説明は後。今は千絵を診てほしいの。
臨也が持ってた短剣を見たら、いきなり泣き叫んだの。
今は落ち着いたけど、会話が出来る状態じゃない。あんたなら声ごしでもわかると思って』
『嫌、もう、助けて、だって、逃げて、ごめんなさい、血が』
言うなり、ひどく怯えた声が受話口から漏れ始めた。しゃくり上げるような単語の羅列が続く。
「千絵君かね? 私だ」
『あ……』
電話越しに声を伝えると、唐突に嗚咽が止まった。
「何を見たのか、話してくれないかね? 辛い部分は省いていい。
ゆっくりと、思ったままを伝えてくれたまえ」
出来るだけ優しい口調で告げながら、メフィストは窓の外を覗く。
別棟のマンションの一室の状態は、カーテンで遮られていて見えない。
しかしそのカーテンが緩やかに波打っているのを見ると、窓は開いているらしい。誰かが飛び降りたのかもしれない。
『あの人が、手を伸ばしてきて』
「あの人とは、どんな人物だね?」
視線を窓に留めたまま、彼女との会話を続ける。
ダナティアもカーテンに気づいたらしく、同じ方向を睨んでいた。
『名前は、わからない。……刃に、鏡に、向こう側から、こっちに、映って』
「……鏡?」
誰も何も語ることはなく、ただ静寂だけがマンションの一室を満たしていた。
それを破ったのは、唐突な電子音だった。
「……そう言えば、ずっと透視が出来なかったわね。
ドクター、悪いけど電話はまかせたわ」
「了解した」
鳴り響く携帯電話の呼び出し音を聞いて指示を出すと、ダナティアは静かに目を閉じた。
その横で、メフィストは立ち上がって音の方へと向かう。
机に置かれたままになっていた、携帯電話の通話ボタンに指を伸ばすと、
「……なんてこと!」
驚きと自責を含んだダナティアの声が、部屋に響いた。
その一言で、手元の端末が絶望的な状況を伝えてくると理解する。
しかし躊躇いは一切生まれず、全員の視線を受ける中、メフィストはボタンを押して口を開いた。
「私だ」
『志摩子とセルティが死んだわ』
ひどく端的に、最悪の状況が知らされた。
『説明は後。今は千絵を診てほしいの。
臨也が持ってた短剣を見たら、いきなり泣き叫んだの。
今は落ち着いたけど、会話が出来る状態じゃない。あんたなら声ごしでもわかると思って』
『嫌、もう、助けて、だって、逃げて、ごめんなさい、血が』
言うなり、ひどく怯えた声が受話口から漏れ始めた。しゃくり上げるような単語の羅列が続く。
「千絵君かね? 私だ」
『あ……』
電話越しに声を伝えると、唐突に嗚咽が止まった。
「何を見たのか、話してくれないかね? 辛い部分は省いていい。
ゆっくりと、思ったままを伝えてくれたまえ」
出来るだけ優しい口調で告げながら、メフィストは窓の外を覗く。
別棟のマンションの一室の状態は、カーテンで遮られていて見えない。
しかしそのカーテンが緩やかに波打っているのを見ると、窓は開いているらしい。誰かが飛び降りたのかもしれない。
『あの人が、手を伸ばしてきて』
「あの人とは、どんな人物だね?」
視線を窓に留めたまま、彼女との会話を続ける。
ダナティアもカーテンに気づいたらしく、同じ方向を睨んでいた。
『名前は、わからない。……刃に、鏡に、向こう側から、こっちに、映って』
「……鏡?」
“じっと鏡を見ていると、そこにはきっと厭なものが映る”
いくつかの千絵の言葉に、ふと、そんな一説を思い出す。
坂井悠二から聞いた、“物語”の一片。
それと認識した瞬間、確かに電話の向こうから何かが“来た”。
――数時間前に見た幻がわずかに尾を引いていたのか。
あるいは、死んだサラ・バーリンと共に行動していたという情報を聞いて、ふたたび一抹の不安が生まれたためなのか。
なんにせよ、メフィストの視界に映ったものは、その物語にとても忠実だった。
坂井悠二から聞いた、“物語”の一片。
それと認識した瞬間、確かに電話の向こうから何かが“来た”。
――数時間前に見た幻がわずかに尾を引いていたのか。
あるいは、死んだサラ・バーリンと共に行動していたという情報を聞いて、ふたたび一抹の不安が生まれたためなのか。
なんにせよ、メフィストの視界に映ったものは、その物語にとても忠実だった。
不可視の糸で首を吊られた無数の秋せつらの死体がまるで屠殺場の動物のようにぎっしりと窓ガラスを埋め尽くしていた。
「……っ!?」
ダナティアの息を呑む音を聞いて、彼女も同じものを見ていることを知る。彼女の場合、サラになっているのかもしれないが。
思考は冷静なままだった。
しかしわずかに揺らぐ感情が、何かを訴えている。
それを感じ取ったかのように、異質な気を纏った、無数の彼ではない“彼”が、一斉に頭を上げてこちらを向く。
そして、にぃぃっ、と笑った。
「…………」
異様としか言えない光景だった。
携帯電話からの声は既に聞こえない。ただきぃぃと言う耳鳴りだけが響き、聴覚を埋め尽くしている。
恐怖はなかった。ただメフィストは、一つの事実を理解する。
物語の意味と、ここに“彼”が現れる理由を知り、わずかな悲哀と諦念を抱く。
そして、目を閉じた。同時に携帯電話へと、ふたたびゆっくりと指を伸ばす。
ボタンに触れ、何かを押し込めるように、あるいは断ち切るように指を沈め、メフィストは会話を切断させた。
幻は、消えた。
ダナティアの息を呑む音を聞いて、彼女も同じものを見ていることを知る。彼女の場合、サラになっているのかもしれないが。
思考は冷静なままだった。
しかしわずかに揺らぐ感情が、何かを訴えている。
それを感じ取ったかのように、異質な気を纏った、無数の彼ではない“彼”が、一斉に頭を上げてこちらを向く。
そして、にぃぃっ、と笑った。
「…………」
異様としか言えない光景だった。
携帯電話からの声は既に聞こえない。ただきぃぃと言う耳鳴りだけが響き、聴覚を埋め尽くしている。
恐怖はなかった。ただメフィストは、一つの事実を理解する。
物語の意味と、ここに“彼”が現れる理由を知り、わずかな悲哀と諦念を抱く。
そして、目を閉じた。同時に携帯電話へと、ふたたびゆっくりと指を伸ばす。
ボタンに触れ、何かを押し込めるように、あるいは断ち切るように指を沈め、メフィストは会話を切断させた。
幻は、消えた。
「おい、どうした?」
「……後で話すわ。ドクターも、見たのね?」
「ああ」
ベルガーの五度目の呼びかけに、ダナティアはやっと反応を返した。
相変わらず平然としているメフィストとは対照的に、なぜか彼女はひどく青ざめていた。
「一体何があったんだよ?
突然何も言わなくなったと思ったらいきなり……あの子の切羽詰まった声、聞いてなかったのか!? ──ほら!」
終の非難に答えるように、ふたたび呼び出し音が鳴った。
彼らが硬直している間も、受話口からは千絵の声が響いていた。
メフィストが喋らなくなると徐々に落ち着きをなくしていき、わけのわからないことを騒ぎ立てていた。
(千絵の話がきっかけで、何かが窓の向こうに見えた……のか?)
そう考えてベルガーが窓の外を覗いても、遠くに夜風になびくカーテンが見えるだけだった。
メフィストはともかく、ダナティアをあれだけ動揺させるものが映ったとはとても思えない。
「それはすまないことをした。
謝罪と治療を兼ねて、私が向こうに行くとしよう。ここからでも転移は可能かね?」
「ええ、問題ないわ。念のため、ベルガーも同行してもらえるかしら」
「俺もか? だがこっちもこっちで大変だろう」
人が死ぬ状況になっている待機側も気になるが、こちらもこちらで重要な交渉の真っ最中だ。
その渦中の人物も今は大人しくしているが、危険であることには変わりなく──
「──!?」
「どうしたの、ベル……!」
パイフウへと視線を向けようとして、異常に気づいた。
彼女がいたはずのそこには、椅子しか存在していない。
白い外套を羽織った黒髪の女は、忽然と姿を消していた。
「おれ達が気を取られている隙に、どこかに逃げたのか!?」
「…………、いえ、このマンションのどこにも彼女の姿は見えないわ」
素早くダナティアが透視するが、やはりパイフウの姿は捉えられない。
ダナティアとメフィストが窓の向こう、そして残りの人間がその二人に注意を向けていたとはいえ、逃げることは極めて困難だ。
しかし現に彼女の姿は見えず、気配など微塵も感じられない。
「おい、あんたは何か知ってるんじゃないのか!?」
「あいにくと、こんな消失トリックは聞いていませんね。後ほどぜひご教授願いたいものです。
ところで、外の方は確認したのですか?」
素知らぬ顔の古泉を胡散臭そうに眺めた後、ダナティアはふたたび目をつぶった。
しばらくした後、眉をひそめ、
「茉衣子ならいたわ。でも、パイフウの姿はどこにも……いえ、ちょっと待って。
別の人間がいたわ。短い茶髪の……」
彼女の声を聞きながら、ベルガーはもう一度周囲を見回す。
確かに建物内にいないのならば外しかないが、ここから短時間で脱出できるとは、どうしても思えなかった。
何らかの方法で気配を絶って、まだこの部屋のどこかに潜伏している可能性もある。
そう考え、積極的に歩き回って室内を調査する。
「……?」
と。
立ち止まり、食卓の下を覗いたときだった。
ふいに、今まではなかったかすかな気配を感じた。
それも敵意に満ちた、殺気と呼ぶにふさわしいものを。
「──っ!」
同時に、背中に何かが触れた。押すというより撫でるような、軽い感触。
それに形容しがたい寒気を感じ、右手の“運命”を背後に振ろうとして、出来なかった。
一瞬で放たれた何かが、ベルガーの右肺を破壊した。
「……後で話すわ。ドクターも、見たのね?」
「ああ」
ベルガーの五度目の呼びかけに、ダナティアはやっと反応を返した。
相変わらず平然としているメフィストとは対照的に、なぜか彼女はひどく青ざめていた。
「一体何があったんだよ?
突然何も言わなくなったと思ったらいきなり……あの子の切羽詰まった声、聞いてなかったのか!? ──ほら!」
終の非難に答えるように、ふたたび呼び出し音が鳴った。
彼らが硬直している間も、受話口からは千絵の声が響いていた。
メフィストが喋らなくなると徐々に落ち着きをなくしていき、わけのわからないことを騒ぎ立てていた。
(千絵の話がきっかけで、何かが窓の向こうに見えた……のか?)
そう考えてベルガーが窓の外を覗いても、遠くに夜風になびくカーテンが見えるだけだった。
メフィストはともかく、ダナティアをあれだけ動揺させるものが映ったとはとても思えない。
「それはすまないことをした。
謝罪と治療を兼ねて、私が向こうに行くとしよう。ここからでも転移は可能かね?」
「ええ、問題ないわ。念のため、ベルガーも同行してもらえるかしら」
「俺もか? だがこっちもこっちで大変だろう」
人が死ぬ状況になっている待機側も気になるが、こちらもこちらで重要な交渉の真っ最中だ。
その渦中の人物も今は大人しくしているが、危険であることには変わりなく──
「──!?」
「どうしたの、ベル……!」
パイフウへと視線を向けようとして、異常に気づいた。
彼女がいたはずのそこには、椅子しか存在していない。
白い外套を羽織った黒髪の女は、忽然と姿を消していた。
「おれ達が気を取られている隙に、どこかに逃げたのか!?」
「…………、いえ、このマンションのどこにも彼女の姿は見えないわ」
素早くダナティアが透視するが、やはりパイフウの姿は捉えられない。
ダナティアとメフィストが窓の向こう、そして残りの人間がその二人に注意を向けていたとはいえ、逃げることは極めて困難だ。
しかし現に彼女の姿は見えず、気配など微塵も感じられない。
「おい、あんたは何か知ってるんじゃないのか!?」
「あいにくと、こんな消失トリックは聞いていませんね。後ほどぜひご教授願いたいものです。
ところで、外の方は確認したのですか?」
素知らぬ顔の古泉を胡散臭そうに眺めた後、ダナティアはふたたび目をつぶった。
しばらくした後、眉をひそめ、
「茉衣子ならいたわ。でも、パイフウの姿はどこにも……いえ、ちょっと待って。
別の人間がいたわ。短い茶髪の……」
彼女の声を聞きながら、ベルガーはもう一度周囲を見回す。
確かに建物内にいないのならば外しかないが、ここから短時間で脱出できるとは、どうしても思えなかった。
何らかの方法で気配を絶って、まだこの部屋のどこかに潜伏している可能性もある。
そう考え、積極的に歩き回って室内を調査する。
「……?」
と。
立ち止まり、食卓の下を覗いたときだった。
ふいに、今まではなかったかすかな気配を感じた。
それも敵意に満ちた、殺気と呼ぶにふさわしいものを。
「──っ!」
同時に、背中に何かが触れた。押すというより撫でるような、軽い感触。
それに形容しがたい寒気を感じ、右手の“運命”を背後に振ろうとして、出来なかった。
一瞬で放たれた何かが、ベルガーの右肺を破壊した。
「ベルガー!?」
溜まっていた息をすべて吐き出したような悲鳴が響いた。
終の真正面の食卓机。
その向こうに、床へと倒れ込むベルガーの姿があった。
両手を押さえつける胸部に、わずかに血が滲んでいる。
さらに彼の手から落ちた柄が、硬質な音を立てて部屋の隅へと滑っていくのが見えた。
まるで、誰かに蹴られたかのように。
「くそ、あの女か……!?」
辺りを見回すが、やはりパイフウの姿は見あたらない。
「ぐ……、かはっ」
「無理に喋る必要はない。治すのが先だ」
すぐにメフィストが向かい、ベルガーの治療を開始していた。
彼の腕ならば助かりはするだろう。しかし、これで二人の動きが止められたことになる。
と、
「──くぅっ!」
「皇女!」
やはり何の前触れもなく、今度はダナティアの右腕が裂かれた。咄嗟に身を引いていたが、その傷はかなり深い。
それでも彼女は、左腕でそこにいるはずの人間を掴もうとする。が、空を切った。
しかしその虚空に、一瞬わずかな歪みが生まれたことを、終は見逃さなかった。
「あんまり高速だとバレるってことか!」
一歩目から全力で、終は歪みの見えた部分へと駆ける。
勢いを殺さぬまま右の拳を虚空へと放つと、新たな歪みがそれを受けた。
さらに下方からもう一つ歪みが走ったかと思うと、突然暗色のタイトパンツが虚空に現れた。
その蹴りを腕で受け、続く拳も流した。どの一撃も速く、重い。
割り込むように放ったフックは、外套らしきものに触れるだけに終わった。
追撃の暇なくカウンターで来た貫手を紙一重で避けると、間髪入れずに刃のような下段蹴りが続いた。
膝の皿を打つ動き。まともに当たれば、達人でも座ることさえ難しくなるだろう。
そう、人ならば。
「……!」
あえて受けた蹴りは終の皮膚を破り、その下の白い鱗にひびを入れた。かなり痛いが、それだけだ。
わずかに息を呑んだパイフウに向けて、渾身のストレートを放つ。
後退され、さらに両腕らしきもので受け止められるが、骨が軋む音が響いた。
右腕には確かな手応え。ヒビくらいは入っているだろう。
が、それを気にもせず、彼女は鋭い手刀を胸部へと放ってきた。
先程の致命打で焦ったようにも見える、終の追撃を無視した無謀な動き。
やはり自分の硬さを信じて受けようとして、しかし直感で後退に変更。
繊手が浅く入っただけで痛みを覚え、連動する左脚を避けてそのまま間合いを開く。
視線を下に送ると、皮膚が裂かれて血が滲み、わずかに鱗が見えていた。
ダナティアの腕を切断したのと同じ技らしい。彼女の腕は、血が飛び散らないほど鮮やかな切り口をしていた。
しかし、その程度で終は怯まない。すぐにもう一度攻勢に転じようとして、
「またか!」
ふたたび彼女の気配が消えていることに気づく。
舌打ちして、ダナティアの方へと戻る。自分か彼女が狙われる瞬間に、もう一度捕捉するしかない。
「ダナティア、怪我は」
「大丈夫」
素っ気なく言うが、彼女の息は荒い。
戦闘服ごと斬られた腕は、魔術で裂いたらしいカーテンで縛られていたが、応急処置に過ぎない。
ベルガーがひとまず安定しなければ、メフィストの治療も受けられない。
「どうやら、あの外套に身を隠しているようね。それなら──」
呟くと、ダナティアは突然机の上に左腕を伸ばした。
掴んだのは、なぜか白紙の束。
訝しむ終を気にも留めず、彼女はそれを床に出来た血溜まりに染み込ませる。
「これでどう!?」
叫びと共に、紙束が風の刃で一気に切り裂かれた。続いて生まれた突風が、散り散りになった紙を室内にばらまく。
強風が部屋中を暴れ、血染めの紙片を高速で循環させる。
やがてそのいくつかが、風の流れからはずれ、空中で動きを止めた。
「そこ!」
声よりも早く、終はダナティアの血が示した位置へと駆けていた。
一拍おいて風が止み、紙片が床に落ちる。虚空に赤い斑点が浮き上がった。
「破!」
パイフウはもはや気配を消さなかった。
それどころか、急襲する終に“気配”のある不可視の何かを飛ばしてきた。小さいが、恐ろしく速い。
しかも、狙いは心臓。
「ぐっ……!」
間一髪で直撃は避けた。
しかし肺に当たり、鱗にひびが入ると同時に強烈な衝撃を受ける。
眼前には、距離を詰める歪みが見えた。位置はわかるといえど、外套ごしの挙動は読みにくい。
何とか体勢を整えたときには、五指を揃えた繊手が見え、
溜まっていた息をすべて吐き出したような悲鳴が響いた。
終の真正面の食卓机。
その向こうに、床へと倒れ込むベルガーの姿があった。
両手を押さえつける胸部に、わずかに血が滲んでいる。
さらに彼の手から落ちた柄が、硬質な音を立てて部屋の隅へと滑っていくのが見えた。
まるで、誰かに蹴られたかのように。
「くそ、あの女か……!?」
辺りを見回すが、やはりパイフウの姿は見あたらない。
「ぐ……、かはっ」
「無理に喋る必要はない。治すのが先だ」
すぐにメフィストが向かい、ベルガーの治療を開始していた。
彼の腕ならば助かりはするだろう。しかし、これで二人の動きが止められたことになる。
と、
「──くぅっ!」
「皇女!」
やはり何の前触れもなく、今度はダナティアの右腕が裂かれた。咄嗟に身を引いていたが、その傷はかなり深い。
それでも彼女は、左腕でそこにいるはずの人間を掴もうとする。が、空を切った。
しかしその虚空に、一瞬わずかな歪みが生まれたことを、終は見逃さなかった。
「あんまり高速だとバレるってことか!」
一歩目から全力で、終は歪みの見えた部分へと駆ける。
勢いを殺さぬまま右の拳を虚空へと放つと、新たな歪みがそれを受けた。
さらに下方からもう一つ歪みが走ったかと思うと、突然暗色のタイトパンツが虚空に現れた。
その蹴りを腕で受け、続く拳も流した。どの一撃も速く、重い。
割り込むように放ったフックは、外套らしきものに触れるだけに終わった。
追撃の暇なくカウンターで来た貫手を紙一重で避けると、間髪入れずに刃のような下段蹴りが続いた。
膝の皿を打つ動き。まともに当たれば、達人でも座ることさえ難しくなるだろう。
そう、人ならば。
「……!」
あえて受けた蹴りは終の皮膚を破り、その下の白い鱗にひびを入れた。かなり痛いが、それだけだ。
わずかに息を呑んだパイフウに向けて、渾身のストレートを放つ。
後退され、さらに両腕らしきもので受け止められるが、骨が軋む音が響いた。
右腕には確かな手応え。ヒビくらいは入っているだろう。
が、それを気にもせず、彼女は鋭い手刀を胸部へと放ってきた。
先程の致命打で焦ったようにも見える、終の追撃を無視した無謀な動き。
やはり自分の硬さを信じて受けようとして、しかし直感で後退に変更。
繊手が浅く入っただけで痛みを覚え、連動する左脚を避けてそのまま間合いを開く。
視線を下に送ると、皮膚が裂かれて血が滲み、わずかに鱗が見えていた。
ダナティアの腕を切断したのと同じ技らしい。彼女の腕は、血が飛び散らないほど鮮やかな切り口をしていた。
しかし、その程度で終は怯まない。すぐにもう一度攻勢に転じようとして、
「またか!」
ふたたび彼女の気配が消えていることに気づく。
舌打ちして、ダナティアの方へと戻る。自分か彼女が狙われる瞬間に、もう一度捕捉するしかない。
「ダナティア、怪我は」
「大丈夫」
素っ気なく言うが、彼女の息は荒い。
戦闘服ごと斬られた腕は、魔術で裂いたらしいカーテンで縛られていたが、応急処置に過ぎない。
ベルガーがひとまず安定しなければ、メフィストの治療も受けられない。
「どうやら、あの外套に身を隠しているようね。それなら──」
呟くと、ダナティアは突然机の上に左腕を伸ばした。
掴んだのは、なぜか白紙の束。
訝しむ終を気にも留めず、彼女はそれを床に出来た血溜まりに染み込ませる。
「これでどう!?」
叫びと共に、紙束が風の刃で一気に切り裂かれた。続いて生まれた突風が、散り散りになった紙を室内にばらまく。
強風が部屋中を暴れ、血染めの紙片を高速で循環させる。
やがてそのいくつかが、風の流れからはずれ、空中で動きを止めた。
「そこ!」
声よりも早く、終はダナティアの血が示した位置へと駆けていた。
一拍おいて風が止み、紙片が床に落ちる。虚空に赤い斑点が浮き上がった。
「破!」
パイフウはもはや気配を消さなかった。
それどころか、急襲する終に“気配”のある不可視の何かを飛ばしてきた。小さいが、恐ろしく速い。
しかも、狙いは心臓。
「ぐっ……!」
間一髪で直撃は避けた。
しかし肺に当たり、鱗にひびが入ると同時に強烈な衝撃を受ける。
眼前には、距離を詰める歪みが見えた。位置はわかるといえど、外套ごしの挙動は読みにくい。
何とか体勢を整えたときには、五指を揃えた繊手が見え、
「…………?」
なぜか、止まった。
歪みが完全に停止して、白い手がはみ出たまま虚空にとどまっている。
ゆっくりと終が後退しても、腕を戻すことさえしない。
よく見るとその腕は、何かに強く掴まれているかのように赤く腫れていた。
「少し遅くなった」
内容の割に落ち着いた、美しい旋律の声が響く。
食卓の向こう側に座るメフィストが、静かにこちらを見つめていた。
その右手は未だにベルガーの胸部に沈んでいるが、左手には短い針金を持っていた。
「とんだ藪医者」
白い腕の先から呟きが漏れた。その声は、わずかに震えている。
おそらく彼は、悠二のときと同じように、あの針金を彼女の体内に残していたのだろう。
術後の経過を確認し、必要ならば拘束するために。
「なら最初からやれよ!」
「患者の処置が先だ。君ならば彼女をも抑えられると思ったのだが、何か問題があったかね?」
「…………」
咄嗟に反論が思いつかず、ただ真顔の彼を睨み付ける。
「……医者の癖に患者を傷つけるのね。やっぱり男なんて信用するんじゃなかったわ」
「勝手な判断で君の身体を害したことは謝ろう。
だが、ここにいる者すべてが私の患者だ。ゆえにその安全は守らねばなるまい」
険のあるパイフウの声にも、彼の態度は変わらなかった。
「……そう」
返された呟きは、やはり短かった。なぜか先程よりも落ち着いているように聞こえる。
何が起きても対応出来るように身構えていると、
「じゃあ返すわ」
声とともに、何かを叩きつける音が響いた。同時に白い手が虚空に潜り、赤い斑点が流れるように動き出す。
音はパイフウではなく、食卓からのものだった。
白衣が宙に舞い、部屋の隅へと叩きつけられていた。
「……やはり、劉貴将軍と似た力か。逆に伝う威力も予想以上だ。だが──」
呟きをまともに聞く暇などなかった。
予想外すぎる展開に気を取られ、避けきれなかった高速の掌底が顎にかすり、終の視界が揺らぐ。
それでも何とか反撃の拳を放つが、あっさりくぐられ、
「ぐぅっ……!」
伸びた腕を掴まれたと思った瞬間、世界が反転した。
投げられたと認識したときには、歪みは既に視界から消えていた。
歯噛みしながら辺りを見回すと、赤い点が今度はダナティアへと走っていた。
もはや止めるものはいない。それでも諦めまいと起きあがろうとして、
なぜか、止まった。
歪みが完全に停止して、白い手がはみ出たまま虚空にとどまっている。
ゆっくりと終が後退しても、腕を戻すことさえしない。
よく見るとその腕は、何かに強く掴まれているかのように赤く腫れていた。
「少し遅くなった」
内容の割に落ち着いた、美しい旋律の声が響く。
食卓の向こう側に座るメフィストが、静かにこちらを見つめていた。
その右手は未だにベルガーの胸部に沈んでいるが、左手には短い針金を持っていた。
「とんだ藪医者」
白い腕の先から呟きが漏れた。その声は、わずかに震えている。
おそらく彼は、悠二のときと同じように、あの針金を彼女の体内に残していたのだろう。
術後の経過を確認し、必要ならば拘束するために。
「なら最初からやれよ!」
「患者の処置が先だ。君ならば彼女をも抑えられると思ったのだが、何か問題があったかね?」
「…………」
咄嗟に反論が思いつかず、ただ真顔の彼を睨み付ける。
「……医者の癖に患者を傷つけるのね。やっぱり男なんて信用するんじゃなかったわ」
「勝手な判断で君の身体を害したことは謝ろう。
だが、ここにいる者すべてが私の患者だ。ゆえにその安全は守らねばなるまい」
険のあるパイフウの声にも、彼の態度は変わらなかった。
「……そう」
返された呟きは、やはり短かった。なぜか先程よりも落ち着いているように聞こえる。
何が起きても対応出来るように身構えていると、
「じゃあ返すわ」
声とともに、何かを叩きつける音が響いた。同時に白い手が虚空に潜り、赤い斑点が流れるように動き出す。
音はパイフウではなく、食卓からのものだった。
白衣が宙に舞い、部屋の隅へと叩きつけられていた。
「……やはり、劉貴将軍と似た力か。逆に伝う威力も予想以上だ。だが──」
呟きをまともに聞く暇などなかった。
予想外すぎる展開に気を取られ、避けきれなかった高速の掌底が顎にかすり、終の視界が揺らぐ。
それでも何とか反撃の拳を放つが、あっさりくぐられ、
「ぐぅっ……!」
伸びた腕を掴まれたと思った瞬間、世界が反転した。
投げられたと認識したときには、歪みは既に視界から消えていた。
歯噛みしながら辺りを見回すと、赤い点が今度はダナティアへと走っていた。
もはや止めるものはいない。それでも諦めまいと起きあがろうとして、
《運命とは報いるもの》
どこからともなく、誰のものともつかない声が響いた。
刹那、歪みを黒い光が貫いた。
一拍おいて虚空に白い外套が現れ、崩れ落ちる。
「行為自体は予測済だ」
「……あいにく、世界で二番目に諦めが悪いんで、ね」
若干息の荒い声と、切れ切れの声が奥から響く。
一方は壁にもたれ、もう一方は床に倒れたままだったが、どちらもまっすぐ外套を見つめていた。
後者──ベルガーの手に、一番最初に飛ばされていた“運命”が戻っていた。精燃槽も装填済だ。
おそらく、メフィストから渡されたのだろう。一番最初に彼女がやったように、床を滑らせて。
そして。
「終わりよ!」
とどめとばかりに発現したそよ風の繭が、パイフウの動きを完全に封じた。
刹那、歪みを黒い光が貫いた。
一拍おいて虚空に白い外套が現れ、崩れ落ちる。
「行為自体は予測済だ」
「……あいにく、世界で二番目に諦めが悪いんで、ね」
若干息の荒い声と、切れ切れの声が奥から響く。
一方は壁にもたれ、もう一方は床に倒れたままだったが、どちらもまっすぐ外套を見つめていた。
後者──ベルガーの手に、一番最初に飛ばされていた“運命”が戻っていた。精燃槽も装填済だ。
おそらく、メフィストから渡されたのだろう。一番最初に彼女がやったように、床を滑らせて。
そして。
「終わりよ!」
とどめとばかりに発現したそよ風の繭が、パイフウの動きを完全に封じた。
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