第571話:天使衝動(前編) 作:◆CC0Zm79P5c
 こんなに走ったのはどれくらいぶりだろう。
不規則に乱れていく息に恐怖感を覚えながら、彼女は暗い地下道を全力で駆けていく。
走り続ける、彼女――クリーオウ・エバーラスティンは多少剣術を齧っただけの少女である。
たとえば手から熱線を出すこともできなければ、一キロ先の敵を狙撃銃で射抜くこともできない。
何より、彼女に人を殺せるような覚悟などない。
――何を言いたいのかといえば、つまり人並み以上に夜目はきかないということである。
そんな状態でほとんど真っ暗な状態の地下道を『逃走する』のは無謀といえた。
なるほど、彼女は幸運なことに懐中電灯を手にしていた。
デイパックから出すのに手間取り、その間に殺されてしまうという無様は晒さなかった。
だが、それでも小さな明かりひとつで、舗装もされていない道を走れば――
「――っ!」
無論、転ぶ。
それでも懐中電灯は手放さなかった。慌てて起き上がり、先ほどよりも草臥れた風に足を進める。
実を言えば、彼女が転んだのはこれが初めてではない。
そしてついでにいえば、彼女を追っているのは普通の少女ではない。
(なんで、どうして――!?)
クリーオウはほとんど恐慌状態に陥りながら、それでもまだ微かに残っていた冷静な部分で思考する。
先ほど、空から降ってきた追跡者は尋常でない怪力を見せた。
たぶん脚力も似たようなものだろう。なのに、追いつかれていない。自分はまだ殺されていない。
「むぁ~てぇ~い」
後ろから響く声は幾重にも反響し、正確な距離は掴ませないが、それでもまだ追いついてこない。
(逃げられる? 逃げ切れる!?)
胸中に、わずかな希望が芽生えてくる。
ピロテースと合流できれば何とかなる。きっと、きっと――
(クエロだって――きっと)
優しかったクエロ。
優しい顔の裏に、狡猾を隠していたクエロ。
ゼルガディスを殺したクエロ。
せつらを殺したクエロ。
だけど、最後には自分を逃がしてくれたクエロ。
無論、それで彼女のしてきたことが帳消しになるなんて思っていない。
自分がクエロをどうしたいのか――それだって、わからない。
だけど、いまは走って、なんとしてでもピロテースを――!
「……きゃぅっ!」
余計な思考は足をもつれさせたらしい。慣れた浮遊感と衝撃。転んだのはこれで何度目だったか。
だが、今度は懐中電灯を手放してしまった。転んだままでは手を伸ばしてもぎりぎり届かない、そんな位置に電灯は落ちてしまう。
慌てて手を伸ばす。
だが、その手が懐中電灯に届くことは、なかった。
ひょい、と目の前で懐中電灯が他の誰かに拾われる。
混乱しかけるが、すぐに思い直す。追跡者は未だ自分の後ろ。
ならば、懐中電灯を拾ったのはこの通路の先にいるはずだった――
「ピロテース!」
歓声とともに、顔を上げる。
そこには彼女の微笑があった。
「――ばあ」
――クエロを殺した、少女の笑顔があった。
あの凶悪な凶器を片手に、そしてもう片方の手で握った懐中電灯で自分の顔を下から照らしている。
子供がするようなその悪戯も、だが今のクリーオウにとっては十分な衝撃だった。
だがもはや悲鳴を上げるような余力もない。それ以前に、地面に這い蹲っているこの体勢では、もう逃げられない。
(い、いつ回り込まれたの……!?)
胸中で自問して、そして、悟る。
自分は懐中電灯で足元を照らしながら走るのが精一杯だった。
だから、一度も背後を確認していない。
もしかして……この無邪気な雰囲気をまっとた少女は……
(ずっと、後ろにぴったりくっついてたんだ……!)
おそらくは、手を伸ばせば届くような距離に、ずっと。
前に回りこまれたのは、転んだ隙にひょいと飛び越すように跨れでもしたのだろう。
ゾッとした。少女がなぜそうしたのかは分からない。だから、ゾッとした。
眼前の、少女の形をしたモノが、いったい何なのかワカラナイ――
「ね、ね、鬼ごっこはおしまい? じゃ、こんどはお姉さんが鬼ね!」
そして本当に、邪気の一欠けらも見せずに、笑いながらそれは、
「じゃ、タッチするよ! タッチ!」
――零挙動で、鉛の塊を振り下ろした。
捉えきれない速度。もとより、自分では勝てない存在であることは分かっていた。
(あ……死んじゃう)
他人事のように、そんなことを考えた。
生が終わる瞬間、その一瞬だけ、誰かの顔がフラッシュバックする。
それはもう死んでしまった弟分の顔でも、目つきの悪い魔術士の顔でもない。
この島で出会い、仲間となった者の顔でもない。
もとより、知っている顔ではなかった。
銀髪の美丈夫。轟音とともに現れ、そしてすぐに暗闇に消える。
(……誰?)
走馬灯というのは知らない顔をも浮かび上がらせるものなのか。
だが、その疑問は、
「金髪の娘、確認するが」
いつのまにか現れた、新たな人影によって吹き飛ばされた。
理解する。アレが持つ明かりがいつの間にか消えていたのは、この男が割り込んで遮っていたからだ。
「あ、あの」
こちらの声に反応してか、男が振り返る。
そのせいで、ちらりと男の向こう側が見えた。例の少女と目が合う。
こちらに「静かにして!」とでもいうように唇に人差し指を当てながら、バットを振り下ろそうとしていた。
「危な――!」
「貴様の名前を教えろ」
再び、轟音。
そして懐中電灯のものでない、金属同士による火花の明かりが闇を照らした。
「え……?」
音と光は一度だけではない。なんども、なんども。絶え間なく続き、その度に一瞬だけ男の姿が浮かび上がる。
そして、そのまるで連続で写した写真のような光景で理解した。
男が馬鹿馬鹿しいような大剣を手にして、何の気なしに少女の凶撃をいなしているのだと。
それが、自分を守ってくれているのだと気づいて、
まるで冗談のようなタイミングで現れた、正義のヒーローのように感じた。
「娘っ!」
「え、あの、私――」
「僕、三塚井ドクロ!」
「名前だ」
片方の声をうるさそうに無視し、その男が繰り返す。
「わ、私、クリーオウ。クリーオウ・エバーラスティン!」
答えてしまってから、はたと気づいた。返答は変化をもたらす。そしてそれがいい変化だとは限らない。
だがそれは杞憂だったようだ。男はひとつ頷き、何かを放り投げてきた。
暗くて分かりにくかったが、すぐに何か理解する。この島に連れてこられてすっかり慣れてしまった感触。デイパック。
「貴様の保護を頼まれている。オーフェンという人物からだ。それをもってさがっていろ。すぐに追いつく」
「オーフェンが――」
久しく聞いていなかった名前。自分に関わってこなかった名前。
思いがけず、胸の奥が熱くなる。
「合流場所と時間はあとで伝える。行け!」
その声と同時に、釘バットの少女を押しとどめるようにして、男の目の前に一瞬で何かが広がる。
それに後押しされるように。
クリーオウは渡されたデイパックから懐中電灯を取り出すと、もと来た道を再び走り始めた。
不規則に乱れていく息に恐怖感を覚えながら、彼女は暗い地下道を全力で駆けていく。
走り続ける、彼女――クリーオウ・エバーラスティンは多少剣術を齧っただけの少女である。
たとえば手から熱線を出すこともできなければ、一キロ先の敵を狙撃銃で射抜くこともできない。
何より、彼女に人を殺せるような覚悟などない。
――何を言いたいのかといえば、つまり人並み以上に夜目はきかないということである。
そんな状態でほとんど真っ暗な状態の地下道を『逃走する』のは無謀といえた。
なるほど、彼女は幸運なことに懐中電灯を手にしていた。
デイパックから出すのに手間取り、その間に殺されてしまうという無様は晒さなかった。
だが、それでも小さな明かりひとつで、舗装もされていない道を走れば――
「――っ!」
無論、転ぶ。
それでも懐中電灯は手放さなかった。慌てて起き上がり、先ほどよりも草臥れた風に足を進める。
実を言えば、彼女が転んだのはこれが初めてではない。
そしてついでにいえば、彼女を追っているのは普通の少女ではない。
(なんで、どうして――!?)
クリーオウはほとんど恐慌状態に陥りながら、それでもまだ微かに残っていた冷静な部分で思考する。
先ほど、空から降ってきた追跡者は尋常でない怪力を見せた。
たぶん脚力も似たようなものだろう。なのに、追いつかれていない。自分はまだ殺されていない。
「むぁ~てぇ~い」
後ろから響く声は幾重にも反響し、正確な距離は掴ませないが、それでもまだ追いついてこない。
(逃げられる? 逃げ切れる!?)
胸中に、わずかな希望が芽生えてくる。
ピロテースと合流できれば何とかなる。きっと、きっと――
(クエロだって――きっと)
優しかったクエロ。
優しい顔の裏に、狡猾を隠していたクエロ。
ゼルガディスを殺したクエロ。
せつらを殺したクエロ。
だけど、最後には自分を逃がしてくれたクエロ。
無論、それで彼女のしてきたことが帳消しになるなんて思っていない。
自分がクエロをどうしたいのか――それだって、わからない。
だけど、いまは走って、なんとしてでもピロテースを――!
「……きゃぅっ!」
余計な思考は足をもつれさせたらしい。慣れた浮遊感と衝撃。転んだのはこれで何度目だったか。
だが、今度は懐中電灯を手放してしまった。転んだままでは手を伸ばしてもぎりぎり届かない、そんな位置に電灯は落ちてしまう。
慌てて手を伸ばす。
だが、その手が懐中電灯に届くことは、なかった。
ひょい、と目の前で懐中電灯が他の誰かに拾われる。
混乱しかけるが、すぐに思い直す。追跡者は未だ自分の後ろ。
ならば、懐中電灯を拾ったのはこの通路の先にいるはずだった――
「ピロテース!」
歓声とともに、顔を上げる。
そこには彼女の微笑があった。
「――ばあ」
――クエロを殺した、少女の笑顔があった。
あの凶悪な凶器を片手に、そしてもう片方の手で握った懐中電灯で自分の顔を下から照らしている。
子供がするようなその悪戯も、だが今のクリーオウにとっては十分な衝撃だった。
だがもはや悲鳴を上げるような余力もない。それ以前に、地面に這い蹲っているこの体勢では、もう逃げられない。
(い、いつ回り込まれたの……!?)
胸中で自問して、そして、悟る。
自分は懐中電灯で足元を照らしながら走るのが精一杯だった。
だから、一度も背後を確認していない。
もしかして……この無邪気な雰囲気をまっとた少女は……
(ずっと、後ろにぴったりくっついてたんだ……!)
おそらくは、手を伸ばせば届くような距離に、ずっと。
前に回りこまれたのは、転んだ隙にひょいと飛び越すように跨れでもしたのだろう。
ゾッとした。少女がなぜそうしたのかは分からない。だから、ゾッとした。
眼前の、少女の形をしたモノが、いったい何なのかワカラナイ――
「ね、ね、鬼ごっこはおしまい? じゃ、こんどはお姉さんが鬼ね!」
そして本当に、邪気の一欠けらも見せずに、笑いながらそれは、
「じゃ、タッチするよ! タッチ!」
――零挙動で、鉛の塊を振り下ろした。
捉えきれない速度。もとより、自分では勝てない存在であることは分かっていた。
(あ……死んじゃう)
他人事のように、そんなことを考えた。
生が終わる瞬間、その一瞬だけ、誰かの顔がフラッシュバックする。
それはもう死んでしまった弟分の顔でも、目つきの悪い魔術士の顔でもない。
この島で出会い、仲間となった者の顔でもない。
もとより、知っている顔ではなかった。
銀髪の美丈夫。轟音とともに現れ、そしてすぐに暗闇に消える。
(……誰?)
走馬灯というのは知らない顔をも浮かび上がらせるものなのか。
だが、その疑問は、
「金髪の娘、確認するが」
いつのまにか現れた、新たな人影によって吹き飛ばされた。
理解する。アレが持つ明かりがいつの間にか消えていたのは、この男が割り込んで遮っていたからだ。
「あ、あの」
こちらの声に反応してか、男が振り返る。
そのせいで、ちらりと男の向こう側が見えた。例の少女と目が合う。
こちらに「静かにして!」とでもいうように唇に人差し指を当てながら、バットを振り下ろそうとしていた。
「危な――!」
「貴様の名前を教えろ」
再び、轟音。
そして懐中電灯のものでない、金属同士による火花の明かりが闇を照らした。
「え……?」
音と光は一度だけではない。なんども、なんども。絶え間なく続き、その度に一瞬だけ男の姿が浮かび上がる。
そして、そのまるで連続で写した写真のような光景で理解した。
男が馬鹿馬鹿しいような大剣を手にして、何の気なしに少女の凶撃をいなしているのだと。
それが、自分を守ってくれているのだと気づいて、
まるで冗談のようなタイミングで現れた、正義のヒーローのように感じた。
「娘っ!」
「え、あの、私――」
「僕、三塚井ドクロ!」
「名前だ」
片方の声をうるさそうに無視し、その男が繰り返す。
「わ、私、クリーオウ。クリーオウ・エバーラスティン!」
答えてしまってから、はたと気づいた。返答は変化をもたらす。そしてそれがいい変化だとは限らない。
だがそれは杞憂だったようだ。男はひとつ頷き、何かを放り投げてきた。
暗くて分かりにくかったが、すぐに何か理解する。この島に連れてこられてすっかり慣れてしまった感触。デイパック。
「貴様の保護を頼まれている。オーフェンという人物からだ。それをもってさがっていろ。すぐに追いつく」
「オーフェンが――」
久しく聞いていなかった名前。自分に関わってこなかった名前。
思いがけず、胸の奥が熱くなる。
「合流場所と時間はあとで伝える。行け!」
その声と同時に、釘バットの少女を押しとどめるようにして、男の目の前に一瞬で何かが広がる。
それに後押しされるように。
クリーオウは渡されたデイパックから懐中電灯を取り出すと、もと来た道を再び走り始めた。
◇◇◇
 おかしいな、おかしいな。
天使の少女はおもいます。
どうしてこんなにあついのかな。どうしてこんなに体があついのかな。
天使の少女はかんがえます。
いままでいくらかけっこをしても、こんなに体があつくなったことはなかったからです。
どうしてだろう、どうしてだろう。
そうやってかんがえているうちに、やがて天使の少女はおもいだしました。
そうだ、この感じは、■くんのことを考えていたときと一緒なんだ、と。
あいたいなあ、あいたいなあ。
おもいだした天使の少女はすすみます。
あの少年の面影を求めて、一生懸命。
天使の少女はおもいます。
どうしてこんなにあついのかな。どうしてこんなに体があついのかな。
天使の少女はかんがえます。
いままでいくらかけっこをしても、こんなに体があつくなったことはなかったからです。
どうしてだろう、どうしてだろう。
そうやってかんがえているうちに、やがて天使の少女はおもいだしました。
そうだ、この感じは、■くんのことを考えていたときと一緒なんだ、と。
あいたいなあ、あいたいなあ。
おもいだした天使の少女はすすみます。
あの少年の面影を求めて、一生懸命。
 ――これは、少女本人さえ気づいていない彼女の心のササヤキ。
◇◇◇
「貴様にも質問をするぞ、娘」
展開された白の線越しに、ギギナは恩人の知人を襲っていた少女に詰問する。
タンパク質分子の連鎖で構成された蜘蛛の糸は、鋼鉄の五倍の強度を誇る。
生体変化系第二階位、蜘蛛絲 で生成された粘着質の縛鎖は振り下ろされた凶器を受け止め、さらにその自由を奪っていた。
「もう! なんでお兄さんは鬼ごっこの邪魔をするの!? はっ、もしかして――」
少女はグーにした手を口元に押し付け、
「仲間に入りたかったの? ならジャンケンしないと。いくよー、さーいしょーは――」
「クエロ・ラディーンを殺したのは、貴様か?」
戯言を無視して、問う。クエロの傷口と、少女の携える凶器は合致するように思えた。
保護を依頼された少女を先に戻したのは、この話を聞かれたくなかったからだ。
彼女を気遣ったわけではない。単純に、これはギギナだけの問題だったからである。
――そう。いまとなっては、ギギナだけの問題になってしまった。
ガユス・レヴィナ・ソレルは彼の与り知らぬところで没し、クエロ・ラディーンも目の前で死んでいった。
ならば、この問題に決着をつけられるのは彼だけだろう。
誰にも介入されることなく、誰にも影響されることなく。
「殺してなんかないもん! あとで直すもん!」
そして、実を言えばそれはすでに決着していた。
頬を膨らませている眼前の少女を見ている内に、湧き上がってきた感情。
「……これが」
それは、怒りだった。
脳裏に飛来するのは幾つもの囁き。それらがすべて、その感情を増幅する。
お前はこんなものに殺されてしまったのか、宿敵よ?
こんなくだらないものに、終わらされてしまったのか?
こんな――
「これが、こんなものが我らの行き着く先かクエロ・ラディーン――!?」
その憤怒を、目前の少女の眉間に定めたネレトーの切っ先に込めて。
「――宣言しよう」
交渉のために闘争を控えていたが、いまはべつだ。
蜘蛛の巣の向こうの『敵』を睨みながら、
「貴様が、我らの闘争に介入してきたというのなら――ここで私は、全身全霊を込めて貴様を殺そう」
ダラハイド事務所の因縁。それを、ここで断ち切ろう。
そしてその視線を受けた彼女は、まるで初めて目の前に広がる白い糸に気づいたかのように、
「そんな……緊縛プレイなんて……」
絡めとられた凶器に両手を添えて、
「そんなのは、まだ早いよぅっ!」
――あろうことか、超強度を誇る糸を捻り切った。
少なからず、ギギナは驚愕を覚える。
先に相手の一撃を受け止め、その膂力は推し量ったつもりだった。
少なくとも、スピネルで生成された糸を力ずくで断ち切るような怪力ではなかったはずだ。
(力が――上がっている?)
咒式等の力を発動させたか――あるいは、単なる出し惜しみか。
だが推測は不要。
これは楽しむべき闘争ではない。生きるための闘争ではない。
一瞬でも早く、眼前の敵を消し去る。そのための戦いだ。
故に迷わず、放つ一撃は常に必殺。
(なんにせよ、これで分かる!)
全力で放つ、ネレトーでの刺突。
それを、やはり少女はこともなげに金属バットで防ぐ。
――それだけならばまだしも、少女はそのままバットを振りぬいてみせた。
「っ!?」
弾き、返された――?
最強の前衛職のひとつである剣舞士。さらにその十三階梯。
全咒式職のなかでも屈指の腕力を誇るギギナが、押し負けていた。
体勢の崩れたギギナを前に、天使はとまらない。
振りぬくバットを引き戻すようなことはせず、まるで独楽のように回転しながら一歩、ギギナに詰め寄る。
そう、計らずしもそれこそが愚神礼賛の本来の使い方。
遠心力と彼女自身の絶大な膂力が組み合わされ、まさに暴風のようにギギナを襲う。
「ぬぅ……!」
力任せだけの攻撃ならば、ギギナの精緻な剣術の前には敵でない。
不幸だったのは、ここが狭い地下通路だということだ。
それは大柄なギギナと、長大な屠竜刀ネレトーという組み合わせにとってみれば最悪の条件だった。
対して彼女――三塚井ドクロは小柄な上、得物も屠竜刀ほどの長さはない。
故に、彼女はほとんど制限を受けずにその腕力を振るうことができる。
「舐めてかかれる相手ではない、か」
冷静に考えるのならば、まずは戦場を移すべきか。だが――
「キャハッ! キャハハハっ!」
眼前の少女は、すでに掘削機の様相である。
地下道であるという制限もすでに関係ない。彼女の振り回す金属製の棒は、壁だろうがなんだろうがお構いなしに削り取る。
もはや刃を合わせることすら困難。今の彼女の膂力はギギナと同等、あるいは上回っているかもしれない。
逃げても背後から襲われるだけだろう。もとより、ドラッケンに後退の選択肢はないが。
ならば、自分は手も足も出ない――?
「……調子に乗るな」
ギギナの唇からもれるのは地獄の底から響くかのごとき、怨嗟の声。
こんなものはただの児戯だ。
竜を始めとする異貌の者共、そして数々の咒式士との死闘を潜り抜けた自分にとって、一体どれほどのものだというのか。
(それは貴様も同じだったはずだろう。ええ? クエロ・ラディーンよ?)
弔いではない。敵討ちというわけではない。
ただ、自分は胸の内にある靄には惑わされない。
ドラッケンの戦士は、その屠竜刀を振るうことによってのみ、煩悩を削ぐ。
後ろに跳躍。距離をとりネレトーを上段に構える。
刃先が天井に突き刺さり、固定された。
構わない。ただ、迫る障害のみを直視する。
――回転弾層内に残る咒弾は四つ。
ひとつは先ほどのスピネルで使用し、もうひとつは地下道を走るために使用した梟瞳 の咒式で消費している。
さらに咒式を紡ぎ、ギギナは魔杖剣のトリガーを引いた。
「――終わりだ。消えうせろ」
発動するのは生体強化系第五階位、鋼剛鬼力膂法 。
生成されたグリコーゲン、グルコース等によって乳酸を分解、ピルギン酸へと置換。
脳内における筋力の無意識制限を解除し、全身の強化筋肉が最大限に稼動する。
――ギギナの屠竜刀が消えうせた。
もはや、それは不可視の一撃である。
少女のスイングを暴風と称するのならば、ギギナの剣戟は落下する彗星のごとく。
地下道の天井すら切り裂いて、ネレトーが神速をもって振り下ろされる。
それでも、少女は反応した。
「ほぉ―――むぅらぁああああん!」
キラリと光るその双眸は、ばっちりとネレトーを捕らえきっている。
故に、彼女は迎え撃つように、正確なタイミングで巨刃を打ち据えることができた。
――惜しむらくは、彼女の持っていた得物だろう。
そう、彼女は忘れていたのだ。
自分が手にしているのは、愛用の不思議金属でできた撲殺バットではないということを。
そして――屠竜刀のガナサイト重咒合金が、鉛製の愚神礼賛を寸断した。
「あ――」
無論、得物を切断しただけでは終わらない。
振り下ろされた刃は、次に彼女の肩を捕らえた。
呆然とした彼女の表情を、ギギナの聴視覚が捉える。
――狂気にも似た感情が抜け落ちたその顔に、ギギナはようやく見覚えがあることに気づいた。
昼間、確かに一度出会っている。ほとんど一瞬だったし、その直後のゴタゴタで忘れていたが。
それなりの人数で組んでいたようだったが、周囲に仲間の影は見えない。
はぐれたのか、それとも彼女だけが生き残っているのか。
あるいは、あの時の無害そうだった彼女がこうなっているのも、そのせいなのか――
それらの想像に対して、なんの感慨も抱かず。
ギギナはただ、そのまま袈裟切りに彼女を切り捨てた。
涙も達成感もなく、どこか空虚に。
小さな体が血を撒き散らしながら地面に倒れ付す。
その様子をみながら、ギギナはポツリとつぶやいた。
「……これで、終わりか」
因縁の相手は殺され、その犯人もこうして討ち取った。
だから、これでお終い。
「存外、なにも感じぬものなのだな」
何とはなしに、これは自分が求めていたものとは違う気もしていた。
だが、それを知る方法は自分の中にない。
ギギナは踵を返した。
あえて血払いはせずに、殺人の証が付着した屠竜刀を携えて、もと来た道を戻る。
これをクエロかガユスにでも見せれば、この空虚も満たされるのだろうか?
それとも、更なる闘争によって欠落は埋まるのだろうか?
――彼のその問いに答えられる者は、誰もいない。
展開された白の線越しに、ギギナは恩人の知人を襲っていた少女に詰問する。
タンパク質分子の連鎖で構成された蜘蛛の糸は、鋼鉄の五倍の強度を誇る。
生体変化系第二階位、
「もう! なんでお兄さんは鬼ごっこの邪魔をするの!? はっ、もしかして――」
少女はグーにした手を口元に押し付け、
「仲間に入りたかったの? ならジャンケンしないと。いくよー、さーいしょーは――」
「クエロ・ラディーンを殺したのは、貴様か?」
戯言を無視して、問う。クエロの傷口と、少女の携える凶器は合致するように思えた。
保護を依頼された少女を先に戻したのは、この話を聞かれたくなかったからだ。
彼女を気遣ったわけではない。単純に、これはギギナだけの問題だったからである。
――そう。いまとなっては、ギギナだけの問題になってしまった。
ガユス・レヴィナ・ソレルは彼の与り知らぬところで没し、クエロ・ラディーンも目の前で死んでいった。
ならば、この問題に決着をつけられるのは彼だけだろう。
誰にも介入されることなく、誰にも影響されることなく。
「殺してなんかないもん! あとで直すもん!」
そして、実を言えばそれはすでに決着していた。
頬を膨らませている眼前の少女を見ている内に、湧き上がってきた感情。
「……これが」
それは、怒りだった。
脳裏に飛来するのは幾つもの囁き。それらがすべて、その感情を増幅する。
お前はこんなものに殺されてしまったのか、宿敵よ?
こんなくだらないものに、終わらされてしまったのか?
こんな――
「これが、こんなものが我らの行き着く先かクエロ・ラディーン――!?」
その憤怒を、目前の少女の眉間に定めたネレトーの切っ先に込めて。
「――宣言しよう」
交渉のために闘争を控えていたが、いまはべつだ。
蜘蛛の巣の向こうの『敵』を睨みながら、
「貴様が、我らの闘争に介入してきたというのなら――ここで私は、全身全霊を込めて貴様を殺そう」
ダラハイド事務所の因縁。それを、ここで断ち切ろう。
そしてその視線を受けた彼女は、まるで初めて目の前に広がる白い糸に気づいたかのように、
「そんな……緊縛プレイなんて……」
絡めとられた凶器に両手を添えて、
「そんなのは、まだ早いよぅっ!」
――あろうことか、超強度を誇る糸を捻り切った。
少なからず、ギギナは驚愕を覚える。
先に相手の一撃を受け止め、その膂力は推し量ったつもりだった。
少なくとも、スピネルで生成された糸を力ずくで断ち切るような怪力ではなかったはずだ。
(力が――上がっている?)
咒式等の力を発動させたか――あるいは、単なる出し惜しみか。
だが推測は不要。
これは楽しむべき闘争ではない。生きるための闘争ではない。
一瞬でも早く、眼前の敵を消し去る。そのための戦いだ。
故に迷わず、放つ一撃は常に必殺。
(なんにせよ、これで分かる!)
全力で放つ、ネレトーでの刺突。
それを、やはり少女はこともなげに金属バットで防ぐ。
――それだけならばまだしも、少女はそのままバットを振りぬいてみせた。
「っ!?」
弾き、返された――?
最強の前衛職のひとつである剣舞士。さらにその十三階梯。
全咒式職のなかでも屈指の腕力を誇るギギナが、押し負けていた。
体勢の崩れたギギナを前に、天使はとまらない。
振りぬくバットを引き戻すようなことはせず、まるで独楽のように回転しながら一歩、ギギナに詰め寄る。
そう、計らずしもそれこそが愚神礼賛の本来の使い方。
遠心力と彼女自身の絶大な膂力が組み合わされ、まさに暴風のようにギギナを襲う。
「ぬぅ……!」
力任せだけの攻撃ならば、ギギナの精緻な剣術の前には敵でない。
不幸だったのは、ここが狭い地下通路だということだ。
それは大柄なギギナと、長大な屠竜刀ネレトーという組み合わせにとってみれば最悪の条件だった。
対して彼女――三塚井ドクロは小柄な上、得物も屠竜刀ほどの長さはない。
故に、彼女はほとんど制限を受けずにその腕力を振るうことができる。
「舐めてかかれる相手ではない、か」
冷静に考えるのならば、まずは戦場を移すべきか。だが――
「キャハッ! キャハハハっ!」
眼前の少女は、すでに掘削機の様相である。
地下道であるという制限もすでに関係ない。彼女の振り回す金属製の棒は、壁だろうがなんだろうがお構いなしに削り取る。
もはや刃を合わせることすら困難。今の彼女の膂力はギギナと同等、あるいは上回っているかもしれない。
逃げても背後から襲われるだけだろう。もとより、ドラッケンに後退の選択肢はないが。
ならば、自分は手も足も出ない――?
「……調子に乗るな」
ギギナの唇からもれるのは地獄の底から響くかのごとき、怨嗟の声。
こんなものはただの児戯だ。
竜を始めとする異貌の者共、そして数々の咒式士との死闘を潜り抜けた自分にとって、一体どれほどのものだというのか。
(それは貴様も同じだったはずだろう。ええ? クエロ・ラディーンよ?)
弔いではない。敵討ちというわけではない。
ただ、自分は胸の内にある靄には惑わされない。
ドラッケンの戦士は、その屠竜刀を振るうことによってのみ、煩悩を削ぐ。
後ろに跳躍。距離をとりネレトーを上段に構える。
刃先が天井に突き刺さり、固定された。
構わない。ただ、迫る障害のみを直視する。
――回転弾層内に残る咒弾は四つ。
ひとつは先ほどのスピネルで使用し、もうひとつは地下道を走るために使用した
さらに咒式を紡ぎ、ギギナは魔杖剣のトリガーを引いた。
「――終わりだ。消えうせろ」
発動するのは生体強化系第五階位、
生成されたグリコーゲン、グルコース等によって乳酸を分解、ピルギン酸へと置換。
脳内における筋力の無意識制限を解除し、全身の強化筋肉が最大限に稼動する。
――ギギナの屠竜刀が消えうせた。
もはや、それは不可視の一撃である。
少女のスイングを暴風と称するのならば、ギギナの剣戟は落下する彗星のごとく。
地下道の天井すら切り裂いて、ネレトーが神速をもって振り下ろされる。
それでも、少女は反応した。
「ほぉ―――むぅらぁああああん!」
キラリと光るその双眸は、ばっちりとネレトーを捕らえきっている。
故に、彼女は迎え撃つように、正確なタイミングで巨刃を打ち据えることができた。
――惜しむらくは、彼女の持っていた得物だろう。
そう、彼女は忘れていたのだ。
自分が手にしているのは、愛用の不思議金属でできた撲殺バットではないということを。
そして――屠竜刀のガナサイト重咒合金が、鉛製の愚神礼賛を寸断した。
「あ――」
無論、得物を切断しただけでは終わらない。
振り下ろされた刃は、次に彼女の肩を捕らえた。
呆然とした彼女の表情を、ギギナの聴視覚が捉える。
――狂気にも似た感情が抜け落ちたその顔に、ギギナはようやく見覚えがあることに気づいた。
昼間、確かに一度出会っている。ほとんど一瞬だったし、その直後のゴタゴタで忘れていたが。
それなりの人数で組んでいたようだったが、周囲に仲間の影は見えない。
はぐれたのか、それとも彼女だけが生き残っているのか。
あるいは、あの時の無害そうだった彼女がこうなっているのも、そのせいなのか――
それらの想像に対して、なんの感慨も抱かず。
ギギナはただ、そのまま袈裟切りに彼女を切り捨てた。
涙も達成感もなく、どこか空虚に。
小さな体が血を撒き散らしながら地面に倒れ付す。
その様子をみながら、ギギナはポツリとつぶやいた。
「……これで、終わりか」
因縁の相手は殺され、その犯人もこうして討ち取った。
だから、これでお終い。
「存外、なにも感じぬものなのだな」
何とはなしに、これは自分が求めていたものとは違う気もしていた。
だが、それを知る方法は自分の中にない。
ギギナは踵を返した。
あえて血払いはせずに、殺人の証が付着した屠竜刀を携えて、もと来た道を戻る。
これをクエロかガユスにでも見せれば、この空虚も満たされるのだろうか?
それとも、更なる闘争によって欠落は埋まるのだろうか?
――彼のその問いに答えられる者は、誰もいない。
◇◇◇
 イタイ。イタイ、イタイイタイイタイ。
天使の少女は繰り返します。
少女は天使だけれど、それでも切られればイタイのです。
血を失えば、しんでしまうのです。
天使の少女は祈ります。しにたくない、しにたくない。
■くんにもう一度、あいたい。
だけど、祈るだけではなにも変わることはありません。
――だからお終い。三塚井ドクロのものがたりはここで閉幕。
さあ、彼女の物語を始めよう。
天使の少女は繰り返します。
少女は天使だけれど、それでも切られればイタイのです。
血を失えば、しんでしまうのです。
天使の少女は祈ります。しにたくない、しにたくない。
■くんにもう一度、あいたい。
だけど、祈るだけではなにも変わることはありません。
――だからお終い。三塚井ドクロのものがたりはここで閉幕。
さあ、彼女の物語を始めよう。
◇◇◇
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