「……情けない。そういう時はまずレディを慰めるのが最優先だろう!」
ジェスの車の助手席で、いささかピントのずれた怒りかたをしているのは、ジェスの相方、カイト=マディガンである。
ジェスにソラを探す手伝いをするよう、頼まれたのだ。
普段通りブランドものの白いスーツをぴしりと着こなした彼は、上品な服装とは裏腹に、品性の欠片もない罵声をジェスに浴びせていた。
ジェスにソラを探す手伝いをするよう、頼まれたのだ。
普段通りブランドものの白いスーツをぴしりと着こなした彼は、上品な服装とは裏腹に、品性の欠片もない罵声をジェスに浴びせていた。
「言っておくがな、お前に言われたくないぞ! 一体脳内細胞の何パーセントを“女性方面”に向けてるんだ!?」
「俺のささやかな楽しみを邪魔して、いきなり呼びつけたお前が言うか!?何でこんな男と二人でドライブしなきゃなんのだ」
「俺のささやかな楽しみを邪魔して、いきなり呼びつけたお前が言うか!?何でこんな男と二人でドライブしなきゃなんのだ」
がるるるる、と睨み合うジェスとカイト。
で、水を差すのは側にいるハチの役目である。
で、水を差すのは側にいるハチの役目である。
《……お前等を見ていると、悪口のボキャブラリーは無限だと実感出来るな。で、ソラの後を追っかけなくて良いのか?》
肩を竦める事が出来るのなら、ハチはそうしていただろう。
「「そうだ! 早く探さないと!」」
顔を見合わせると異口同音に叫ぶジェスとカイト。
カイトはこれまたブランドもののどっしりとした腕時計を見ると、苦り切った顔をした。
カイトはこれまたブランドもののどっしりとした腕時計を見ると、苦り切った顔をした。
「不味いな、この中に居たから時間感覚が麻痺していた。……もう日が落ちてるぞ。急がんと不味い事になるかもしれん!」
天下のお膝元、オーブとはいえ治安状態は“他よりはマシ”という程度でしかない。
だからこそ治安警察という武力集団が必要な世の中なのである。
天下のお膝元、オーブとはいえ治安状態は“他よりはマシ”という程度でしかない。
だからこそ治安警察という武力集団が必要な世の中なのである。
「……急ぐぞ、カイト! ハチ、この辺の地図を出してくれ!」
ジェスの脳裏にはある嫌な事が脳裏を過ぎる。
《この近くには、再開発地区……、と言えば聞えはいいが……》
「スラム街…だな」
《ああ》
「そっちに行ってなければ良いんだが」
「スラム街…だな」
《ああ》
「そっちに行ってなければ良いんだが」
ぼやいても仕方がない。
アクセルを踏み込み、車を再開発地区に向ける。
アクセルを踏み込み、車を再開発地区に向ける。
「無事でいてくれよ、ソラ……」
「……今日は、どうするの? 官邸に戻る?」
黒塗りのオープンカー、運転席に座るメイリンはナビシートに座るアスランに訪ねる。
「いや、今日は仕事はいいだろう。家に帰ろう」
そう言うと、メイリンは心無しか嬉しそうな顔になる。
「そうね、それも良いかもね。うちのコックにもたまには仕事をさせてあげないと。私がたまに帰ると愚痴られるのよ。『折角本場で修行した腕前が、なかなか披露出来ない』って。……だから最近家に帰ると変な創作料理ばっかり出てきて……」
言いながらも、メイリンは滑らかに車を運転していく。
信号が点滅しだしたので、メイリンはゆっくりと車を停止させた。
事故を起こして貴重な時間を無駄にしたくないからだ。
信号が点滅しだしたので、メイリンはゆっくりと車を停止させた。
事故を起こして貴重な時間を無駄にしたくないからだ。
「……そうだな。今日位は、家でのんびりと……」
何気なく辺りを見渡しながら健やかな顔で答える。
暫くぶりに安らいだ気持ちになるアスランだったが突然、その表情が一変した。眼光は鋭く、口元はきりりと――“戦士”の顔へ。
暫くぶりに安らいだ気持ちになるアスランだったが突然、その表情が一変した。眼光は鋭く、口元はきりりと――“戦士”の顔へ。
「済まないメイリン、ちょっと用事が出来た。……直ぐに戻るから待っててくれ」
そう言い捨てると、物凄い速さで車から飛び出してしまった。
そのまま信号待ちで止まっている車の間を駆け抜け、ガードレールをひらりと飛び越えるとアスランは雑踏の中へ消えてしまう
そのまま信号待ちで止まっている車の間を駆け抜け、ガードレールをひらりと飛び越えるとアスランは雑踏の中へ消えてしまう
「ちょ、ちょっとアスラン!? ……もうっ!」
メイリンも後を追おうとするが、車をこのままにしておくわけにもいかず歯噛みするしかなかった。
――どこをどう歩いたのか、自分でも良く解らなかった。
ただ、あの場所に居たくなかった。笑っている人の顔が、あんなにも醜い――そう感じてしまったから。
ただ、あの場所に居たくなかった。笑っている人の顔が、あんなにも醜い――そう感じてしまったから。
「私、オーブに帰ってきたんだよね?」
こんな筈じゃ無かった。
暖かい人の姿が、何時も側にあった筈なのに。
親友のシーちゃんとハーちゃんン、学校のクラスメート、孤児院のみんな、寮の友達、バイト先のマスター……あの人達は何処に行ってしまったのだろう。
暖かい人の姿が、何時も側にあった筈なのに。
親友のシーちゃんとハーちゃんン、学校のクラスメート、孤児院のみんな、寮の友達、バイト先のマスター……あの人達は何処に行ってしまったのだろう。
「逢いたいよ……」
ぎゅっと、両の手できつく己を抱きしめる。
去来する寂しさが、暖かみを欲していた。
かなりきつく握る――その痛みで、ようやくソラは己の状況を理解した。
去来する寂しさが、暖かみを欲していた。
かなりきつく握る――その痛みで、ようやくソラは己の状況を理解した。
「……ここ、どこ?」
見慣れたオーブの街並みではない。
既に日が落ちている事もあったが、薄暗い場所である様だった。
適当に立てられた建物の群れが、ソラを取り囲んでいる。
その辺に生ゴミが散乱していて、それを野良犬が漁っている。
――薄闇の向こうには死体もありそうな場所。
既に日が落ちている事もあったが、薄暗い場所である様だった。
適当に立てられた建物の群れが、ソラを取り囲んでいる。
その辺に生ゴミが散乱していて、それを野良犬が漁っている。
――薄闇の向こうには死体もありそうな場所。
ソラは、そのような光景を何と呼ぶか知っていた。
そして、その言葉を脳裏から思いだした時、沸き上がってくる恐怖に身を震わせ出していた。『スラム』という言葉を。
そして、その言葉を脳裏から思いだした時、沸き上がってくる恐怖に身を震わせ出していた。『スラム』という言葉を。
(――早く、ここから出なきゃ!)
弾かれたようにソラは走り出す。……だが、どこをどう行ったら良いのか解らない。
何個かの路地を抜けて、走り続けて――ソラは、そこで足を止めた。
自分が、“決して来てはならない場所”まで来てしまった事を感じながら。
何個かの路地を抜けて、走り続けて――ソラは、そこで足を止めた。
自分が、“決して来てはならない場所”まで来てしまった事を感じながら。
目の前に人々が居た。
スラム街の“住人”達が。
スラム街の“住人”達が。
アスランがナビシートで辺りを見回したとき、栗色の髪のありふれた、だが決してこんな場所にはいそうにないタイプの女の子がスラムに消えていくのが見えた。
あの娘にとってアスランは別に教師でも保護者でも友人ですらない。
余計なお世話な事なのかもしれないが、つい愚痴が出る。
余計なお世話な事なのかもしれないが、つい愚痴が出る。
「何かあってからでは、遅いんだぞ……!」
それは、アスランなりの教訓である。何もかも、“後悔先に立たず”なのだ。それは、彼の人生そのものと言い換えても良い。
その時、アスランの鍛えられた聴覚は確かに“捉えた”。か細い、消え去ってしまいそうな、助けを求める声を。
その瞬間アスランは考えるよりも先に車を飛び出していた。
あれは人間なのだろうか? これは最初にその人物を見たとき失礼ながらソラが最初に思った事である。
歯は不揃いで、何個かは溶けているかの様になっている。おそらくは劇物などを日常的に取っているのだろう。悪臭が離れていても漂ってくる。目は淀み落ちくぼんでいて、何が楽しいのか口はだらしなく半開きになっている。
世間には様々な人種が存在する。だが、確かにこのような人種も存在するのが事実だ。理想論だけでは、世の中は説明しきれない。生まれや育ち、様々な要因はあるのかもしれないが、この様な生き方を選択する人々も存在するのだ。
それらの瞳は、自分達のテリトリーに侵入してきたソラに向けられていた。血走った、獰猛な瞳――肉食獣が草食動物に向けるような。
「お嬢ちゃん、迷子かなぁ?……ようこそ、この世の楽園へ」
中央の男――鼻に大きなピアスをしているくすんだ金髪の男が恭しく言う。言下に嘲笑を交えつつ。
「キヒヒッ」
「ゲヘヘヘヘ!」
周りの男達も、口々に笑い出す。……眼前の愚かな、白兎に。今にも“食べてくれ”と言わんばかりの、哀れな女の子に。
「……ッ!」
ソラは、言いようのない嫌悪感を感じていた。ぐっと奥歯を噛み締め、なんとか己を奮い立たせる。闘う為ではない――逃げる為に。
かつて、タチアナ=アルタニャンがこう言っていた。
<あたしは、子供の頃スラムで育ったんだ――>
タチアナの言うスラムとはここの事では無いだろう。だが、決して真っ当な場所ではないのだとソラにも解る。……そして、改めてその現状を見るとソラの中にも“怒り”は沸くのだ。誰への、何への怒りか、自分でも解らないけれど。
だが、ソラは己のやるべき事を理解していた。何度と無く、リヴァイブで学んだ事。
ソラはきびすを返すと、一目散に走り出す。
何としても生きる――それはリヴァイブに、ターニャに教わった事だから。
だが、それは眼前の肉食獣達には予想されきった行動だった。
「おーい、いきなり逃げる事はないんじゃなぁい?」
男達の一人が、俊敏にソラに飛びかかる。それは手慣れていて、場慣れていないソラはあっという間に地面に押し倒される。
「きゃあっ!」
ソラは、ゴミだらけの地面にしたたかに打ち付けられる。次の瞬間には飛びかかってきた男が、ソラに馬乗りになっていた。――もう、逃げられない。
「へぇ、結構可愛いじゃないか! ……こいつは高く売れるぜ!」
「……いやっ、放して!」
「うるせぇ! 俺に命令するんじゃねぇ!」
それは、まさしくソラにとっては“魔物”だった。――これ程醜悪に嗤うものは、既に人では無い。
ソラの服に男が手をかけ、力任せに引き裂く。
「いやぁぁぁぁぁっ!!」
ソラは、あらん限りの声で叫んだ。ブラウスの破ける音を掻き消す程の大きな声で。
ソラは、おぼろげに思った。
(これが、“奪う者”と“奪われる者”の姿なんだ……)
人が、どうして戦いを辞められないのか。人がどうして、戦いを挑んでいくのか。
結局は、こういう事だ。“戦わなければ奪われる”それだけなのだ。弱ければ、食い物にされるだけという事だ。
(ターニャ……貴方はずっと、こんな世界で戦ってきたの?)
(コニールさん、センセイ……こんな時、どうしたら良いの? どうしたら、良いの?)
(誰か助けて。誰か――シンさん!)
――思わずソラが目を閉じた瞬間、ソラを押さえつけていた男の体重が感じられなくなった。
重い荷物を落としたような大きな音がする。自分を拘束していた男が、凄い勢いで吹き飛ばされたのだ。
重い荷物を落としたような大きな音がする。自分を拘束していた男が、凄い勢いで吹き飛ばされたのだ。
「……なんだぁテメェ?」
鼻ピアスの男の声がする。どこか怯えが混じっているようだ。
(何……?)
ソラは、涙で濡れた瞳を恐る恐る開いてみる。
そこにはソラを庇う様に立つサングラスをかけた黒髪の男が居た。
そこにはソラを庇う様に立つサングラスをかけた黒髪の男が居た。
「……もう、大丈夫だ」
それだけを言うと彼は、無言で歩を進める。しかし、その意志は明らかだ。炎の様なオーラが全てを物語っている。『貴様等を全て叩きのめす』と。
「正義の味方気取りか?ウゼェんだよ!」
サングラスをしていたから、暗かったからそれが誰なのか判らなかったのかもしれない。或いは判ったとしても、鼻ピアスの男は引き下がれなかったのかもしれない。……ともあれ、彼等の運命はこの時決まった。
――それは、あっという間の出来事だった。青年は無言のまま、あっという間に男達の大半を叩きのめした。ある者は地面に付して呻き、ある者は仰向けのまま気を失っている。強さの質が、桁違いだった。
意識が朦朧としているソラは、何処かでこの光景を見た事があると思った。
(何時だったろう? この光景を見たのは……)
それは、ソラがオーブに居た頃の出来事。あの日、あの人は黒ずくめでサングラスをしていて――そして、今のように圧倒的な強さで全てを吹き飛ばして――
「死ねやッ!」
最後の一人、鼻ピアスの男は懐からナイフを取り出し青年に切り掛かる。喧嘩慣れしているようで動きに躊躇いが無い。が、サングラスが落ちただけで青年にはかすめる事さえできない。
男があせりを見せた瞬間、青年は一気に懐に飛び込んだ。鼻ピアスの男は反応すら出来ず、肘撃ちが鳩尾に突き刺さる。
「うおおおおッ!」
裂帛の気合い。それと共に鼻ピアスの男が、中空に浮かぶ。アッパー気味の掌打が、鼻ピアスの男を浮かせたのだ。
そして止めとばかりにしなやかで鋭い廻し蹴りが鼻ピアスの男の顔を捉えた。何かが潰れる音がして弾け飛んだ男は壁に叩き付けられ、ピクリとも動かなくなる。
「に、逃げろっ!」
青年の強さに恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように他の男達は逃げ出していった。
青年は安全を確認すると地に落ちたサングラスを拾い、ソラの元まで戻ってきた。
「怪我は、ないか?」
優しくこちらを気遣う青年に、かろうじて頷くソラ。
もう駄目だと思っていた。なのに、助けが来た。そして、助けてくれた人は、あの日の様に黒ずくめでサングラスを掛けていてとても強くて……
「シンさん……」
そう言って、ソラはくたりと崩れ落ちた。慌てて抱き止める青年――アスラン=ザラ。
「気を失ったのか……無理もない」
アスランはあられもない姿のソラに自分のジャケットを羽織らせると、抱きかかえて歩き出した。改めてソラの安心しきった寝顔を見ながら、アスランは考えていた。
(――この子、俺の事を『シン』と呼んだ……まさか、な?)