いばらのみち――(ne pas céder sur son ―――) ◆MobiusZmZg


【4】


 勇者。
 導かれし者。

 それは、かつてのユーリルを奮い立たせ、彼に誇りと一面性とを与えた称号だった。
 同時に、勇者ではないユーリルをことごとく打ち据え、くつがえした概念でもある。
 しかしてそれと同じ単語が、ときに彼を癒すものであったと、今の少年には思い当たれない。
 事実、勇者という概念以外で癒せはしなかったであろうことを、今のユーリルには気付けない。

 勇者であるがゆえに村を焼かれ、帰るべき場所を喪った少年が無理矢理にでも歩いていけたのは、やはり
彼が勇者であったからだ。勇者とされた彼のもとに仲間が導かれ、没頭出来る目的と、あるべき自身の姿とが、
これ以上なくはっきりと示されていたからでもあったというのに――。

 気付けない。いまの彼には、気付けない。
 己の心や行動基盤に内在していた未熟や単層構造、未成熟な感情。
 そうしたものどもと時間をかけて向きあう機会など与えられなかった少年には、気付けない。
 未昇華の感情に心を灼かれつづける彼には、見えようはずもなかったのだ。
 たとえば「心にうけた傷は、究極的には、その心体に傷をつけた刃でしか癒せ得ない」と。
 堆積した過去を自身から分離し追想することなど、現在の奔流に喰われんとしている彼にはなし得ない。

 いまの彼に見えるものは、気付けるものは、夜立にたたずむひとりの少女だ。
 彼に無力と、無知と、戻りえぬ幸せ。そして制御しようもない量の情動を知らしめ、彼の心から支えどころか
純粋なものの見方さえ奪った者。
 螺旋の底にて<剣の聖女>を、《英雄》の真実を語った者。
 まるで歴史の亡霊を思わせた、アナスタシア・ルン・ヴァレリア
 三度に渡って対峙した者の、黙してひとり隔轍(かくてつ)に立ち尽くす姿だけだ。
 前髪に表情を隠し、武器を抱いた彼女しか見えないというのに、
 ユーリルには、なにも分からなかった。
 アナスタシアの思いも彼女の抱える背景も、なにもかもが分かれなかった。
 この滝落としに似て押し寄せこぼれる情念に心を灼かれる少年には、推量などかなわない。
 いまこのとき、彼女がなにを思って絶望の名を冠した鎌を抱いているのかさえ。

「どうしてっ、どうして……なんだよ! アナスタシア……アナスタシアぁあああッ!!」

 アナスタシアが自身の薄汚なさを前に塞いでいることなど、彼には想像すら出来ない。
 想像するつもりもないからこそ、彼女に揺らされたユーリルは遠慮会釈もなく声を張り上げていた。
 大声で支えてもふるえ、かすれひび割れた響きの心許無さより、声帯にのこる確かな振動こそが彼を後押しする。

「僕の……僕の『魔法』は――」

 ……おのが根底を揺らした者であろうと、彼女とてれっきとした人間。そのはずだ。
 それならば、様々な感慨や言葉を前に揺れないでいるほうがおかしいことなのだ、と――。
 そんなことにさえ、自身の基底に大穴が開けられ、心水を抜かれ続ける彼には思い至れない。
 黒い髪の剣士が振るった峰に剣の腹をぶつけ、強化された膂力でもって強引に手首を返す。
 利き手一本で握った剣の、竜を模した柄頭による殴打は、相手の護拳を押しながらも受け流された。
 勇者であった頃には使わなかったような攻撃から重心を戻す、その瞬間。
 赤い光がともって方向の感覚が乱され、くるめきとともにユーリルの視界がゆがんだ。
『魔法』から近くも遠い力を前にした次手の一閃は、虚空に円弧を刻むにとどまる。

「……あ。あぁ……、……ッ」

 感情をぶつけるべき対象を見失い、詰めていた息を剣戟の動作とともに吐ききり。
 先ほど耳を衝いた『魔法』という語を反芻して、どうしようもない忘我の一瞬が訪れた。
 忘我のうちに置かれた本人を除いた誰が見ても明らかであった隙に、しかして追撃はない。
 それが何故であるのか考えないユーリルは遮二無二のどを鳴らし、唾液を嚥下する。
 斜め後ろの光景を振り見て軸を戻したそのとき、視界に割り入ったものは、青く長い髪だった。
 勇者であった彼が、抱けていた優しさ。彼の人格、その底流にあったはずの想像力。
 思いやりといえるものが奔騰する感情に奪われたいま、ユーリルはなんの手心も加えずに言の葉を綾なす。

「……アナスタシア……!」

 すがるようにその名をつむいだ彼の、天穹のごとくに青かったはずの双眸――。
 充血し嫌気にゆがみ、熱情にくすぶる輝きの質は、正しく盲いたもののそれであった。
 そんな彼の様子は、大人はすべてに耐えられるものだと信じて寄りかかる、子どもの態度を思わせた。
 自身の変化にも気付かぬまま、寝床たる止まり木の枝を揺すり続ける、もと小鳥の試験にも似ていた。
 真から無明に放り込まれ、芯より何も見えないからこそ。
 彼は、金髪の少年がつむいだ言葉に対する反応さえもアナスタシアに収斂させる。
『魔法』。《勇者》の意味を知らなければ、共感や同族意識を抱けていたのかもしれない緑竜の轟き。
 泡沫のような回顧から励起された感情を、彼は自分の内に押し留めなどしない。
 まったくの盲目であるがゆえに、まったくと筋がとおらない話でもないために、留めようとも思わなかった。

 ゆえにこそ、次の一瞬。
 呼気を押し出す体の勢いを借りたユーリルは、導かれし者の剣を上段から振り下ろした。
 なんの弁別も出来ぬままに受け取ってしまった言葉をこそ、断ち切るように。
 内心における揺らぎを裏切るほどに澄んだ風切り音が、湿りを帯びた夜気を引き裂いてゆく。
 刃が狙ったものは、アナスタシアに向かう目前に立ちはだかる障害のうちのひとりだ。
 先刻までにもぶつかった、護拳と反り身の片刃をもつ剣は、ユーリルの認識をなおもゆがめる。

 帰るべき場所を焼き払い、過去をすべて葬った、魔族の王。
 闇を支配する魔がいなければ、自分が光として立たされることも、きっとなかった。
 そんな位置に立つ者が携えていた魔界の剣を、見紛うことなど出来ようものか。

「どうして……どこまでも、お前は僕の邪魔をするんだよ――ッ!」

 雨や雨。
 そうした形容が至当な慟哭が、ユーリルの表情にさらなる色を付け加える。
 歪みを意識出来ない少年は緑柱石の色にも似た髪を雨に流し、線の細い剣士へ刃をぶつけた。
 もはや、幾度目になるのかなどと考えるだけ無駄でしかない激突が、もう一手積み重なる。
 盲目であるがゆえに戦う相手も選び取れない彼は、ある意味で思考を放棄しているも同然だった。
 黒い髪の剣士が、茶色い髪の少年がぶつかってこようものなら、同じだけぶつけ返した。
 金髪の少年が両手に刻まれた紋章の力を使うのなら、無彩色の雷を現出させて相殺した。
 その剣に、『魔法』にこもった怒りも、悲しみも、苦痛も悲嘆も、呪詛も。
 余人には想像のしづらい、されど誰もが切り捨てられない思いに繋がっている。

 悪意の介在しない感情の奔流を支えるものは、
 限界を知らずにあふれてくる、彼の理由は、
 つきせぬ、ひとつの《問いかけ》である。

 彼女が、世界が選んだ者。そして、誰もが選ばなかった者は、『どうして自分だったのか』と。
 《勇者》の概念を介在させない別の答えを追い求めた果てに、彼は迷走し暴走し、決壊した。
 苦痛と無理解に満ちた現状をつくる一切が、『なにゆえ自分に降りかかってきたのか』と。
 そこに覚えた不全感と拘束からの開放を求めた彼は、すべての力を振るいつづけている。

 くしくもと、表現すべきだろうか。
 あるいはこれも、必然といえるのだろうか。

 ユーリルと出会ったアナスタシアの抱いた思いと、彼のそれは質を同じくしている。
 少年は少女と同じく、答えに飢えていた。
 心の器、その基底にあった《勇者》という概念を疑い、疑念を前に立ち止まってしまい。
 感情とともに自身を燃やしながら歩き出してもなお、癒されず。
 喪失の道において内奥を枯渇させた少年は傷口を、渇きを埋められるものをこそ欲していた。
 底の抜けた《ユーリル》を、刻まれた傷のすべてを埋めてしまえる思いを。
 《勇者》に比肩するほど確かに自身を支える理由を。
 《英雄》の影を吹き払えるほどに強力で疑いようのない現実を。
 思いもよらなかった観点より降りかかった苦痛、その総量に釣り合うだけの答えを――。

 アナスタシアが勇者の称号にある輝かしさを否定した裏で、ユーリルの共感を求めたのと同じに。
 飢え渇いた少年は、分竜じみた豪雨にふるえ、青ざめ、体力の限界を超えても必死に声をあげる。
 必死に問いへと入れあげていなければ、ユーリルそのものが立ちいかぬままに折れてしまうから。
 そうと断せられようほどに、反撥をこそ求めたような彼の剣は激しく、双眼には血が入っている。

 そこまで、思っていながら。
 そこまで、追い込まれていながら。
 様々な観点から示された答えを受容出来なかったのも、この少年に他ならない。

 ユーリルは、これまでに奪われすぎたのだ。
 たとえば日常。たとえば雷魔法。たとえば仲間、トモダチ、家族、なによりも《勇者》。
 《勇者》とかけ離れてしまうまでに、彼は、彼であるべき理由を失いすぎている。
 企図したにしろしないにしろ、様々な者から否定の言動を受けすぎているのだ。

 そんな彼の抱える傷は、言うまでもなく深い。
 《勇者》ではなくなった彼が基底から失った精神の血、その総量は多すぎた。
 そして、勇者ではない自分を否定され続けたユーリルの自己評価は低い。
 加えて仲間、トモダチ、幼馴染に対する評価は高かった。
 これほどに全力を挙げて否定してもなお払えないでいる、《勇者》の称号に対してもだ。
 もう帰ってこないものたちに対する理想と幻想は強固であった分、制御がきかない。
 なによりも、ユーリルにはここに立つ自分の中身を覗きたいと思えない。
『自分でなくとも良い』自分の存在を見つけてしまうことは、耐えがたい苦痛だったのだから。

 ゆえに彼は、現実ではなく幻想を求める。
 今までの喪失を埋めるほど完璧な同調を、完璧な共感を、完璧な理解を欲する。
 ともにいるだけで、なにも口にせずとも想いが伝わるといった、小児的な夢を捨てまいとする。


 ……そうして強く思えば思うほどに、ユーリルからは選択肢が消えていくのだ。
 自分になにがあるのかと疑った結果、自分にはなにもないと信じてしまったがゆえに。
 たとえ、そんな彼を全面的に認め、許容する者ですら、劣等感を覚えた少年には脅威でしかない。
 あまりに大きな幻想を抱いていながら、幻想を信じつづけるだけの感情の『遊び』も彼には少ない。

 だからこそ、無意識にくみしやすい者を、加害者を狙って、
 あやまたず自分のものにした感情、世界に対する呪詛をぶつけていくしか、ないのだが。
 己のことさえまったくと見えない状況で、何も認められない状態には、

 なんら変化がない。


 いばらの道で喪って喪いつづけ、喪ったことを叫び続ける少年は『返答』を求めて新たな一閃を刻んだ。
 彼の脳裡に満ちているのは、幾度も彼を裏切り、ときに形式や文脈を無視して行われた数多の答えだ。
 新たな答えで埋めるべき喪失の主観的総量に比例して、彼は相手のことを待てない。
 隠した思いを汲まれないことで覚えた絶望が強いほど、彼は相手を見過ごせない。
 すでに彼は、相対するものに容赦を加えることだけは選べない。
 それゆえ誰かを、なにかを許すことも出来ないのだ。

「アナス、タシア」

 ある種の正当性を胸にしているがために、少年は止まれず、来た道を引き返せもしない。
 といって先にも進めないまま、彼は、戦場で沈黙を保ちつづけていた少女の名をつむいだ。
 自分が何者なのか、その一面を示した人間を表す語を、雨香すら沈む闇へと重ねて織り上げる。
 世界にある者たちが悪魔にも魔物にも魔王にも見えるほど、彼女との関係性に取り込まれた状態で。

 それでいて究極的には、彼に相手が見えるということもないのだ。
 被害者意識の裏で絶対性を見出したために、遠慮なく暴れつけている相手――。
 なんの枕詞も付けないアナスタシア本人のことを、ユーリルが顧みることはなかった。
 少年は、彼女が<剣の聖女>本人であるかどうかも、彼女の戦闘能力も、彼女の好きなものも知らない。
 だからこそ、自分の認知を真っ向から歪めた彼女が自分を恐れている可能性を推し量れない。
 人ですらないと言われ、殺す価値もないほど空虚な自身を認めた彼には考えられない。
 自身に相手に及ぼす影響力など無いと決め込んでしまった彼には、想像出来ない。

「逃がすか。逃がして、たまるか……アナスタシア・ルン・ヴァレリアああぁあ!」

 この瞬間のユーリルにつかめたのは、断片的で皮相的な情報のみ。
 少女が自分を守ってくれていたはずの三人から、きびすを返して背を向けたという事実だった。
 少年の知らなかった《自分》を言い当て、道を示した当事者が『自分を捨てた』との認識でもあった。
 眼前では彼の叫びを耳にした剣士が、舌打ちとともに一瞬、意識を背後へと逸らした。
 アナスタシア。忌々しげにつむがれた名前は、狭窄したユーリルの感覚にも鮮やかに割り入る。
 剣士が携える得物よりも、その名前にこそ引かれて、少年は左の手のひらを天へと伸ばした。

「きたれ、魔戦の雷」

 その口の端にのぼらせるは、《勇者》の呪文である。
 招雷魔法は層積し、嵩を張った黒雲をたちどころに戦地へ喚ぶ。
 激しい火花を散らしている雲は、行き詰まった思考を映して白い雷を招く。
 天の海にて生まれた龍を思わせる雷は、うねりつかねて地の潮海を指向する。
 ひとときなれども水天の一碧をすらつなぐものが、雨渡りののち大地に落ちる。

「――ギガデイン!!」

 白さもきわまって青ざめた光が、星なきみそらを押し開く。
 さながら密雨と見えた輝きは糸のごとくに散り、少年の前に立ちはだかる者へと襲いかかる。
 遅れることなく追随した碧の、夢を思わせて澄んだ光がなおも夜闇を照らしあげ、


 雨竜下った島の一角に、幾筋もの光芒がひらめく。
 土をぬるませる水のたまりが夜風を受け、さざれに光耀をはしらせてゆく。


 ×◆×◇×◆×


【5】


 死神の、絶望を暗喩する鎌よりも。
 彼らの放つ言葉は、とても、とてもとても、とてもするどかった。
 イスラも、紋章使いのジョウイも、泥にまみれたとて彼らなりの課題を見据えていたから。
 結果は死であるとしても、その過程にある光をこそ目指して、

 ひたすらに、生きようとしていたがために。

 死にたいとわめいたイスラの叫びが、アナスタシアの思考の死角を照らし得た。
 汚れ役を引き受けたらしいジョウイの宣誓が、アナスタシアの懊悩を矮小化した。
 生きても闘えない自分との差が、ユーリルに対する言葉へ顕れているとも思われた。
 勇者は生贄だと断じた己の言葉こそが、何もしない自身を深淵に突き込むようだった。


 そして、あの雷で干上がった湖のほとりにあったものの姿が、なおも少女を突き上げる。


 獅子奮迅の働きをしたのだろう四肢を砕きもがれ、切り捨ててまでも戦い抜いた者は。
 ひび割れた泥濘を元の姿に取り戻すべく溜まる勝り水。そのかたすみに斃れた者は。
 猛々しさや張り詰めた雰囲気とは裏腹にあどけない額を、夜天に晒している者は。
 カノン。アイシャ・ベルナデット。<剣の聖女>の末裔たる凶祓いの女性――。

 アナスタシアの耳にユーリルの声がはっきりと聴こえた原因は、言うまでもなくイスラだ。
 ならば、現実感覚を取り戻したアナスタシアの背中に氷を入れ込んだのが彼女の遺骸。
 《英雄》のくびきから解き放たれたはずのカノンがみせる、あきらかな勇戦の名残りだ。
 イスラの、ジョウイの、ユーリルの言葉から逃れようとした視界の先にいた、自身を目指した者の姿。
 水に沈んだと見える義体と、わずかな肉のかたまりは、アナスタシアへ衝撃を与えるに十二分であった。

 むろん、彼女がいかにして<剣の聖女>の呪縛を払ったか、その経緯は少女とて知っている。
 けれども、ああして散っていける心のもちようを、聖女と謳われた《英雄》は知らない。
 いま、ここにひとつの意志や信念を貫くため、文字どおり身を削り――。
 それでいて穏やかに逝ける心境など、とてもではないが想像出来ない。
 想像の出来ないものなど、実現させることもかなわない。

(べつに、あんなにも綺麗でなんか、いなくたって……)

 高鳴る鼓動がうるさかった。
 そう。特段、綺麗でなくともいい。
 いかな状態であろうとも、この胸さえ打てば、生きてはいける。
 それこそカノンの行ったように、生身を捨て去っても生きてはいけると分かっている。
 けれど、綺麗でない生の果てになにを残せるかと問われたなら、アナスタシアにはなにも言えなかった。
 遠目に義体と分かったように、遺体こそ無惨な状態だったが……彼女は、綺麗に死んでいたのだ。
 カノンのように死ねるかと言われれば、それは無理だと答えるしかなかった。
 《英雄》にその肉体を縛られ、それでいて精神は《英雄》から自由になれたはずの、

 彼女と自分は、なにが違う。

 三人の言葉から逃げた先で、痛いほどに分かっていても問わずにいられなかった。
 ピサロとの一対一が響いてか、いまだ口を開かないアキラの言葉に、どこかで期待をかけていた。
 それでも、白馬の王子様は来なかった。
 アナスタシアにとっては長い、長い時のうちに。
 戦場に立った二人は納得し、もうひとりは、黙して語らず、

 最後のひとりは、確かに自分を求めている。
 彼女がもっとも望まないかたちで、求めている。

 だから、こうして、駆け出したのだ。
 あとがないと分かっていながら、戦場を駆け抜けようとしているのだ。
 自身への嫌悪感をあらわにしていながら、こちらへの射線をとおさない、イスラの剣から。
 リルカと面識があったのか、『魔法』という言葉を大切につむいだ、ジョウイの紋章から。
 なにを話すかも分からないが、魔法の使い手というのに前線を支える、アキラの言葉から。
 揺れまどい、燃えさかる感情をぶつけることにだけは迷いをみせない、ユーリルの姿から。
 戦場にて、石のひとつも投げようと思えはしなかった、アナスタシアが逃げ延びるために。

 踏み足の裏の全体が、ぬるむ大地にぶつかった。
 子どものような足取りで逃げて、

 逃げるために、

 逃げて、


(生きるって、いったい何なの? どういうことを、さしているの……ッ?)


 いくばくもしないうちに問いが、なにも持たない彼女を追いかけてくる。
 安易な道に逃げた。自分のしなければならない戦いを、避けたと。
 少女自身の声こそが雷鳴に重なり、低い轟きを喰い殺すほどの苛烈さでもって響く。

 そうであるからこそ、全力で足を動かしていた。
 全力で足を動かすからこそ、彼女は、三人のことを考えずにいられた。
 けれども、なごやかですらある忘我のときなど、長く続きはしない。
 風をきり、風をかきまぜる自身の鼓動、緊張に粘った汗を流す、アナスタシアの体――。
 どこまでも自分に向かって研ぎ澄まされた頬の肌理が、べつのものの動きを捉えたがゆえに。


 ただの少女は、振り返る。空気に伝わる熱を前にして、振り返ってしまう。
 足を止め、振り返って、真っ先に視界へと割り入ったのは引かれ者の。
 惹かれ者のような少年の眼と、その手がしかと構えた剣であった。


 ――分かっていた。
 こうなることは、分かっていたのだ。
 分割された戦場においてユーリルが狙うのは、アナスタシアただひとり。
 ならば、自分が目立つような行いをすれば、それを知覚した彼は、まずもって動きだす。
 即席の陣や連携を突破することなど、心の痛みで体の限界を忘れた彼は、いとわない。
 ……それが分かっているからこそ、最後に少女は振り返ることがかなったのだ。

「か、はッ! ……う、くぅ――ッ」

 振り返って、彼の剣を真っ向から受けることが。
 胸許から背中に抜けた剣で支えられた体の、両腕を、彼に向けて伸ばすことが。
 激痛に跳ねんとする腕を押さえて、ユーリルの体を拘束することが。
 そしてなによりも、

 痛みを超えて五感を支配する、体の痛み。
 それでもって、心の痛みを忘れていられる。
 体を走る熱感に身を任せていれば、すべてを。


「なにを使ったかは知らないけど、これでひとりは押さえられたね。
 もっとも……君が彼にやったことをかんがみれば、問題の先延ばしに他ならないけど」


 忘れさせては、くれなかった。
 にぶい衝撃とともに、少女を刺した少年の肩が崩れる。
 そこから苦くゆがめた視線を見せたのは、黒い髪を雨にしおれさせた剣の使い手だ。
 片刃の剣を返したイスラの一撃が、ユーリルの。肩にほど近い、首の側面部を捉えたのだ。
 アガートラームが無ければ素人と変わらないアナスタシアにも、この一撃が急所を打ったことが分かる。
 そして、土壇場で手首を返して肩を振り抜き、急所を狙って水平にはしった軌道には迷いなど微塵もない。
 手刀や貫手のそれと変わらぬ殴打のするどさは、少年の肩越しにイスラが浮かべた表情の硬さに相応だ。

「ぬいぐるみかい? 少女趣味だね、“おねえさん”」

 ……目を閉じていても、耳にはイスラの声が届いてしまう。
 気付かないふりをしているのか、皮肉のつもりなのか。
 前言をたどって判断することも出来ない。
 剣という支えを喪った体が、別のものに支えられる。
 アキラとおぼしき声が、治癒の能力を使おうとして驚きの声をもらす。
 その光景を睥睨していると言っていいイスラの様子から、アナスタシアは、目を逸らした。
 失血と傷に力を喪ったふりをして、ひたすらに目を逸らしてしまうしかなかった。
 ユーリルを『生贄』にした自分が、どうして、彼の刃を誘うようなことをしたのか。
 《英雄》ではないアナスタシアを駆り立てたものは、贖罪の念ではない。勇気でもない。
 《勇者》の意味を知った者に向けた同情でもなければ、後先を顧みずに行った蛮勇ですらないのだ。

 これは……たんなる、保身であった。
 自分が少しでも救われていたいがための、いやしい打算。
 自分自身に正当性を得ていたいがための、さもしい計算。
 生臭いが生の匂いなど微塵も感じられない目論見にほかならなかった。
 真から生き抜く覚悟を決めることも出来ないが、屍を晒すことも出来ない半端者。
 ただそれだけの人間が、いま少しの猶予と点数を得る――。

 そして、当初の決意に反して、問題の解決を三度までもあと回しにしてしまっただけのことだ。
 その場しのぎの行動を、煩悶と後悔と無関心に囲まれて選ぶしかなくなった。


 ただ、それだけの話だ。


 こんな行いをする程度には、自分が失策を犯したことだけは嫌になるほど理解している。
 ここでなにも選ばなければ、先には厳しい道が待ち受けるであろうことも分かっていた。
 分かっていながら、アナスタシアはこの道を。自らすすんで刃を受ける道を『選んだ』とは言えない。
 自業自得であろうとなんだろうと、この展開を『選ばされた』のだとしか感じられない。
 選ばされた事実を受け入れ、このことすら自分の一部であるとは、とてもではないが思えない。
 そんな自分の心根が、分かっているからだろうか。
 真っ向から剣戟を受け、胸当てや鎧下どころか素肌を切り裂き抉られてなお、アナスタシアの心は晴れない。
 流血とともに高揚を覚えるとされる戦士の、生命の本能と今の彼女の距離は遠く。
 血が流れ、脱力した体が雨に濯われるほどに、胸中にはすっきりとしないものが堆積する。

 めまいがし始めてもなお、気絶には、ほんとうの忘我にはまだ遠い。
 考えなくてすんだはずの思いが、水泡のように胸の奥から湧きあがってくる。
 もしもいま、自分のふところに《スケープゴート》がなかったなら――。

 まずもって、自分にこんなことは出来なかっただろうと。

 聖女でもなんでもないアナスタシアには、ほんとうの意味で自身を犠牲にすることなど出来ない。
 《生贄》となった自身を否定しても、自分が安全であれば他の誰かを身代わりに立てたように。
 礼拝者すべての罪を生きたままあがなう山羊にさえ、逆立ちしても……この自分に、なれはしない。

 非現実もきわまりない考えに気をまわす滑稽さが分かっていても、彼女には、たまらなかった。
 自身の弱さを自覚することさえ、誰かに対する言い訳でしかないと思えるのがたまらなかった。

(あ……ぁ……)

 これは、いったい誰の腕か。誰の体なのか。
 たしかな鼓動と人肌のぬくもりが、今の彼女にはうとましくてならない。
 生きる。生きようとして、ちょこの首を締めることを選びかけた時と、これは同じだ。
 マリアベルに告げた言の、冴えない響きが胸を押さえ、鼓動と呼吸を荒く無為なものに変える。
 欲望は、ではない。一般化できないアナスタシア自身の欲望は、美しくも輝かしくもない。
 けれどもいまは、夜の砂漠で自分自身にある欲望の美醜を見たときと同じようにはいかなかった。

 あのときも今でも、『仕方がない』と。
 アナスタシアは確かに感じ、考え、思考の結果を行動に移していたがゆえに。
 初手に。あらためて踏み出したはずの一歩目における、ただの一語で。
 生きたいと思っていた彼女は、自分の考えを限定してしまったと分かってしまったために。
 その事実はアナスタシアが幸せな未来を想像しきれなかったことを、彼女自身の心に証だてていた。
 ……いまの自分が殺し合いの場にあることや、自分自身の生を犠牲にしなければ、周囲の人間すべての生を
救うことなどかなわなかった自分の境遇など、ことここに至ってしまえば関係などない。
 ユーリルもイスラも、ちょこや、他の者たちにも。
 抱えているものは、絶対にあるのだから。

 彼らの前で、自分が、これ以上身を落としたくないのなら。
 こんなものをいまさら、引き合いに出すべきではない。
 懊悩や煩悶といった肩身の狭い思いから逃げて生きたいのなら。
 ここで無自覚と無神経をさらし、自身の弱さを露呈する以上の悪手もない。
 先刻、動かないでいることを選んだ……あるいは、選ばされたからこそ。
 気がついたときには、彼女のなかから逃げ道そのものが失せてしまっていたのだ。

 まったくもって、自業自得に他ならない。
 そして、追い討ちのように彼女は気付いた。気付かなくてもよいことに、思い当たった。


 過程はどうでもいいと思っていても、この結果ひとつで過程を思う心さえ変わると。
 自身が生きるために、ほかのものを踏み台にしてしまおうと思った時点で。
 下手をすれば初手から生贄を立ててしまうことを考えていた時点で。
 自分は、自分に、胸を張ることなどかなわないのだと。


(わたしも、同じ。同じ……か――)

 諦めていた。
 殺し合いを受けて立たず、殺し合いに飲まれた時点で諦めていた。
 イスラの言い当てたもうひとつの正解が、疑問符を付けない問いかけが、アナスタシアの胸を締めあげた。
 いばらのように棘をそなえた言葉が半日に満たない時を経て、今度は少女を縛りつつある。
 けれども、石を投げられつきあげをくらうのは苦痛であることも分かっているのだ。
 問題に直面しないでも状況が遷移してしまう実例を見るのもつらかったが、問題の矢面に立つだけの強さを、
強さを支える持論や信念への自信を、いまの彼女は見失ってしまっているのだから。
 ならば、いかに白々しい行動をとろうとも、重なりつらなる詰問への不安は潰しておきたかった。

 その結果が《英雄》を虚飾する剣にて生まれた、かりそめの致命傷だ。
 胸部からの出血に触れた生贄の山羊、やぎのぬいぐるみが音もなく消え去る。
 間違いなく、自分は身を張った。そうと分かっていても、すっきりしない。
 失血による脱力、剣が離れた刺傷のふさがる痛みとともに、新たな失望が胸に落ちる。
 ……言葉で他人を操らんとしていたくせに、逆の立場になれば、自分とてこうだ。


 これで、やっと意識を失える。


 そんな思いが傷のふさがった胸におちた瞬間、間違えようのない心地良さを覚えたのだから。
 イスラと紋章使いの青年の言葉をきっかけに、再会の時よりなお鮮やかに知覚へ割り入ってきた声。
 ユーリルの絶え間ない問いから逃れうる正当な理由がもらえると、心の底から感じてしまったのだから。

「アナスタシア……さん」

 ユーリルの叫びを、幾度となく耳にしていたからだろうか。
 ジョウイと名乗った少年が、ためらいがちに腕の中の自分へと声をかける。
 けれども彼に答えることすら億劫で、いやで、アナスタシアは強く、つよくまぶたを閉じる。
 傷のふさがるまでに、ずいぶん血を流している。そのせいか、体が先刻にも増して冷たい。
 それすらどうでもよくなるほどに、現界から遠くなる意識からは執着が失せていく。
 アナスタシアを、彼女として立たせる欲望が、目的が、思いが薄くなっていく。

 薄れゆく意識の、自己のなかで、なおもまぶたに焼き付いているのは……。
 肉薄した瞬間に焼き付けられた、赤黄色く充血した双眸。青ざめすぎて色のない唇。

 あの少年の面影だ。

 肩を揺らしてまでも叫ぶのをやめなかった、彼は。
 イスラの呼びかけによって直面させられた、ユーリルは。
 自分に《勇者》とはなにかと問いかけているのでは、けしてなかった。
 どうしてなのかと、《彼》の意味を奪ったアナスタシアにこそ、搾取の理由を求めていた。

 どうして、どうして一切を降りかからせた対象が自分なのかと。
 アナスタシア・ルン・ヴァレリアが選んだユーリルとは、一体なんなのかと。
 納得出来る、自分が満たされるだけの理由を教えてくれと、一歩も引かずに叫んでいた。

 それは、分かる。
 彼から欠落した現在の重みは、わずかなりと分かる。
 茫洋とした時を経て鮮烈に届いた叫びから、否が応にも感じ取っている。
 けれども、そんなことを問われたところで、彼女に答えなど返しようもない。
 彼と同じように、日常を選んで日常に選ばれなかったアナスタシアが返してやれるわけもない。

 ただ、足許にひとつ、投げられる小石は増やせたのだ。
 そらぞらしくとも、『自分は、こんな事態を呼び込んだ責任をとろうとした』と。
 たしかに、やぎのぬいぐるみは武器ではなかった。
 だが、いざというときの保険という意味ではこれ以上ない鬼札と断言できるものでもある。
 ――ここで、剣に引きずられるように意識をうしない、次に目覚められたとして。
 確かさでは他に類をみない命綱を持っていることを明かさなかった自分が、彼らに囲まれて問い詰められる。
 痛くもないふところを探られて、実際に痛みを覚えるような未来を想像することは、難しくない。


 それでも。
 ……だからこそ、か。
 あの瞬間には唯一これが、欲しかったのだ。

『生贄』をここで使い捨てても、いまのアナスタシアにはこれが必要だったのだ。
 石と見えたものが、そのじつ軽く頼りない木っ端でしかなくとも。
 投げたところで、つかのま視界に煙をたてるだけの砂粒でしかなくとも。


 なにも言えないまま疑問と失意にとらわれてしまうよりは、よほどましだと、思えたのだ。


 ×◆×◇×◆×


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114-2:きみがぼくを――(ne pas céder ―――――――) ユーリル 114-4:いきてしんで――(ne pas céder sur son désir.)
アナスタシア
アキラ
イスラ
ジョウイ
ピサロ


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最終更新:2012年12月05日 01:56