きみがぼくを――(ne pas céder ―――――――) ◆MobiusZmZg


「それでもみんな……みんな、僕をッ!」

 横合いからアキラの体当たりを受けてなお、ユーリルは剣を止めない。
 完全な不意討ちによって重心が崩れたものの、天使の羽が立体的に彼の姿勢をただす。
 返しの逆袈裟を転がって避けた超能力者から相手の注意を逸らすべく、イスラは剣を返した。

「……そうかい」

 みんな。
 誰を指すのか判然としない単語を聞くに至って、苛立ちが強くなる。
 ユーリルが《勇者》をやっていて、これまでいくたび苦労や我慢をしてきたのか――。 
 それは、イスラの知るところではない。彼との会話が成立しない現状では、知ることも出来ない。
 けれどもユーリルは、水を向けた自分を見ていない。彼の行ってきた幾多の我慢しか、見えていない。
 だからこそ、話をしようとしていて腹が立つ。嫌気がさす。
 あまりにもものがみえず、まるでイスラ・レヴィノスを思わせる、この言動が気に入らない。
 最も彼に似ているイスラ本人でさえ、付き合うことは困難であると感ぜられるほどに。

「だけど、《勇者》を捨ててこんなことになってるキミは、結局……。
 《勇者》の称号から力を借りなきゃ、満足に、人の力を借りずに立てもしないんじゃないか」

 なにからなにまで。僕と同じに。
 続きかけた言葉を飲み込むことで、イスラは顔に浮かびかける苦渋の色をも押し込めた。

 誰かに力をめぐんでもらわねば、生きていけない。
 命を落とす直前に耳にした、病魔の呪いを与えた男の声がよみがえる。
 その言を理不尽だと思い、相手に憤りを覚えこそすれ、その言葉自体を否定するつもりはない。
 魔剣に選ばれたアティにしか、イスラの命は。イスラを生かす、魔剣は砕けなかったのだから。
 イスラが死ぬためには、死んで《生きる》ためには、彼女の力が必要だったのだから。
 だから、どうしようもない悪役を演ずることで、彼女たちに憎まれようとした。
 そうしてアティに、殺してもらおうとしていた。

(そうだね。たしかにイライラするよ。このまま見てると、胸が悪くなりそうだ)

 まったくもって――。
 今でも悔しい。腹が立って仕方がないのだが、アリーゼのまくしたてたとおりだ。
 自分は、自分にしか分からない、自分が勝手に納得した経緯とやり方で……甘えていた。
 甘く、柔和とみえるアティが。弟に対して引け目を感じていた、アズリアが。
 彼女たちがくみしやすいと思えたことをいいことに、むずがっていたのだ。
 苦い事実が、自身の未熟が、「鏡」を前にしているとよく分かる。

「望んで《勇者》になることを受け入れた。そう装っていたのならなおさらさ。
 キミと《勇者》が、それほど近かったなら。そこまで巧く《勇者》のフリをしてたなら」
「僕を、そんなふうに呼ぶなぁああ!!」

 瞬間、ほぼ無詠唱で繰り出されたのは雷だ。
 反射的に覚えた怒りや不満をそのまま表出させたかのような魔法は、確かな呼吸で相殺される。
 血を思わせて深く赤黒い輝きは、ジョウイの片手に刻まれている紋章が宿す力だ。
 機を見計らったアキラの能力で方向感覚を狂わされた少年は、降り暮らす雨のなか声をかぎりに叫ぶ。

「もう、ッ、だまってくれ! だまって、アナスタシアを殺させろ――ッ!」
「分かってもらいたい。それがキミの本心なんだろ?」

 分かってもらいたい。
 真意を汲み取られたうえで、大事にされたい。
 それもきっと、ユーリルの本心であるとみて相違ないはずだ。
 《勇者》に生かされ、まずもって同じ概念に殺されたというのなら。

(自分のことを忘れられるより、心のなかを悟られなくても憎まれたほうが、ずいぶんと楽じゃないか)

 こいつはどこまで自分をなぞっているのだろうか。
 こいつは、いったいどこまで、在りし日の……。
 いまも根づくイスラ・レヴィノスの暗部を、恥ずかしげもなくさらしてくれるのか。
 心を砕いたぶんだけ、思いが返ってくる。敵意には、敵意が返ってくる。
 大別してふたつの未来があるとすれば、想像するに易しいのは後者だ。
 殺されたい自分とて、様々な理由はあれども憎まれる道をこそ選んでいた。
 こんな構造をユーリル本人が意識しているかどうかは別として、

 普通の人間は、泣いて暴れる者を見過ごさない。
 殺意を抱いて向かって来る者を、無視するほうが難しいのだから。

「少なくとも僕は、キミが思うようには分かれなくても――」
「アナスタシアっ! アナスタシア、アナスタシア……アナスタシア・ルン・ヴァレリアぁああッ!!」

 イスラたち三人に守られる少女こそが、『無視する者』の貴重な例であった。
 剣を振るいながら声をかける。口上や掛け声を放つのではなく、対話を行なおうとする。
 障害を砕き、愚直なまでに真っ直ぐ彼女へ向かおうとすることをやめないユーリルの注意を引く。
 おそらくは問いだろう、少女の否定に縛られた心を別の角度から揺らし、隙をついて物理的に押さえ込む。
 睡眠ではなく強制的に気絶させ、ピサロや魔王らに対処するために、この手を選んだとはいえ――。
 化け物じみた力の持ち主を相手にこれを行うのが離れ業であることは、彼女とて理解出来るだろうに。

(アナスタシア、アナスタシア。アナスタシア、か……)

 まるで、イスラが謳った死のように繰り返される一語が不快だった。
 いかな覚悟や思いがあれども、死も、固有名詞も、耳に心地良く言うに易いものだ。
 それほどに簡単であるからこそ繰り返せる言葉を聴く体が、動きを止めてしまうほどに。
 アキラの力とジョウイの腕の両方で、ユーリルの間合いから引き離されるほどに。
 両の肩が激しく上下する。適度に弛緩していた四肢が、こわばっている。


  ――ありのまま、すべてを受け入れてやれ。


 真意を隠して虚飾せずにいたことなどない、いままでのイスラには。
 一時の怒りや苛立ちに流されてはならない、いまこのときのイスラにも。
 あれほど泣きに泣いていてもなお、ブラッドにかけられた言葉が重く感じられた。
 あれほど泣かされたヘクトルの素直さが、すがすがしくさえある感情の発露がつらかった。

 ……ならばいっそ、ここでなにもかも投げ出してしまえれば、楽だ。
 ふと、胸に降りてきた思いが、剣を握るイスラの五指に伝わらんとする。
 いやにつよい衝動を見極めてかどうか。少年は肩を大きく上下させて戦場を視る。

 紋章使いのジョウイに代わって、アキラが前線を支えようとしている。
 ジョウイの放つ刃が、息をあげて久しいアキラに生まれた隙を的確に埋める。
 彼らからは数歩も離れていないはずであるのに、わずかなりとアナスタシアの見るものがわかる。
 分からない。是非は別として一歩も動かず、雨に濯われるばかりの彼女には、分からない。
 この細胞が、五感が開いて脈打つほどの高揚。こうしたたぐいの必死を、彼女には量れまい。
 様々なものを振り捨ててシンプルになる心のありようなど、理解し得ないはずだ。
 そして、彼女に意識をやりながらも視線が向いているのは、たったひとりの人物である。
 共感を覚える自分ですら投げ出してしまいたいとさえ思える少年――。
 ユーリルの放つ声でなく、子どものようにゆがんだ顔つきが、彼から少し離れることで、よく見えていた。
 どうしようもなくアナスタシアに引かれつづけている彼を、ここで見放してしまえば楽だろう。
 自分のなかでくすぶりつづける感情ごと、ここで見過ごしてしまえば楽なのだろう。

 だのに、この手は剣を離さない。
 鼓動が、かつてないほど鮮やかに聴こえる。
 乱れた息が、脈打つ胸が。
 けして強いと言えない体が、いま。
 なんのかげりもなく、


 熱い。


 月白が収まり、夜の帳が降りきってなお降りしきる白雨。
 時など知らぬ豪雨を前にして、あごを引いた額が容赦なく打たれる。
 剣を構えなおし、ユーリルを見据えていながらも、イスラは前に出ない。
 夜気の冷たさに痛めたのどを動かして、からまり粘って仕方のない唾液を飲みくだす。

「こんなに大きな声なのに、聴こえないのかい?
 キミだよ。最初から、彼はキミについて言ってるんじゃないか……」

 それに、前に出ていては、これは言えない。
 これ以上前に出れば、自分は、ユーリルに引き込まれすぎる。
 彼の胸でじくじくと疼き、血を流しつづける傷にこそ引かれてしまう。
 そうして「彼」に近付くほどに、今度は「彼女」が見えなくなってしまうのだ。
 再会などしたくなかった、自分の来歴を根底から否定した者から離れすぎてしまう。
 自分やユーリルに問いを投げかけた者の、影すら判然としない距離に行ってしまっては、


「アナスタシア・ルン・ヴァレリア!」


 この名前を呼んでも、意味が無い。
 立ち尽くす彼女本人に声を届かせることなど、かなわない。
 こちらの様子をうかがったアキラが、眉を引き締めてユーリルへ向かっていく。
 彼とジョウイの、そしてユーリルの様子を俯瞰出来る位置にあって、超能力者の顔がゆがんだように見える。
 どうやら頬をゆがめ、口角をあげて――笑ってみせたらしい。

「キミだって、諦めていたんじゃないか。縛られていたんじゃないかッ!」

 苛烈な語調をつむぐ裏で、少年はいまいちど自身の言葉つきを確かめる。
 彼にとっては、諦めることや切り捨てることは前提であった。
 おのれの命すらそうすると自身が選び取ったことにこそ、意義を見出していた面もあった。

 だからだろうか。
 いくらアティのようになりたかったとしても、この言葉だけは止められない。
 依然として消えないアナスタシアへの嫌悪感もあいまって、これは、止めようがない。
 止めようがないなかに、引っかかりを覚える部分もあるのだから、なおさらだった。

(アティ、先生も……こうして色々……捨てて。もっと別の行動を……未来を諦めてきたのか?)

 いまならなにかが分かる。そんな気がしてさえいたがゆえに。
 輝いているとみえた者にも、輝いている者なりの苦労があるようにも思えたために。
 死と剣でものごとを解決することしか考えられなかったイスラ・レヴィノス。
 状況の遷移を言葉で規定し、その行為でもって現状を許容し、相手よりも一段上に立つ道化――。
 正しくは上に立ったふりをして、おのが言の葉で作ったかりそめの安寧のなかにあった、

 自分が、いま。

「生きたかったんだろ! みんなで、楽しく、毎日を……生きていきたかったんだろ?
 なんで、それで誰かを殺すと決めたんだ。決めることが出来たんだ!」

 矢面に立ち、言葉に思いを込めることで強く、つよく胸に打ち付ける雨と風を感じている。
 死にたかった頃にも風雨があることは変わらなかったはずなのに、不思議と肩をすくめる気がしない。
 それがアナスタシアへの意地だけでもなく、ユーリルへの牽制であるはずもなく、

「本当、嫌になってくるけど、きみだってぼくと同じだ。同じだから腹が立つんだよ」

 きっと、どうしても諦められないというだけなのだ。
 アナスタシアを嫌うからこそ、この怒りも断ち切れない。

 少女のみせた作りものの笑みが、ふと、イスラの意識に浮かび上がる。
 平行線を歩んでなお、作り笑いの浮かべ方だけはアナスタシアと似通っていた。
 そうと確信出来ているからこそ、相手の中に自分を見るからこそ、どうしても許せない。
 自分自身だけは、諦めて、落ち着いて、切り離して、許容してやることなど出来はしない。
 作り笑いで、言葉で壁を作って距離を置いて、他人事のように眺めることが出来なかった。
 自分に似ている者に対してなら、いくらでも冷たい態度をとることが出来るというのにだ。

 いくら歪んでも、低く辛く厳しい評価をくだしてやる過程で、
 アズリアの邪魔になると感じ、その思いを理解しないアティに反撥を繰り返す、
 二人に会いたいと思いながらも、彼女たちに会えないような理由をさえ自身で作った、
 イスラ自身が、そんな自分を道化であると認めてもなお、イスラだけは《イスラ》を見離せない。
 どんな経過を迎えようと、経過のあとに結末があるかぎり、自分を抱えつづけることだけは、
 けして、避けることなど出来ない。

(そうだ。……そうだよ)


 結局、僕は『出来ない』んだ。
『出来ない』たぐいの人間なんだ。


(でも、人間って誰のことだ。たぐいのって、いったい何をもって分けたんだよ)

 悪癖がまた、顔を出そうとする。またも自分が嫌になる。
 自分を許せなくなり、――とても、このままではいられなくなる。
 さかしらな言葉を操り、辛辣ではあるがまとまりのいい語彙で、すべてを定める。
 言葉で本心を偽れると言いながら、結局、自分は言葉でもって枠を作っているではないか。
『出来ない』と、真っ先に決めた枠のなかでしか動けないのがイスラ・レヴィノスではないのか。

「前に進むことを、幸せでいられる自分を、幸せを認められる自分をさ――」

 ……ほんとうに、嫌だった。
 これだから、生きているのは嫌だった。
 一日一日、生き延びるたびに敗北感がつよくなる。
 日がおちたその時、本当は生きられなかったと気付いた自分が嫌になる。
 そして長い夜には、ここにいるイスラに出来なかったことをばかり反芻してしまうのだから。

 思い出すほどに生への嫌悪は吹き払えないままだというのに、どうしてか。
 必死になってまで、言葉を操って八つ当たりをしているだけの胸で怒りが持続しない。
 それどころか『出来ない』ことが、許せないことこそが誇らしくさえ思えてくる。
 いま、ここで。自分に投げられる石がある事実に直面した胸が、ひときわ大きく跳ねる。


「生きるために罪悪感を抱くような手しか選べなかった時点で、とっくに。
 あがいてなんかいない、勝手にっ、――諦めていたんじゃないか!」


 ユーリルをとおして、イスラは自分の一面ををうとんだも同然だった。
 アナスタシアをとおして、イスラは自分の一面を否定したも同然だった。
 それなのに。自分に対してすら許容の出来なさを明らかにしてしまったはずの、
 イスラには、まわりがよく見えていた。線の細いと認めざるを得ない背筋が、気負いなく伸びていた。
 自身の基盤が危うくなるような言葉をつむいでいるのに、予想したよりつらくもなかった。
 そしてなにより、生きたいなどと思えないことには変化がないというのに。

 嫌だ。

 幾度も胸のうちで繰り返した言葉が、なにか、いとけない。
 がむしゃらで小児的で、みっともない物言い――。
 そしてなにより、素直であることも疑いようのない否定の一語は。

 なんとも心地のよい響きを、有しているように思えたのだ。


 ×◆×◇×◆×


【3】


 いまの自分が《刃》とともに、《盾》を携えていようとも。
 ジョウイ・ブライトは、究極的には力で他人を傷つけることしか出来ない。
 自分に向いた得物さえない現在、相対した者を無力化するといった行動に向くとは言いがたい。
 それこそが両の手、おのが基底に紋章を刻んだ少年による自己分析であった。
 冷徹をとおりこして冷酷でさえある評価は、それが真実であるからこそ下せたものだ。

 過不足なく実力を直視出来る目があるからこそ、彼はここに留まった。
 アナスタシアを守る目的をとおして二人に加勢することを選んだ理由は、単純なものだ。
 いかに疲弊が見えたとはいえ、雷の嵐の向こうへ消えたピサロを単騎で倒すことが、非現実的であるから。
 かりにここで潰せるとしても、継続戦に際しての力を残した状態で押さえられはしないと断じたからである。

「アナスタシア……アナスタシアぁあああ!」

 とはいえ、先ほどの説得が巧く運ぶ目にも積極的に賭けていたというわけではない。
 そもそも剣士の少年は、途中から言葉をかける対象を明確に変えていたのだ。
 《勇者》を辞めたという少年から、マリアベルに守れと頼まれた少女に。

 言葉をぶつけた結果、最も顕著にあらわれているものが、もと《勇者》の絶叫である。
 特段、アナスタシアを大事にしているわけでもないと知れたであろう、剣の使い手にも――。
 いいや。彼女のなかにあるらしい矛盾をあばいた彼にこそ、少年の声は向けられているようだ。
 アナスタシアを見ているようで、別のなにかと直面していると知れる声が、曇天をおぼろに穿ちつづける。

「……助かったよ」

 叫びのひとつが雷と変じ、それを盾の紋章で相殺した、次の瞬間である。
 憮然としながらも、どこか脱力しているような声が耳朶をかすり、夜の空気がはっきりと動いた。
 あどけないとさえ言える表情を引き締めつつも、黒髪の少年が前線へと舞い戻る。
 うすく、闇を思わせる紫を帯びた反り身の剣。
 彼の携える得物が《勇者》の剣に噛み合うさまを認めたジョウイは、少しく包囲の角度を変えに動く。
 自分の目的をかんがみれば、もうひとりの魔法使いのように肉薄するというわけにもいかない。
 最善手とは言いがたいが、少しでも体力の消耗を抑えるためには、計算こそが肝要だった。
 剣士の言ったような泥仕合と、魔法使いが口にした精神的な満足とを秤にかけ、ふたつの意見が調和する
ぎりぎりの線を保って綱を渡りながら、可及的速やかに戦いを収束させる――。

 言うだけならば、これほどに容易いこともそうそうない。
 だが、この結果を引き寄せてからジョウイの本番、正念場が始まるのだ。
 様々なものを切り捨てたいま、両方を捨てない態度を問われることも皮肉だが、仕方がない。

(だけど……)

 だけど、けれど、それでも。
 ジョウイにとっても彼らは自身の、あるいは誰かの鏡なのだと感ぜられてならなかった。
 とくに一途にひたすらに、アナスタシアの名をつむぎ放つ、緑色の髪を乱したひとりの少年。
 もとは《勇者》であるらしい彼が戦うさまは、ジョウイのなかへ重く沈んでいる。
 まるで水の綾がごとく、憎しみに駆られつづける彼の姿を認めた心がさざ波だっていた。
 そして、黒髪の少年がつむぎあげた泥まみれの言葉。アナスタシアへの口上が重ねて胸へと響いてくる。
 経緯など欠片ほども知り得ないとはいえど……彼らのありようは、ジョウイの瞳を痛みとともに開かせる。
 未消化の、泥のごとき感情の奔流は、彼のなかで息づく問題を直視することをこそ拒ませない。

 それを汲み取れないのなら、きっと。
 彼はいま、このとき、ここになど立ってはいない。


「なにも、《勇者》だけじゃない。先駆者はつねに捨て石だ」


 血と肉でもって構成されたかのような、しずかな『叫び』とてつむげなかった。
 ……けれどもこれは、絶対に最善手ではない。
 最善どころか、下手を打てば墓穴を掘りかねないと、分かっているのに。
 理想を貫こうとあがき、進み続ける少年のこぼした声は、ある種の感慨に満ちていた。
 感慨などと、穏やかでさえある感情で終わったことに、誰よりもまず、口を開いた彼自身が驚く。
 夜の陸風に流れた雨を受けてか。緑がかって柔和な印象を醸す瞳が、わずかながらも細まった。

「だけど、それは。そうなることは……僕自身が選んだことだ」

 当然のことだが、言葉をつむぐほどに、ジョウイからは集中力が失われる。
 戦況の変化こそ少ないものの、もとの位置にまで戻ったとて、今までのような状況の把握は望めない。
 声を出す。寄り道に力を使えば使うほど、本筋へ注げる力が減ずることは考えるまでもないはずだ。

 それなのに、胸でくすぶる思いをかたちにせずにはいられなかった。
 黒髪の剣士が見せた表情、けわしさの少しく削げ落ちた顔つきが、妙にうらやましくある。
 いまや、先刻とおなじ精緻さで剣をぶつける彼にそれを招き寄せた行為には、ジョウイとて覚えがあった。


  ――それを遮ってでも、やるべきことが、貴方にはあるというの?――


 アナスタシアは、いまだなにも言葉を返さない。
 ひるがえって、自分が彼女の問いかけに答えていなかったら、どうなっていただろうか。
 覚悟を内に秘めているのと、死を逃れ得ない相手とはいえ対外的に決意を口にしたのとでは、いったい、
どちらが分かりやすくなるものか。
 どちらが重みを実感出来るかたちで、胸におさまるものなのか。

 ジョウイはそれを知っている。
 彼に向けられたものではないとはいえ、ここにいる、彼らの問いに答えるだけの強さがある。
 道をたがえたリオウとナナミ。親友の心に恥じないために。
 自分を慕ってくれたピリカのために、自分を愛してくれたジルのために。
 夜天に輝く『魔法』を見せてくれたリルカの、優しさを示したルッカの、故郷における立場や因縁を振り切って
自分たちに助勢したビクトールの、黙り込んでいた自分を我慢づよく待っていてくれたストレイボウの、
 彼らだけではない、故郷や、この場所で出会った、皆の思いを汚さないために。

 ジョウイの胸に沈んだ思いを、自己犠牲のそれなどと評する者もいることだろう。
 誰かのために骨を折ることは、誰かのせいで動いていることと限りなく同義に近いのだから。

 だが、違う。
 確かに、ジョウイはこの道を歩むため、様々なものを捨ててきた。
 魅せられた力に到達すべく、彼を彼であらしめた証を端から圧し殺し、切り捨ててきた。
 その上で血塗られた《英雄》となり、自身の命を振り捨てることで平和を作ろうとしてはいたのだ。
 だが、彼の行動の礎となった思いは使命感でも、義務感でも……きっと、正義感ですらない。
 暗殺したアナベルへの、あるいは理想のために殺してきた者への罪悪感でもあり得ないはずだ。
 では、理想の前にあったものは、なにか。犠牲を生むほどに強い思いは、なんだったのか。
 どうして、ここに立っている自分は、他の誰もを傷つけたくないと考え得たのか。
 道を違えたとても目指す場所が同じなら、どうして、歩いていけるのか。
 同じであることに安堵する理由とは、いったい、なんだったか。

 迷ったのなら、誰も問いかけないのなら。
 問われなくとも、問いかける自分にこそ応じて――。

「それなら。この傷も、この力も」


 かたちにすればいい。


 明瞭なかたちにしてしまえば、過不足なく受け止められる。
 人とのあいだにつながりを作り得る、言葉。
 ときに刃を掲げさせても、刃を収めうるであろう、それが運んでくる感覚をこそ。
 自分は、信じていたい。

 剣に追随する雷を防ぎ、陣を整えるべく体をさばいた、息が熱かった。
 上昇した体温に反し、夜気と雨打は冷たくとがり、体の表面を冷やしていく。
 しかしてのどの粘膜を侵しつづけていた、冷気が。ふいに甘く、濃い後味をのこした。
 刹那――激しい運動を続けていた結果、ぜえぜえと鳴りさえしていた呼吸がひととき安まる。
 ひとときあれば十分だった。ひとときあれば、目の前に広がった世界を、過不足なく見据えることがかなう。

「犯した罪も……胸に息づく思いも」

 理想と犠牲。
 自身の作り出したふたつの荷に、ジョウイはとらわれ、操られていた。
 けれども勇者を直視した少年の根幹で、いまの彼を動かし得ているものは。
 激情に両肩をふるわせる少年の奥底で、いまも彼を縛りつけているものは。

「いままで、それを選んで、受け取って、刻んできた僕の背負うべき」

 それはきっと、リオウへの。ナナミへの、ピリカへのジルへのリルカたちへの、
 それはきっと、今までの生で見聞きしてきた、戦火のなかで生き抜く人々への、


「――背負いたいものなんだッ!!」


 好意に、他ならなかった。
 思いのままに張り上げた声に、響いたこころに呼応してか。
 彼の基底に刻まれた《輝く盾の紋章》が、夜闇にさえかな輝きを放つ。

 ……ルカ・ブライトの恐るべき力は、さらなる力と数と策によって滅ぼされた。
 人の心とて、ときに、あれと同じような構図が成り立つこともある。
 使命や正義、義務などといった、強い拘束力をもつ単語。
 怒りや憎しみのような、ときにおのが身さえ灼き尽くす思い。
 自分がすべき、やらねばならないという、張り詰めた語調の言葉。
 そんなものだけで気を奮わせたところで、追い立てられた心が折れる未来は遠くないはずだ。
 しいて強くあろうとしても肩肘を張るだけ、周りの世界は棘を増して見えるのだから。
 ルッカを看取ったあとに同道してくれていた魔法使いの青年。ストレイボウ。
 焦燥に駆られていた彼にもそんな色があったと、ジョウイはいまにして気付く。

 しかして、こちらに好意さえあれば、この目と心に見えるもの、すべての色調が反転するのだ。
 好意を得、好意を抱いた者のためならば、自分は身を削り、身を粉にしても構わないと思える。
 行き着く先で命すら捨てようとも、それほどに本気になろうとも、大丈夫だと思っていられる。
 ひとの好意を勝ち得た自分の、ひとに好意を抱いた自分の糧となるなら、苦痛にも耐えられる。
 自分が耐えているという感覚すら、胸の中から失われる。そんな瞬間すら感ぜられようほどに。
 ピリカを抱きあげたときの、温かさに焦がれる自分が、いまでもたしかにいると気付いたのだ。

 ならば……それならば、ここに立つジョウイ・ブライトは。
 いかな誤解も、悪意も恐れることもなく。すべてに耐えて、光を目指していける。
 どんな作為にも、敵手にも運命にも、こうべを垂れることなく立ち向かっていける。

 どんな言葉を刻んだとて、どんな行為を義務づけたとて、縛り得ないはずの心。
 もろくもうつろう思いを優しく縛りうるものの正体を、少年はこれしか知らない。
 ずっと、ずっと胸にあふれてやまなかったのだと気付いた、《これ》こそはたましいを。
 穏やかではあれ、抱く者のこころを内奥から揺すり、つよい衝動を沸き立たせる思いだと感ぜられる。
 衝動に揺すぶられたからだが、思わず前へ踏み出すほどに強い、『魔法』のような気持ちだ。
 誰を殺したか、何人殺してきたか。一体どれだけのものを、自分のために踏みにじってきたのか。
 そんな問いかけを繰り返し、自身を鞭打ちつづけたとて、この気持ちにはかなわない。

(ああ、そうだ――)

 理想を貫く際に負った荷から解き放たれてなお、自分はきっとこの道を選ぶ。
 力があれば。たとえ、ハイランドのキャンプでルカの力と出会うことがなくとも――。
 きっと、なにかを探していたのではないか。きっと、自分の道を見つけていたのではないか。
 根拠も理屈もない確信が息づいて、いまだ揺らぐジョウイの背中をおびただしい雨滴の群に押し出す。
 彼らの笑顔を守るために。彼らの幸せを諦めないために、自分の理想も諦めない。
 そうと信じられる思いが、確かにまだ、この胸に息づいているのだから。
 ジョウイがすべてに《耐えられるもの》は、高邁な理想でも崇高な使命でもなかったのだ。

(きみが。きみたちが、僕を)

 たとえば、ここで膝を折ったなら……。
 リオウも、ナナミも、リルカもルッカも、きっと許してくれる。
 少なくとも、彼を憎んだり、悲しんだり、哀れんだりはしないだろう。
 違う道を目指して行ったとしても、自分たちの根にあるものは、きっと同じなのだから。
 それなら、本当はここで立ち止まっても、構いはしないはずなのだ。
 それなら、きっとここで振り返ったとしても、許されるはずなのだ。
 仮に二人が、皆が惑い、立ち止まったとしても、同じだ。
 先刻ストレイボウをかばったことを自嘲すれど、そこに計算はないと断言できる。

 ジョウイ・ブライトが許し、いたわりたいと思えるのは、なによりも人だ。
 代わりなどいない、かけがえのない、ここにしかいない――。

 いま、このときを生きようとしている、人間だ。

「どんな思いも、どんな選択の結果も、僕だけが受け止めるべきものだ。
 誰に押し付けていいものでも、ないんだ……これは」

 それならここで、自分は、退けない。
 退くことも、折れることも、許されることも出来はしない。
 究極的には、きっと、誰かのためなどではなく、


「これが、僕だけの『魔法』だ!」


 自分のために、少年は叫んでいた。
 マリアベルの友であるアナスタシアが、リルカを知っているかどうか。
 リルカの大事にしていた『魔法』で、果たして、動かない彼女を動かしうるか。
 そんなことは、前進を望む心が欲するままに声をあげるまで、意識などしていなかった。
 思いを託した声がつかねて落ちる濯枝雨(たくしう)を突き、分厚い雲におおわれた空にと抜ける。
 天の海にも心の海にも立ち込めていた雲が、いちどきに晴れたかのような感覚がある。
 自身の息づかいがはっきりと分かるようになった闇の中で、それでも指先が痛い。
 地を踏みしめる脚に、脚を支える腹に、張り出した胸に、肩に、五指に爪に、かるい痛みがはしる。
 ぴりぴりとした感覚は、しかし、ジョウイの行動を押し留めることなど出来なかった。
 生きている。右手が輝く。生きているのだ。赤黒い刃が雷を射止める。玉水が弾けて舞い落つ。

 確かに、自分は。
 ここに立ち、ここで目を開いた自分は、確かに生きていた。
 己の掲げた理想に、ただただ生かされているというわけでなく。
 己の規定した犠牲に、縛られつづけているというわけでもなく。
 その事実に揺れ、迷いのなさにこそ戸惑う自分も、なにもかもすべて。
 おのがすべてをひっくるめて、


 生きている。
 ジョウイ・ブライトは、いまここに、生きている。


 それだけは確かで、それだけは誰にもくつがえせない事実であった。
 じくじくと疼く痛みも、罪悪感も、それを生んだ自分自身が受け止めているのだ。
 湿り気を帯びた夜風を前に《黒き刃の紋章》が刻まれた右手が拍動し、ぬくみを増した。
 雨にさえぎられてなお蒼穹に輝く綺羅星のごとく、《輝く盾の紋章》が清澄な輝きをのぞかせる。
 それが分かったからには、もう、止まれなかった。立ち止まることなど、考えられなかった。
 道を進むほどに孤独が、孤高が迫ろうとも。果ては憎悪に貫かれようとも、構わない。
 揺れ惑い苦悩し、おのが力を、心を、たましいを削って果てるより他にない道を往くのだとしても、いい。
 自身の抱いたそれと分かる思いを背負えることのほうが幸いなのだと、信じられているのだから。

 もはや後戻りの出来ない、安楽な日々に背を向けるのと変わらない、この選択。
 迷いも、後悔も、他人へ好意を抱いたジョウイ自身のためにあると決める、覚悟と諦観。
 先にあるのは、それを許容した少年だけがすべてを背負い、傷を抱えて進むいばらの道である。
 いつかのように、間断なく続く障害の先にこそ光を見出したとき、雨呼びの北風が吹きすさんだ。
 このときばかりは大粒の雨も流れ、流れて、少年たちの体を容赦なく打ち据える。
 まるで見えない棘が指を突くかのように、雨滴は衣服に、肌に染みこんで衝撃を残す。
 もう、何度目か。雷の竜を前にしても、ふたたび、剣戟の音が耳朶を刺すほどに近付こうとも。
 ジョウイはひるまない。
 歩む道を定めた自分を信じて、彼は、闇の溜まりへさらなる一歩を踏み出す。
 胸に落ちた決意、その証左を顕すべく。
 すべてを抱き取り、生きて、夢より大事な望みを果たすために。


 ……ジョウイは、知らない。
 いま、彼のかたちにした結論は、目の前で慟哭する少年が至ったもの。
 陽の落ちる前、少女に出会ったユーリルが突き当たった思いと質を同じくすることを。

 ジョウイには、分かれない。


  ――人々のため戦い勝利を得る道。これはイバラの道なれど王道です――


 いまふたたび、彼が見出し選び取ることのかなった覇道は、おそらく。
 その過程はどうあれ、親友の決断と同じ評価をくだされるべき類のものであることを。


 ×◆×◇×◆×


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114-1:きみがぼくを――(ne pas ――――――――――) ユーリル 114-3:いばらのみち――(ne pas céder sur son ―――)
アナスタシア
アキラ
イスラ
ジョウイ
ピサロ


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最終更新:2012年12月05日 01:52