なまえをよんで ◆6XQgLQ9rNg



 C7に転移した直後、首輪の反応が分かれたことをチャンスに思い、カエルたちは強襲先を数が少ない方へと設定した。
 C7寄りのC8へ移動した反応を、川の水と魔王の高い魔力を利用して範囲を大幅に拡大した氷河で一掃する腹積もりだったのだが。

 ――そう甘くはないか。当然だな。

 氷の上をカエルは駆け抜ける。
 目指すは即席の足場、そこに在る二人の女を斬り捨てるべく跳ぶ。
 人の身ならば足場はまだ遠い。
 それでも、この異形の身ならば、一足で辿り着く。
 脚に力を込め、氷が沈み込むほどの勢いで、氷を蹴り飛ばす。
 宙に舞い上がったその身に、風が絡みついた。
 違う、ただの風ではない。
 風鳴りを上げて逆巻くそれは、魔法によって生み出された竜巻だ。
「飛んでけぇッ!」
 真空が身を刻みカエルの軌道をねじ曲げる。
 このまま吹き飛ばされれば、確実に激流のなかへ落ちる。 

 だが、カエルは冷静だった。
 落下軌道に入るその瞬間、首をのけ反らせて口を開く。
 そして、思い切り舌を伸ばした。
 弾丸のように伸びる舌は敵のいる足場の端を離さないようホールドする。
 そのまま舌に力を込めて、全力で身を引き戻して着地し、間髪入れず地面を蹴る。
 確実に命を斬り裂く直進の斬撃。
 しかしそれは、誰の命にも届かない。
「な――ッ!?」
 魔剣の一撃は、一人の幼子の手によって留められていた。
 文字通り、手によって、だ。
「やらせないのッ!」
 驚愕は即座に捨て去る。
 魔剣を受け流した幼子が常人離れした速度で間合いを詰め、蹴りを繰り出してきた。
 速く鋭い蹴りをいなし、カエルは幼子の背後に回り込む。
 幼子の反応は速い。
 軸足を中心に回転し、カエルへと向き直ると更に攻撃を加えてくる。
 けれど、その攻撃は跳んだカエルには届かない。
 スピードとシャープさはある。
 しかし攻撃の単調さとリーチの短さを考慮すれば、十分に見切ることは可能だった。
 空中で、即座に魔法を放つ。
 幼子と女の周りに、無数の泡が生まれ弾ける。
 威力よりも速度を重視した牽制の魔法が終わるころ、カエルは地に降り立つ。 
 岩の足場でも氷の上でもない、濡れそぼった地面の上、佇む魔王の側に、だ。
 氷河は既に消え失せている。 
 代わりと言うように、未だ残る岩場の上に、暗黒の力場が発生した。
 不自然な岩場もろとも吹き飛ばすべく、暗黒物質は瞬時に広がって。

 爆発する。
 カエルがばら撒いた泡とは段違いの炸裂が破壊を生む。
 氷河によって削られていた岩場が粉塵を撒き散らしてくず折れる。
 それでも、カエルはキルスレスを収めない。 
 見逃してはいなかった。

 黒の爆発の直前、岩場の上に飛び込む者がいたのを、だ。

「そうじゃ、やらせぬ……ッ!」
 氷河に巻き込まれてもまだ生きている、その生命力はさすがと言ったところか。
「……忌々しいな」
 カエルは粉塵の奥に目を向ける。
 そこにある影は、三つ。
 鎌を握り締めた女と。
 先ほど斬撃を受け止めた幼子と。
 ズタズタになっている、見覚えのある着ぐるみだった。
 その着ぐるみ――マリアベルは、がくりと膝をつき、そして。

 ぼたり、ぼたりと。
 だらりと垂れ下げた右腕から、血だまりが出来るほどの鮮血を滴らせていた。

 ◆◆

 生きていてくれた。
 そして、無事でいてくれた。
 ほんの数秒前までは、本当に無事でいてくれたのに。
「マリアベルッ!」
 悲痛な叫び声が迸る。
「これくらい、ノーブルレッドにとってはかすり傷よ……ッ」
 対し、マリアベルの声はかすれていて、強がれるようなものではなかった。
「何言ってるの! そんなわけないじゃないッ!」
 倒れ込んだマリアベルの身を支え、アナスタシアは賢者の石をかざす。
 その淡く優しい光に照らされても、マリアベルの出血は止まらず傷は塞がらない。
「マリアベル! マリアベルッ!!」
「ぬいぐるみさんッ!」
 アナスタシアが呼んでも、ちょこが呼んでも、マリアベルは答えてくれなかった。
 着ぐるみは所々が破け、全身に数え切れない凍傷と火傷が刻まれていて、白い肌の面影は見られない。 
 そして何よりも痛ましいのは。

 右腕の肘から下が、完全に吹き飛んでいたことだった。

 その瞬間を、アナスタシアはその目で見た。
 黒い爆発が起こる瞬間に飛び込んできたマリアベルは、カエルの牽制によって回避が遅れたアナスタシアたちを突き飛ばした。
 そのため、マリアベルは爆発の中心にいて、直撃を被ったのだ。
 いくらノーブルレッドとはいえ、千切れた四肢は再生しないし、失われた血液はすぐには回復しない。
 このままでは、マリアベルの生命力が、冷えた体から確実に零れ落ちていく。
 だからこそ、敵は欠片の容赦も見せはしないのだ。

 カエルが深く身を沈め突撃を仕掛けてくる。
 魔王の魔法が殺意を突き付けてくる。
 マリアベルは動けない。
 ちょこ一人で全てを止められるほど、相手は弱くない。
 ただ、せめてマリアベルに、凶刃が及ばないように。
 アナスタシアは、傷だらけのマリアベルを、そっと抱きしめた。
 近づいてくる。
 死の気配が近づいてくる。
 アナスタシアの胸で燻るのは、恐怖ではなく悔しさだった。
 何もできない弱さに対する、歯がゆさだった。 
 唇を噛んで敵を睨みつける。
 それでも、敵は迫ってきて、そして。
 目を逸らさなかったアナスタシアの視界の中で。

 カエルの剣が止まり、魔王の術が相殺される。
 同時に。
 マリアベルに降り注ぐ輝きの数が、増していく。

 現れた彼らの存在に、アナスタシアは、初めて頼もしさを覚えられた。

 ◆◆

 紅の魔剣が翻り漆黒の魔力が狂い咲く。
 たった二つの殺意は、その強烈な意志力によって嵐を巻き起こす。
 突貫する魔剣の騎士に立ちはだかるは、線の細い黒髪の剣士だ。

「紅の暴君、返してもらうッ!」
 魔剣と天空の剣が交錯する。
「手に入れたくば力づくで奪い取ってみろッ!」
 衝突した刃の衝撃を、受け流し、カエルはイスラを跳び越える。
 降り立つ先にいるのは、因縁浅からぬ魔法使いだ。 

「カエルッ! 何故お前たちがここにいるッ!?」
「約定を果たせなかったことは詫びよう。だが、これも目的を果たすためだッ!」
 放たれる魔法に迷いはない。
 そのことに感心を覚えるが、今のカエルの狙いはストレイボウではない。
 故に、魔力の中へ正面から突っ込んだ。多少の傷は無視して強引に突破する。

「やらせないって、言ったのッ!」
 幼子が両手を突き出して立ちふさがる。
 カエルへと向かってくる炎の鳥に向けて、魔力を詰め込んだ水を叩きつける。
「後で相手をしてやるッ! 今はそこで、待っていろッ!」
 水蒸気の霧振り払い疾走する。
 すると見える。

 三人がかりで回復を受けるマリアベルの姿が、見える。
 氷河に巻き込まれダークボムの直撃を受け、片腕を失ったのだ。
 普通の人間ならそのまま死に至ってもおかしくはない。
 だが、あの女は普通ではない。
 確実に息の根を止めない限り、また立ち上がってくるかもしれないのだ。
 故に、カエルは駆け抜ける。
 敵の数を減らすチャンスを逃さないために。

 けれど。
 敵は決して、甘くない。
「カエルゥッ!」
「とまれえぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」
 大地を噴き上げ林立する火柱がカエルの往く手を阻む。
 背後から土塊が追い縋ってくる。
 強引なサイドステップで土を避け火柱をすり抜けた先で、切っ先が閃いた。
 身をのけ反らせるが避け切れず、横薙ぎがカエルの身を浅く裂く。
 この程度の傷は許容範囲だ。魔剣の力が治してくれる。
 それは相手も分かっているらしく、攻撃の手は緩められない。
 今はこの三人に時間を掛けている場合ではない。
 波状攻撃をいなし、反撃し、それでもカエルの瞳は、マリアベルを捉えていた。

 ◆◆

 大上段から叩き下ろされた斧の破壊力は、まさに雷のようだった。
 直撃すれば全身を両断されそうなほどの一撃を、魔王は余裕を持って回避する。
 続く魔法の衝撃波をマジックバリアで受け止めると、両刃の剣が突き込まれる。
 周囲を旋回するランドルフでそれを弾き飛ばしてから、魔王は魔力を解放する。

「――サンダガ」

 魔王の身から放射状に、雷光の帯が広がった。
 斧を構える巨漢が、剣を持ち直す奇妙な風貌の何者かが、緑髪の少女が、一斉に身を守るべく腕を翳す。
 魔王は構わず、雷撃で彼らを薙ぎ払う。
 手加減しているつもりはない。
 だが、彼らは倒れずに魔王へと再度向かってくる。
 魔王は再び詠唱を開始する。 
 天性の魔力を、復讐を果たすため磨き上げてきた。
 研磨された力によって繰り出される魔法の数々は、広範囲に渡って威力を発揮する。
 その力はガルディア歴600年において、訓練された騎士団を殲滅し人々を恐怖に陥れた。
 だからこそ、魔王は知っている。
 数だけの有象無象よりも、鍛え上げられた精鋭の方が遥かに脅威である、と。
 知っているが故に魔王は、最適な手を構築するために状況を分析する。

 足元で、緑の風が逆巻いた。
 少女の放った魔法が、魔王を引き裂こうと唸りを上げる。
 魔王は動じない。
 纏ったマジックバリアが風の刃を刃こぼれさせ、縄を引き千切る。
 魔法使いの少女。
 荒削りで素養はあるが、脅威にはならない。
 魔の王を魔の法で裁くには、彼女の力はまだ弱い。
 次なる魔法の発動を阻止すべく、巨漢が苛烈に攻めてくる。
 大地すら叩き割りそうな一撃が、魔王の眼前を通過する。
 その風圧だけで、威力がありありと想像できた。
 強烈な一撃で相手を粉砕する、典型的なパワーファイターだ。
 見切りやすいとはいえ、その重い攻撃は十分に警戒すべきであろう。
 そして、もう一人。
 高い跳躍力で制空権を得て、魔王の頭上から斬撃を繰り出してくる者がいる。
 重力の乗った斬撃をバックステップで回避する。
 着地した相手は靴裏が地面に着くや否や、即座に土を蹴り飛ばして来る。
 ランドルフで受け止め、魔王はすぐに気付く。
 この戦い方は、よく似ている。
 いや、似ているという次元ではない。同じと呼んでも差し支えがない。
 足運びは、剣捌きは、構え方は。
 跳躍力を活かした身軽な戦法は、まさに。

 ――グレンそのものかッ!

 だとするなら、その戦い方は熟知している。
 敵として、味方として戦い続けてきたその男のやり方はよく理解している。
 同時に。
 それが脅威であることも、思い知らされている。
 元より油断などしていない。
 それでも、魔王は改めて意識を集中する。
 負けられないのだ。
 いずれ戦わなければならない宿敵に酷似した相手がいるのなら、尚のこと負けられない。 

 首から下げた姉のお守りを揺らして。
 魔王は魔力をカタチにする。
 魔法は願いを叶えるチカラ。
 だというなら。 

 ――だというなら、私の魔法で、私の願いを叶えてみせようッ!

 ◆◆

 剣戟が断続的に続き、魔力が爆ぜる音が止まらず、雄叫びが響いている。
 激しさを増す戦音の中で、アナスタシアは賢者の石をかざしたまま、マリアベルの左手を握り締めていた。
 その左手は、ゾッとするほど冷たかった。
 同じように氷河に呑まれたアナスタシアの手もまた、冷えている。
 にもかかわらず、マリアベルの手を冷たいと思ってしまうのは、マリアベルの体温が限りなく低下している証左だった。
 アナスタシアの手は、握り返されない。
 そのことが不安で不安で、水を大量に飲み込んだ時よりもずっと、胸が苦しかった。
 馬鹿みたいに青い空が憎らしい。
 太陽さえ出ていなければ、ずぶぬれの着ぐるみを脱がせて、その身を温めてやれるのに。
 マリアベルの意識は戻らない。
 アキラとジョウイも回復してくれているのに、マリアベルは動いてくれない。

 もう、死んでいるのではないか。
 そんな想像がよぎり、血の気が引く。
 歯の根が合わず口が渇く。体は冷えているのに汗が噴き出し声が出せなくなる。
 せっかく会えたのに、また会えなくなるの?
 こんな形で、悲しみしか残らない別れを押しつけられるの?
 視界が滲む。涙が溢れる。
 世界が急激に色褪せていく。絶望が胸を埋め尽くす。
 抱えきれない分の絶望が、瞳から零れて頬を伝う。
 そのとき。

 くい、と。

 アナスタシアの手の中、動くものがあった。
「マリア……ベル……?」

 くい、くい。

「マリアベル! マリアベルッ!」

 くい、くい、くい。

 生きている。
 まだ生きている。
 絶望が安堵へと反転し、涙の質が変わる。
 助かる。
 マリアベルはきっと、助かる。
 そう信じた、その直後に。

「――おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉッ!」

 絶叫めいた気迫が、世界を震撼させる。

 カエルだった。
 イスラを突き飛ばし、
 ストレイボウを押し流し、
 ちょこを振り切って、
 真っ直ぐ、只管に真っ直ぐ、向かってくる。
 疾い。
 どんなにイスラが追っても、ストレイボウが足止めをしても、ちょこが縋っても。
 その全てを振り切って来る。
 アキラも、ジョウイも。
 持てる能力に意識を傾けているせいで、即座に反応ができずにいる。
 今。
 剥き出しの殺意を阻むものは、何もない。
 手が震える。膝が笑う。 
 助かると信じた直後に叩きつけられた現実に、アナスタシアは圧倒される。
 絶望の足音が聞こえる。
 アナスタシアを踏み躙ろうとする足音が、聞こえる。

 もう、御免だった。

 潰されるのが、躙られるのが、押しつけられるのが、踏みつけられるのが。
 震えるのが怯えるのが泣くのが悔やむのが屈するのが諦めるのが。
 そして何より。
 たいせつなひとすら守れない自分でいることが。

 ――もう、御免だった。

 アナスタシアは立ち上がる。
 マリアベルの手を離し、賢者の石をジョウイに押し付け、絶望の鎌を携えて。

 武器が使えないから戦えない?
 戦い方を知らないから何もできやしない?
 そうじゃない。
 そうじゃないはずだ。

 肌に風を感じて、両腕に力を込めて、大地を蹴る。

 思い出せ。
 思い出せアナスタシア・ルン・ヴァレリア

 あのとき。
 ファルガイアを焔の災厄が蹂躙した、あのとき。
 数え切れない諦めと、嘆きと、絶望が世界を呑みこんだ、あのとき。

 武器も使えない、戦い方も知らない、たった一人の女の子は。
 一体、何を望んでいた? 

 カエルとの距離が近づく。濃厚な殺意が迫って来る。
 よく見ろ。
 あれは。
 アナスタシア自身と。
 他ならぬマリアベルを、殺そうとしているんだ。

 体は、自然に動いた。

 鎌を振り上げる。
 威嚇ではなく、虚勢でもなく、蛮勇でもなく。
 ただ、自分の『欲望』に忠実に。

「マリアベルに……」

 ――わたしの、親友に。

「手を、出すなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――ッ!!」

 円弧状の刃が一閃する。

 その切っ先は、
 紅の魔剣と接触し、
 甲高い衝突音を立て、
 頭上へと撥ね上がり、
 くるくると回転し、

 アナスタシアの手を、離れた。

 ただ、呆然と見ているしかできなかった。

 止めることが、できなかった。

 カエルは舞い上がる。
 アナスタシアを一瞥もせず、左手で絶望の鎌を掴み取る。
 その左手をくるりと回し、投げつける。
 大気を裂くその刃は、迎撃に回ろうとしたアキラとジョウイの動作を鈍らせる。
 そして。
 紅の刃は、無慈悲にも。

 ノーブルレッドの、血を吸った。

 ◆◆

 着ぐるみが鮮血を吸い、赤黒く染まっていく。
 胸に深々と穴が空き、絶え間なく血液が吹き出している。
 かろうじて無事だった怪我の周囲の皮膚を、容赦なく降り注ぐ陽光が灼いていく。
「しっかりしろ! しっかりしろよマリアベル……ッ!」
 アキラが必死で陰を作り、ヒールタッチをマリアベルに掛けていた。
 それでも傷は塞がらず血は止まらない。
「アキラ、きみも戦闘に入ってくれ! これだけの深手では、きみの能力では追いつかないッ!」
 ジョウイがアキラを促すが、彼は動かない。 
「ふざけんなッ! 俺は諦めねぇッ! このまま、見殺しにしてたまるかッ!!」
「冷静になれッ! きみの力は深手を癒すのには向いていないんだ! 分かっているだろうッ!」
 唇を噛んで睨みつけてくるアキラに、輝く盾の紋章を見せつける。
「きみは、戦いに行くんだ。これ以上の被害を、出さないために」
 すると、アキラは少し俯いて、頷いた。

「……分かった。任せる」
 呟いて駆け出すアキラの背を横目で見送り、左手を翳す。
 碧の輝きがマリアベルを包み込む。

 目を閉じ、溜息を一つ吐く。 
 もう、助からないだろう。
 実のところ、止めようと思えば。
 カエルの一撃を、ジョウイは止められた。
 なのに、迫る敵を目の当たりにしても、ジョウイはそうはしなかった。
 マリアベルは、邪魔だったのだ。
 首輪解除になくてはならない頭脳の持ち主である上に、不死の存在であるという。
 気付かれない程度に緩めた回復を行いながら、どのように排除すべきか考えていたところにこの一撃だ。
 活かさない手はなかった。
「マリアベルッ! マリアベルッ!!」
 悲鳴のような声で名を呼びながらアナスタシアが駆け寄ってくる。 
 マリアベルの親友。
 それを思うと、心の奥が痛んで。

 左手の紋章が、疼いた気がした。 
 それをごまかすようにジョウイは、無意味な回復を行い続ける。
 償いのつもりすらない。
 ただ、アナスタシアを欺くために、紋章を輝かせる。

 ◆◆

 守ろうとした。
 戦おうとした。
 なのに力は足りなくて、強さは届かなくて。
 立ち向かわない方がよかったのかもしれないとさえ、思う。
 役に立たなかっただけならまだいい。壁になれたのならまだいい。
 下手に突っ込んだせいで、武器を奪われ、マリアベルを殺すために利用されたのだ。
 やらなければよかった。
 悔やみたくないと望んで立ち上がったのに、そのことを悔やんでしまうなんて。
「マリ、アベル、マリア……ベルぅ……っ」
 何も考えられない。
 涙と鼻水が息を引っ掻きまわす。
 苦しい。苦しいよ。
 イヤだよ。
「マリ……ア……っ」
 瞳に、温もりが触れた。
 熱い涙が拭われ、少しだけ視界が綺麗になる。

 着ぐるみに包まれた指が、アナスタシアの頬に触れていた。
「マリアベルッ!!」
 名前を呼ぶ。
「マリアベルッ、マリアベルッ!!」
 何度でも何度でも、親友の名前を呼ぶ。
 ゆっくりとそっと、マリアベルの手がうなじへと伸びる。
 そして、引き寄せられる。
 マリアベルの口元へと、アナスタシアは抱き寄せられる。
『アナスタシア、アナスタシア……』
 声が聴こえた。
 耳にではなく、頭の中に、直接声が聴こえる。
 首輪に仕込まれた感応石が、アナスタシアとマリアベルを繋いでいた。 
『聴こえるか、などと尋ねる必要もないの』
『マリアベルッ!』

『すまんの。もう、こうやってしか、話をすることができぬ。
 約束も、守れそうにない。
 本当に、すまぬ』

 もう。
 こうやってしか。
 約束も守れない。

 それらの意味を理解した瞬間、感情が爆発する。

『イヤ、イヤよそんなのッ! お願い、目を覚ましてッ!!』
『……すまんの』
 短い謝罪が、胸を強く締め付けた。
『のう、アナスタシア。わらわは、嬉しかったぞ』
 アナスタシアは言葉を紡げない。
 言わなければいけないことが、言いたくてたまらないことが、たくさんあるはずなのに。
『わらわを守ってくれて、本当に嬉しかった』
『守れなかったッ! それどころかわたしのせいで、あなたが――』

『それは違う。お主が立ち上がってくれたから、わらわはこうしてお主と話せておるのじゃ』
『どういうこと……?』
『わらわはずっと気を失っていた。ストレイボウらが来てくれる前から、ずっと』
 言葉に、詰まる。
 あのとき、アナスタシアの手の中で、マリアベルの指は確かに動いたのに。

『わらわが目を覚ましたのは、お主が雄々しく叫んでくれたからじゃ。
 マリアベルに手を出すな、とな。
 その声がなければ、わらわは意識が戻らぬまま、緩慢に朽ち果てておったに違いない。
 本当に、本当に、ありがとう』
『違う。わたしは、わたしが――』
『違わぬ。わらわがお主に嘘をつくわけがなかろう。
 何一つ悔やむことはない。むしろ、誇るべきじゃ』
『マリアベル……』
『のう、アナスタシア。一つ、お願いを聞いてくれぬか?』
『一つなんて言わないで! なんでも、いくつでも聞くからッ!』
『何、一つで構わぬ。構わぬよ』
 アナスタシアは心を澄ませる。
 マリアベルの願いを、望みを、気持ちを、想いを、何一つ取りこぼさないように。

『お主らしく、生きてくれ』

 シンプルに、短く。
 切なる願いが、伝わってきた。

『わたし、らしく……?』
『うむ、お主らしく、じゃ。
 高貴なるノーブルレッドであるわらわが認め、尊敬し――ええい、まどろっこしいのは止めじゃ』

 腕を組み、胸を反らし、得意げなマリアベルの姿を思い出す。
 懐かしくて、切なくて。
 哀しいのに、くすりと、笑ってしまう。

『――わらわの大好きな、アナスタシア・ルン・ヴァレリアらしく、生きてくれ』

 言葉が遠くなる。
 幼くて、強くて、優しくて、大好きな声が遠くなる。
 近づく別れの時を否応なく意識させられてしまう。
 悲しみが押し寄せる。寂しさが広がっていく。
 けれど。
 けれど、そんな別れの仕方はしたくない。
 涙に塗れ何も言えないまま別れてしまえば、絶対に後悔する。
 どうしても、別離が避けられないのなら。
 安心したまま、さよならがしたかった。
 きちんと、答えを言いたかった。
 だから、涙と悲しみと寂しさをまとめて嚥下して、アナスタシアは言い切った。

『分かったわ。約束する。ぜったいにぜったい、あなたの誇れるわたしでいてみせるッ!』

 マリアベルが、嬉しそうに笑った気がした。

『アナスタシア、アナスタシアよ。お主の欲張りっぷりが、移ってしまったようじゃ。
 もう一つ、お願いを聞いて欲しくなった。
 ――名前を、呼んでくれぬか?』

 その願いは、余りにもささやかで。
 もっと色んなことをしてあげたいのに、今この時は結局、ささやかな願いに応じるしかできなくて。 

 呑み下した感情が、一気に、決壊した。

『……マリアベル!』

 止め処ない感情が迸る。
 堰を切った想いに突き動かされ、叫ぶように名前を呼ぶ。

『マリアベルッ! マリアベルッ!!』

 何度も何度も。
 親友の名前を、その存在を確かめるように。

 なまえを、よぶ。

『マリアベル――ッ!!』 

『ああ、幸せじゃ。本当に幸せじゃ、アナスタシア』

『マリアベルッ! マリアベルッ! マリアベル……ッ!! マリア、ベル……ッ』

 そして。 
 アナスタシアのうなじに回された手が、地に落ちた。

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最終更新:2011年08月12日 20:39