為すべきを成すべき時 -Friend's Fist with Brave-(後編) ◆wqJoVoH16Y
死と殺意が激突する光景を見て、
ストレイボウは呆然とする。
刃と焔が再生と破壊を繰り返すその様はまるで黒を玄で塗り潰すかのようだ。
「おとーさん……」
その横で同じものを見る
ちょこがぼそりと呟く。どうやら、ストレイボウと気持ちは同じなのだろう。
これまでは単発でしか放っていなかった黒き刃の形をした力、その高速連続射出。
今まで見たことないこの技こそが、恐らくジョウイの切り札なのだろう。
なるほど、今まで撃たなかっただけあって、その攻撃は確かに強力だ。
一流の魔術師であるストレイボウには、あれが魔力だけでなく命を対価とする禁術であることは容易に想像ついた。
だが、彼らの胸をざわめかせるのは、その技ではなくジョウイ本人だった。
焔の対流で外套を大きくはためかせながら幾本も剣を召喚するジョウイの姿は、
これまで見たこともないほどに苛烈で、背丈も何もかも違うのに、どこか魔王のようにさえ見えるのだ。
だが、それは無理もないことだろう、とストレイボウは思う。
ルッカ=アシュティア。
ストレイボウがジョウイと初めて出会ったとき、ジョウイが腕に抱き、そして掬い切れなかった命。
あの時のジョウイは、全てを喪ってしまったかのように止まっていた。それほどまでに彼女を守りたかったのだろう。
そして、その命を散らしたのは、他でもない
カエルなのだ。
これまでジョウイはおくびにも出さなかったが、彼にとってもカエルは復讐を抱くに十分過ぎる存在なのだ。
(俺は、このままでいいのか……)
ぎゅう、とストレイボウはかつてルッカが抱いていた記憶石を強く握り締める。
大蝦蟇は刃で傷つけられるたびに、その傷口を燃え上がらせて再生する。
焔を纏い高く聳える紅蓮のその様は、カエルがこの島で積んだ罪を一気に燃え上がらせたキャンプファイヤーのようだ。
カエルの罪、カエルの願い。
誰も彼もが、カエルを責める。他ならぬカエルがそれをよしとする。
それでいいのか。と内なる声が響く。
お前にそういう資格があるのか。と内なる声が囁く。
(俺が出来ることは、俺が為すべきことは……)
ストレイボウはちらと後ろを見た。
そこには、膝を突き両腕を組むアナスタシアとゴゴ、そしてその二人の狭間で両者の額に触れるアキラがいた。
考える時間は、残り少ない。それまでに決めなければ。
この策が成功しようが失敗しようが、あと少しの時間の後、紅蓮は敗北するのだから。
違いは、自分達がそのとき死んでいるかどうかだけだ。
深く深く、アナスタシアは沈んでいった。
進みたいと強く思えば進み、少しでも迷えば永久に前にも後ろにも進めない。
そんな底無しの沼に、アナスタシアは自分がかつて棲んでいた世界を思い出す。
此岸と彼岸の狭間、生と死の境にあるアナスタシアのいる世界。
ひょっとしたら、一生出られないのではないかという気分が頭をよぎる。
「近いな……そろそろ、着くぜ」
頭に響くその声に、アナスタシアはうんと頷いた。
アキラの先導がなければ、本当にそうなってしまっていたかもしれない。
闇の中に光が生まれ、そしてその光が一気に拡大する。
一瞬眩んだその目をゆっくり開けると、アナスタシアは少しだけその口を呆然と開いた。
花が、蝶が、闇が、光が、空が、大地が、ここには全てがあった。
輝ける命、救い救われて循環する希望、鼓動に息衝く星。
「なんつう……」
「これが、ゴゴ君の、内的宇宙……」
「ああ、これが俺の現実。俺が歩いてきた証だ」
その美しさに呆然とする2人に、その世界の主は語りかける。
ここはゴゴの世界。かつて一度滅びかけ、そして蘇った世界だ。
「すげえな……あいつ、こんなもんを“救い”やがったのか……」
突き抜けるような赤い夕焼けに、アキラは苦笑いをした。
しかし、その表情には嫌味はない。これほどの綺麗なものを救ったというのなら、なるほど、ヒーローとも言いたくなる。
「ああ、俺はあいつに救われた。そして――――」
ゴゴが向いた方角へ、2人も向き直る。
天蓋の宙心、大地の臍。ゴゴの世界の中心に、それは突き刺さっていた。
「アガートラーム……」
アナスタシアは、息を呑んでそれを見つめる。
未来のガーディアンより分かたれた銀の左腕。
勇者が振るいし英雄の聖剣は、全てを見守るかのように、そこにしっかりと突き刺さっていた。
どくり、とアナスタシアは心臓を震わせる。
それは他でもないアナスタシアを英雄に導いてしまった、運命の剣だった。
この剣を抜いてしまった、抜いてしまえた時より、彼女は英雄となってしまった。
それを、これより抜こうというのだ。今この聖剣が何を封じているのか、それを理解したうえで。
「最初に聞いたときは、正直ありえねえと思ったがな」
「だが、確かにこれしかない。カエルを救い、
ヘクトルを救うには」
これを抜けば、再び憎悪が世界を支配するだろう。聖剣なき世界に救いがないように。
故に、誰もそれを考えなかったのだ。その選択はありえない。聖剣を抜くなどとは。
だがありえないからこそ、それは最高のハッピーエンドに至る唯一の道なのだ。
「分の悪い賭けだな、まったく」
「だが、当たれば億万長者だ。俺の世界、全部賭けてもいいくらいにな」
アキラが笑みに応ずるように、ゴゴがローブ越しにも分かるほどにニヤリと笑った。
どちらのセッツァーも、きっとこの状況ならばこうするだろうと思いながら。
2人が見守る中、アナスタシアは眼を瞑って聖剣の柄を握り締める。
久方ぶりに触れたのに、その感触はあまりにも自分の中の記憶に合致していた。
だが、そこには僅かに温かみがある。自分の冷たい手よりも暖かい、勇者の熱がまだ残っている気がした。
「頼みがある。もしも間に合わなかったら――」
「聞かないわよ、そんなの」
ゴゴの言葉を、アナスタシアははっきりとした音調で跳ね除けた。
ここより始まった聖女の悲劇。だが、それは過去だ。
(少しだけ使わせてもらうね、ユーリル君。その代わり、イイもの見せてあげる)
「私達は、今度こそハッピーエンドに行くんだからッ!!」
眼を見開いたアナスタシアが、その聖剣を引き抜く。
剣を抱いた彼女は現在に立った。ならば後は――――未来を切り開くだけだ。
バキリ。
「はじまりやがったかッ!!」
アキラが吼える。聖剣が抜かれた瞬間、世界は一変した。
美しき夕暮れの空は飴のように緩々と歪み、不快な配色へと捩れていく。
それは正に、侵食異世界<カイバーベルト>に覆われたファルガイアの空だった。
偽りのオディオ。何の目的もなくただ憎むだけの概念は、まさしく世界を侵すものだったのだ。
分かりきったことだ。一度聖剣を抜けばこうなることは。
だからこそ――――ヒトは滅びに抗うことが出来る。
「そうだ、ヒトはただ滅びを待つだけの存在ではない! 絶望を知り、それに抗うことが出来る。
物真似師を甘く見るなよ。自分の物真似に2度も喰われるほど、俺の物真似は易くはないッ!!」
そうゴゴが叫んだとき、ゴゴのフードの内側から光が生ずる。
それは銀色の光。ゴゴの内側に今まで突き刺さっていた、アガートラームの光そのものだった。
「聖剣がなければオディオを封じられない……結構ッ! “だったら俺が聖剣になるだけだッ!”」
ゴゴの光に晒された憎悪の空の歪みが鈍る。
“聖剣の模倣によって、イミテーションオディオを仮止めする”。
それこそがジョウイの策の骨子であり、
時として桜となり、時として大地となったゴゴが現実を受け止めた果てに見出した答えだった。
例えそれが神代の概念が作り出したガーディアンブレードだとしても、
この身に内包した剣程度、物真似出来ずして何がプロフェッショナルか。
“現実”と“矜持”。物真似師に必要不可欠なそれを取り戻した今だからこそ、出来る神業だった。
「――ッ――ッ!!」
だが、それでも空の歪みは止まらない。
聖剣のものまねを始めたゴゴの表情は決してそれを表には出さないが、かなりの負担であることは容易に想像できる。
オリジナルの聖剣でようやく封じることの出来た偽りのオディオ。
如何にプロの仕業とはいえ、同じ模倣であるならば、オディオに軍配が上がるのは道理だ。
「ゴゴ――」
「止まるな、アナスタシア! 手前ェの戦場はここじゃねぇだろうが!!」
踵を止めて振り返ろうとしたアナスタシアを、アキラが激する。
そう、目的と手段を混同してはならない。ここまで危険を冒してでも聖剣を抜いたのは何のためか。
その掴んだ聖剣で何を為すかこそが問われているのだ。
「そうね……守りたいものを、守る。それが『ヒーロー』だったわね」
「わかってんじゃねーか。ホント、何があったんだ?
まあいいさ……ここは心の世界、だったら、俺がやらずして誰がやるってんだ」
そう、だからこそアキラはここにいる。
「てめぇらも、やられっぱなしじゃムカつくだろ。
いいぜ、来いや。手前ェらの“想い”……全部こいつに届けてやるッ!!」
アキラは胸の辺りで両の手を広げた。
この世界に息衝く者たちの心――ゴゴを救いたいという意思が、アキラを介して聖剣となったゴゴに流れ込んでいく。
ゴゴ一人に無茶を押し付けてなるものか。世界を憎悪から守るという役目を一人に押し付けるものか。
その真っ直ぐな思いに、アキラは少しだけ眼を滲ませた。それは模倣かもしれないけれども、確かに偽らざる心だったのだ。
涙でぼやけた視界に、2つの影が見える。
一人は緑の髪の勇者で、一人は蒼き髪の英雄だった。決して遭うことのなかった二人が、共にゴゴの背中を押している。
ああこれが、勇者で、英雄なのか。
ヒーローと同じくらいには、認めてやってもいいかもしれないと、アキラは少しだけ思う。
「それでも、キツいか……急ぎやがれ、アナスタシア! 支えられて“6分”だッ!!」
だが、それでもなお覆せぬものがある。
侵食され崩壊する世界を偽りの聖剣と偽りのアークインパルスで縫い止めることなど不可能なのだ。
“6分”。それが勝ち取られた奇跡の量であり、何もかもの全滅を賭けて得た好機だ。
アナスタシアはその時間をかみ締めながら、急ぎ内的宇宙より浮上する。
誰にだって、出来ることと出来ないことがある。だから、出来ることをするのだ。
ゴゴも、アキラも、自分の出来ることを――――己が為すべきを成した。
後は、こちらもそれに応ずるだけだ。
黒き刃が破片と散る。そして蝦蟇が再び焔と再生するが、黒き刃がもう一度精製されることはなかった。
じゃり、と絶望の鎌が地面に突かれる。鎌を杖として何とか立つジョウイの肌は、
まるで本当に魔王ジャキのように白く窶れ、その一切の生気を喪っていた。
「『気が済んだか? 人の身でありながら良くぞここまで保ったと褒めてやろう。
しかし、剣で何かを守ろうということ自体が既に不純。殺す力で、この私に勝てるものか』」
対する紅蓮は焔でありながらどこか瑞々しくその力を輝かせていた。
当然だ。誰かを殺そうとする、消そうとする力は、ロードブレイザーにとって極上のエネルギーなのだから。
ジョウイは眼だけは紅蓮を見据えているが、口を僅かにパクパクとさせるだけで、最早喉を鳴らすだけの余力も残っていなかった。
「『怨まれるというのも中々に心地良かったぞ。褒美を取らせる』」
紅蓮の命令に応じ、大蝦蟇が大きく口を開く。
そこに集うは闇の油に高められた巨大な焔弾。ガンブレイズと同質であるが、その大きさはその比ではない。
「『死体すら残さず爆ぜろ。魂ごと焔に焼かれながら、煙となってルッカに逢いに行くがいいッ!!』」
カエルフレアから極大ガマブレイズが放出される。
回避も防御も不可能な一撃を前に、ジョウイは撃つべき手もないのか、抗うそぶりも見せないまま、
ガマブレイズは着弾し、爆炎を立ち上らせた。
「『クハハハ、さぁ、次は――――何ィッ!?』」
紅蓮の灼眼が爛と見開く。
爆炎の晴れた先にいたのは煙と成ったジョウイではなく、蒼い髪を靡かせた一人の女だった。
「――――頑張ったわね、男の子。偉いぞ」
女が突き出した掌の外側にめぐらされた白壁がさらさらと崩れていく。
自分の前に立つ女性の背中を見て安心したのか、ジョウイは糸が切れたように崩れ落ちる。
その身体が地面にたたきつけられる前に、ちょこがその力でジョウイをひょいと持ち上げる。
ジョウイ君をお願い、とちょこの頭を撫ぜて、女性は――アナスタシアは紅蓮と対峙する。
「『ハッ、次は貴様か宿敵! いいぞ、貴様の後方には守るべきものがある。
実に重畳、再びかつてを繰り返せるとは――――』」
「かつて、じゃないわ。これから、始まるのよ」
凛とした音が、紅蓮の嘲笑を一笑する。
アナスタシアは両の手を髪に沿わせ、その地面までつきそうな髪飾りを解く。
ころり、と髪を二つに分けていた紅玉が地面に転がる。別に何百kgもある髪飾りが自分の力を封じていたという訳ではない。
「私も、貴方もずーっと過去ばかり見ていた。でもね、私はもういいの。
聖女であったことも受け入れて、ここから、明日に向かって私は歩いていく」
アナスタシアはくるくると指を回す。その指には、細長い布が絡んでいた。
あ、とそれを見たちょこが自分の頭を確かめる。この島で最初につけていたリボンが、一つなくなっていた。
ちょっと借りるわね、とアナスタシアは笑いながら手を頭の後ろに伸ばし、その長い髪を上に纏めて束ね、リボンで縛る。
「『貴様、何者だ。お前は、私の識る聖女などではないッ!』」
その余りにも堂々とした振る舞いに、さしもの紅蓮も狼狽を見せる。
先ほどまでとはあまりにも違いすぎるのだ。振る舞いだけではない、その裡から湧き上がる、災厄を嫌悪させる感情が。
アナスタシアはその誰何に、少しだけキョトンとした後、ふっと軽い笑みを浮かべた。
両の手を髪から手離す。そこには、涼やかにまとめられたポニーテールの元聖女がいた。
「聖女じゃない。ってことはただのちょっとエッチなお姉さんなんだけど。
でも……そろそろ、新しくなってみるのもいいかなって思うのよ。貴方もそう思うでしょう? ルシエド」
呼び声に応じ、欲望の黒狼ルシエドがアナスタシアの横に侍る。
それが意味するのは、聖剣ルシエドを必要としなくなったということだ。
「『貴様……まさか、あるのか、ここにッ!? それを持つということがどういうことか、分かって……』」
「分かってるに決まってるでしょ、災厄。“ただの聖剣よ、こんなの”」
ずるり、とアナスタシアの背後からそれが伸びる。
紅蓮は、紅蓮の中のロードブレイザーは自身の天敵であるそれを見て心胆を寒からしめた。
それはかつて彼女を聖女たらしめたもの。人類最後の希望――――“だったもの”。
アナスタシアはそれを振るう。一切の重みも無く、あの焔を共に駆け抜けた無二の武器を担う。
「こんなの、ただの武器なのよ。この――――“ちょっとかっこいいお姉さん”にはね」
それが、アナスタシアの目指す明日のわたし。
英雄にはなれなくても、勇者にはなれなくても、ほんの少しくらい背伸びをしてみようかなという程度の気分。
それだけで、未来に歩いていくには十分だ。
侍るはルシエド、どれほど星が枯れようと決してなくなることは無い欲望の守護獣。
担うは聖剣アガートラーム。人類全ての願いで起動するそれを、彼女は一人で起動する。
「さぁて、時間もないから始めましょうか。来なさい、ロードブレイザー。
未だ燻り続ける過去なんて、3分そこらで消し飛ばしてやるわッ!!」
「『お、おのれェェェェェェェェッッッッ!!!!!!』」
大蝦蟇と共に紅蓮が飛翔し、その巨体でアナスタシアに襲い掛かる。
しかし、そこに最早聖女の恐怖など無かった。
「狼と共に、聖剣を携え、この身はすでに戦装束――心しなさいッ、未来に仇名す過去の亡燃ッ!
出遅れた分を取り戻せと、わたしの中の跳ね馬が躍り昂ぶる。いざ駆け出せば、容易く抑えられぬと覚えなさい!」
レジスタンスラインは疾うに越え、過去の未練は宝石箱へ。
ならば、後は明日に向かって駆け出すだけなのだから。
イスラ、ストレイボウ、ちょこ。3人は目の前の光景に唖然とした。
それは“戦闘”というよりも“神話”というべきものだった。
アガートラームを握ったアナスタシアの一閃は、もしここに海があったならば確実に海を割っていただろう清浄さを備えていた。
かたや紅蓮も、アナスタシアのケイデンスに呼応するようにその炎を猛らせていく。
聖剣の一撃が通り過ぎた先を片端から浄化すれば、瞬く間に黒炎が土地を穢す。
闘いというよりも生存競争、生存競争というよりも、世が生まれたときから争うことを定められていた運命に近かった。
「……なんだよ、いつの間にか、吹っ切れたような顔をしちゃってさ」
アナスタシアの戦いぶりを見て、イスラははぁと溜息をつく。
獣のように歯を軋らせ、益荒男のように聖剣を振り回す彼女は、最早彼の知るアナスタシアとは似ても似つかなかった。
どのような経緯があったかなど、イスラは知りたくもなかった。
“命”を滾らせているこの瞬間の光景だけでおなかいっぱいなのに、
これでその経緯まで知ったら、問答無用で認めざるを得なくなるからだった。
「だが……なんて、美しいんだ……」
禍々しい狼と共に駆けるアナスタシアの姿に、ストレイボウは素直にそう評した。
別に、アナスタシアの髪型が変わったからという理由ではない。
業火に立ち向かう乙女が、命の限りに生を燃やし尽くすその魂の輝きが、綺麗だった。
それは、武道大会で優勝した瞬間のオルステッドを思い出させる。
すべてが充実し、何もかもがその心臓の皮の中に納まっている。
ああ、とストレイボウは納得する。これが『剣の聖女』なのだと。
アナスタシアが望むとも望まずとも、その魂の極彩は、彼女を聖女と思わせるに十分だったのだ。
其れほどまでに、欲望を、命を燃やし尽くす彼女は、美しかった。
「だけど、それじゃだめなの。おねーさんばかりにたたかわせちゃ、だめなの」
立ち尽くしてしまいそうな輝きの中で、ジョウイを後ろに置き終えたちょこが靴の踵を整え、一歩前に踏み出す。
それではだめなのだ。いくら聖女に見えたとしても、彼女もまた人なのだ。
アナスタシアの人としての脆さを知っている3人は、眼を合わせて無言で頷いた。
これは神話ではない。れっきとした人と人の戦いなのだ。ならば、人としてできることが、きっとあるはずなのだから。
「『連なり爆ぜろ、ラインボムッ!!』」
「ルシエドッ!!」
大蝦蟇の口から無数の油が飛び散り、それは一直線に連鎖して爆破されていく。
アナスタシアはルシエドの毛並みを掴み、猛烈な加速でそれを回避した。
そして素早く蝦蟇の背後に回り、一撃を見舞おうとする。
「『小賢しいぞ聖女ッ! 見えぬと思ったか!!』」
だが、周囲の全てを認識する紅蓮はアナスタシアの正確に把握し、蝦蟇を飛翔させる。
気づかれたことに気づけど時は既に遅く、聖剣の一撃は大蝦蟇の背中に傷をつけるだけだった。
アナスタシアが苦虫を噛み潰す。分かっていたことだが、大蝦蟇の大きさが厄介に過ぎた。
いかなルシエドとて、この高さを一足飛びで越え上がることは出来ない。
紅蓮本人に太刀が入らなければ、如何な聖剣であってもこの不滅の災厄を滅ぼすことは至難だった。
「『思考などする間があると思うなッ!』」
そして、紅蓮は遥かな高みから焼夷弾撃をアナスタシアに降り注がせる。
中空で身動きの取れないアナスタシアは、聖剣でガードをしようとする。
「させないの!」
しかし、その一撃をちょこがパシャパシャで押し流す。
何事かと驚いた紅蓮だったが、すぐさま自分に向けて氷の粒が霰と降り注いだ。
ストレイボウの氷系魔術が、紅蓮を包む火の力を僅かに翳らせる。
そしてアナスタシアが地面に衝突する寸前、イスラの両腕がアナスタシアを支えた。
「貴方達……」
「皆まで言うなよ。アレは、マーダー。僕たちが倒すべき敵だ」
「おねーさんをひとりにはしないの」
イスラはそっぽを向いて不器用に、ちょこは虚飾無き純粋でアナスタシアを迎え入れる。
アナスタシアはその光景に瞳を潤ませた。
「アナスタシア。アレはお前にとって倒すべき宿敵なのかもしれない。
だが、あいつはそれでもカエルなんだ。頼む、俺に、カエルを助けさせてくれないか」
それでも涙を零さなかったのは、そう自分に聞いてくれたストレイボウのおかげだろう。
アナスタシアは紅蓮に向き直り、3人が見えないような位置取りで瞼を擦った。
「そう、ね。貴方は、まだ間に合うのだから。私と違って」
私と違って。そういう彼女の語尾は震えていた。
その震えこそが、アナスタシアのストレイボウへの謝罪の気持ちだった。
全ての絆を断って独りになろうとしても、それでも名前をよんでくれる人がいるのであれば、その絆は残り続ける。
ならば、たとえ友がストレイボウとの絆を断ち切ろうとしても、
謝ろうとすることには、名前を呼び続けようとすることは、きっと無意味ではないのだ。
紅蓮に今一度立ちふさがったアナスタシアは、その背中に命の鼓動を感じ、嘆息を漏らした。
肌越しにも伝わる命の熱。しかしそれは彼女に阿ろうとする者たちの命ではなかった。
誰一人として、アナスタシアに自分の命運を委ねようとするものはいなかった。
自分の未来を、自分で勝ち取ろうとする者たちの熱だった。
「私を守れなんていわない。私がみんなを守る……ううん、みんなで、一緒に戦いましょう」
ちょこに一つの輪を渡しながら、アナスタシアはそう言った。
ああ、ここには、剣の聖女が護るべきものなどないのだ。あるのは、共に並び立つ戦友たちだけだ。
もう聖女は要らない。
嗚呼――――今、私は、わたしとして、生きているのだ。
「『アアアアアッ!! 賢しい、小賢しいッ、忌まわしいぞその賢しさッ!!
何が絆かッ! 何が仲間かッ!! そんなものなど、この私の前で振りかざすなッ!!』」
眼下に集う4人の戦士たちに、紅蓮はあらん限りの侮蔑を撒き散らした。
人間の意志の集合、アークインパルスに似た絆の力は、災厄たる紅蓮にとって毒であった。
だが、何よりも、その絆そのものが紅蓮には許し難かった。
全てを絶って、何もかもを切り捨てて、燃やし尽くして、グレンは紅蓮となった。
絆を断ち切って得たこの力が、絆を紡いで生まれた力に気圧されるなど、あってはならなかったのだ。
憎しみが、羨望が、嫉妬が、ありとあらゆる負の感情が紅蓮から全てを奪い、蝦蟇へと流し込まれていく。
ついに自分自身さえ切り捨てて、その身をただの災厄へと堕とそうとしていた。
『『最早一切の手加減もなしッ! 業炎爆水ッ!! そのまま腐り落ちろォォッッ!!』』
極限まで燃え上がった蝦蟇が黒き焔を周囲に撒き、紅蓮が天に紅の暴君を掲げ、極大のウォータガを雨と降らせる。
水と火が混ざり合った瞬間、それは膨大な蒸気となって周囲を包んだ。
高温の水蒸気は金属を腐食させる。
それが呪いの炎によって生まれた蒸気ならば、命という命を瞬く間に腐り落とすだろう。
「生憎だけどね、これ以上腐らせるものが残ってないのさ、僕にはッ!!」
だが、その呪いの水蒸気を切り分けてイスラが吶喊する。
天空の剣の加護を盾に、間合いを一気に切り詰めたイスラは、大蝦蟇に一撃を与える。
どこであろうと瞬く間に回復する蝦蟇であったが、この度切り裂かれたのは左の脚だった。
蝦蟇の巨体が災いし、自重によって大蝦蟇が大きくバランスを崩す。
それに耐えようと、左に沈もうとする巨躯を右に持ち上げようとした時だった。
「今なのっ、お空に……とんでけーっ!!」
その刹那、重心が持ち上げられた一瞬を見逃さず、懐に入ったちょこの全力の蹴りが大蝦蟇に炸裂する。
常ならば一ミリとて動かないであろう巨躯は、己が踏ん張る力を逆に利用されて高く高く飛び上がった。
「『小癪がッ! 一体何を……』」
「こうするためよッ! ちょこちゃん!!」
大蝦蟇ごと宙に浮かされた紅蓮の問いに、アナスタシアが実演を以て応じる。
全速力でちょこに向かって走ったアナスタシアが、ちょこの頭上目掛けてジャンプする。
そして、アナスタシアはアガートラームを自分の足元に翳し、
ちょこはその聖剣の刀身の腹を目掛けて、いかりのリングを装備した方の足で渾身の蹴りを叩き込む。
「「いっけぇぇぇぇぇ!!!!」」
そうして、アナスタシアは紅蓮目掛けて――――“蹴り投げられた”。
弾丸のように飛翔するアナスタシアは、斬撃と共に瞬く間に大蝦蟇ごと紅蓮を追い越す。
そして、ちょこはその姿を今一度白翼の魔族へと姿を変え、ヴァニッシュで大蝦蟇を天空へ押しやる。
『『おのれ、おのれアナスタシアァ!! 認めん、認めんぞッ!!
貴様が仲間を得るなど、孤独より開放されるなど、有り得るかァッ!!』』
その呪詛は、大蝦蟇の口から放たれていた。
紅蓮の中の災厄の力を、極限まで集めたその蝦蟇は、限りなくロードブレイザーだった。
消滅の力に押されて空を上るその災厄には、
剣を振りかぶって自分に近づいて――自分が近づいて――くるアナスタシアの姿が、信じられなかった。
世界にひとりぼっちの聖女だからこそ、アナスタシアは聖女であったのに。
「言ったでしょ。私は新しい道を進んでいくんだって。
だから災厄。アシュレー君が消し残したその雑燃は、自分の始末は自分でつけるッ!!
そして、私は始めるのよ――――光り輝くセカンドライフをッ!!」
アガートラームが、アナスタシアの魂に輝く。
その光が降り注ぐ眼下の世界には、白き闇にぽつんと残る赤黒い点が一つ。
まるで苺のケーキのようだな、とアナスタシアは場違いに思った。
そして、ああ、とすっかりと忘れていたことを思い出す。
「約束してたものね、ちょこちゃん。じゃあ、一緒にやりましょうか!!」
聖剣が更にその光を強める。それに呼応したか、ちょこのヴァニッシュもまた力を引き上げる。
蝦蟇は幾度となくわめき散らしていたが、最早彼女達には聞こえなかった。
ケーキは大人しく黙っていろ。何せ、今から――夫婦そろっての初の共同作業なのだから。
「「人生初の共同作業ッ!! ケーキ、入刀斬ァァァァァァァンッッッ!!!!」」
白き闇と聖剣の狭間で、災厄の残燃はそれでも怨嗟を叫び続けていた。
しかし、その不死の焔も、無と聖なる力の前では少しずつ削り取られていく。
ちょこに抱えられながら、アナスタシアはその最後を最後まで眼を逸らさず見ていた。
倒せなかった宿敵、そして、自分にとって絶対の壁であった存在。
その崩壊を、アナスタシアは眼を逸らさずに見つめ続けた。
「さよならは言わないわ、ロードブレイザー。貴方のことは、絶対に忘れられないだろうから」
光と共に黒き焔が潰えたとき、アナスタシアの瞳に僅かに雫が流れた。
それは、ある意味で友をも越える絆が生んだ涙だったのかもしれなかった。
「ア、ガ、だ……!!」
だが、まだ何も決着はついていなかった。
白き闇の外側に、染みのようにして飛び跳ねた影が一粒浮かぶ。
大蝦蟇を乗り捨てた紅蓮が、そこにはいた。
どのような執念が身体を動かしたのか、その想像すら出来ぬほどの反応だった。
いくら離脱に成功したとはいえ、ヴァニッシュの余波に晒された紅蓮の肉体は、
最早不滅の看板を外さなければ成らないほど磨耗していた。
それでも、紅蓮は魔法を唱えようとする。戦うための意思を貫こうとする。
何もかも、肉体すらも砕かれようとも、成すべきことの為に全てを為そうとする。
「カエルゥゥゥゥッ!!」
だがそんな哀れな騎士に、一人の魔術師が立ちはだかる。
紅蓮が吹き飛んだ方向を目掛け、欲望の狼に跨ってストレイボウは大地を駆け抜けた。
『アナスタシアが手を貸せというから貸してやるが、全ては貴様の欲望次第だ。一度揺らげば、振り落とすぞ』
言われるまでもないと、ストレイボウは両腿を狼にきつく挟み込む。
急激な律動に下半身の筋肉が悲鳴を上げる。だが、そんな泣き言を言っている暇はなかった。
恐らく、これがカエルに言葉を投げかけられる最後のチャンスなのだから。
ルシエドが跳躍し、紅蓮とストレイボウの間合いが狭まる。
音の通る距離、言葉の伝わる距離。ついにストレイボウはそこまで来た。しかし。
(だが、俺はカエルになんといってやればいい!?
国のことか、友のことか、仲間のことか!? 何を言えば、あいつに響く!?)
最後の最後、喉の奥まで出掛かっているはずの言葉が出てこない。
言う資格を自分に問う。言う意義を自分に問う。言う意味を自分に問う。
たかが言葉なのに、言うことが出来ない。たかが言葉だから、言うことが出来ない。
その隙を見逃すほど、紅蓮は甘くなかった。
紅の暴君の突きが、ストレイボウの胸を目掛けて穿たれる。
ストレイボウに、その鮮やかな一閃を回避する能力などなかった。
故に、それがストレイボウを穿たなかったのであれば、
それは、他の誰かが穿たれたということに他ならなかった。
「ぐ、あ……しま……っ……!!」
「ジョウイッ!?」
ストレイボウと紅蓮の間に割って入ったジョウイの腹には紅の暴君の刀身がずぶりと突き刺さっていた。
鮮血は吹き出ない。吹き出るほどの生命力が、紋章に食い尽くされた彼の身体には残っていなかった。
だが、それでも彼は走っていたのだ。残された命もない身体で、ここまで走り跳んだのだ。
「莫迦野郎ッ! 何で、こんな……!!」
「迷わない……で……ください……」
ジョウイは全てを燃やし尽くすかのような壮絶な瞳で、紅蓮を睨み付ける。
「友ならば……本当の友ならば……本当さえあれば、どんな言葉だって、響くんだ……!!」
震える手で、ジョウイは自分を貫くカエルの手に絶望の鎌を添えた。
「だから、見せてくれ! 絶たれても、それでも繋がれる奇跡をッ!!」
そして、鎌の刃を折ってしまうほどの全力で、ジョウイは紅蓮から手首ごと紅の暴君を切り離した。
精魂使い果たしたとばかりに、紅の暴君を腹に突き刺したままジョウイは地面に落ちていく。
その光景を見たストレイボウは、胸が締め付けられる思いがした。
ああ、俺は何度莫迦を見れば気が済むのだろう。
本当に友であるのならば、どんな言葉だって響く。
本当に友であるのならば、どんな言葉だって伝わる。
何かを伝えるのに必要なのは、どんな言葉で伝えるかではない。“伝わると信じられるかどうか”だ。
それを、ストレイボウは信じられなかったのだ。
言いたいことを、言えなかった。
お前が妬ましかったと、勝ちを浚っていくお前が憎らしかったと、
お前は本当に俺を友だと思っているのかと、ただの雑魚としか思ってないのじゃないかと。
言いたいことを、言いたいときに、言えなかった。
伝えることを恐れ、溜め込んで、そして衝動のままに爆発させた。
冗談交じりでもいい、皮肉気味でもいい。
言ったところでストレイボウとオルステッドの間にある絶対的な力の差は変わらないだろう。
それでも、少しでも言えていれば、きっと何かは伝わり、何かは変わったはずなのだ。
ストレイボウが胸に握り拳を当てる。その手には、小さなバッジが握り締められていた。
そのバッジが少しずつ、しかし確かに輝きを強めていく。
『ほう……兄弟だけではなく、まさか貴様もここに在ったか、貴種守護獣……
面白い。ならばその偉大なる名に免じ、もう一度駆け抜けてやるッ!!』
ルシエドが凶暴な笑みを浮かべ、もう一度ストレイボウを吹き飛ぶカエルまで導く。
心臓の鼓動が姦しい。少しでも緩めれば、爆発しそうだ。
これは、あのときの衝動に似ていた。魔王山の隠し扉を見つけてしまったあのときの、
押さえつけてきた黒い何かが吹き出る瞬間に似ていた。
だが、とストレイボウは紅蓮を見据えて息を吸う。
ブラッドの言いたいことが、今になって理解できた気がした。
伝わると信じろ。伝えても壊れぬと信じろ。伝えて――自分の意思を、相手に打ち立てろ。
言葉が届かなかったのは、俺が咎人だからじゃない。
俺が道を間違えた人間だったとしても、俺が死すべき罪人だったとしても。
友の道を正してはいけない道理など、どこにもない。
俺に何よりも足りなかったのは――――言いたいことを、言う『勇気』だったのだから。
「カエル!! 手前ェ、いつまで寝たフリしてやがる!!」
だから、ストレイボウは『勇気』を振り絞った。
「自分で殺すのに疲れたからって、あんなのに身体を明け渡したってのか?
なんだそりゃ、アレだけ偉そうに自分の意思でと言っておきながらそのザマか!!
どれだけ情けねえんだよ。俺か? お前は俺か? ああッ!?」
吹き飛ぶ紅蓮に、伝わっているかどうかなど分からない。だから、ストレイボウはただ信じた。
伝わると。立場も資格も関係のない、本気の言葉なら、絶対に伝わると。
「お前は違うだろうが! 高潔に、誇り高くッ! どれだけ紅に塗れても!!
お前は、お前の意思で国を救おうとした――――勇者だろうがッ!!」
握った拳が、黄金の輝きを放つ。
そして、紅蓮の残った拳が、僅かにピクリと動く。
ストレイボウと紅蓮の瞳が交錯し、そして、ストレイボウはにやりと笑った。
「お前は、かっこいいよ。国を滅ぼした俺が本当ならばお前みたいになるべきなのに、
俺にはとてもじゃないが、真似できない。でも……でも……一つだけ、一つだけ、頼むぜ……」
ストレイボウの身体が、紅蓮に近接する。
「お前が、本当に勇者だってなら!! 俺を省みろ!! お前が斬り飛ばしてきたものを見ろ!!
後ろを向けよ!! その上で前に進むってんなら、俺にはお前を止められない……」
その拳が、引き絞られる。
全ての想いを乗せた、友に向けた、勇気の拳が。
「だが、もしも! 少しでも、すまないと、思うなら!! マリアベルに! ルッカに!
お前が!! その為に、殺した奴らに!! 今ここで、侘びやがれェェェェェェッッ!!!!」
ストレイボウの金色の拳が、紅蓮の鳩尾を直撃する。紅蓮の口が大きく開き、唾液と食物が漏れ出した。
まるで、この騎士が今まで溜め込んできた罪を吐き出させるように。
「ご、ぶ……やり、やがった……カ、エル」
だが、ダメージを負ったのは紅蓮だけではなかった。
紅蓮の拳が、カウンターの要領でストレイボウの頬を穿っていたのだ。
そのまま、2人は落下していく。
結果は相打ち。だが、ストレイボウはそれに満足そうな顔を浮かべた。
その拳には、確かに自分が綺麗だと思った信念が乗っていたことに気づいたからだった。
「無茶するわね」
「お互い様だろう」
ルシエドの毛並みを撫でながら、アナスタシアは頬を腫れ上がらせたストレイボウを呆れた調子で見つめた。
そのそばには、表面の水分の乾ききったカエルが横たわっていた。
災厄を内包していたからだろうか、その身体はあちこちが炭化しており、その生死は非常に危うい。
だが、今生きている。それを勝ち取れただけで、ストレイボウには何よりも誇らしかった。
「……何、うれしそうな顔してるのさ」
「だってだってー、みんながいっしょだから、ぽかぽかなの」
イスラの問いに、ちょこは満面の笑みを浮かべてそう答えた。
その答えに、イスラはやれやれと溜息をつく。
確かに、イスラとてアナスタシアを戦力と認めざるを得ない状況だった。
決して仲間だとは思いたくないが、まあ、それでも、多少は評価してもいい。
「って、のんびりしてる場合か? ゴゴのこと……」
「Oh! ……って冗談やってる場合じゃないわね。もう、5分過ぎちゃってるし」
アナスタシアはそういって、聖剣を肩に担いだ。
アキラが抑えてくれているとはいえ、時間は残されていない。急ぎ本封印をし直さねば。
だが、運命はそれほどに易くはない。
イスラが北側を見つめたとき、そこには2人の人影があった。
「あの人だ……」
その銀の髪を見定めたちょこが、そう吐き棄てる。
この娘がここまで他人行儀に、そして嫌悪感を露にするのは珍しいな、と思った。
だが、それで2人が誰なのかは明瞭になる。
ギャンブラー・セッツァー=ギャッビアーニ。そして魔族の王・
ピサロ。
ヘクトルが圧し留めようとしていたマーダー達。
その事実が意味するであろうところに、イスラの心臓が戦慄いた。
「最悪のタイミングね……悪いけど、少しだけ時間稼いでくれる? 直ぐに封印してくるわ」
「ああ、それしかないだろう」
アナスタシアとストレイボウが、同時に頷く。
それが最良だろうと、イスラも思った。3人でも、時間稼ぎくらいは出来るだろう。
だが、イスラの鼓動は収まらなかった。自分の中の警報機関が、けたたましく鳴り響いている。
何か、何か見落としているような気がする。
絶対に見落としてはならない、何かを……
「おとーさん、どこ?」
ぞくり。イスラの背中に走ったものを音で表せば、正にそれだった。
イスラがそれの落ちた場所に首を向ける。だが、そこには誰もいなかった。
ただ、夥しい血の跡が、ずるずるとずるずると延びていたのだ。
まるで、這い寄る混沌のように、ゆるりゆるりと手を伸ばし、
辿り辿ったその先には――――物真似師の眠る場所。
「魔王が、鍵を穿ったのは、確か、ここだった」
そして、その血は足を登り腿を渡り、股関節を通り、ぐじゅぐじゅと漏れる血液の源泉へたどり着く。
「使わせてもらうよ……『まけん』の、使い方……」
ぼとり、と両生類の右手が地面に落ちる。
ずぶり、と、この青空に似つかわしくない酷く厭な音が響く。
そこには、血よりも紅い魔剣を物真似師に突き刺して立ち尽くす、一人の魔王がいた。
――――繋がった……
「何だ、こいつは! 落ちて来るのは聖剣じゃなかったのかッ!!」
その光景をみて、アキラは叫ばずにはいられなかった。
捩れ狂った空を裂いて現れたのは、聖なる銀の腕ではなく、血に染まった紅き刃だった。
その刀身が、降りてくる。世界の中心となって世界を守る偽りの聖剣に堕ちてくる。
「くそッ! やらせねえ、やらせねえぞ……」
アキラが、己が精神の全てを費やしてでもその刃を阻もうとする。
「やめろッ!」
だが、それは皮肉にもその身を案じた一人の物真似師によって阻まれてしまう。
アキラの意識が、ゴゴの内的宇宙から排出されていく。
命を賭そうとするアキラを、放っておけなかったゴゴは、その一瞬、物真似師に戻ってしまった。
仮止めの聖剣すら失われた世界。
しかし、ここには、その代わりがあった。
禍々しいほどに紅く輝く――――封印の剣が、世界の中心に封じられた聖櫃を解く。
――――ようやく……繋がった……ッ!!
紅の暴君が鳴動する。物真似師の奥にあるものを認識し、それは歓喜をあげた。
その様に、ちょこは何故か、魔王の言葉を思い出していた。
『安心しろ。こいつに巣食う魔物に手を出すつもりは、俺には、もうない』
「うそなの……」
俺には、もうない。俺に“は”。
「うそっていって……おとーさん……」
そのあどけない声が、聞こえていたかどうかは、分からない。
だが、聞こえていたとしてもいなかったとしても……これは、変わらなかっただろう。
――――ようやく、完全な形で……繋がった……ッ!!
その手に握る力に、ジョウイは眼を見開いた。
誰にだって成すべきことがある。だから、きっと、これが今僕が為すべきことなんだ。
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最終更新:2012年04月08日 10:05