夜空を越えて -True Magic-(後編) ◆wqJoVoH16Y


最後の誘いを断ったジョウイは棍を強く抱き、身を包む寒さに震えながら眼を閉じた。
耳を閉じ、眼を閉じ、手を跳ね除けて、ジョウイは全てを鎖し眠りにつく。
これで、いいのだと。この末路で良いのだと。
理想の末路は常に孤独だ。一人高みを目指し、独り墜ちて果てるのだ。

「はい」

だが、リルカから差し伸べられたのは、手ではなかった。
ジョウイの鼻腔が擽られる。
熱と水気を帯びたその香りは、全ての救いを拒絶したジョウイとて無条件に刺激する。
焦げたソースの匂いは油分と旨味が凝縮され、匂いだけで美味であることを確信させる。
ジョウイの眼がゆっくりと開かれ、目の前を漂う湯気を捉えた。
闇夜に僅かに映る白い湯気、その道筋を視線が遡る。

「半分こだけど。あったかいもの、どうぞ」

リルカの手に握られた熱の源泉に、ジョウイは眼をぱちくりさせた。
表面が香ばしく焼き上げられたコッペパン。
その頂点には縦に切れ目が入り、中の柔らかい白生地が開けるようになっている。
だが、白生地はその上に挟み込まれたものに隠され、微かにしか伺えない。
パンとの噛堪えに合うよう柔らかめに茹でられ、ソースと絡められた生麺。
切れ切れになって尚脂を滴らせる豚肉、そして焼かれても瑞々しい緑と赤の野菜が麺のアクセントとして混ぜられている。
その上に載せされた紅生姜と青海苔は薫り高く、ソースの香り合わせ嗅覚を刺激する。
「あ、あったかいもの、どうも」
自分では食い意地が張っている方ではないと思っていたジョウイですら――――その焼きそばパンを見て喉を鳴らした。
見て、嗅ぐだけで舌の中に唾液がにじみ、ジョウイは半ば本能的にその手のひらをリルカのパンへと延ばす。
何処から出したのか、リルカが何を考えているのかなどという思考は、パンの熱にかき消されてしまっていた。
その左手に半分の焼きそばパンが乗せられると、指の先の末梢血管が開かれ血が循環するのをジョウイは感じた。
あたたかい。
この凍てつく夜空の中であっても、決して絶えぬ白い熱がジョウイの左手に収まっていた。
いつの間にか震えを止めた左手が、ゆっくりとその熱を口元へ運ぶ。

喉元までパンを近づけたとき、ジョウイの手が止まった。
そこまで近づけて、ジョウイはパンの中、その焼きそばの中にあった赤色の野菜が何なのかに気付く。
ジョウイはもう一度リルカを見た。
リルカはその大きな瞳をきょとんとさせてジョウイの瞳を見つめ続けていた。
リルカにあのことは言っていない。そしてナナミにもリオウにも会ってないリルカがあのことを知ることは無い。
もしかして読み込みでそこまで識られて、その上でか。
いや、あの瞳は完全に天然だ。本当に偶然に入ってたのか。
ジョウイは嵐のような胸中を隠しつつ、リルカの手元を見た。
その右手にはまだ半分の焼きそばパンが残っている。
ジョウイが食べるまで待つつもりなのだろう。
傭兵隊の砦の牢屋を思い出す。
が、細かく焼きそばに混ぜられたこれをリルカに渡すのは物理的に無理だ。
All or Nothing。全部食べるか、食わずに返すか。
選択肢は二つに一つで、ジョウイはその答えを迷わなかった。
もう一度焼きそばパンを見た後、ジョウイはパンを噛み入れた。
どうせ終わるのであれば最後にもう一度食べてみるのも悪くないし、なにより、ジョウイの本能は熱を欲していた。
悪王の最後の晩餐としては、どんな料理よりも、皮肉が、効いて。

「ちょ、ジョウイ!? どしたのッ!?」

その大きな声に振り向き、リルカの驚いたような顔を見る。
僕の顔に青海苔でもついているのか。
そりゃあ食べた後にずっとついていればともかく、食べている途中なら驚かなくてもいいじゃないか。
ジョウイはパンを掴んだまま口元を拭い、左腕を見やる。
幸いにして青海苔はついていない。だが、透明な液体がついていた。
寒さのあまりの鼻水にしては随分と粘性が無い。一体――――
「落涙ッ!? も、もしかして焼きそば嫌いだった?」
胸に落ちた二つの雫を見て、ジョウイは自分の涙に気付いた。
つう、と頬に垂れていくもの拭うこともなく、ジョウイは涙し続けた。
何故泣くのか、何故今なのか。
少年隊が滅んだときも、ピリカが声を失ったときも、
兵たちが死んでいくときも、ナナミが撃たれたときも、涙すら流さなかったくせに。
母の料理を、思い出したから? 違う。
傭兵隊の砦の出来事を懐かしんだから? 真逆。
特別な精神干渉でもされてる? 冗談。

「ちがう。違うんだ……リルカ……違うんだよ……」

これは、ただの焼きそばパンだ。
種も仕掛けも本当に無い、何処にでもある惣菜パンだ。
ならばこの止め処なく零れ落ちる雫はなんなのだ。
思い当たる理由は、一つしかない。



「違うんだ……ニンジンが、こんなにもおいしいものだなんて、知らなかったから……」

小麦が、麺が、酵母が、ソースが、紅しょうがが、野菜が、青海苔が、ただ、ただ――――――おいしかっただけだ。



おいしかった。それだけなのだ。
それだけで、泣いてしまった。悲しみも怒りも、喜びも――ありとあらゆる感情を短絡して、身体が勝手に泣いている。
「ひゃ~、脅かさないでよ。不味いのかと思ったじゃない。
 そっか、良かった。ニンジンって貴重だから、焼きそばパンに入ってないんだよね。
 でも、君が『力』が欲しいって言うからさ。フォースキャロット混ぜちゃいましたッ! みたいな?」
きっと混ぜたらこんなのになるんだろうなーって想像なんだけどね、とリルカが焼きそばパンを頬張る横で、
ジョウイはリルカの笑顔を、涙混じりに眺めていた。
この涙は、ただの生理現象だ。涙を流す理由などはない。ただ、知ってしまっただけだ。
舌の中でソバが、パンが溶けていく度に、伝わってしまう。

この焼きそばパンは――――嘘なのだ。
こんな場所に、偶さかリルカが焼きそばパンを持っていた訳がない。
ここが内的宇宙であることを考えれば、この焼きそばパンもまたリルカの想念から生み出されたのだろう。
だが、これはリルカがかつて食べた焼きそばパンでもない。
あの夜、リルカは自分の世界についてこう言っていた。
ファルガイア。焔の災厄によって荒野と化した世界。店で果物を買うこともできない世界。
農業国家が存在しているとはいえ、そんな世界の4分の1が世界全ての需要に対し十分な供給が出来るとは思えない。
野菜や小麦の収穫高を考えれば、少なくとも焼きそばパンにこれだけの野菜を投じることはあり得ない。

「元気だしなよ。私に言えることなんて、ほとんどないけど……元気がなくちゃなにもできないよッ!」

だからこれは、焼きそばパンを頬張りながら満面の笑顔でそう言い切ったリルカの願いなのだ。
こんなパンならば、もっとおいしいだろう。もっと力が沸くだろう。もっと元気が出るだろう。
“こうあってほしい”と願われた――――『理想』の焼きそばパンなのだ。
ただ……ただ……ジョウイの為に願われた、こんなものは存在しないという現実の全てを超えた、想いの結晶。

咀嚼する度に、ジョウイの脳裏にファルガイアが浮かぶ。
どれほどに荒野と化した世界なのか、本当のファルガイアがどのようなものなのかなど分からない。
味覚に伝うのはエレニアックのファルガイア。
健やかなる土壌、よりよき水、作物を安定的に生み出す農業体系、そしてちゃんとパン屋を許容できる世界。
星がもっと元気であれば存在したであろうものであり、リルカが、大好きで大好きでたまらない世界。

(ああ、そうなのか……そういうことなのか……)

ジョウイはその手に残る焼きそばパンを力強く見つめた。
この焼きそばパンもまた世界なのだ。この右手に収まるものも、また世界と繋がるものなのだ。
この焼きそばパンを守ろうとすれば、その行き着く先は世界を守ることに等しい。
ならば、この焼きそばパンを好きであるということは、国を、世界を守る理由足りえる。
たとえ始まりが一なる願いであっても、その好意は“全て”に至る。
ならば、全てを守ることに――――『理想』を貫くことに意味は、あった。

(僕は、ピリカの平穏が欲しかった。大好きな人たちの平穏が欲しかった。
 大好きだった皆のいるあのデュナンの土地が、あの国が大好きだったんだ)

それがジョウイだった。ジョウイ=アトレイドのどうしようもない本性だった。
人が醜く汚れたものだと知り、人の心の裏にある穢れを知りてなお、人に憎悪できず、人を呪えかった。
ピリカの、リオウの、ナナミのいる世界が大好きで、大好きで、そんな世界にいる人たちを嫌いになれなかった。
大好きな人たちがいる世界を愛さずにはいられなかった。
あのキャロの村と、デュナンの大地を分けることができなかった。
世界は切り分けることができない。界の意志と万象の如く、全ては繋がっている。
故に、大好きなものを愛し愛しく想えば、彼はそこに繋がる全てを愛するしかなかったのだ。
護りたいものだけを護るなんて器用なことができなかったが故に。

だから、守りたかった――――“否、守るのだ”。
叶わぬと思った理想、愛さずにはいられない全てを、今度こそこの手に掴むために。
ピシリ、と天に亀裂が入る。リルカの魔法で守られていたジョウイ最後の領地に、憎悪の爪が食い込んだ。
空は根のように恐るべき速度で四方に亀裂を伸ばす。もうどんな手を使ってもここ守りきることは出来ないだろう。
「行くんだね」
砕け行く理想の終点を見上げながらジョウイは最後のひとかけらを嚥下し、立ち上がった。
そのつま先の向かう先は、麓への道ではない。
「もう一つだけ、試してないことがあるんだ。その一手だけは試してみようと思う」
リルカは、滝壺を見据えて淡々と言うジョウイの背中をじっと見る。
裏切り、叛き、ありとあらゆる者たちから石を投げつけられてきた背中は、細くて華奢だった。
そして彼はこれより、誰にも背負えぬモノをその背中に背負おうとしている。
「リルカ。最後に、一つ聞いていいかい?」
なに? と、リルカもまた立ち上がり、ジョウイの背中を見つめ続けながら応じた。
「これから僕が目指す道は、君が信じる人たちが目指す道とぶつかる。
 おそらく、いや、間違いなく戦いになる。命を賭ける戦いに。僕はその道を譲る気はない」
ジョウイの目指すものは、やはり茨の道だ。しかもそれは自分だけが傷つく道ではない。
誰も彼もを傷つけて、傷つけて、全ての人の魂を吸って咲く茨の紅道だ。
「そして君は……僕の道を、間違っていると思ってる」
「うん。難しくて、わたしなんかじゃ言い返すことも出来ないけど……でも、それはやっぱり違うと思うよ」
震えを堪え振り絞られたジョウイの言葉に、リルカは素直な気持ちで答えた。
正しいのだろう。その理路は整然とした、紛れもなき王道なのだろう。
だが、リルカはそれを否定する。理屈ではない、思考ではない。もっと生理的な情動がその道を否定する。
それを聞くことはとてつもなく怖いことであっただろうに、それでも口にしたジョウイに、嘘はつけなかった。
「うん、それでいいんだ。この道は、きっと正しくはない。でも――――もう二度と間違いだなんて思わない。
 リルカ、止めるなら今しかないよ。君がもしもそう願うなら、僕はこの棍を折ろう」
ジョウイは背を向けたまま天星烈棍をリルカに見せる。
これが最後の惑いだというように、最後の最後で光を見せてくれた少女に報いた。
「止めないよ。私は、君を止めない」
壊れ行く夜空が、破片となって降り注ぐ。
雪のように儚い理想の中で、リルカはいたずらっぽく、そしてほんの少しだけ悲しそうに笑った。
止めるべきなのかもしれない。
ジョウイの内的宇宙を識ったからこそ、あの夜にジョウイを生かしてしまったリルカが止めなければならないのかもしれない。
「どうして?」
「質問は1回だけ」
だが、リルカはそれを選ばなかった。
どのような答えをジョウイが抱こうが、リルカは彼の背中を推すと決めていた。
小さな宝箱に玩具の鍵をかけるかのようにその理由を封印したままに。
だが、そこに後悔は一切なかった。

「それに、信じてるから。今度こそ、正しいやり方で君を止めてくれるって……みんなが……『ARMS』がッ!!」

リルカは右腕を前に突き出し、握り拳から親指を突き出した。
彼女にこの選択を許した力を受けて、ジョウイの背中が僅かに緩む。
ジョウイも彼らも、目指しているものは変わらない。ただ選んだ道が違うだけ。
ならば、どちらが勝てども、そこに答えは必ず示される。
「ああ、それはなんて……心強い」
進む道が違えど同じものを目指していると信じられるのならば、この茨の道も進んでいけるのだから。

バキリ、と夜空が圧し折れ始め、いよいよの世界の限界へと近づいていく。
そしてそれはこの場所を守っていた力が失われつつあることを意味し、リルカの姿が少しずつ紅い粒子へと変わっていった。
ジョウイは未だ滝壺を見続けており、リルカの姿を見ていない。
その方がいいと思った。既に終わった別れ、これ以上湿っぽいのは無様を通り越して滑稽だ。
しかし、ジョウイは一向に一歩を踏み出さない。どういうつもりかとたまらずリルカは声をかけようとした、そのときだった。

「リルカ、遅くなったけど……あのときの答えを、贈るよ」

ゆっくりと、しかしはっきりと聞き取れる声量で、ジョウイはリルカに言った。
あの時、とはいつのことなのか。リルカはすぐに思い浮かばなかったが、聞き返すことはせずに耳を済ませる。
「僕は力が欲しかった。この島で最後に勝つための力。
 それを思い浮かべたとき、僕はこの紅の暴君を思い出したんだ。これこそが僕が手にするべき力なんだって。
 なんで、これを選んだか――言ってなかったね」
これまでのジョウイのどの言葉よりも重く、しかし優しげな声だった。
ジョウイの策略の全ては、紅の暴君に至るためのものだった。
アガートラーム、神将器、ブリキ大王……他にも力はあった。他の力ならば、これほどに危険な綱渡りをする必要もなかっただろう。
だが、ジョウイにはこれしか思い浮かばなかった。他のどの力よりも、ジョウイはその『力』に魅かれたのだ。
「あの夜、君に――――魔剣を携えながら紅く輝く君に、魅せられた。
 ルカとも違う、黒き刃の紋章ともオディオとも違う力を持った君に、僕はどうしようもなく魅かれたんだ」
これまで胸のうちにありながら、決して形にならなかったものを、ジョウイはゆっくりと結晶にする。
狂い咲く紅の中でそれでも太陽のように笑う君に、誰よりも力を否定する君の『力』――――『魔法』に、魅せられたのだと。
「理想を叶えるためには、力が必要だと思った。僕如きの力だけじゃ絶対に辿りつけないと思ったから、より強い力を欲して、登り続けた。
 どんな穢れた力であっても、それで理想に至れるのならば後悔はないと思ってた。リルカ、君の『魔法』に出会うまでは」

それは、その人にしか出来ないこと。
それは、誰もが持つもの。
それは、既にこの胸に在るもの。

―――――ジョウイは、ジョウイの、魔法を見つけてね。

それは、リルカからジョウイに贈られた最後の願いにして遺言。
『力』では到達できなかった理想に至る『魔法』。ならばそれは一体何なのか。
迷い惑い続けたジョウイ=アトレイドのこの島での旅は、それを探すためのものだった。

「探し続けて、探し続けて……ここで、見つけたよ。僕の、僕だけの魔法」

崩れ行く世界。友と刻んだ約束の場所で、ジョウイは消え行くリルカに今一度向き合う。
既に涙は止まっていた。これ以上、情けない姿は見せられない。
この答えに至れたのは、きっと、君のおかげなのだから。


「キミだよ、リルカ。僕の魔法は――――――キミだったんだ」


リルカの目が僅かに見開く。
僅かに頬が赤らんで目を逸らそうとするが、ジョウイの真面目な視線から逸らすことはできなかった。
「なんの力もないはずの君は、それでも魔王を倒した。君の魔法が、魔王の魔法を破った。
 願いを叶えるのは力じゃない。願いを叶えるのは、その願い続けた想いだ。“想い”は、それだけで既に魔法なんだ」
リルカの“想い”が魔王の“力”を超えた。
力と想いは切り離せない。だが、想いは力を超える。それがあの夜にジョウイが見た真実だ。
想うことは、その人にしかできない。想いは、誰もが持つもの。想いは、既にこの胸にあるもの。

砕けた空に光が射す。冷え切った大気のなか、何よりも純粋な輝きが彼ら夜天より二人を包んだ。
どれほど空が壊れようが、穢れようが、決して失われることのない輝きが。

ならばジョウイが抱く想いとは何か。そんなもの、今更問うことも莫迦らしい。
大好きな人たちの暮らす国の平穏、誰も彼もの笑顔。理想の世界。
そう、理想を叶えるのは、力ではなく『魔法』――――ジョウイだけの『理想』なのだ。
ジョウイは右手の親指を胸に当てる。答えは、魔法は、既に此処にあった。
この身がどれほど穢れようと、今も胸の裡で輝き続ける『理想』だけが『理想』を成す。
ならば真の理想に、力は不要。
みんなを大好きだと想い続けられる限り、それはどんな力よりも絶対たる力と化す。


「―――――ありがとう、リルカ。君に逢えて、よかった」


だから、本当の素直で、ジョウイはリルカにそう伝えた。
もしも、この島で最初にその力に出会わなければ、今もルカやオディオのような、今まで通りの力を追い求めていたのだろう。
だが、その力は、これまで見たどの力とも違う力だったのだ。
それを知れたからこそ、ルッカに手を貸すことができた。
それに迷えたからこそ、ストレイボウに感謝できた。
それに惑えたからこそ、ユーリルと向き合えた。
それを信じられたからこそ、ここまで乾かずにいられたのだ。

リルカ――――『エレニアックの魔女っ子』よ。
きみがぼくを、ここまで導いてくれたんだ。

言葉を紡ぐジョウイの姿は逆光に隠されていた。
それを見ることができたのは、既に身体の半分を失っていたリルカだけだった。
寒風が、リルカの魂の欠片と夜空の破片をさらっていく。
既に終わった身の、本当の終わりに受け取ったその一つの答えに、リルカは満面の笑顔で見送った。
「ジョウイはさ――――」
優しすぎる彼の魔法は、世界を終わらせるもしれない。死んで欲しくない人たちを殺すかもしれない。
それでも、リルカにはそれを壊すことなど出来なかった。


「やっぱり、笑ってるほうがかわいいと思うなッ!」


みんなの笑顔に輝く君の理想は、夜空に浮かぶこの月のような君の笑顔は――――こんなにも綺麗なのだから。

紅が散り、解きほぐされた魔女の魂は笑顔のまま魔剣へと還っていく。
その光を右手で掴み、ゆっくりと握り締めた。

「もう一度、僕達の約束の場所に誓う―――――――僕は、絶対に死<キミ>を忘れない」

理想を貫けようが貫けまいが、それだけは絶対に破らぬと固く誓う。
再び振り向き、月光と滝壺に顔を向けたジョウイの表情は、その誓いのように固く結ばれていた。
彼女のいない夜空がついに両断され、ジョウイの世界が終わりを迎える。
だが、そこに最早諦観も懊悩もなかった。ここより終わり、そしてまた始まるのだから。

ジョウイの左手に、仄かな熱と光が生まれる。
崩壊の音に混じって、麓から誰かが駆け上がってくる足音が聞こえる。
ああ、分かっている。君は、決して来なかった訳じゃない。
来ようとしてくれた。約束を果たそうとしてくれた。その証が、この紋章なんだろう。
ならば、それで十分だ。僕達が目指していたものが同じだったと信じられるだけで、僕はこの一歩を踏み出せる。

「いってくるよ、リオウ」

破断した世界より、かつて理想を追った少年は今一度、遥かな夜へと飛び出した。
もう二度と、この場所には戻れないと知りながら。

もう一度だけ理想をやり直――――いいや、理想を越えるために。


「書き込み率98%……あの娘め、梃子摺らせおって。だが、これで――――何ッ!?」
自分かかつて強制的に書き込もうとした少女の力を破壊し、書き込みを終わらせようとしたディエルゴが驚愕する。
ディエルゴの胸に突き刺さった紅の暴君を握り締めたまま壊れたはずのジョウイの右手が、ぶるぶると震え始めたのだ。
もうジョウイと呼べるものなどほとんど残っていないはずなのに、それでも明確に握り締めようとしている。
「深層意識野に記入し損ねたかッ! 愚にもつかぬ足掻きなど――ぬぅッ!!」
その最後の足掻きを塗り潰さんと、ディエルゴは共界線をジョウイに伸ばそうとする。
だが、強く強く輝く碧の盾が、ディエルゴの干渉を弾き飛ばす。
100の少女の命を贄として放たれた蒼き月の呪いすら弾く対呪防壁は、決して絶えぬ友との誓い。
その光の中で、ジョウイは両手で魔剣を握った。
「莫迦なッ! 何故立ち上がる。貴様の理想は絶対に叶わぬ! この嘆きを、怒りを識り、無駄と知っただろう!」
「……無駄なんかじゃ、ない」
ディエルゴの――敗者の集合の絶望。真なる理想を抱いた敗者の王はそれを否定する。
「先駆者は、捨石なれど開拓者だ。理想を追い求めたその道の続きに、本当の理想があるんだ。
 たとえ途半ばに歩みが止まったとしても、そこまでに至ったことが、無駄だなんて、誰にも言わせないッ!!」
誰かが先に進まなければ、いつまでたっても何も変わらない。
たとえそれが夢物語だとしても、夢を追うことに意味がないはずがない。
「口ではいくらでも言えるッ! いくら言葉を弄しようが、適格者でもない貴様の命運は既に決しているッ!!
 叶わぬ夢など、理想など、これ以上口にするなッ!!」
「ああ、そうだな。僕では魔剣に、お前に適格しない。その可能性は、最初から考えてたさ」
割れんばかりのディエルゴの叫びを、ジョウイは微笑で応じた。
リルカでも一時的。カエルでもロードブレイザーが活性化して限定使用ができるかどうか。
無色の憎悪<イミテーションオディオ>で紅の暴君を起動させたところで、
ジョウイが何の対価もなく適格して使用できるなどと思えるほど、楽観するはずがない。
「だから、僕の全てをくれてやる……ッ!」
“だからこそ、ジョウイはディエルゴに無色の憎悪を食わせる必要があった”。
ジョウイの両手の紋章がこれまでで最大の輝きを見せる。
輝く盾と黒き刃、2つの紋章がジョウイの手を離れ、紅の暴君へと吸い込まれていく。

27の真なる紋章。その特徴の一つとして、持ち主から容易に引き剥がせないことがある。
通常の紋章ならば封印球と呼ばれる方法で封じ込めることも出来る。
だが、世界を構成する27の真なる紋章は、そう簡単に封じ込めることはできない。
時として友や親しい人の命を喰らい、時として魂に絡みつき、時として宿主を殺し再び別の宿主へと移る。
呪いに等しいそれを封印するためには、およそ考えうる限りの神秘と邪悪が必要になるのだ。

だが、ここにある紅の暴君――――封印の剣ならば、そこに一つの光明が生まれる。

弱体化していたとはいえ、星一つの災厄を封印できたこの魔剣ならば、
真なる紋章さえもその身に封じることができるのではないかと。
無色の憎悪という、強大な概念をその身に取り込もうとする刹那ならば、紋章を引き剥がずこともできるのではないかと。

「ぐうッ! き、貴様……まさか、貴様の狙いは……ッ!!」
「ああ、そうだ。僕が紅の暴君に適格できないのなら、こうするしかないだろう……ッ!!」

だが、ジョウイの狙いは自身を蝕む紋章の運命から自分を解放するためではない。
むしろその逆――――さらなる運命に、身を投ずるためだ。
真なる紋章が輝きとなり、魔剣の刀身へと吸い込まれていく。
無色の憎悪の吸収を佳境に迎えたディエルゴには、ジョウイから混入させられた“異物”の進入を拒めない。
「馬鹿なッ! 背負うというのか、たった一人で! 何故、何故耐えられる!!」
ジョウイの狙いを理解したディエルゴは、狂気に等しい行為を行うジョウイに問わずにはいられなかった。
注がれる怒りも、悲しみも、狂気も、魂の憎悪も、これまでの比ではない。
だが、それでもジョウイの瞳は揺るぐことなく剣を見据えていた。


「今の僕には――――耐えられる『魔法』があるから! だから、平気でッ、ヘッチャラなんだッ!!」


大好きなものの為ならば、どんな苦痛も、罪も、刃も背負っていける。
それこそがジョウイの『魔法』。
見捨てられないのならば全部背負ってしまえ。
どんな絶望も、困難も、嘆きも、憎悪も、全て余さず背負い抜く。
その魔法を貫き通した果てにこそジョウイの目指す『王』がある。


「だから、なってみせる。魔王に―――――“魔法を以て王に至る者”に!!」


全てはあの夜空に揃っていた。
超えるべき魔王の座。信じるべき魔法の力。その2つはこの胸に在る。
ならば、残るはたった1つ。
始まりの紅い輝きこそが、ジョウイの掴むべき最後の剣。


「おのれ、おのれェェェェェェェッ!!」
「ディエルゴ、お前のの無念も背負ってみせる……
 だから魔剣よ、紅の暴君よ――――“貴方が僕に、適格しろ”ォォォォォォォォッ!!」


絶望の海、憎悪の闇の中、ジョウイは深く深くディエルゴと共に奈落へと沈んでいく。
その終わりの終わりの始まりに、ジョウイ=アトレイドは、始まりの魔剣を掴んだ。

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142-5:夜空を越えて -True Magic-(前編) アナスタシア 142-7:盾と刃が交わる時 -The X trigger-
ちょこ
ゴゴ
カエル
セッツァー
ピサロ
ストレイボウ
アキラ
イスラ
ジョウイ


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最終更新:2012年02月03日 19:18