【名古屋臨月主婦切り裂き殺人事件】
事件概要
名古屋市中川区富田町供米田のマンション2階202号室で臨月の妊婦守屋美津子さん(27)が何者かに腹部を切り裂かれ血だまりの中で倒れていた。両手は後ろ手に縛られ首には電気炬燵のコードが巻きつけられていた。帰宅した夫の守屋慎一さんが暗闇の中で赤ん坊の泣き声に気付き午後7時43分に通報。病院に搬送する際、救急隊員が腹部から電話とキーホルダーを取り出している。直接の死因は炬燵のコードでの絞殺による窒息死。奇跡的に子供は無事で手術や点滴、祖父の輸血で危険な状態を脱した。
捜査
事件発生を受けて愛知県警捜査一課・中川警察署は「極めて悪質・残忍な殺人事件」と断定して中川署に特別捜査本部を設置し、「変質者もしくは被害者に強い恨みを持つ者の犯行」と推測して捜査を開始した。事件当時、愛知県警管内では捜査本部設置を要する凶悪犯罪が相次いでいたため、愛知県警は捜査一課の強行班を増設していた。平成15年3月18日時効が成立した。
愛知県警特捜本部は最初、以下の事情から夫の男性に嫌疑を向けたが、被害者の死亡推定時刻である15時前後にはまだ会社で勤務していたためにアリバイが成立した
-
- 帰宅した直後、家の異変に気づきながらも妻の存在を確かめず、妻の姿を捜す前にスーツから着替えていたこと。
- 当日は「本来は施錠してあるはずのドアがすんなりと開き、部屋の電灯も点灯されていなかった」。
- 報道陣の前で男性が「妻はワインが好きだったので、ワインを注がせてください」と言いながら、グラスに赤ワインを注いで霊前に供えた行為を特捜本部は「あまりにも落ち着き払ったパフォーマンス」という先入観を抱いた。
- 帰宅した直後、家の異変に気づきながらも妻の存在を確かめず、妻の姿を捜す前にスーツから着替えていたこと。
夫の潔白が証明されてからも特捜本部は「顔見知りによる犯行」と推測して捜査を進めていたが、聞き込み捜査の結果、事件当日に現場アパート付近で有力な不審者の目撃情報が上がったことから「外部犯の犯行」とする線が強くなった。
生前の被害者妊婦に出会った最後の人物は「被害者女性の友人で愛知県海部郡蟹江町在住の30歳代女性」で、この女性は手土産のイチゴを持参して3歳の娘とともに乗用車で被害者宅を訪問し、事件当日の13時50分 - 15時ごろまで被害者宅で被害者女性と談笑していた。この時、被害者女性はこの友人女性が帰宅する際にアパートの駐車場まで見送ったが、その際には玄関を施錠していなかった。
-
- これに加え、被害者女性は友人女性に対し「自分たちの隣の部屋が空き家の状態だが、時折見知らぬ男性が出入りしているのを目撃しているので不安だ」という趣旨の話をしていた。
- また事件当日、被害者遺族の男性が電話を借りた階下の家には30歳代前後の不審な男が訪問し、前述のようにその部屋の住民に「ナカムラさんのところを知りませんか?」と尋ねていた。
さらに連日の聞き込み捜査の結果、以下のように新たな証言がもたらされた。
- 「事件当日14時30分ごろ、エンジンをアイドリングした自動車がアパート駐車場に停めてあった」
-
近隣在住の小学生男児2人(5年生・3年生)が「犯行当日16時半ごろ、事件現場付近で見知らぬ不審な男が、時折道路北側の家を窺うように俯きながらうろついていた」と証言した。その目撃証言によれば男の特徴は以下の通りだった。
- 「年齢は37歳もしくは38歳程度、身長は約175センチメートル」
- 「丈の長い黒っぽいジャンパー姿で眼鏡はかけておらず薄茶色のベレー帽のような帽子を被っていた」
- 「コートの襟を立てて顔を隠すような姿勢で俯き加減に、両手はポケットに入れて歩いていた」
- 事件発覚直前の当日19時ごろ、上記とは別の小学5年生男児が算盤塾から帰る途中で「現場マンション西側の路上で、前述の特徴と同じような人相の男が約10分ほどうろついていたのを目撃した」と証言した。
捜査迷走・未解決に
遺体の腹部に入れられた受話器・キーホルダーが「最大の謎」とされたが、特捜本部が被害者の交友関係を調べてもそれに関連するトラブルは発見できなかった。また現場に指紋などは確認されず、唯一残っていた物的証拠は「25センチの靴の足跡」だけだったが、この靴は「韓国・台湾で製造された大手靴メーカーの模造品」と判明、流通経路を調べても犯人断定には至らなかった。
被害者の財布が現場からなくなり、箪笥も荒らされていたため、愛知県警は「物取り目的の人間が侵入して鉢合わせした被害者を殺害した後、そのうちに持っていた猟奇性が偶然芽生えた」という線で強盗殺人事件として捜査を継続した。犯人は犯行後に箪笥の引き出しを物色していたが、ドアノブに血液反応は確認されなかったため「台所で血液を洗い流して逃走した可能性が高い」と推測された。特捜本部元幹部は2003年、『毎日新聞』の取材に対し「妊婦の腹を裂くなど猟奇的な点ばかりが注目されたが、証拠隠滅を周到に図っていることから『物取り目的の犯行』だろう。猟奇的な行動は殺害中、犯人の内に秘められていた『異常な顔』が現れたにすぎないはずだと推測している」と証言した。
現場周辺では不審車両の目撃証言がなかった上、近鉄戸田駅に近い立地から、捜査員は「犯人は近鉄電車で移動した可能性がある」という線をも含めて捜査範囲を東海地方のみならず近畿日本鉄道(近鉄)沿線の近畿地方(大阪府・奈良県)にまで広げ、不審者1,000人をリストアップした。特捜本部は「大阪在住・かつ名古屋で犯歴のある人物」を含め、その中でも「特に不審な30人」の事件当時の行動などを徹底して調べたものの被疑者特定には至らず、いずれも捜査線上から消えた。事件発生(男児誕生)から丸1年となった1989年(平成元年)3月時点で「犯人は盗みなどの目的で押し入り、妊婦だった被害者に対し猟奇性を剥き出しにした」と推測して捜査員延べ17,500人を投入して捜査した結果、市民から104件の情報提供を受けたが、事件解決への糸口はつかめなかった。
そんな中、1989年3月上旬には「事件現場付近在住の妊婦が自宅アパートに帰宅直後、家路を尾行してきてドアをノックした不審な男に『見せたい物があります。開けてください』などと執拗に付きまとわれた」事件が発生した。その目撃証言によれば、目撃された男は「年齢20歳代前半・身長は160cm以上 - 170cm未満・中肉で大人しい印象」というものであり、事件直後に目撃された不審者とは「身長などの体格」「妊婦への異常な執着」「住人の少ない時間帯にアパートを訪問した」などの共通点が見い出されたが、これも犯人につながる情報とはならなかった。
また事件発生丸1年を前に「被害者は事件の数日前、親類から『下着の訪問販売業者から電話で勧誘を受けた』と話していた」新事実が判明したため、特捜本部は「訪問販売を装った侵入手口も考えられる」として約40業者から事情聴取をしたが犯人特定には至らなかった。
特捜本部は事件発生から2年となった1990年(平成2年)3月までに捜査員延べ23,500人を投入して以下のように捜査を進めたが、専従員20人で捜査していたこの時点でも「『犯人の性別は男』という線さえ決め手はなく暗中模索の状態」で捜査は困難を極め、聞き込み先で市民から「まだやっているんですか?」と厳しい言葉をぶつけられるようにまでなっていた。この時点までに市民から合計133件の情報提供がなされたが、直前には月1件程度まで激減していた。
- 事件当日に現場を通った人物のうち足取りなどが不審な人物約450人、近辺の覚醒剤常習者・住所不定者など約1000人を追跡した。
- 被害者の関係者約500人への聞き込み。
- 周辺の妊婦約300人に「不審者に付きまとわれた経験はないか?」などと調査した。
- 他県警とも連絡を取り、1989年夏に東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の加害者として逮捕された宮崎勤に関しても警視庁・埼玉県警察へ問い合わせた。
事件から5年前の1983年(昭和58年)には名古屋市・近畿地方で相次いで女性が殺害され、女性器に異物が挿入されるという同一人物による猟奇連続殺人事件が発生していた。その事件のように「猟奇犯罪は1度では終わらずエスカレートしていく」、即ち「本件は快楽殺人者などシリアルキラーによる犯行であり、本件以前にも動物虐待などを起こした末にエスカレートした可能性がある」という推測も含めて捜査した。
このような捜査への取り組みも空回りし、物証が乏しかった上に現場に残されていた足跡も犯人断定の手掛かりにはならず、捜査線上には具体的な人物が挙がることなく、捜査は完全に行き詰まってしまった。
幹部の異動の度に捜査資料は引き継がれ、新たに検討が加えられてきたが、時効完成直前までに捜査本部は解散した上に専従捜査員はいなくなり、時効完成時点では捜査員2人が捜査に当たっていたのみだった。事件発生から7,8年となる1995年(平成7年)および1996年(平成8年)ごろには現場アパート前に花束が具えられたため、被害者遺族は「犯人ではないか」と色めきだったが、その主は事件と無関係の女性だった。
事件当時の捜査幹部は公訴時効成立直前の『中日新聞』2003年2月17日朝刊にて「今思えば、恨みや私情のもつれなど犯人が被害者と関係あるような事件ではなかった。捜査の範囲が広く被疑者の割り出しに至らなかったことは極めて残念だ」と無念の思いを話した。
結局、約4万人の捜査員を投入した愛知県警の捜査も空しく、被疑者逮捕には至らないまま事件発生から15年後の2003年(平成15年)3月17日24時に公訴時効が成立し未解決事件となった。中川署は「犯人の海外逃亡などによる公訴時効の中断なども視野に入れ、今後も別事件で逮捕された被疑者に対する検討など必要な捜査を進める」と表明したが、事件から31年が経過した2019年時点でも犯人は特定されていない。
被害者遺族のその後
事件後、被害者遺族の男性は男児を愛知県海部郡七宝町(現:あま市)内の実家(事件現場に最初に駆け付けた実父、即ち男児の父方の祖父宅)に預け、事件発生から1年が経過した1989年3月時点でも事件現場アパートで独り暮らしをしていたが、同年内に東京都内に転勤した。
この事件により母体から取り出されるも一命を取り留めた男児はしばらくは父親の実家で育てられたが、父方の祖父が1991年(平成3年)に胃癌で死去した。その3年後の1994年(平成6年)、男児は小学校入学に伴い父親・父方の祖母(男性の実母)と3人で母親である被害者女性の実家近くのアパートに引っ越したが、父親はしばらくして勤務先を退職し、会社を友人と共同経営するために準備を進めた。1999年(平成11年)4月、男児は小学校6年生に進級したことをきっかけに父親・祖母とともに日本を離れてアメリカ合衆国・ハワイに移住した。
町田喜美江は『新潮45』1999年10月号(新潮社)に寄稿した本事件の記事末文にて「男児は今年(1999年)春に小学6年生になったが、今なお『母親がいない本当の理由』を知らないという」と記述している。
被害者女性の実父(男児の母方の祖父)は1999年8月時点で埼玉県浦和市(現:埼玉県さいたま市浦和区)に在住しており、町田喜美江の取材に対し「病気や事故で死んだのならまだ納得もできる。娘は特別な運命を背負って生まれてきてしまったんだ」と無念の思いを語った。
女性の実父は公訴時効成立直前の2003年2月、『中日新聞』『読売新聞』取材に対し以下のように心境を話した。
- 公訴時効成立直前で被疑者が逮捕・起訴された事件(例:福田和子)もあるが、いまさら犯人が逮捕されても娘は生き返らない。
- たとえ逮捕されなくてもこのまま苦しみながら生きていくならそれでいいが、「犯人が時効後に平然と社会で生活する姿」を想像すると娘が不憫だし、公訴時効制度が憎い。
- あのような猟奇的犯行は「人間」にはできない。
- 犯人も人の子として生まれてきた以上、「この15年間は罪の意識に苦しんできたはずだ」と思いたい。
- 事件のことは忘れようとしているが、心には一生残る。
- 娘の墓・仏壇は(義理の息子・孫が移住した)ハワイにあるからここ(自宅)にはない。孫もそのうち事件のことを理解するかもしれないが、成長をゆがめないことを願いたい。
外部リンク
http://plaza.rakuten.co.jp/rwksj/
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/ringetu.htm
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage169.htm
http://www.asyura.com/0306/nihon6/msg/432.html
その他参考
http://web.archive.org/web/20020203020507/www.geocities.co.jp/PowderRoom-Rose/8244/?
http://nagikei2004.hp.infoseek.co.jp/
http://b.z-z.jp/b/yujyo5/log/8.html
http://yasai.2ch.net/net/kako/978/978987841.html
pj_links @Wiki -一柳恵子
http://www2.atwiki.jp/pj_links/pages/103.html