6-57「さくら」



世界に色なんてなかった。
今こうして見上げているソメイヨシノは、本来持ち得ているはずの淡い色彩を失い大きく美観を損ねている。
そう見えるのは私だけなのだろうけど。

セピア色の世界は見慣れた色彩となった。いや、「見慣れた」というのは大きな語弊がある。
私はまだ、この世界を受け入れられていない。
卒業から1年。キョンと別れてから二度目の春。思い返せば、私の色はあの時から薄れていったのだ。


さくらの花が散る。一片の花びらが大地へ舞い落ちていく。
記憶が舞い戻る。一枚の花弁が舞うたびに、キミを思い出す。


橘さんと落ち合う場所は、公園の入り口を予定している。
時間まで1時間の猶予が残されているが、こんなにも早く待ち合わせ場所に赴いたのには私なりの理由というものがある。
あと少しで、私の凍てついた時間が融解する。かといってこの殺風景な世界には何の未練も無い。
最後に、止まってしまったあの頃を追憶したかっただけだ。ただそれだけ。
私の足は自然と、思い出にすがるように桜並木の奥へ向かっていく。


記憶とは所詮、過ぎ去った時間の1シーンでしかない幻。時流に身を委ねるうちに、不確かで不鮮明な形となり、いずれ消えてしまうほど儚いものだ。この桜のように。
咲き誇る姿を見せては刹那に花を散らし、若葉が映えては冬に裸となる。そうして、再び新しい蕾を宿しては開花する。
決して同じ花冠を咲かすことは無い。一度竺から離れてしまった花びらを、再び咲かせることはできないのだ。
これが人の記憶との符号点。日々蓄積されていく情報に、受け皿から押しのけられ零れ落ちていく。落ちたら最後、二度と読み返すことはできない。

私にはそれが耐えられなかった。彼と共に歩んできた証が消えることを、私の心が許さなかった。
何度も読み返した。何度も見続けた。何度も掘り起こした。
そうやって常に手元へ置いていた。端まで追いやられないように、思い出が消えてしまわないように。




捨ててしまえば、どんなに楽になるだろうか。
昔日の二人を眺めて、この現実にいつも心を痛めていた。
私の隣に彼はいない、私の言葉が彼に届かない、私の想いは現実の前に霧散してしまう。
残酷な事実だけが、私の胸を無慈悲に穿ち続けている。

――忘れてしまえばいい。今からでも十分間に合うから

理性の訴えに、何度耳を傾けたことだろう。
恋愛なんて精神障害の一種、一時の感情に惑わされた気の迷い。自分自身にそう言い聞かせて、過去の虚像として割り切ろうとしていた。
けれど、結局捨てることができなかった。忘れることを心が頑なに拒んでいた。
捨てれば、私の世界は色を取り戻す。彼に縛り付けている鎖から開放される。
そのことを知りながらも、私は最後まで心に残すことを選んだのだ。

もう、私の拠り所としていた理性でさえ抑えることができないまでに成長した彼への思い。
でも……彼がいなければ、私の心が満たされることはない。

忘却することなどできない、許さない。
現実を受け入れることもできない、認めない。
そんな半端な気持ちでいたから、彼に連絡をとることもできずに月日を重ね、色付いていた世界から色彩が抜け落ちてしまったのだろう。



けど、それも今日で終わる。
だからこれは、私にとって最後の世界になるはずだ。




暖かい風が頬を撫でる。春の薫りというのだろう、あの独特ともいえる匂いが私の嗅覚を刺激した。
1年前と変わらない芳香、情景、春の靡き。登場する存在は一つだけを残して過去の景色と重なった。

ぽっかりと空いたまま、埋まることの無いたった一つの空白。どこにいても、何をしても喪失感が付き纏う日常。
気付いた時にはもう手遅れだった。無くしてしまったピースの代用など存在しないのだから。
だから、目を閉じて完成した絵を夢想する。失ってしまう前の、輝いていたあの日々を思い出す。
けど、その絵に触れることは叶わない。触れようと手を伸ばせばすり抜けていく過去からの幻に、今を生きる私が干渉できるはずがなかった。
視界を開けば、キミの姿は望んでいた景色から切り取られ、陽炎となってどこかに消えてしまう。
残る情景はセピアの写真。被写体が変わろうとも、彩りが元に戻ることはなかった。

別れてしまったあの日から、何も変わることが無かった私の世界。
散っていく桜に語りかけても、答えは返らない。
私の耳に響き、心に染み付いているキミの声、今はもう聞こえない。




突然の頬をくすぐる刺激に、私は一瞬思考が凍結した。
それはまるで、指先が僅かに触れたように微かな感触だった。
振り返る――――わかってる、彼はここにいない。後ろから差し伸ばされた彼の手は幻想なのだと。
それでも希望が突き動かす。彼がここにいるのだという淡い期待が、私の冷静な理性を伏して体の行動権利を支配していた。

首を回らした先にキョンはいない。
ただ、私の肩に一片の花びらが舞い落ちていた。
摘んで目の前に掲げた。光源を遮ることもできないほどに薄い一枚の散華。
こんな小さなカケラですら彼と勘違いしてしまうほどに、私の心は病んでいるようだ。
恋愛とは、やはり精神障害だ。理屈を凌駕してメンタルを絶え間なく変動させるこの気持ちを、病気といわずして何と言おう。
でも、私は患ってしまった。あれほど彼に恋愛の非効率さについて説いていたというのに、いざこうして直面するとあらゆる理論すらも意味を成さないのだ。

目を閉じればキミに会える。傍にいる。そんな錯覚さえ信じてしまう。
その度に、嘗ての日常から移り変わった現実を思い知らされていたというのに。
私の視覚が、記憶が、心が、何度でもキミの姿を再生し続ける。
今となっては願おうとも戻ることができない眩しかった日々が、私を置いて目の前を通り過ぎていく。
走馬灯のように駆け巡る記憶の断片に、私の心は囚われたままだ。

それも今日が最後だ。
これから私は、もう一度キミとこの時間を共用するのだから。



「――――佐々木さん」


ここ最近で聞きなれた声が、私の幻想を打ち砕く。
音源に視線を送れば、案の定橘さんが真剣な面持ちで立っていた。


「そろそろキョンさんが到着する時間です。行きましょう」


もうそんな時間なのかい?感傷に浸ってただけなのに、これほど時間が進むのを早く感じてしまうとは。
もっとも、そんなことは離れ離れとなったこの1年で痛いほど実感している。



私はこれから、偶然を装って彼に会う。そういう段取りになっている。

伝えたいことは幾らでもある。それでも私は、本心を語ることは無いだろう。
一人でいる時は何度も理性を打ち破っているというのに、彼の前では顔を覗かせることも無くなる。そんな気がするのだ。ここまでくると人格障害に近い。

少なくともまだ、私は"僕"として彼と接していくことになる。それはきっと辛い痛みとして私の心に重く圧し掛かってくるであろう。
それでも私は耐えられる。空洞ができたように中身の伴わないこの1年間と比較したら、どれほどの辛さになるというのか。
親友、それが私と彼との関係。キョンの認識においての私の立ち位置。
その場所に私がもう一度上がるだけ。それだけで私の世界は色を取り戻すはずだ。
セピアの情景は今日で終わる。時間はかかるかもしれないが、あの輝いていた時間を取り戻せるのならば苦にはならない。
その為に、私は彼に会うことを決心したのだから。



けれど――――もしこの気持ちが彼の前でも溢れ出してしまったら、私は一体どうなるのだろう?



未来への不安と期待が渦巻く心を落ち着けて、私は新しい世界に向けて歩み始めた。






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最終更新:2008年01月31日 14:38
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