「彼女を、つけてみないか」
こいつは突如として俺の前に現れ、その誘いの言葉をのたまったが、俺はどうしても乗り気になれなかった。
あの悪夢のようなエセSOS団誕生に至る日々は、ゆっくりと土に還っていく桜の花弁にも気づかないままに過ぎてゆき、日本はすっかり新緑の5月を迎えていた。
これは全ての物事がひとまず小康状態に落ち着いた、そんな時期の事だ。
この土曜は久しぶりに不思議探索が休みで、その午前はまさに神がこぼした―――カチューシャの女神に当てはめるのは嫌だが、皮肉にもまさしく文字通りの―――奇跡の時間だった。
それで本当に気が緩んでいたのだろう。
妹のフライングボディプレスをまともに受けた俺は、視界先の天井がグラグラと歪む最悪の目覚めの後、
母親からこれまた図書館へ本を返しに行って来いと言う面倒くさい司令を受け、俺はものの見事に、ていのいいパシリに仕立て上げられてしまった。
かくして、ついぞ俺の土曜の午前に平穏が訪れる事は無かったのである。
「やあ、キョン。ここで出会うとは最高のタイミングだよ」
そんな道中の事だ。下手をすれば空の蒼さにも難癖つけたくなるくらいに不機嫌な俺を
こいつは呼び止めた。こいつは俺を認めると、あたかも巡り会うべく何世紀も生まれかわった人生の伴侶をとうとう発見したかのような瞳の輝きをもって、俺に近づいてきた。こいつの目は本当に綺麗だ。
それは認めよう。
しかしだ。勘弁してくれ、まだこれ以上俺から土曜の午前の平穏を奪おうと言うのか―――佐々木よ。
「どうやら機嫌がよろしくないようだね。さしずめゆっくり寝たいと思っていた土曜の午前を妹さんに無理矢理起こされたというところだろう」
そのとおりだ。全く、起こすのに普通ボディープレスするか? わき腹にエルボー入ったんだぞ? 今でもズキズキする。
俺は機嫌任せに激しく口角泡を飛ばしたが、それを苦にもせず、佐々木はくっくっと笑いを無理に押し殺したような低い声を喉の奥で鳴らした。
「彼女もまだ、多少強引であれ何らかの形でスキンシップをとりたいと思う年頃ということなのだろうさ。許してやってくれたまえ」
そういう風に聞くと、何となく愛嬌が出てくるから恐ろしい。おお、兄よ、妹の兄たる俺よ、お前には時に心を鬼にして厳しく妹を叱る事も必要なのではないだろうか。
「無理だね。君にできるはずがない」
なぜか佐々木の言葉は自信に満ちていた。
以前にこいつが『断言する人間の言葉は信じてはいけない』という格言の孕む矛盾性をうだうだと四方山話を交えて語っていた頃を思い出して、ふとツッコミそうになったが、
思い直すとなるほど、今までの経験上、確かにどうも俺はイタズラな妹をきつく叱ったり怒鳴ったりする事ができないらしい。
喉元まで込み上げてきた言葉を引っ込めた時、雲ひとつ無い空の蒼さがやけに心地よい事に気づく。
どうやら佐々木と話すと、調子が狂う。こいつの話術なら英会話の教材だろうが怪しい壷だろうが仏壇だろうが購買意欲をそそられそうだ。気をつけよう。
「で、今日はどうしたんだよ。さっきタイミングがどうとかいってたな」
佐々木はその言葉で、まるで催眠術にかかっていて、ようやく我に返った主人公の唯一無二の友人のような顔をして街の方へ続く道を向いた。
倣って俺も見る。あれは……
「そうだ、そうだ。キョン」
「彼女を、つけてみないか」
目を凝ら―――さずとも、俺にはすぐ分かった。いや、いまいましくも分かっちまったんだ。俺の乏しい知識と記憶が、あの遠ざかる黒いうねりを材料に、一瞬で脳内情報バンクからワンパーソンを検出し、それ以上の候補を挙げようとしない。
そう、奴は佐々木の言葉を借りるなら地球外知性の人型イントルーダー、長門の言葉を借りれば天蓋領域。俺にいわせればクイーン・オブ・ディスコミュニケーション意味不明理解不能長門衆以外宇宙端末。
本人に言わせるならば、周防九曜。もしくは九曜周防。
そいつが街の方へぶらぶらと歩いていくではないか。ちなみに、佐々木は普段と変わらない私服であったが、九曜はどうも制服のままらしい。どうも、というのは俺の見える角度からでは、体のほとんどがあの凄まじいボリュームの髪で覆われていて服装がよく分からんからである。
しかしまあ、これまた歩くのが遅い。ネジが切れかかったゼンマイの人形みたいなスピードで、緩やかに繁華街へ歩いていくのをみていると、本当に時間の流れすら違うような辺ぴな場所から来たということが分かる。
しかし、どうした事だ、佐々木、アイツの後をつけるとは。
最初にも言ったが、俺はどうしても乗り気にはなれなかった。大体、俺の中にアイツへの敵がい心はいまも変わらず、黒い塊となって残っている。本来なら関わることを一番避けたい存在なのである。
「彼女を見つけたのは本当に偶然なんだ。ついさっき、そこでね。声をかけようとも思ったが、それよりも後をつけた方がいいと判断した」
佐々木の意を得ない俺は、分かったんだか分かっていないんだかハッキリしない顔で、キラリと光る二つのガラス水晶を見つめた。すると佐々木も気づいたらしく、肩をすくめながらこう言った。
「彼女とはこれからもある程度の付き合いが予想されるわけだ。観測者と観測対象として、望む望まないに関わらずにね。そうなると、彼女とのある程度のコミュニケーションが必要になってくる。
だけど、どうも上っ面の言葉でのコミュニケーションでは上手く出来ない、というより彼女が興味を示さないようでね。
それはキョン、君は身を以って分かっているだろう?」
ああ、もはや言葉が通じているのかもよく分からんレベルだな。
目の焦点も合ってはいるんだが、決して俺たちが価値を見出せそうも無い中空を凝視しているし、何に興味を持っているかは俺の関わりの範囲(不承不承、仕方なく関わってしまった程度の範囲だ)では見ていてもサッパリ分からん。
「そう。だから、こっそり彼女の後をつけて、彼女の興味あるものを調べるんだよ。私生活を覗けば、必ずそれは現れるはずだ。そもそも、宇宙人の私生活自体が中々興味深く面白い。もちろんインタレスティング、だよ」
お前の言い分は分かった。しかしだな、なぜそれに俺が関わらなくてはいけないのだ。
俺にしてみればあの集団ではお前以外は思い出のアルバムに一秒でも長く残したくない相手なんでね。
正直、興味があるものが何か分かってもそれを話題に親睦を深めようなんて微塵も思っちゃいないんだが。
「個人的には嬉しいセリフだが、そういってくれるなよ。
僕だって未知の宇宙人である彼女をたった独りで付きまとうのはいささか心細いと思っていたところだったんだ。君がいれば心強い」
それも個人的には嬉しいセリフだが、実際アイツが宇宙パワーで襲い掛かってきても役に立つとは思えんがね。
「別に危害を加えられるなんて思っちゃいないさ。メンタル的な意味だよ。独りでこそこそ後をついてまわるのと、
二人でひっそり尾行するのではどちらが気が楽かは、明白だろう」
まあそうなんだが……っておい、先行くな、俺はまだ行くとは……
「さあさ、いくら何でもこれ以上喋っていると見失ってしまう。キョン、行こうか」
神の力に関わる人間は、プロセスはどうあれ、人の言う事にあまり耳をかさないのか?
やれやれ、仕方ない。あいつ―――天蓋領域の使者様が日常的に人に害を与えていないかどうかの見張りの意味でも、ついていくとするか。おつかいの本は後で返せばいい。
かくして俺たちは、ブリキのおもちゃの如くのろのろと歩を進める九曜の後へ歩を進めていったのだった。
隣の佐々木の顔が少しニヤリと歪んでいる。
……お前、インタレスティングは建前で、実は結構エキサイティングを期待しているだろ。
勘弁してくれよ、宇宙人が急に無差別に人を襲い始めたらなんて妄想はどこかの団長様だけで十分だからな。
2時間後、ゆるゆるとむしろ不自然なほどゆっくりとした歩調で坂を下っていく
クイーン・オブ・ディスコミュニケーション意味不明理解不能長門衆以外宇宙人端末を、俺たちは何か物悲しい気持ちで眺めていた。
「……思ったんだが」
佐々木が、疲れを滲ませた顔でまるで誰に言うでもないように言った。瞳の光が俄かに霞んでいる。
「概念が違うのかも知れない。僕たちには意味を見出せない事でも、実は彼女にしては世紀の大発見だったのかも」
そうはいうがな、佐々木。
30分近くパチンコ屋前の宣伝のネオン掲示板を眺めて、また30分くらいあのハンバーガー屋のピエロの人形とにらめっこ。
そして散髪屋の前でクルクル回ってるあの変なやつを30分観察後、最後に広場の噴水を30分ほど見てるだけって、それ絶対世紀の発見にはならないだろ。
最初こそ佐々木もパチンコ依存症の危険性を語ってみたり、ハンバーガーのネズミ肉がどうとか言っていたが、後半になるとうんちくは失速し、今に至る。
この理屈屋がここまで物静かだと少し恐ろしくもある。
「……ともかく、今度会った時に尋ねてみる事にするよ」
ひょっとして、「ド●ルドから何か得られるものはあったか」なんて聞くつもりじゃないだろうな。
ともかく、俺としてはとりあえず安堵の溜め息をついても良い頃だろう。
こいつは私生活において意味不明ではあるが、地球人に迷惑はかけていないようだ。
「さて、もうそろそろお昼だ。どうしたものかね―――ん?」
どうした? 何かあったか?
「あそこは……」
佐々木が指した先は保育園だった。それこそどこにでもある何の変哲も無い保育園。問題なのはそこに九曜が入っていくって事だ。
おいおい、アイツが入ったら間違いなく不審者で通報されて警官の質問攻めにあの天蓋流話術で対応してしまうだろう。ややこしい事態は避けられねえぞ!
似たような考えに行き着いたかどうかは知れないが、俺たちは足早に保育園の門の方へ向かって行った。
しかし、飛び込んできた光景は、少なくとも俺の想像とはあまりにもかけ離れていたものだった。それは……
「あー、すおーねーちゃんまたきたー」
「くよーねえちゃーん!」
子供に大人気のくよーおねえちゃんだった。
あまりの驚きに脳の処理落ちもいいところで、こいつがここに来たのが初めてではない、と言う認識に至るまでにすら3秒ほどかかった。
どういうことだ、どうしてこんな歓迎ムード? Why? なぜ?
隣を見ると、佐々木もやはり驚いたようで、大きい眼をさらに大きく丸くしていたが、すぐさま猫のように嬉しそうに目を細めてこう言った。
「驚いた。サプライズド、というよりアメイズドだね」
九曜の呼ばれ方はまちまちだった。あの名乗りでは仕方ない。俺も周防だか九曜だか未だにわからんのだから。
しかしあいつはまた、こうしてみているとかなり上手く子供の中に溶け込んでいるように見えた。
表情こそまるで楽しげではないが、それなりに真面目にケン、ケン、パーと遊びに興じているし、
少年が物知り顔で昨日先生に教わったのであろうタンポポの正式名を教えてくれるのにもそれなりに聞き入っている。
背中にのっかかる少女がいれば、重みなど感じていないようにすっくと立ち上がり、それが少女の無邪気な笑顔を呼ぶ。
そうしているうちに、保育園の先生がシートを広げ、子供を上に座らせた。昼食にするらしい。ああ、俺のところもそうだった。保育園での土曜日の昼は外でパンを食うんだった。
九曜も手招きされ、座り、パンが配られた。ゆるやかに口元に運び、小さく口を広げ、一口かじってこう言った。
「―――――甘い―――――」
「ねーちゃん、これには『コクトー』ってやつがはいってるから、あまいんだぜ」
何となく合点がいってきた。多分こいつ、本気でネオンサインにもクルクルにも噴水にも興味津々なんだ。
俺たちにしちゃなにも意味を感じない事が、あいつは新鮮だったんだ。個人的興味で人と接しようとも対人言語処理能力では、人の相手には決してされない。
だから行き着く先が物怖じしない、子供だったって訳だ。
思えば宇宙から来て日も浅いあいつにしてみれば保育園に通う子供と同じくらいしか地球での経験値は無いんだった。
「……行こうか」
佐々木がさも満足そうに歩き始めた。
「分かっただろう、キョン、彼女は君が思うよりずっと安全みたいだよ」
ああ……っと、ちょっと待て、だからといってこれで九曜が完全に安全と判断したわけじゃないぞ。俺たちに危害を加えた事も忘れちゃいねえ。
まあ、日常的にこの宇宙人に目をギラつかせる必要はなくなったという意味では……こら、佐々木、笑うな。
だが、なんとも清々しい気持ちになっているのも事実だ。あんまり認めたくはないが。
むかつく不良が捨て猫にパンをあげてるのを見たときのような気持ちだ。
「さてキョン。もう彼女をつけるのは終わりにしようと思うのだが」
ああ、もういいだろうよ。それより腹が減って仕方が無いんだ。どこか食いにいこうぜ。
「くっくっ、まあ、昼は付き合ってくれた礼を込めて、奢らせてもらおうじゃないか」
ありがたい、久しぶりに人に何か恵んでもらえる気がするよ。俺はそう言いつつ、サイフの中を思い出していた。少し寒くなるが、まあ仕方ない。
今度の不思議探索は早く行くさ。
そうして俺たちは九曜をのこし、五月晴れの元、適当なレストランを探し始めたのだった。