翌朝、眠りから覚めた私─僕は、なかなか覚めない頭を起こしながら、リビングへ降りた。
ただ、気分はものすごく悪かった。
下の階に降りると、すでに朝食の準備がなされていた。
母はキッチンに立っていた。父は、もう仕事に出かけたみたいだ。
「いただきます」
いつものように朝食を食べる。何故か少し焦っていた。
2人の間に重苦しい沈黙が流れる。
その沈黙の中で僕は昨日の夜の出来事を思い出す。
まずい。だんだんと腹が立ってきた。母も、心なしか苛立っているように見える。
これ以上いくと、自分を見失ってしまいそうだと思ったので、朝食を残し、学校へ行くための支度へと向かう。
その時、母が言った。
「ご飯は残さず食べなさい」 できるだけ優しく言ったようだった。
僕は母に背中を向けたまま、
「ごめん。食欲がないの」
「でも、ちゃんと食べないと元気でないわよ?」
「………」
「…昨日の事で怒ってるんなら謝るわ。でもね、あんな事言う気は無かったの。『つい』カッとなっちゃたの…」
体がピクッと揺れた。
「今、『つい』って言ったの?」
ゆっくりと振り返る。
母は、しまった…という顔をしていた。その顔を見ると、怒りがこみ上げてきた。
「違うわっ!そんなつもりで言ったんじゃ─」
「馬鹿にしないで!」
それから、疾風とも言える動きで支度を済ませた僕は、急いで家を飛び出し、今に至るという訳だ。
重い脚を引きずりながら、僕は学校へ向かった。
席についていると、遅刻ギリギリの時刻で彼が登校して来た。
思わず体が強張る。
「よう、佐々木」
「おはよう、キョン」
僕の返事を聞いた彼─キョンは怪訝な顔をして僕に尋ねた。
「どうした。具合でも悪いのか?」
参ったな。僕はいつも通りにしようと努めているのに。
「どうしてだい?僕は空を漂ふ千切れ雲のように、至って普通だが」
「…そうか。いや、声の調子がいつもと違ったんでな。大丈夫ならいいか」
ふぅ、と一息つく。全く、君という奴は鈍いのか鋭いのか…。
「それにしても、俺はテスト最悪だったな。お袋には『佐々木さんを見習いなさい!』って怒られちまった。俺だって結構頑張ってるほうだと思うがね」
心の奥で何かが反応した。
「しかし、お前はすごいよなー。今回はいつものようにとは行かなかったが、あのミスが無かったらほぼ100点じゃねえか。俺もお前みたいになりたいもんだね」
待て。
「あ、ああ…」
止めろ。
「そういえば、両親は褒めてくれたりするのか? 俺がお前みたいな成績になったら俺の家は毎日が赤飯かもな。俺としては寿司の方が好きなんだがな」 と言って彼は無邪気に笑う。
別にキョンは悪くない。待って。やめて。
「そういえば、なんでおめでたいときは全部赤飯なんだろうな。家のお袋はなんか間違ってるような気がしてならないんだが…。佐々木?…俺、なんかまずい事言ったか?」
知らず知らずの内に、僕はキョンを睨みつけていたらしい。
だが、その時の僕はそんな事気にもかけなかった。いや、気付かなかった。
「おい、佐々木。やっぱりお前、どっか悪いんじゃ─」
「うるさいな!」
僕は激昂した。自分でも信じられないほどの声の大きさだった。
「佐々木…?」
「僕はそんなに凄い奴じゃない! だから僕は頑張って勉強してるんだ! 君が何を頑張ったって言うんだ! 毎日毎日文句を言いながら勉強をしているだけじゃないか! そんな事を言うくらいなら、授業をしっかり聞こうとしろ!」
「さ、佐々木─」
「黙っていてくれ! 僕にはミスが許されないんだ! 『あのミス』じゃすまされないんだ…!」
そう言い切って、僕は気付いた。
母があんな事を言ってしまった理由に。
言いたくない事まで口をついて出てきてしまう事がこんなに辛いと言う事に。
そして、自分の一番大切な人に言ってしまった事の後悔に。
面食らっているキョン以外のクラスメートの視線で、僕は串刺しにされる。
だが、そんな事は関係無い。僕が見ているのは、目の前で珍しく驚いている親友の顔だけだ。
自分のしてしまった過ちに気付いた時には、もう遅い。
たまらなくなった僕は教室を飛び出した。いや、逃げ出したんだ。
廊下を全力疾走する。そろそろ授業の時間なので廊下には誰もいない。
行く当ても無く、僕は、ただひたすらに走った。
授業の始まりを告げるチャイムを耳に残しながら。
気付くと僕は、学校を飛び出し家の近くの公園まで来ていた。
風がざわざわと木々を揺らす。
枝から伸びる葉が揺れるたびに、その下に立つ僕を木漏れ日が照らす。
公園のベンチに座って空を見上げる。
「今日は晴れだったのか…」
「そんな事も気付かないくらい、いっぱいいっぱいだったのか…?」
唐突に、キョンの声がした。
僕は、驚かない。心のどこかで彼が来てくれると分かっていたのかもしれない。
「うん。昨日の夜ね、親と喧嘩しちゃったんだ。それでね…」
その後は、言葉にならなかった。
それでも、キョンは隣でちゃんと聞いてくれていた。
話し終わった僕の背中を、優しく優しく撫ぜながら、彼は僕に微笑みかけてくれた。
心の中の何かが、ほどけていくような、溶けていくような、気持ちのいい感覚だった。
「キョン」
「なんだ?」
「さっきはすまなかった」
「いいさ。お前の言いたかった事じゃないだろう? これで少しはお袋さんの気持ちも分かっただろ?」
僕は目を見開いた。つまり、驚いた。
「それとだな、外れてたら謝る」
「なんだい?」
「多分、お前がいらいらしてた理由が分かった。 多分な、お前がしっかりしてるからだと思うぞ」
「え?」
「その、何だ。つまりだなー…ええと、お前は自分が、母親のせいじゃないのに母親に冷たく当たってるのに苛立ってたんだ。…分かりやすく言うとだな、『母親に怒ってる自分』がイライラの原因だったんだ。…分かりました?」
僕は、苦笑いするキョンをじっと見つめる。
「キョン、君は僕の事がお見通しなんだね」
そう。僕も本当は分かっていたのかもしれない。自分が許せなかったのだ。
それを気付かせてくれた親友が、キョンが、僕にはいてくれる。
「キョン」
「ん?」
「もう少しばかり、君の胸を貸してくれないか」
「ご自由にどうぞ」
「くくっ、ありがとう」
僕は、泣いた。
暖かい南風とキミの胸に抱かれながら。
「やっぱ親子って似るもんだな」
ベンチに座って二人でぼーっとしていると、唐突にキョンが言った。
「そうかい?」
「ああ、だって佐々木とお袋さん、性格がそっくりじゃないか」
「くっくっ。そんな事まで分かるのかい? 全く、キミには感心するね」
「それとだな、さっきみたいな時には『すまなかった』じゃなくて、『ごめんね』とかの方が、男はときめくぞ」
僕は素で驚いた。
「全く…。キミって奴は、どこまで本気なんだか…」
「ん? なんか言ったか?」
「何も言ってないよ。じゃあ、キョン」
そう言って僕は右手を差し出した。
キョンは、少し驚き、笑って右手を差し出す。
「仲直りの握手、だな」
「そういうことかな」
「ははっ」
夕日の映える公園。 真っ赤に染まる二人は手を繋いで立っていた。
………
……
…
この時の写真だろう。
「ありがとう」
この人は私の事を色々と気遣ってくれたクラスメートだ。
なんだかキョンに会いたくなってきたな…、と苦笑い。
ガチャ
「ただいまー」
母が帰ってきたみたいだ。
…あ、そうだ。
部屋を出て、階段を駆け下りる。
「おかえり」
買い物袋を提げた母に言った。
「ただいま」
母は、微笑んで言った。
「お母さん」
「何?」
「ありがとう」
「え?」
「気にしなくていいよ」
「ふふ、変な子ね~」
母は苦笑しながらそう言った。
「そういえば、あなたに手紙が来てたわよ」
「本当? 誰から?」
「×××さんからよ。中学の時のクラスメートの人じゃない?」
「えっ?」
これは、何かの偶然だろうか?
「それ、ちょっと貸して」
「はいどうぞ。じゃあお母さんリビングのほう行ってるわね」
「はーい」
急いで封を切る。中には、一枚の手紙と写真が入っていた。
まず、手紙を開く。
────────────
『 -佐々木ちゃんへ-
久しぶり! 覚えてるかなぁ?
あのね、写真整理してたら、コレ、見つけたんだ!
前にキョンくんと握手してる写真送ったでしょ?
あれと一緒に送ろうとしてたんだけど忘れてたみたい♪笑゛
きゃーっ、てカンジ? こんなのまで撮っちゃってゴメンねッ!
誰にも見せてないから大丈夫☆
それじゃ、また会えたらいいね~♪
体には気をつけてね! 私? 私は大丈夫! ピンピンしてるよッ!
-×××より♪-
────────────
「ははは…」
少し泣きそうになるのを堪える。
「なんの写真だろう…」
丁寧にハートのシールをはがす。
中から出てきたのは─
「ッ!? これは…」
強い風にちぎれて、華麗に舞う緑の葉と真っ赤な夕日の中で、口付けを交わす私とキョンだった。
こんな写真も撮られていたのか…。
「ありがとうね」
もう一度、呟く。
「よし」
廊下を小走りに、リビングへ向かう。
自分の携帯電話を取り、「あら。さっきの写真は何だったの?」 という母に、「何でもない」 と曖昧な返事を返し、アドレス帳から電話番号を探す。
3回ほどのコールの後、
「もしもし」
「もしもし、僕だけど」 これだけで分かるはずだ。
「佐々木か。何だ?」
「明日、2人でどこかへ出かけないか?」
「…ああ、いいぜ。先週はSOS団の活動で行けなかったからな」
「そうか、ありがとう。お礼と言っては何だが、面白い物を持っていくよ。楽しみに待っていてくれたまえ」
「それは楽しみだな」
「くっくっ…。じゃあ10時にいつもの場所に集合だ」
「分かった。10時にいつもの場所だな。それじゃ」
「あ、キョン」
「ん?」
「ありがとう」
「え? 俺、なんかしたか?」
「いいや、なんでもないよ」
「変な奴だな」
「くっくっ…それじゃあね」
「ああ、じゃあな。楽しみにしてるぜ」
電話は切れた。
世の中、不思議な事はあるものだなあと感心しつつ─自分の周りは不思議だらけだが、それとはまた別の感動だ─窓を見る。
そこには、あの日と同じ、真っ赤な真っ赤な夕日が差し込んでいた。
明日が楽しみだよ。
『想ひ出のアルバム』