過ぎたるはなお及ばざるがごとし。
自分が頑張りすぎてしまった事に僕が気づいた時、広がったはずの選択肢の中に
君の姿は見えなくなってしまっていたんだ。
全てを捨てるという選択肢もあったし、そこまでしなくても掛けられた期待を裏
切るだけでもよかったんだろうね。
「……海って広いよな」
水平線の先に何かを探すような目で君は言った。
そうだね。
季節外れの海岸には誰の姿もなく、吹き付ける風の寒さに僕と彼が無意味に震え
ているだけ。
押し寄せる波の音は夏と変わらないはずなのに、今はとても厳しく激しい音に聞
こえる気がする。
まるで、これから訪れる冬と――その先に待つ不安を現しているみたいに。
「佐々木」
僕の名を呼んで、君は僕が何かを言いだすのを待っている。
いつもの穏やかな顔に、少しの不安を加えて。
勢いでこんな所まで連れて来てしまったけど……僕は、君に何を言えばいいんだ
ろう?
今まで楽しかったね?
また会おうね?
それとも、さよなら?
言えない……いや、言いたくない。
浮かんでくる言葉のどれもが、僕と君とは友達でしかないんだよと言っている気
がして、辛かった。
じっと黙っている僕を不思議そうに見ながら、君は
「……海って広いよな」
……っぷ! な、何で二回言うのさ?
思わず噴出してしまったじゃないか!
「いや……だって広いから」
困ったように答える君はいつも通りで、僕の思いはいつも通り過ぎて……。
きっと、君にこの思いが伝わる事はないんだろう。
――僕と君は友達だ。
何でも言いあえて、お互いの事で知らない事はないくらい。
なのに、僕は君を知らない。
君の気持ちを、僕は知らない。
もう……君には雰囲気という概念から説明する必要がある。
笑いが収まり、ようやく落ち着いた頃。
「なあ、佐々木」
先に言っておくよ、海は広い。で、今度はなんだい?
「推薦、おめでとう」
君は穏やかな顔でそう口にした。
……知ってたのか。
「ああ。一緒に塾に通ってるんだから、お前が持っていってくれって講師がお前宛
の通知をくれたんだ」
なるほど。
どうりでポストに入ってた封書に消印が無かったんだね。
「あの先生よっぽど嬉しかったみたいだぞ。あの高校の推薦を取れたのは、塾の中
でもお前だけだったって自分の事みたいに言ってた」
全然嬉しくない!
そんなの、そんなの全然!
「え」
戸惑う君の顔を見て、自分が馬鹿なことを言っているのだとようやく気づいた。
あ、いや。……ごめん、進学校に行ってまた勉強漬けになるのが嫌でさ。
心にも無い言葉で誤魔化す僕に、
「そうか……ま、そうかもな」
それが心にも無い言葉と気づきながら、君は同意してくれた。
――僕と君が一緒に塾に通うようになって、君の学力は確かに上がった。
塾に行くように言った君の両親も喜んでいたし、僕も及ばずながら力になれたと
思うと嬉しい。
ただ、僕は頑張りすぎてしまった。
君に教えられるように、君に頼られるようにと勝手に自分を追い込んで……もう
戻れない結果を出してしまったんだ。
君が行くはずの北高校には、僕は行けない。
親や周りの期待を無視する事は僕にはできな――いや、本当は違う。
もっと単純な事なんだ。
「……雨が降りそうだな。そろそろ帰るか」
うん、そうだね。
帰りたくない。本当は、このままここに居たいと思っている。
「また来ようぜ? 今度は……そうだな、もっと暖かい時に」
うん、楽しみにしてるよ。
それは無理だと思う。中学時代の友達というだけで、僕は君と連絡を取り続けら
れる程強くないんだ。考えたくは無いけど、君は……僕を忘れてしまうだろう。
同意はしても、一向に歩き出そうとしない僕の手を君の手が握った。
「手袋でも持ってくればよかったな」
そう言って、君は僕の手ごと自分の手を上着のポケットに入れる。
申し訳ないが、彼の手は僕よりももっと冷たくて、ポケットの中は十分に冷え切
っていたよ。
おかしいね。
冷たいと感じていながら、僕はそのポケットの中にずっと手を入れていたかった
んだから。
灰色だった空に黒い色が混じり始めた頃、海岸沿いの道を僕等はのんびりと歩い
ていた。
やがて小さな雨が遠慮がちに降り始めても、その歩みはゆっくりなまま。
君はじっと前を見ていて……僕はそんな君をずっと見つめていた。
だけど雨の前には気持ちなんて物は無意味すぎて、アスファルトの色が黒く変わ
った頃になって僕は仕方なく切り出してみた。
……このままでは風邪を引いてしまうかもしれないね。
「そうだな」
向こうに建物が見える。走るかい?
僕がそう尋ねると、君は何故か寂しそうな顔をしてから
「そうするか」
遠慮がちに頷いた。
「通り雨……だといいんだけどな」
道沿いにあった廃屋と呼んだ方が相応しい倉庫の残骸でも、今の僕らを雨から守
るには十分だった。
君はじっと暗い空を見上げていて、僕は君が見ている物が知りたくて同じように
空を見上げた。
僕と君が見ている空は同じ。
でも、目に映っているものはきっと違う。
いつからか、その違和感に僕は気づいていた。
君の傍に居ること、それは僕にとって空気を吸うのと同じくらいに当たり前で、
それができなければ生きている事すらできなかったと思う。
でも、僕はそれ以上を望んでしまった。
君にも、僕と同じ気持ちであって欲しいって……自分でもびっくりだよ。
僕の手を握るのも、休日に二人で出かけるのも、君にとっては友達に対する行為
でしかない。
そんな君の態度に好意を抱いた僕が、何故それ以上を望めるんだろう?
空を見つめる君の顔を見ているとやがて、君の口から――もう消えてしまいそう
なくらい小さな声で――聞き覚えの無いメロディーがこぼれだした。
途切れ途切れのその歌は、雨の音に掻き消されながら頼りなく流れていく。
僕はただ静かに君の歌を聴いていた。
君とこれまで話してきた事や、僕達が一緒に過ごした思い出は、ラジオで聞いた
誰かの悲劇みたいにいずれ忘れてしまうのだろうね。
でも、この歌だけは覚えておこう。
いったい何の為に歌ってくれたのかわからない、この歌を。
――悪魔の証明。
存在しない理由を証明できなければ、それは存在する可能性を証明している。
それは自己満足でしかない、ただの都合のいい解釈。
けれど――弱い僕にはそれでいい。
「……雨、止んだな」
そうだね。
僅かに明るくなってきた曇り空が、僕の胸に黒い影を落とす。
雨は静かに上がり、君の歌は途切れた。
――俺とお前は友達だ。
何でも言いあえて、お互いの事で知らない事はないくらい。
なのに、俺はお前を知らない。
お前の気持ちを、俺は知らない。
「夕立」 ~終わり~
最終更新:2009年03月14日 23:07