(参ったな……)
少女は顔をしかめて突然機嫌の悪くなった空を見上げた。
つい先程まで傘の用意をする必要など全く感じられないほどの――傘の話をすること自体、何かの罪になるような完璧な青空だったのだ。
しかしその青空は、老獪な手品師に見せられていた、ただの巧妙な仕掛けとでもいうように綺麗さっぱり消えていた。鳩の代わりに手品師が取り出したのは、不気味なほどに黒い雲だ。
ぽつぽつと落ちはじめた大粒の水滴と下界を圧するような巨大な黒雲は、これからの雷雨の激しさを予感させた。
雲と地面が仲良く手を繋ぐ直前、とっさに目についた個人商店の軒先に緊急避難できた。
ツイていたと喜んだのも、鞄をあけて折り畳み傘を忘れたことに気づくまでの短い間のことだった。
女心と秋の空というが、夏の空も相当に変わりやすい。
少女はそのことを十分に心得ていて、これまでどんなに快晴であっても折り畳み傘の用意はしてきたのに、今日に限って何故か忘れてしまったのだ。
(最近、不注意が続いてる)
少女は自嘲の笑みを洩らす。
ここ最近――具体的にいうと、ここ数ヶ月の話だ。少し忘れ物が多くなっているし、ふとした拍子に考え事をする機会が増えた感じがする。なにより勉学に身が入らない。
数ヶ月前に自分の身に起こった、少々風変わりな事件に関係があるのだろうか……。
思案に暮れる少女をよそに、案の定というべきか、雨は地面に穴が空くのではないかと心配してしまうような猛烈な勢いに変わった。
近くにコンビニはない。
(ここで雨宿り、か)
少女はそっとため息をつく。
塾の帰りなのは不幸中の幸いだった。行く途中だったら目も当てられない。
しばらく待てば、さすがにこの勢いは衰えるだろう。うまくいけば降り止むかもしれない。
三十分ほど待ってみようか……。
そう決めて、鞄から教科書か読みさしの本を取り出そうとした、そのときだった。
(――?)
強さを増す雨に触発されたように、頭の片隅に違和感が生じた。いつだったか、似たような状況に遭遇したことがあるのではないだろうか?
違和感はすぐに解消された。
(同じ場所だ)
<彼>と雨宿りをした場所。時期は、九月の中ごろだったはずだ。
自転車に乗って塾へ行く最中に、今のようなスコールに見舞われてしまったのだ。
二人とも濡れ鼠のようになって、ここでしばらく雨宿りをした。
あの日の情景が記憶のプールから浮かび上がり、少女の唇が微笑の形になる。
『あまりこっちを見ないでくれるか』
ずぶ濡れになった少女に目をやる<彼>に対し、少女はそう言ったのだった。
<彼>が狼狽して慌ててそっぽを向いたのを少女は鮮明に覚えている。今から考えれば、それまで<彼>が示したことのないような種類の慌てぶりだったように感じる。
どういうわけか、その推量は少女の琴線に触れたようだった。
くっくっという、押し殺したような、彼女独特の笑い声を洩らしかけたそのとき――唐突に少女の唇が微笑の形を取るのを止めた。
こんな思いが少女の胸元に湧き上がったのだ。
あの時、もし自分が何も言わなかったら、<彼>はどのくらい自分を見ていたのだろうか――と。
少女はつま先で足元に広がる水たまりをつつく。波紋が広がるにつれ、水たまりに映る少女の姿が歪んでいく。
言わないことで、何かが変わったのだろうか。
もちろん、何も変わらなかっただろう。そんなことで何かが変わると思うのは傲慢と言うべきだ、と少女は思う。
傲慢で馬鹿げていて愚かなだけでなく、無益かつ有害な大脳作用であって、今すぐ止めるべきだった。
しかし、ふだんは理知的な少女も、人間である以上、無益な思考をせざるを得ない時があり、それが今だった。
それから――
と、少女は想う。
あの日のことを<彼>は覚えているだろうか。今の自分のように、何かの拍子にふと思い出したりするのだろうか。
(きっと……)
出したくない答えを、少女は出していた。
口の中に苦味を覚えていた。
雨は何かの記録に挑戦しているように猛烈に降っている。
少女は何かを振り払うように、頭を振った。
改めて鞄を開けようとしてふと手を止め、訝しげな表情を浮かべて左の方向に視線を向けた。
少女に馴染みのある声が雨音に混じって聞こえたような気がしたのだ。
いや、気のせいではなかった。
二メートルほど前を、男女が歩道にできた極大の水たまりを蹴散らしながら走っていく。
「おい! 待てよ! どこかで雨宿りしようって! 雨宿りしたって別に負けじゃねーんだから!」
「馬っ鹿ねー! こんなに濡れてから雨宿りして何の意味があるのよ! 早く着替えができる場所まで行ったほうが効率的じゃない! ほら、あんたの家まで競争よ!」
「俺の家かよ……、ここからは結構遠いぞ、聞いてるのか? それにお前の着替えなんかあるわけ……クソッ。もうどうにでもなれだ」
雨音があちこちで風変わりな現代音楽を奏でている中でも、二人の声は不思議なほどよく響いた。
身を隠すという選択肢もあったが、もちろんそんな必要はなかった。
少女には、二人が決して自分に気がつくことはないと分かっていた。
豪雨で視界が悪いという理由だけではなく――。
少女の目は急速に遠ざかっていく二人の姿を追っていく。雨の妨害であっという間に見えなくなってからも、視線を外さなかった。
しばらくすると、少女は顔を伏せ、雨水が渦を巻いて排水溝に吸い込まれていく様を見つめはじめた。
時間が息を潜めて少女の前をゆっくりと通り過ぎていった。あまりに緩慢なために、それが吐くかすかなため息や、忍び足で行く足音が聞こえるような気すらした。
雨のせいはあるにしても、不思議なほど通りを行く者はおらず、世界はまるで少女と雨だけで構成されているかのようだった。
少女は雨音に耳を澄ませた。アスファルトや屋根に叩きつけられて生まれる、機関銃のような激しい雨音が少女の内に沈殿する静寂の存在を際立たせる。
それから目の前に広がる灰色の世界に目を向ける。
濁った灰色のカーテン。
天から落ちてくる無数の銃弾。
時には快く、時には不快な夏の匂い。
こうしていると、一呼吸ごとに自分という存在が薄くなり、雨が支配するこの世界と混じり合っていくようだ。
――ひょっとすると、それはとても快適なことなのかもしれない。
(感傷に過ぎる)
少女は自分に似合わない思考をしていることに苦笑して、首を振った。
まったく今日はツイてない日だ。
かえって爽快なくらいに。
バケツを引っくり返したような雨は、まるでこの街を水浸しにするまで降り止むまいと決心したかのように、いっこうに衰えを見せない。
(おや――?)
少女は首をかしげる。
昔見た映画にこんな場面があったような気がしたのだ。今日は何かと過去のことを思い出す日だった。あるいは雨は昔の記憶を呼び起こす効果があるのかもしれない。
少女は目をつむり、記憶の糸をたぐり寄せた。
今度もすぐに分かった。古いミュージカル映画。
糸の先は映画で使われていた、ある歌に結びついていた。
自分でも思いがけず、少女は口ずさむ。
「I'm singin' in the rain ……」
口ずさみながら、ゆっくりと雨の中に歩を進める。
「Just singin' in the rain ……」
まるで待ち構えていたような雨の歓待を受けて、少女の細い身体はすぐにずぶ濡れになった。
黒髪から滴り落ちる雨はやや長めの睫毛を濡らし、何の抵抗もなく鼻梁を通り過ぎると、まだ口紅を知らない唇に軽く挨拶をして、喉元をくすぐる。
服はたちまち肌に貼りついて、肌の色を透かしてみせる。
しかし、そんなことは一切気にせずに、少女は雨の中を歩き続け、歌い続けた。
嵐はそのまま吹かせよう
みんなはあわてて逃げている
けれど雨が降っても
僕は笑顔を浮かべている
道をずっと歩きながら
口から出るのは楽しいメロディ
僕はただ雨の中で唄っているだけさ
少女の歌声は雨音にかき消され――
その華奢な姿も、まるで溶けるように雨の中に消えていった。
僕は雨の中で唄ったり、踊ったりしてるのさ
僕は雨の中で踊ったり、唄ったりしてるのさ……