『ねえ、キョン』
言いかけ、足りなくなってしまった風景に気付く。
視線の先に彼は居ない。この四月から、また、彼が居ない風景が当たり前になっていた。
たった一年足らずの関係に慣れきって、ふとした瞬間、ついつい反応が遅れてしまう自分が嫌だった。
ばかみたいだ。
男性を遠ざける為に演じていたはずの難解な「僕」。演じていたはずの口調と思考。
誕生の経緯上、本来は「誰かに話しかけられたとき」に演じて、応対する為に生まれたはずの思考が、今、能動的に僕を支配していた。
ふとした瞬間に生まれた発想を、彼と共有したいと思ってしまっていた。
無意識に、彼に語りかけようとしていたんだ。
ほんと、ばかみたいだと思う。
男性に語りかけられた時、「僕」として迂遠に難解に受け答える。
すると相手は「変な女」として以後遠ざかってくれる。
それが本義のはずだった。
なのに何だ。
いつの間にか僕はキョンに「語りかける」ようになっていた。
今にして思えば、彼から語りかけてきたケースの方が少ないのではないだろうか。きっと、数えるほどしかないくらい。
応対のはずの演技が、いつの間にか私の自然体になっていたんだ。
だから、また、僕の視線は中空を彷徨う。
ばかみたいだと解ってるのに。
なんでこんなに慣れきってしまったのだろう。
何か、そう、何かフィクションのような事件があったのだったか?
いや、そんなものはなかった。けど、敢えて言うなら彼とは会話が通じたから。
ただ、会話が出来た。だから会話して、日常を繰り返しているうちに、気付いたら「僕」は変質してしまっていたんだ。
一人、机に頬杖をついて考える。
あの忘れえぬ雨の日、「演技」が台無しになっていた事に、彼に女と見られたがっていた自分に気付いた、自分勝手な私の事を。
そのくせ、こうして独りになってみて、やっぱり「僕」が台無しになっていた事に気付いた。
すっかり「僕」を楽しんでいたことにようやく気付いた、間抜けな私に気付いた。
代わりなんて居ないのに。
代わり?
なんて不誠実な考え方だろう。
代用品を求めるだなんて、彼を含むあらゆる他人に不誠実な考え方だ。
それにキョンはキョンであって他の誰でもない。だから、彼の特性を他人に求めるなんて無意味なんだ。
それにキョンを振り切ったのは僕だ。彼に惹かれそうになった「私」を振り切ろうと、彼に好意を振舞うまいと決めたのは僕だ。
彼に寄りかかりそうな自分を戒めたのは「僕」が大切だったからだ。
僕である事が必要だと思ったからだ。
だってそうだろ?
僕は「僕」として彼との関係を築いた。なのに今更「私」として彼に好意を求めるだなんて不誠実じゃないか。
そんなの虫がよすぎるだろう? 違うかい?
だから僕は彼を振り切った。
そして僕は、僕の意志で彼を振り切ったのだから、彼や彼の代役を求めるなんてあまりにも不誠実だ………………!
…………………………………
………………
『ねえ、キョン』
また視線が誰かさんを探した。
もう、いま抱いている気持ちが幸せに根差すものである事くらいは理解している。だから寂しい、ということくらいは理解している。
やっぱり僕はありきたりな人間なんだなって嫌ってほど思い知らされたよ。
変人ぶっても、やっぱりこれが限度なのかな。
価値観が変わると世界は変わる。
キミがいない日常の方が当たり前だったはずなのに、今、僕は寂しさを感じているんだ。
いつか同じ気持ちを誰かに抱くことはあるのだろうか。
代わりじゃない、けれど同質の気持ちを、異質な誰かに抱くことがあるのだろうか。それが成就する事があるのだろうか………。
でも僕は僕でありたい。ならそんな気持ちはやっぱり成就しないのかな。
また思考がループに陥る……………
………………
……
『佐々木さん!』
なんだかんだで一年過ぎ、僕の心は不意打ちを受けた。
こんな難解な僕に対してさえ、好意を打ち出す人が出てきてしまった。「僕」が無意味だった事を知らされたんだ。
あんな苦労してまで「僕」であり続けた私は、もしかしてバカだったのかな。
あんなに苦労した事が、全部無意味だったように思えて。
僕の心は散り散りになった。
『やあ、キョン』
けど視線が彼を見つけてしまった。
それからの事は語るべきことが多すぎる。
多すぎるから語るまい。
ただ一つだけ言えることは、僕の理性は、僕の本能を凌駕できた。僕の理性は本能に根差す精神病を抑えきった。
あの雨の日のように、また都合良く「女」になろうとしてしまった自分を抑えきった。
キョンの前で、僕は僕であり続けた。あり続けて見せた。
他人を遠ざけるという意味では、「僕」という演技は無力だったと思い知った。
けれど、やっぱり「僕」は有効なんだ。
それを彼が教えてくれた。
他人がどうこうって事には確かに無意味だった。
けれどね、僕が自分を律する為には、やはり「僕」は有効なのさ。僕が僕である限り、僕の理性は稼動し続ける。
僕で居る限り、僕は理性を持っていられる。僕は「佐々木」で居られるんだ。
僕は「僕」を捨てたくない。
彼を振り切ってまで守った思考規範だから。その決意を無駄にしたくない。
誰かに寄り添って、自分の重荷を、私の心を誰かに預けよう、なんて、やっぱり今の「僕」には出来ない。してはいけないんだ。
そんなんじゃ、あの雨の日の決意が無駄になるのだから。
『じゃあな親友! また同窓会で会おうぜ!』
けれど「僕」のままであったって、関係を変える事は出来るんだって。変えて行くことができるんだって。
最後の最後で、僕の虫のいい考え方を彼が肯定してくれた。
だから僕は一つの挑戦を考えたんだ…………
………………
…………
「ねえ、キョン」
「なんだ」
なんとなく呼ぶと返事があった。
そりゃそうだ。だって傍らにいるのだもの。
「くく、すまないね。実はなんという事でもないんだ」
「お前って昔からそんなとこがあるよな」
「そうかい?」
呆れた声に返事を返す。
返事を、返せる。
同窓会でもなんでもない。
特別じゃない、なんでもない日に一緒に居られる。
「くっくっく、強いて言うなら、ただキミの名前を呼びたかったからかな?」
「なら本名を呼べ本名を」
「ふふ、断る」
「お前な」
だってキミはキョンだもの。僕にとって、キミはどこまでいってもキョンなんだ。
僕が僕であるようにね。
キミはキョンで、僕は僕。その前提だけあればいい。
その上でもう一つ大事な事がある。
やっぱりキミに代用はない。あらゆる意味でキミは僕を構成する要素なんだ。
キミは鍵。だから、僕にハマっていて欲しいのさ。
一番傍にいて欲しいのさ。
この関係をどう呼ぶかなんて知ったことじゃない。
ただ一番大事なのは、僕の一番傍がキミで、キミの一番傍が僕だって事さ。これだけは譲れないね。譲れないって解ったから。
僕は自分の意思で遠くに行った。だからこそ結論できるんだ。
そうさ、僕には結論をする権利がある。
やっぱり、キミの傍がいい。
いつかキミを振り切ったように、僕は自分の望みのためならどんな困難にだって挑んでみせる。
いつかキミと過ごしたように、僕の理性は本能を押さえ込んだ。押さえ込めたから、涼宮さんたちの物語の終わりまで待てた。
鍵も力も関係なくなるその日まで、僕は理性を以って待つことが出来た。
僕は頑固だ。だから失って、だから大事だと解って、だから挑戦できた。
その全てがあるから今の喜びがある。
全てがあるから結論できる。
なんでもない日常の中でキミに変えられたから、逆に変える事だって出来たのさ。
なんでもない日常の中でキミに惹かれたから、だから、なんでもない日常の中にキミがいて欲しいのさ。
「ねえ、キョン」
「なんだ」
ただ、それだけのお話なんだ。
僕がほんの少しだけ自分に正直になった、そんな日々の物語。
)終わり
最終更新:2012年09月02日 00:54