「夕日」

1 お,おい,何もそんなに急ぐことはないだろう。
このあたりはそんなに見るところもないんだからさ,のんびり行こうぜ。

全く君は・・・。何事にも時機というものがあるんだよ。
陽が完全に落ちてしまうまでにどうしてもあのベンチのところまでに行かなければならないよ。

前から早足で歩く方だったかもしれないが,佐々木がこうも跳ね回るように行動するのは意外だった。
せっかくの新婚旅行ではあったが,俺は無理やり終わりにした仕事の疲れややり残しがないかという心配やらが心をよぎることは否定できなった。
こんなものなのかね,新婚旅行ってやつは。

「・・・。いいかい,そういうわけで,この辺りに来たらここからの夕陽を見逃す手はないんだよ。」
彼女は,見晴らしの良いベンチに腰をかけて夕陽が沈むのを見たいのだそうだ。
場所やら由来やら,それなりにいろいろあるらしい。彼女によると。
だが,俺は上の空で聴いていた。
見知らぬ土地で見る佐々木の印象が強く,つい彼女の表情に見入ってしまう。それで馬耳東風よろしく聴覚はお留守になってしまうのだ。

「キョン。君は一体僕の話を聴いているのかい」
「ああ。聴いているさ。しかし,まあ,なんだ。その,なんだ。あれだ。今日はなぜかな。うーん。お前がな・・・」
「僕が一体どうしたっていうんだい。気になるじゃないか。その言い方は」
「いや,なんつーかな。まあ,気にするな」
「気になるさ。早く言いたまえよ。何なら無理やりにでも・・・」
佐々木がなにやら手を俺の顔に伸ばしてきてほっぺたをつまんで引っ張ったりしている。
俺も反撃に転じようという気持ちが起きたが,さすがにいい年をして周りが気になる。
佐々木は全体的にセーフだろう。俺は全体的にアウトだ。
「分かった,分かった。言うから。何だかな,とてもきれいだと思ったんだよ。」
嘘ではない。佐々木よ,お前は元気だなと思ったが,それよりもこういった方がいいような気がしたのだ。
とたんに,佐々木の頬が夕陽のように真っ赤になり,俯いた。
「・・・いつもだよ・・・」
「うん?」
沈み行く夕陽を背にしながら佐々木は顔を上げた。ああ,この表情だ。
「僕はこれまでだってずっと,いつも君の事を思って,君のために・・・」


2 ・・・あのときも,俺は疲れていたんだな。
俺はひとりごちた。
忙しい作業がひと段落すると,思考は勝手に記憶の彼方をさまよう。
それにしても,忙しい。最近俺は良くやっていると言っていい。至らぬ点も多いのだが。
「キョン。・・・大丈夫なのかい。疲れてはいないかい」
佐々木がふと気付いたように俺を見上げて言った。
「うん?だいじょうぶだ。佐々木。何も心配するな」
俺は佐々木にできる限りのやさしさを込めるようにして言った。
「そうかい。なら良かった。それにしても君は何かを思い出していたのではないかい?君の表情からすると君は幸せな記憶を想起してように思えるが」
佐々木は俺に微笑み返した。
佐々木が俺の思考を当てることなど日常的なことだ。
「ああ。ちょっとね。お前のことを考えていたんだ。」
「僕のことかい。それはうれしいね。良かったら概要を聴かせてくれないかい」
「ああ。二人で旅行に行ったときのことだ。お前は本当に元気ではしゃいでいたよなあ」
佐々木が即座に記憶の中から俺の意図したものを引き出した。
そしてその記憶は佐々木の心をふと軽くしたようだ。
「くっくっ。そりゃそうさ。君にはいろいろ本当に待たされたからねえ。僕が多少我を忘れていたとしても何も不思議ではないよ」

「ん。そうか。」
たしかに,俺がもっと早く彼女との生活を決断することもありえたはずだ。
しかし,俺にはその前にしなければならないことがあると思っていた。佐々木をしっかりと支えることができるようにならなければ。それだけは譲りたくなかったのだ。
「そうだなあ。待たせて悪かったなあ」
俺はそう言いながら佐々木の頭をなでた。
白髪が目立つようになった。それでも変わらず可愛らしく品がある,というのは俺の欲目がそう見せるのか。
「いいさ。少なくとも無駄に待つことはなかったからね。君はその分僕に優しくしてくれていただろう。これからも。」
「ああ,これからも。」
俺は佐々木の頭をなでつづけた。
佐々木は,急に歌を口ずさみ始めた。
”I don't wanna wait in vain for your love.I don't wanna wait in vain for your love."
佐々木,お前。
すると,佐々木は一瞬冗談さ,といういたずらっぽい表情を浮かべた後,そのまま俺を見つめたままあのときの表情を浮かべた。それからゆっくりと目を閉じた。
「・・・おやすみ。佐々木」


3 佐々木は,ほとんど自力では歩けなくなってしまった。
食事も,独力でとることができない。
それにしても,俺が会社員ではなく,自営業のような仕事に就いたのは良かったな。
最低限,佐々木に必要なときには側にいてやれているのではないかと思っている。
側にいてやれる・・・か。
何を偉そうに言ってやがる。佐々木だって俺がもっとしっかりしていれば不満やら不安やらを思うままにぶちまけたいだろう。
佐々木が極力痛みやら不安やらをぶつけないようにしているのは,俺に対する気遣いからじゃないか。
佐々木の体力は季節が移り変わるように確実に落ちていき,俺が介助を必要とする作業が増え,介助時間も増えていった。

おい。佐々木。できたぞ。
いつもの食事の時間だから,佐々木は気づいているだろう。俺は食事を運ぶ。そして,佐々木の上体を起こして,少しずつ食べるものを佐々木の口へと運ぶ。以前は,佐々木はほとんど全量を食べていた。最近は食べ残しも多い。
佐々木が食べられないことに気づかずに,食べ物をこぼしてしまうこともしばしばある。
食事が終わると,佐々木の口の周りを拭き,俺は後片づけを手早く済ませる。
そして,佐々木のところに戻るのだが,佐々木は食事の後は俺と話しをしたいようで,俺が戻るのを待っているようなのだ。
だから,片付けは急いで済ませないといけない。
「気分はどうだ。佐々木。」
「・・・・。うん。・・・悪くない」
話す量からすればまるで長門だな。
佐々木はやっとのことでそんな言葉を絞り出したが,表情はわずかにほほえんでいるようにも見える。
「そうか。それはそうと。どうでもいいことだが。世界の景気は一層後退しているようだぞ。ドルが円に対してまた大きく下げている。
 日本の産業とてどうなるものやら。というか俺たちはこの資本主義という茶番をいつまで続けなければならないものなのかね。無論,これまで試された他の主義だってとても採用することが相当とはいえんだろうがなあ。なあ。」
佐々木とそんな話しもしたことがあったな。

佐々木は,こんなことにもいつも目を配っていたな。しかし,佐々木はある立場に反対したり又はそれを擁護したりということについては興味や関心がないのだ。執着がないというか。どうでもいいというか。俺もそんな佐々木の考え方には影響を受けていた。それにしても,こいつが本当に興味があることって言うのは・・・ないのかもしれないな。あるのかもしれないが。しかし,ないということはそれはそれで幸せなことじゃないか。
佐々木の反応が今ひとつのようなので,話題を変える。
「なあ。まだ8月だが,最近は天気が悪いせいか,少しは涼しい日もあるようになった。それでだ。お前の体調が悪くなければ,たまには外に出てみないか。」
「・・・うん。」
「そうか。」
とはいえ,佐々木を屋外に出すことは大変なのだ。良く様子を見ていないと,状態が急に悪くなっていることもある。
しかし,俺は,できる限り,佐々木に外の自然に触れて欲しかったのだ。緑色が芽生え,夏に青々とした力強い葉をつけ,色づいた後に何の不満も漏らさず静かに次々と落ちていく様子をできる限り直接に触れて欲しかったのだ。
佐々木や俺に起きている出来事は,何も特別なことではない。当り前のことだ。本当に当り前のことなのだ。
なあ,佐々木。お前は俺よりずっと賢いんだから,そんなこと俺に言われなくったって分かっているよな。
でもなあ,お気に入りの曲を繰り返し聴くように,繰り返しこういったことに触れるのは悪くないだろう?


4 そういえば,ずっと音楽なんて聴いていなかったな。
俺はようやく部屋をわずかずつでも片付けようとしながら,ふと佐々木と良く聴いたCDを取り上げた。
片付けようとしても片付けられないものが多すぎる。場所を動かすことすらためらわれる。ましてや捨てたり洗ったりすることなんかとてもできそうにない。
長い間,後悔と罪悪感が心を占めて続け,俺の心は身動きすらできなかった。
「俺は,できる限りのことをやったと思う。」
そんな自己憐憫に何の意味もない。
こと俺に関して言えば,後悔や罪悪感の原因は明白だ。
俺は佐々木の看病やら介護やら仕事やら自分の生活やらで完全にオーバーロードとなった。そして,佐々木を煩わしがり,自分を呪ったのだ。
俺は,俺にそんな気持ちが起こることが許せなかった。俺は佐々木を幸せにすると誓ったのだから。いや,その合意内容はもっと虚ろなものだった。それじゃない。俺は,佐々木に対して俺にできる最もよいことをしてやろうと約束をしたのだった。
約束を違えたら,どうなるのか。何らかの制裁があるべきだという考え方もあるだろう。それは絶対的な考え方ではないはずだ。それでも,俺が殊更に意識することなく,そのような考え方に服従していることは明らかだった。
「・・・佐々木。佐々木。」

俺はうずく胸の痛みに対して救いを求めるかのように佐々木の名を口にした。
そのように俺はあたかも外出する際に鍵や財布を持ち歩くように,佐々木について自分を責め,そして既にいない佐々木の名を呼ぶことを習慣としていた。
俺に残された時間もさほどないだろう。
社会的に見れば佐々木の夫であること以外の意義など俺にはなかったかもしれない。このことは自嘲ではなく,本当に少し愉快に感じられた。
だがそんな俺が残された時間で何をすればいいのか。佐々木・・・。

全く君は・・・。何事にも時機というものがあるんだよ。
陽が完全に落ちてしまうまでにどうしてもあのベンチのところまでに行かなければならないよ。

佐々木があの表情を浮かべて俺に呼びかけていた。
何だ。佐々木よ。全くお前らしいぜ。
俺はこのままのんびりと沈んでいきたかったのに許してくれないのか。

それにしても佐々木,新婚旅行のときのお前,反則的なまでに鮮やかでもう消えないかもしれんぞ。そういう予定だったのか,それともそうじゃないのか。なあ,佐々木。


作者補足:
文中の曲です(オリジナルじゃないけど。)
Bob Marley- Waiting In Vain - http://www.youtube.com/watch?v=xWmSiYqn9s0

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最終更新:2012年12月01日 15:39
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