肌に当たる風が涼しい。
外に立っているだけで汗ばんでしまう暑さも、もうどこかへ行ってしまった。
秋か―
「ちょっと、キョン君。何たそがれているのよ。」
…人がせっかく感傷に浸っているというのに、あっさりと現実に戻さないでくれ。
「いや、秋だなと思ってさ。」
「ふーん。やっぱ、あなたも変わっているわね。」
箒を動かす手を止めて、珍獣を見るみたいに俺をまじまじと見つめてくる。
ちょっと待て。
秋に少しセンチメンタルになったくらいで、変わっているとはどういうことだ。
っていうか、「も」ってどういう意味だ。
「さっさと掃除を終わらせちゃいましょ。」
そんな俺の文句もどこ吹く風。
本日、掃除当番に当たっている同じ班の岡本は再び箒を動かし、さっさと掃除に戻った。
「やれやれ。」
窓の外から見える空にため息をつく。
今日は見事なまでの秋晴れだ。
「佐々木さんを待たせてちゃ悪いから、さっさと掃除を終わらせるわよ。」
そして、ほら早く早く、と岡本にせかされる。
「別に予備校には余裕で間に合うからあわてなくても大丈夫だ。」
「そういう問題じゃないでしょ。」
そんなことを言われても、塾で待つのも学校で待つのも大差ないと思うのだが。
「彼女を待たせるのは男としてどうなの、ってことよ。」
そう悪戯っぽく岡本は笑った。
「ちょっと待て。何度も言うようだが、俺と佐々木はそういうのじゃない。ただの友達だ。」
ふーん、と岡本は軽く鼻を鳴らす。
お前、人の話に全く納得していないな。
「佐々木さんも同じようなことを言っていたなぁ。」
「当人が否定しているんだから、それでいいだろ。」
それでもまだ納得がいかない様子で唇に手を当てて、すこし考えるような仕草をしている。
「でも、キョン君は知らないだろうけど、佐々木さんってずいぶん変わったんだよ。」
あいつが変わっているのはよく知っているよ。
「そういう意味じゃなくて、もっとこう、なんて言うのかな。
雰囲気というか人との接し方というか…」
「どういう意味だ。」
「うーん、キョン君は2年生のときの彼女を知らないでしょ。」
確かに佐々木と会話したのは3年生で同じクラスになったのが初めてだ。
それ以前の佐々木については、はっきり言って何も知らない。
むしろ、3年で同じクラスになって、初めて同学年にあいつがいたことを認識したぐらいだ。
「あいつが変わったって、2年生のときはあんなに理屈っぽくない普通の女だったってことか?」
「ううん。その逆。」
岡本は何かを思い出すように、顔を天井のほうへ向けた。
「えーとね。昔はクラスで孤立していたというか、あんまし男の子と話していることがなかったな。」
そうか?
今じゃよっぽど俺より愛想がいいけどな。
「だって、2年生のときは彼女が男の子と話して笑っているのなんて見たことなかったよ。」
「あの話好きがねー。」
そう相槌を打ちながら、あいつが俺に小難しい話をするときの輝いた目を思い出していた。
「あの子自身がわざと遠ざけていたみたい。自分で距離を作って。
最初は彼女かわいいから、声をかけてくる男の子も多かったんだけど…
その、彼女男の子にはあのしゃべり方でしょ?気がつけば敬遠されるようになってたかな。」
「ふーん。」
「なんか、キョン君ぜんぜん信じていないみたいだけど、昔の彼女はほんとひどかったんだからね。」
「ひどかった、って?」
「その、いじめられてるとかそういうのはなかったんだけど、クラスではいつも孤立していて、ほとんど人と話もしなかったし。」
そういえば、キョン、っと言っていつも話しかけてくる級友の顔を思い出す。
「だから、彼女があんなに楽しそうにキミと話をしているのを見て、みんな驚いていたのよ。どんな魔法を使ったんだって。」
「普通に話をしているだけなんだけどな。あ、ちりとりくれ。」
「もう。」
岡本は口をとがらすと、俺にちりとりをぶっきらぼうに渡した。
「さんきゅ。」
ちりとりにごみを集める。
これで掃除はもう終わりだ。
「キョン君。」
「なんだ?」
「キミはあまり意識していないのかも知れないけど、本当に今の佐々木さんは幸せそうなんだから大切にしてあげないとだめだよ。」
いい加減、そう言われるのにも疲れてきたな。
「確かに友人としては大切だけど、それだけだ。それ以上もそれ以下もない。」
「それだけでもいいから。あの子を大切にしてあげてね。」
俺にそんな要求されても困るんだが。
「あの子、今本当に楽しそうだから。」
そう、岡本は俺の目を見つめて言った。
やれやれ。
大切にするもなにも、俺は普通にあいつと話をしているだけだというのに。
「よう、佐々木。待たせたな。」
校門に背を預けて待っている佐々木に声をかける。
「やぁ、キョン。ずいぶんと遅かったね。これだけ丁寧に掃除をしてくれたのなら、明日教室へ行くのが楽しみだ。」
「嫌味か、それは。」
そう悪態をつくと、佐々木は喉の奥で笑い声を上げながら
「僕の言葉をどう捉えるかはキミの意識次第だよ。僕はただ自分の考えを率直に表現しただけだ。
それが悪意のあるものとしてキミに伝わったとしたら…
ふむ、これは人間のコミュニケーションにおける興味深い疑問点だね。」
やめてくれ、これから予備校へいくっていうのに、余計な頭は使いたくないんだよ。
「キョン、常日頃から思考を巡らすことは大切だよ。人間は考える葦なのだから。」
やわらかい皮肉を帯びた笑顔で俺を見つめる。
佐々木の整った顔立ちの中でも、特に目を引くよく輝く目。
岡本の言葉がうそ臭く思えてくる。
「ん、どうした。僕の顔をみて首を傾げて?
僕の顔に何かキミの知的好奇心を刺激するようなものがあるのかな。」
「なぁ、佐々木。お前は2年生のとき―」
その後、クラスではどんな感じだった、と聞こうとして、思わず言葉を呑んだ。
一瞬、佐々木の表情が曇ったような気がしたからだ。
「え、と、お前は2年生から塾へ通っているんだよな。」
「そうだよ。僕はあの予備校ではキミの1年先輩だ。」
「そうか…」
「それがどうしたんだい?」
「いや、道理で俺とお前の成績に差があるなと思ってさ。」
そう言うと、佐々木は大げさに体を揺らし、愉快そうに笑った。
「くっくっ、その原因は、ただ時間的な問題だけではないと思うがね。」
うるさい、それは突っ込んではいけないところだ。
「いや、失敬。」
そう言いながらも、佐々木の顔は面白くて仕方ないという感じで笑っている。
人の成績でそんなに楽しそうに笑うな、まったく。
岡本の言っていた言葉が引っかかって、どこか変な感じだったが、今となってはもうどうでもいい。
両手を後ろに組んで、上半身を屈めて俺の顔を覗き込む佐々木の笑顔が見える。
佐々木を大切にしろだの、何だの、どうでもいい。
秋風があいつの髪を優しく揺らす。
「秋の風が気持ちいいね。」
髪を撫で付けながら、佐々木はそうつぶやく。
「そうだな。」
「僕は秋が一番好きな季節なんだ。」
今度は素直な笑みをたたえて俺を見つめる。
「ほら、夕焼けが綺麗だ。」
視界を染めるオレンジ色の暖かい光。
そうして、俺たちはしばらく言葉を交わすことなく、同じ夕日を見ながら歩いていた。
そう、このペースでいいだろ。
このままでいいだろ。
佐々木はこんなに楽しそうに笑っているんだからさ。
『秋空』
最終更新:2007年07月19日 11:07