20-397「中3の8 > 31にどうせ宿題やってないんだろう」

猫型ロボットに居候されているメガネ君や、魚介類勢揃い一家の長男の例を見るに及ばず、我が国における8月31日という日は学徒たちの戦いの日であると相場が決まっている。
この戦いを免れる者は計画性という天賦の才能を有する一部のエリートと、速やかに敵前逃亡を決意した剛の者しかいない。
そのどちらにも与しない平均的中学三年生であるこの俺は、世間の九割の例に漏れることなくこうして手つかずの紙の束を前に絶望的な戦いを繰り広げているのであった。
いやそれにしても絶望的だ。
度胸などという言葉とは無縁であると自認している俺でも、いっそのこと逃亡してしまいたくなるね。
これでもまったく努力していないわけではないのだ。
何しろ今日は朝の五時に起きて戦闘開始しているのである。
つまり必然的結果として、昼食直後のこのひととき、俺は目の前の倒すべき紙の束ではなく、人類普遍の宿敵たる睡魔との格闘にあけくれているのであった。
そんな夢うつつの耳に、遠くから呼び鈴の音がかすかに響いたが、その程度で敗れる睡魔ではなかった。
むしろ今しも敗北を喫しようとしているのは俺の方であり、近づいてくる足音などもはや何の助けにも、
「予想通りとはいえここまで予想通りだと親友として嘆かわしいよキョン」
この場にいるはずのない声を聞いて、俺は偶発的に睡魔を一時撃退することが出来た。
「なんでお前がここにいるんだ、佐々木」
「宿題を片づけていない君のためにわざわざやってきた親友に対してずいぶんな言いぐさだね」
「そいつは悪かった。神様佐々木様、どうかこの俺を助けてくれ」
「もちろんそのつもりでなければここに来ないよ、キョン。さあ、とっとと始めようか」
始めるのはいいが、佐々木の持ってきた荷物はえらく簡素で、取り出したのはペンケースとルーズリーフのみ。おいおい、写させてくれるんじゃないのか。
「何を言っているんだいキョン。宿題は夏休みの間学業が停止する分、自らの頭を維持するためのものなんだよ。写してしまっては新学期に頭が働かないままで、宿題の意味がないじゃないか。安心したまえ、僕が教えて上げるから一つ一つ解答していこう」
俺としては新学期のことより今この目の前の現状を何とかして欲しかったのだが、わざわざ教えてくれる佐々木にこれ以上の文句を言えるわけもなく、俺は優秀な家庭教師の手を借りて、それなりに宿題を進めていくことになった。
単に写すのではなく自分で考えているため、少しはましだったが、しかし二時間もやっていると一度撃退したはずの睡魔が再び捲土重来を果たしてきた。
「こらキョン、僕が教えているというのに船をこぐとはどういうことだ」
あきれた声で佐々木が声をかけてくるが、駄目だ、さすがに眠すぎる。
「おい、キョン、気をしっかり持ちたまえ」
佐々木が肩を揺すってきた気がしたが、そこで俺の意識はブラックアウトした。

「きゃああああっ!」
などと思わず悲鳴を上げてしまった。
肩を揺すった拍子に、寝落ちる寸前だったらしいキョンが今度こそ本当に寝落ちたらしく、ぐらりと身体を傾けて私の方に倒れ込んできた。
とっさのことでよけることもできず、私は、キョンに押し倒されることになってしまった。
それになんという偶然のいたずらだろうか。キョンの右手が私の胸の上に当てられていた。
まったく、そういうことは意識のあるときにやってくれ。
心外ではあるが、しかしこの状況はあまりにも私にとって甘美に過ぎた。
上はTシャツ一枚のキョンと、上半身はほとんど密着しているのだ。
触れ合っているところからは、キョンの鼓動が伝わってくる。
鼻をくすぐる髪の毛からは、キョンの匂いが立ち上って、それだけで目眩がしそうだ。
静かな室内に、私とキョンの吐息と、扇風機の回るかすかな音だけが静かに響く。
キョンの母上は妹さんを連れてお買い物に行くとか言っていた。
この家には今、私とキョンの二人きり。
少々の音を立てたところで、誰にも気づかれることはない。
「何をしているんだいキョン、やめておくれキョン。君はそんなことをするような男じゃないはずだ。だって僕たちは親友なんだよ。
 何が親友だ、俺は男でお前は女なんだぞ。こんな短いスカートを穿いてきて、俺に襲って欲しかったんだろう。
 ああそうだよ、僕は君に見られたくてこの服を着てきたというのに、君はまったく見てくれないのだからいささか傷ついたよ。
 悪かったな、あんまり魅力的なんで眩しかったんだよ。それに着やせするタイプなんだな。触ってみるとずいぶん胸があるじゃないか。
 君が大きい方が好きだと聞いてから、毎日牛乳を飲み、マッサージをして努力し続けてきたんだぞ。ああ、だからってそれ以上やってはいけないよキョン。僕たちはまだ前途ある中学生なんだ。
 そんなことは障害にならないさ。俺はお前を愛している。お前も俺を愛しているんだろう。愛し合う二人が結ばれて何がいけないというんだ。
 待ってくれキョン、僕はまだ心の準備が出来ていないんだ。
 駄目だ、もう我慢できない。俺はお前が欲しいんだ。
 あああああ、キョン!」
……と、台詞を連ねてみたところで、暢気に寝ているキョンがそれ以上のことに及んでくれるわけもない。
とりあえず壮絶な自己嫌悪に襲われた。
誰にも聞かれていないのがせめてもの救いだ。
「まったく、君にはもう少し乙女心をわかって欲しいものだよ」
気が付けば30分ばかりもキョンと密着していた。仮眠としては十分過ぎるだろう。
さすがにこの状態のままキョンを起こす度胸は無かった。
名残惜しいがキョンの身体の下から自分を抜き出して、少し強く肩を揺する。
若干、恨みもこもっていた。
「キョン、昼寝の時間は終わりだよ。いい加減起き給え」


「ああ、俺寝ていたのか」
「君は僕が来ているということのありがたみをわかっているのかい」
「いや、済まん済まん。早起きしたせいか余りにも眠くてな」
「まったく……」
佐々木は深いため息をついた。うーむ、怒っているな。
教えられている本人が寝落ちていたのだから当然だ。まあこれは俺が全面的に悪い。
それにしても、えらく甘美な夢を見ていたような気がする。
もう少し寝ていたかったが、そんなことを口にするとまた怒られるのでやめておこう。
「さあ続きを始めるよ、キョン。今度こそ終わるまでは寝かさないから覚悟したまえ」
「終わるまでって、今日中に終わるのか、これは」
「心配しなくていい。明日の始業式まではまだ12時間以上ある。僕も着替えを持ってきたから安心して深夜まで付き合えるよ。ああ、もちろん君の母上のご了解は得てある」
何が佐々木に火を付けたのかわからないが、とにかく今日は佐々木の手から逃げられそうにない。
宿題なんてものを考えた奴を心底恨みながら、俺は見果てぬ9月1日に向けて戦いを再開させることにした。
やれやれ。

おわり

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最終更新:2007年09月01日 09:46
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