木立を抜けて、上から街を見下ろす。10月の風は涼しく、どこかやさしい香りがした。
俺は安っぽい現実逃避と、ちっぽけな冒険心のために、この場所へ来ていた。
「どうだ、いい眺めだろ?」
隣に立つあいつは静かに髪を撫で付ける風を、左手で抑えながら無言のままうなづいた。
この場所は俺のお気に入りの場所だ。
山の上にある神社の裏手、そこへ回ると見事に俺たちの住んでいる街が一望できる。
コンクリートの羅列も、その間を縫うように動き回る自動車の列も、時計の針のように規則的に動く電車も、ここから見える景色の中ではまるでおもちゃみたいに見える。
そんな中で俺たちが必死そうな顔をして生きているなんて、まるでくだらない冗談みたいだ。
そして、その先には海が見える。この程度の高さの山からじゃ、到底海の向こうなんて見えやしない。
そして、その事実に俺は安心する。
「キミはよくここへ来るのかい?」
「うん?あぁ」
隣に立つあいつは嘆息するように言葉を発した。
「俺のお気に入りの場所だな。ここへ来るとどうしようもなく落ち着く」
あいつは俺のほうを向くことなく、ただ静かにこの景色だけを眺めていた。
「なぁ、佐々木」
「なんだい、キョン」
「いいのか?俺と一緒に授業さぼったりなんかして」
あいつはここで初めて俺の方を振り向いた。そして、その表情に柔和な笑みだけを広げて
「キミの好きな景色を見たかったんだ」
その日、俺は少しばかりむしゃくしゃすることがあって、予備校をさぼった。
今となっては、なんでむしゃくしゃしていたのかなんて覚えていない。
どうせ思い出せないほどくだらないことだろう。
俺はどうしようもなくなったとき、よくここへ来てはバカみたいに景色を眺めている。
その日もそうするつもりだった。
ただ、いつもと勝手が違ったのは、その日に限ってなぜか佐々木がついてきたことだった。
俺は佐々木を予備校の前までいつもどおり自転車の後ろに乗せて送り届けた。
俺自身の都合でこいつに迷惑をかけるわけにはいかないからな。
それから、俺は自転車にまたがったまま、悪いけど今日はサボるわ、と言って自転車を漕ごうとした。
「んっ?」
ペダルを漕いだ瞬間、何かに引っかかるようにして車輪が止まった。振り向くと、佐々木が手で荷台を掴んでいた。
やれやれ、塾をサボるなと説教でもされるのか、と思いながら佐々木の方へ顔を向けた俺に投げかけられた言葉は、意外なものだった。
「僕も一緒についていくよ」
俺と違って、真面目な優等生タイプの佐々木がこんなことを言い出すとは心底意外だった。
授業をサボるな、などという俺の言葉に説得力などあるはずもなく、俺は仕方なしにふたたび佐々木を自転車の後ろに乗せた。
普段は飄々となんでも受け流すあいつが、この時ばかりは毅然とした態度で譲らなかった。
その瞳に浮かんでいた感情は怒りとか軽蔑とかそういったものとは、まったく別のものだった。
それが何かといわれても、俺にはわからないけれども。
俺は近くの木陰に座り込んだ。そして、佐々木も俺の隣に座り込む。
海に夕日が落ちるのが見えた。海が朱に染まって行く。
俺たちはアホみたいに二人並んで、その光景を見ていた。
「なぁ、佐々木」
「なんだい?」
「別に俺に付き合ってくれなくてもいいんだぞ。帰りたくなったら帰ってくれたらいい」
もう日が暮れそうだ。別に俺と付き合って、こんなところでたたずんでいても面白いこともないだろうに。
佐々木は喉の奥で笑い声をあげた。
「かまわないよ。僕はキミの気が済むまで付き合っていたいんだ」
「なんだよ、そりゃ」
「迷惑かい?」
「いや、それは別に」
「ならいいだろう?このままでいても」
そのとき俺をこの場所に引き止めていたのが、単純な不満によるものだったかは自信がない。ただ、なんとなく、そのままでずっといたいような気がしていた。
そして、コオロギのコーラスが始まった。そろそろ頃合だ。もう帰ろう。
「そろそろ帰るぞ」
佐々木に手を伸ばす。佐々木は隣に座ったまま、ずっと景色を見ていた。
「え、あぁ」
俺の手を取ると、あいつはゆっくりと立ち上がった。
「キョン」
「ん、なんだ?」
「また、いつかここへ来よう」
「あぁ、そうだな」
「今度はキミに辛い事があったときでも、僕自身に辛い事があったときでも、ここへ来よう」
今回は付き合ってもらったことだしな。
「いいぜ。そういう気分になったらいつでも呼んでくれ」
「ありがとう」
そして佐々木は少しだけ嬉しそうに笑った。
ただ、それは俺にとってはちっぽけな出来事だったが、あいつにとってはそうではなかったみたいだ。
予備校からの連絡で授業をサボったことがばれた佐々木は、親からひどく怒られてしまったらしかった。
今にして思えば、それがあいつが県内有数の進学校へ進むきっかけになってしまったように思う。
結局、それから俺も佐々木もその話を言い出すことはなく、その約束が果たされることはなかった。
『リグレット』
最終更新:2007年10月04日 14:51